来栖三郎 (外交官)

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[[Image:Saburu Kurusu 2.jpg|thumb|160px|来栖三郎]] '''来栖 三郎'''(くるす さぶろう、[[1886年]][[3月6日]] - [[1954年]][[4月7日]])は[[日本]]の[[外交官]]。駐[[ドイツ]][[特命全権大使]]、駐米[[特命全権大使]]等を歴任。 == プロフィール == === 生い立ち === [[神奈川県]][[横浜市]]生まれ。旧制横浜第一中学校(現[[神奈川県立希望ヶ丘高等学校]])卒、1909年[[東京高等商業学校]](現[[一橋大学]])専攻部領事科卒。 === 外交官 === [[Image:Nomura and Kurusu 27 November 1941.jpg|thumb|300px|left|ホワイトハウスでルーズベルト大統領との会談を終えて記者団と会見する来栖・野村両大使(1941年11月27日)]] 1909年[[外交官及び領事官試験]]合格、1910年[[外務省]]入省。[[ハンブルク]]総領事等を経て、1932年外務省通商局長、1936年駐[[ベルギー]][[特命全権大使]]、1939年駐[[ドイツ]]特命全権大使。 [[日独伊三国軍事同盟]]締結時の駐[[ドイツ]]大使として、日本代表として同同盟の調印式に出席した。その後、[[近衛文麿]]内閣では戦争回避のための日米交渉を担当する遣[[アメリカ合衆国|米]]特命全権大使を拝命、異例の「第二の大使」として[[ワシントンD.C.|ワシントン]]入りし、[[野村吉三郎]]駐米大使を補佐するかたちで[[日米交渉]]にあたるが、この人事はかえってアメリカ側の不信を招くこととなり交渉は決裂、[[最後通牒]]を手渡し[[1941年]]12月7日に日米両国は戦争状態に突入した。 なお、アメリカ合衆国に対する[[宣戦布告]]が遅れ、国際的非難を浴びた事について、斎藤充功によると、来栖三郎特命全権大使らの[[新庄健吉]]の葬儀出席が原因と言う。葬儀は[[ワシントンD.C.|ワシントン]]市内の[[バプテスト教会|バプテスト派]]教会で執り行われたが、この葬儀に磯田三郎駐米[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[駐在武官]]以下陸軍将校はもとより、複数の大使館職員や来栖・野村両大使が参加しており、その葬儀は現地時間で午後から行われ、両大使らは葬儀が終ってから[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]に向ったと言う。 === 公職追放 === 翌1942年には、日米開戦に伴い2回に渡り運行された日米戦時[[交換船]]で帰国する。戦後は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により[[公職追放]]される。1954年に死去した。 == 家族 == 父[[来栖壮兵衛]]は元横浜ドック社長・元横浜[[商工会議所]]副会頭。[[妻]]アリスはアメリカ人。長男の[[来栖良]]は陸軍航空技術大尉、[[1944年]][[2月17日]]に、福生飛行場で米艦載機迎撃のため急発進した三式戦のプロペラに接触し頭部を重創し、即死。死後、大尉から少佐に昇進している。他に、長女・ジェイ、次女・ピアをもうけた。 == 著作 == *『泡沫の三十五年 <small>日米交渉秘史</small>』([[中公文庫]]、2007年改版) ISBN 978-4-12-204823-2 ** 初版は文化書院、1948年刊。 *『日米外交秘話 <small>わが外交史</small>』([[ゆまに書房]]、2002年) ISBN 4-8433-0684-3 ** 日本外交史人物叢書第18巻として刊行。初版は創元社、1952年刊。 == 関連項目 == {{Commons|Category:Saburō Kurusu}} * [[太平洋戦争]] * [[外務省]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%A5%E6%A0%96%E4%B8%89%E9%83%8E_%28%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%29 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月10日 (水) 10:48。]     

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