桜田門事件

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[[Image:Sakuradamon Incident.JPG|thumb|250px|事件現場(×の地点に爆弾が投擲された)]] '''桜田門事件'''(さくらだもんじけん)とは、[[1932年]]([[昭和]]7年)[[1月8日]]に[[昭和天皇]]の[[暗殺]]を狙った襲撃事件([[大逆事件]])である。なお[[犯人]](後述)は[[現在]]の[[刑法]]では廃止されている天皇に対する暗殺未遂の罪である[[大逆未遂罪]]に問われ、[[処刑]]された。 == 事件の概要 == [[桜田門]]は[[皇居]]にある門のひとつであり、[[1860年]]には[[井伊直弼]]が殺害された[[桜田門外の変]]の現場でもある。1932年1月8日に昭和天皇が乗車した[[馬車]]が桜田門外を進行中に、沿道からの[[手榴弾]]が投げつけられた。しかし手榴弾は威力が小さかった上に的を大きく外れ、[[宮内大臣]][[一木喜徳郎]]乗車の馬車左後輪付近で炸裂した。結果として[[近衛師団|近衛兵]]一人が負傷、馬車を破壊し馬2頭も負傷した。 == 事件の背景 == [[Image:Arrested Lee Bong-chang.JPG|thumb|250px|即座に取り押さえられた李奉昌]] 犯人は、[[朝鮮半島]]に対する日本の[[植民地]]支配からの[[解放]]を目指す[[金九]]が[[首班]]の「[[大韓民国臨時政府]]」(在・中国上海)が組織した抗日武装組織[[韓人愛国団]]によって[[刺客]]として派遣された、[[李奉昌]](イ・ボンチャン、当時32歳)であった。李は犯行の前々日に偶然入手した[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]の名刺を使い、新聞で知った昭和天皇が臨席する[[観兵式]]の警戒網を突破したものであった。しかし動揺のために襲撃に失敗したものである。逮捕後李は大逆罪に問われ、同年[[9月30日]]に[[大審院]](裁判長[[和仁貞吉]])において死刑判決が下されて、[[10月10日]]に処刑された。 なお、事件発生を受けて[[犬養内閣]]は[[内閣総辞職]]を決定するが、翌9日に昭和天皇からの慰留によって、[[犬養毅]][[内閣総理大臣|首相]]以下全閣僚が残留することになった。ちなみに[[上海市|上海]]では[[中国国民党]][[機関紙]]「[[民国日報]]」が事件の発生に対して好意的な報道をしたことから、現地の日本人社会による糾弾運動に発展したために日中関係が緊迫化し、[[第1次上海事変]]の原因の1つになる。 現在、大韓民国では李奉昌を独立運動の義士とし、独立記念館で顕彰されており、[[1992年]]には逝去60周年を記念する[[郵便切手]]が発行された。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月22日 (月) 21:35。]     

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