渡辺錠太郎

「渡辺錠太郎」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

渡辺錠太郎」(2009/03/18 (水) 21:56:52) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

[[Image:Jotaro Watababe posing.jpg|thumb|right|200px|渡辺錠太郎]] '''渡辺 錠太郎'''(わたなべ じょうたろう、[[1874年]][[4月16日]] - [[1936年]][[2月26日]])は、日本の[[昭和]]初期の[[陸軍]][[軍人]]で、[[二・二六事件]]の犠牲者である。 == 家族 == [[愛知県]]の出身。[[煙草]]店・和田武右衛門の長男。のちに農家の渡辺庄兵衛の養子となる。実弟の和田庫吉も[[陸軍士官学校_(日本)|陸士]]20期卒で[[陸軍少佐]]になっている。子息の恭二は陸士57期の[[陸軍中尉]]。 次女に[[ノートルダム清心学園]]理事長で[[修道女]]の[[渡辺和子]]がいる。[[二・二六事件]]に際して、父の殺害を目撃した。 == 教育総監への就任 == 1930年代前半、陸軍内部では皇道派の勢力が伸張していたが、中心人物である[[荒木貞夫]]陸相は強権的人事により評判が低下した。荒木が[[1934年]]に病気を理由に陸相を辞任したことで、[[皇道派]]の勢いは衰え、陸相の後任には荒木の要望に反して[[林銑十郎]]が就任した。 翌年7月、荒木の腹心の部下である[[真崎甚三郎]]教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた渡辺が選ばれた。 渡辺は、乱れきった陸軍の統制を締め直すために、あえて火中の栗を拾った。渡辺は、ヨーロッパ流のリベラル派の教養人であり、給料の大半を[[丸善|丸善書店]]の支払いに充てているといわれていた。名古屋で[[第3師団_(日本軍)|第3師団]]の将校たちを集め、[[天皇機関説]]を擁護したといわれているが定かでない。しかし、この就任劇がいわゆる皇道派青年将校を刺激したことは確かである。 渡辺は天皇機関説を徹底的に弾圧した前任の真崎とはまったく人物の度量が異なっており、渡辺の自由主義的な発想や意見は、そもそも人文社会学的な教養に乏しい過激青年将校の憎悪を招いた。[[二・二六事件]]における渡辺の無残な殺害行為は、過激青年将校たちが「渡辺が我らが真崎大将を教育総監の地位から追い落とした」という勝手な思い込みから行われたという見方もある。(出典:山本夏彦の著作) == 年譜 == 家庭が貧しかったために、[[小学校]]を中退している。 {| border="0" |- |[[1894年]]12月 |陸軍[[士官候補生]] |- |[[1895年]]7月 |陸士入校(8期) |- |[[1896年]]11月 |陸士卒 |- |[[1897年]]6月 |歩兵第19[[連隊]]付、[[少尉]]任官 |- |[[1899年]]11月 |[[中尉]]任官 |- |[[1900年]]12月 |[[陸軍大学校]]入校(17期) |- |[[1903年]]12月 |陸大卒業、歩兵36連隊[[中隊長]]及び[[大尉]]任官 |- |[[1904年]]7月より9月 |[[日露戦争|日露戦役]]に出征、負傷 |- |[[1904年]]10月 |[[大本営]][[参謀]] |- |[[1905年]]9月 |元老[[山縣有朋]]の副官 |- |[[1906年]] |清国出張 |- |[[1907年]] |ドイツ駐在 |- |[[1908年]]12月 |[[少佐]]任官 |- |[[1909年]]5月 |ドイツ大使館付武官補佐官 |- |[[1910年]]6月 |[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]勤務 |- |[[1910年]]11月 |[[山縣有朋|山縣元帥]]副官 |- |[[1913年]]1月 |[[中佐]]任官 |- |[[1915年]]2月 |歩兵3連隊付 |- |[[1916年]]5月 |参謀本部課長 |- |[[1916年]]7月 |[[大佐]]任官 |- |[[1917年]]10月 |オランダ[[駐在武官|公使館付武官]] |- |[[1920年]]8月 |歩兵第29[[旅団長]]及び[[少将]]任官 |- |[[1922年]]9月 |参謀本部第4部長 |- |[[1925年]]5月 |[[陸軍大学校]]校長及び[[中将]]任官 |- |[[1926年]]3月 |[[第7師団_(日本軍)|第7師団長]] |- |[[1929年]]3月 |[[陸軍航空本部|航空本部]]長 |- |[[1930年]]6月 |[[台湾軍_(日本軍)|台湾軍]][[司令官]] |- |[[1931年]]8月 |[[軍事参議官]]兼航空本部長・[[陸軍大将|大将]]任官 |- |[[1935年]]7月 |陸軍[[教育総監]]に就任 |- |[[1936年]][[2月26日]] |[[二・二六事件]]で[[杉並区]][[荻窪 (杉並区)|上荻窪]]の自邸で殺害される。 |} == 関連項目 == *[[常磐公園]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E9%8C%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月9日 (水) 16:25。]     
[[Image:Jotaro Watababe posing.jpg|thumb|right|200px|渡辺錠太郎]] '''渡辺 錠太郎'''(わたなべ じょうたろう、[[1874年]][[4月16日]] - [[1936年]][[2月26日]])は、日本の[[昭和]]初期の[[陸軍]][[軍人]]で、[[二・二六事件]]の犠牲者である。 == 家族 == [[愛知県]]の出身。[[煙草]]店・和田武右衛門の長男。のちに農家の渡辺庄兵衛の養子となる。実弟の和田庫吉も[[陸軍士官学校_(日本)|陸士]]20期卒で[[陸軍少佐]]になっている。子息の恭二は陸士57期の[[陸軍中尉]]。 次女に[[ノートルダム清心学園]]理事長で[[修道女]]の[[渡辺和子]]がいる。[[二・二六事件]]に際して、父の殺害を目撃した。 == 教育総監への就任 == 1930年代前半、陸軍内部では皇道派の勢力が伸張していたが、中心人物である[[荒木貞夫]]陸相は強権的人事により評判が低下した。荒木が[[1934年]]に病気を理由に陸相を辞任したことで、[[皇道派]]の勢いは衰え、陸相の後任には荒木の要望に反して[[林銑十郎]]が就任した。 翌年7月、荒木の腹心の部下である[[真崎甚三郎]]教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた渡辺が選ばれた。 渡辺は、乱れきった陸軍の統制を締め直すために、あえて火中の栗を拾った。渡辺は、ヨーロッパ流のリベラル派の教養人であり、給料の大半を[[丸善|丸善書店]]の支払いに充てているといわれていた。名古屋で[[第3師団_(日本軍)|第3師団]]の将校たちを集め、[[天皇機関説]]を擁護したといわれているが定かでない。しかし、この就任劇がいわゆる皇道派青年将校を刺激したことは確かである。 渡辺は天皇機関説を徹底的に弾圧した前任の真崎とはまったく人物の度量が異なっており、渡辺の自由主義的な発想や意見は、そもそも人文社会学的な教養に乏しい過激青年将校の憎悪を招いた。[[二・二六事件]]における渡辺の無残な殺害行為は、過激青年将校たちの「渡辺が我らが真崎大将を教育総監の地位から追い落とした」という勝手な思い込みから行われたという見方もある。(出典:山本夏彦の著作) == 年譜 == 家庭が貧しかったために、[[小学校]]を中退している。 {| border="0" |- |[[1894年]]12月 |陸軍[[士官候補生]] |- |[[1895年]]7月 |陸士入校(8期) |- |[[1896年]]11月 |陸士卒 |- |[[1897年]]6月 |歩兵第19[[連隊]]付、[[少尉]]任官 |- |[[1899年]]11月 |[[中尉]]任官 |- |[[1900年]]12月 |[[陸軍大学校]]入校(17期) |- |[[1903年]]12月 |陸大卒業、歩兵36連隊[[中隊長]]及び[[大尉]]任官 |- |[[1904年]]7月より9月 |[[日露戦争|日露戦役]]に出征、負傷 |- |[[1904年]]10月 |[[大本営]][[参謀]] |- |[[1905年]]9月 |元老[[山縣有朋]]の副官 |- |[[1906年]] |清国出張 |- |[[1907年]] |ドイツ駐在 |- |[[1908年]]12月 |[[少佐]]任官 |- |[[1909年]]5月 |ドイツ大使館付武官補佐官 |- |[[1910年]]6月 |[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]勤務 |- |[[1910年]]11月 |[[山縣有朋|山縣元帥]]副官 |- |[[1913年]]1月 |[[中佐]]任官 |- |[[1915年]]2月 |歩兵3連隊付 |- |[[1916年]]5月 |参謀本部課長 |- |[[1916年]]7月 |[[大佐]]任官 |- |[[1917年]]10月 |オランダ[[駐在武官|公使館付武官]] |- |[[1920年]]8月 |歩兵第29[[旅団長]]及び[[少将]]任官 |- |[[1922年]]9月 |参謀本部第4部長 |- |[[1925年]]5月 |[[陸軍大学校]]校長及び[[中将]]任官 |- |[[1926年]]3月 |[[第7師団_(日本軍)|第7師団長]] |- |[[1929年]]3月 |[[陸軍航空本部|航空本部]]長 |- |[[1930年]]6月 |[[台湾軍_(日本軍)|台湾軍]][[司令官]] |- |[[1931年]]8月 |[[軍事参議官]]兼航空本部長・[[陸軍大将|大将]]任官 |- |[[1935年]]7月 |陸軍[[教育総監]]に就任 |- |[[1936年]][[2月26日]] |[[二・二六事件]]で[[杉並区]][[荻窪 (杉並区)|上荻窪]]の自邸で殺害される。 |} == 関連項目 == *[[常磐公園]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E9%8C%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月9日 (月) 14:38。]     

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。