広田弘毅

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{{日本の内閣総理大臣 |[[廣田内閣|32]] |廣田 弘毅<br/>(ひろた こうき)<br/>[[Image:Kohki Hirota suit.jpg|200px]] |[[1878年]][[2月14日]] |[[福岡県]][[那珂郡 (筑前国)|那珂郡]][[鍛冶町]] |[[東京帝国大学]][[法学部]]卒業 |法学士(東京帝国大学) |[[外務省]][[外交官]]<br/>[[外務大臣]] |非[[国会議員]] |[[1936年]][[3月9日]]|[[1937年]][[1月23日]] |非国会議員 |非国会議員<br/>([[内閣総理大臣]]辞任後:<br/>[[貴族院議員]]) |非国会議員}} '''広田 弘毅'''('''廣田 弘毅'''、ひろた こうき。[[1878年]]([[明治]]11年)[[2月14日]] - [[1948年]]([[昭和]]23年)[[12月23日]])は[[日本]]の[[外交官]]、[[政治家]]である。第32代[[内閣総理大臣]]。 == 生涯 == === 生い立ち === 1878年(明治11年)2月14日、[[福岡県]][[那珂郡 (筑前国)|那珂郡]]鍛冶町(現・[[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]]天神3丁目)の石材店を営む広田徳平の息子として生まれる。徳平は[[箱崎]]の農家の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。今日でも福岡市の[[東公園 (福岡市)|東公園]]内にある[[亀山上皇]]像の銘板には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている。 初名は'''丈太郎'''(じょうたろう)。信仰している禅宗の僧侶に相談に行き、「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われて『[[論語]]』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅(「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力)ならざるべからず)から採って、旧制中学卒業直前のときに改名した。当時は改名が難しく1年間は僧籍に入る必要があったが、1年間寺に入ったということにしてもらった。 福岡市立大名小学校、福岡県立修猷館(現・[[福岡県立修猷館高等学校]])、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て[[東京帝国大学]]法学部卒業後に[[山座円次郎]]の勧めによって[[外務省]]に入省、外交官になる。とびきりの秀才というわけではなく修猷館では4番ぐらい、一高に入るときは10番ぐらいで外務省の試験は肝心の英語が苦手のため一度落ちている。 その後[[1930年]](昭和5年)から[[1932年]](昭和7年)にかけて、駐[[ソビエト連邦]][[特命全権大使]]を務めた。当時は[[学歴]][[立身出世]]の典型として知られた。 === 政界進出 === その後政界に進出。[[1933年]](昭和8年)[[9月14日]]、[[斎藤実|斎藤]]内閣の[[外務大臣]]に就任。次の[[岡田啓介|岡田]]内閣でも留任した。 === 総理就任 === [[Image:The Hirota Cabinet.jpg|thumb|right|300px|広田内閣([[1936年]](昭和11年)[[3月9日]])]] [[二・二六事件]]の責任をとり岡田内閣が総辞職した。当時の総理大臣は最後の[[元老]]であった[[西園寺公望]]が天皇の御下問を受けて推薦していた。このとき西園寺はまず[[近衛文麿]]を推し、初めに近衛に組閣命令が下ったが、病気を理由に辞退。そのため西園寺は、広田弘毅を候補に挙げる。天皇は広田が総理になることについて西園寺に「広田は名門の出ではない。それで大丈夫か」と尋ねた。広田は名家出身ではなく、親類・縁者にもこれといった人がなかった。当時はまだ、本人自身よりも親類・縁者の関係が重視され、いわゆる毛並みのいい人が総理大臣に選ばれていた時代であった。これを後で聞いた広田は、「陛下は自分に対して信任がないのではないか」ととても気にしていた。 西園寺は首相就任を引き受けさせるため、[[近衛文麿]]と[[吉田茂]](広田とは外交官の同期生)を説得役として派遣した。広田は拒み続けたがついには承諾し、[[1936年]](昭和11年)[[3月5日]]、[[天皇]]から組閣大命が下る。吉田を外務大臣に任命しようとしたが、吉田は欧米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であると陸軍の拒否を受け、広田が外務大臣を兼務することになりつつも[[3月9日]]、広田内閣が成立した。 [[Image:Hirota_and_Terauchi_during_the_Kappuku-mondou.jpg|thumb|right|200px|割腹問答<br/><small>険しい表情で浜田議員に反駁する寺内陸相、奥が広田総理</small>]] 就任後は[[軍部大臣現役武官制]]を復活させ、軍備拡張予算を成立させるなど軍部の意見を広範に受け入れることとなる。11月には[[日独防共協定]]を締結。しかし翌[[1937年]](昭和12年)1月、議会で[[浜田国松]]議員の「[[割腹問答]]」があると、これに激怒した[[寺内寿一]]陸相が広田に[[衆議院解散]]を要求、広田はこれをあっさり受け入れ[[内閣総辞職]]した。 広田の後任として組閣大命を受けたのは[[宇垣一成]]であったが、軍部が反対し流産。替わって[[林銑十郎]]に組閣大命が下り、[[2月2日]]に林内閣が成立した。その後、[[第一次近衛内閣]]の外務大臣に就任、[[重臣]]・[[貴族院議員]]なども歴任した。[[第二次世界大戦]]([[大東亜戦争]]/[[太平洋戦争]])中は[[東郷茂徳]]や[[石黒忠篤]]とともに院内会派[[無所属倶楽部]]を組織して[[東條内閣]]や[[大政翼賛会]]と対抗した。 戦争末期の[[1945年]](昭和20年)6月にソ連を通じた和平交渉を探っていた政府の意を受けて、箱根・強羅に疎開していたソ連大使[[ヤコブ・マリク]]と非公式の接触を図る。広田は私的な来訪を装ってソ連の条件を探り出そうとしたが、その意図はソ連側に見抜かれており、政府側が期待した返答を得ることはできなかった。 === A級戦犯 === ==== 東京裁判 ==== [[画像:Hirota Koki.jpg|right|200px|thumb|[[ウィリアム・ウェブ]]裁判長から死刑宣告を聞かされる広田]] 大戦終結後、進駐してきた[[連合国軍]]により[[A級戦犯|A級戦争犯罪人]]として[[逮捕]]され、「対[[アジア]]侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」等に問われ、[[極東国際軍事裁判]]で[[文官]]唯一の[[死刑]]判決を受けた。 一番大きな罪状とされたのは'''[[南京大虐殺]]と[[日中戦争]]を始めた'''ことである。南京虐殺事件に関しては外務省は軍部に対して改善を申し入れていたが、暴行が8週間の間継続したため、連合軍は外務省がこの事件を黙認したとした。 外国人の弁護士と日本人の弁護士がついて「このままあなたが黙ってると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、ほんとうのことをいえば重い刑になることはないんですから」としきりに勧め、同じA級戦犯の[[佐藤賢了]]も同様に、広田に無罪を主張するよう促していた。にもかかわらず東京裁判で広田がほとんどしゃべらなかったのは、天皇に累が及ぶことを一番心配していたからだとされる。広田は御前会議にも重臣会議にも出席しており、日中戦争が始まるときにも天皇を交えた話し合いがもたれていた。 なお11人の裁判官中、3人が無罪、2人が禁錮刑を主張している。[[オランダ]]の[[ベルト・レーリンク]][[判事]]は「広田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは、疑う余地が無い」と明確に無罪を主張している。 戦争を止めようとしていた感が強い広田に対する死刑判決には多くの疑問の声もあったという。減刑するように全国から数十万という署名(特に多かったのが、福岡での7万2千、東京での3万)が集められた程である(広田自身は、息子を通して、嘆願書は絶対に出してはいけない、という声明を出した)。また、死刑を求刑していたはずの[[連合国]]の検察側からですら判決は意外だったとの声もあり、最終弁論で「彼らは誰一人として、人類の品位というものを尊重していない」と被告人達に罵詈雑言を浴びせた首席検事の[[ジョセフ・キーナン|キーナン]]ですら「なんという馬鹿げた判決か! どんなに重い刑罰を考えても終身刑までではないか!」とのコメントを残している。[[国粋主義]]団体[[玄洋社]]幹部・[[月成功太郎]]の娘・静子を妻にしていたことや(当時のGHQの調査分析課長であった[[エドガートン・ハーバート・ノーマン|ハーバート・ノーマン]]は、玄洋社を「日本の国家主義と帝国主義のうちで、最も気違いじみた一派」という見解を示していた)大陸で工作活動をした[[黒龍会]]を設立した[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]と友人であったことから、[[右翼]]であると先入観があったと見る説もある。 ==== 絞首刑 ==== 1948年(昭和23年)12月23日、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]内で[[刑罰の一覧|絞首刑]]を執行される。他のA級戦犯同様広田も[[靖国神社|靖國神社]]に合祀されている。 2001年当時首相であった[[小泉純一郎]]が靖國神社に参拝したことをきっかけにA級戦犯分祀論が議論された中、広田の孫の弘太郎(当時67歳)が[[2006年]]([[平成]]18年)[[7月27日]]付[[朝日新聞]]をはじめとする[[マスメディア]]の取材に対し「広田家が[[1978年]](昭和53年)の合祀に同意した覚えはない。祖父は軍人でも戦没者でもなかったので、靖國神社と広田家はそもそも縁がない。また、首相であったので何らかの責任はある」という趣旨の発言をしている。しかし、靖國神社では合祀に際して遺族への同意を必要としていない。 == その他 == [[画像:Hirota Kouki statue.jpg|200px|right|thumb|福岡市美術館前にある広田弘毅の銅像]] {{Commons|Category:Kōki_Hirota}} * 現在の[[国会議事堂]]は広田が首相の当時の1936年(昭和11年)に「帝国議会議事堂」として完成している。 * 福岡市[[中央区 (福岡市)|中央区]]の福岡市美術館前に広田の銅像が設置されている。 * 福岡市天神の[[水鏡天満宮]]の「天満宮」と書かれた額は広田が11歳のときに書いたものである。 * [[重光葵]]の手記『巣鴨日記』(「[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]」[[1952年|昭和27年]]8月号掲載)によると、広田は[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]収監中に受けた揮毫の依頼には何十篇でも「''物來順応 弘毅書''」と書き、まるで自身の経文であるかの様で筆跡も見事なものだったという。 == 関連項目 == * [[廣田内閣]] * [[重臣会議]] * [[福岡県出身の有名人一覧]] == 参考文献 == * 吉田裕『昭和天皇の終戦史』 (岩波書店、岩波新書、1992年) === 伝記 === * 岩崎栄『広田弘毅伝』(新潮社、1936年) * [[北川晃二]]『黙してゆかむ:広田弘毅の生涯』 (講談社、1975年。講談社文庫、1987年、ISBN 4061840959) * 沢田謙『広田弘毅伝』 (歴代総理大臣伝記刊行会、1936年) * 永松浅造『新日本の巨人を語る:人間・広田弘毅(他三編)』 (森田書房、1936年) * 広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』(広田弘毅伝記刊行会、1966年。複製版: 葦書房、1992年5月、ISBN 4751204270) * 吉井魯斎『児童の鑑 広田弘毅さん』 (尚文館、1936年) * 渡邊行男『秋霜の人 広田弘毅』 (葦書房、1998年、ISBN 475120730X) === 伝記小説 === * [[城山三郎]]『落日燃ゆ』 (新潮社、1974年、ISBN 4103108045。新潮文庫、1986年、ISBN 4101133182。単行本新装版: 2002年、ISBN 4103108142) {{日本国歴代内閣総理大臣 |当代=[[広田内閣|32]] |在任期間=1936年 - 1937年 |前代=31 |前首相名=岡田啓介 |次代=33 |次首相名=林銑十郎}} {{先代次代|[[外務大臣]]|第49-51代:1933年 - 1936年<br />第55代:1937年 - 1938年|[[内田康哉]]<br />[[佐藤尚武]]|[[有田八郎]]<br />[[宇垣一成]]}} {{外務大臣}} {{A級戦犯}} [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年10月17日 (水) 13:28。]    
{{日本の内閣総理大臣 |[[廣田内閣|32]] |廣田 弘毅<br/>(ひろた こうき)<br/>[[Image:Kohki Hirota suit.jpg|200px]] |[[1878年]][[2月14日]] |[[福岡県]][[那珂郡 (筑前国)|那珂郡]][[鍛冶町]] |[[東京帝国大学]][[法学部]]卒業 |[[法学士]](東京帝国大学) |[[外務省]][[外交官]]<br/>[[外務大臣 (日本)|外務大臣]] |非[[国会議員]] |[[1936年]][[3月9日]]|[[1937年]][[1月23日]] |非国会議員 |非国会議員<br/>([[内閣総理大臣]]辞任後:<br/>[[貴族院議員]]) |非国会議員 |[[1948年]]([[昭和23年]])[[12月23日]]}} '''広田 弘毅'''('''廣田 弘毅'''、ひろた こうき。[[明治]]11年([[1878年]])[[2月14日]] - [[昭和]]23年([[1948年]])[[12月23日]])は、[[日本]]の[[外交官]]、[[政治家]]。第32代[[内閣総理大臣]]。 == 生涯 == === 生い立ち === 1878年(明治11年)2月14日、[[福岡県]][[那珂郡 (筑前国)|那珂郡]]鍛冶町(現・[[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]]天神3丁目)の[[石材]]店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれる。徳平は[[箱崎]]の[[農家]]の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。今日でも福岡市の[[東公園 (福岡市)|東公園]]内にある[[亀山上皇]]像の[[銘板]]には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている。 初名は丈太郎(じょうたろう)。信仰している禅宗の僧侶に相談に行き、「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われて『[[論語]]』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅(「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力)ならざるべからず)から採って、旧制中学卒業直前のときに改名した。当時は改名が難しく1年間は僧籍に入る必要があったが、1年間寺に入ったということにしてもらった。 福岡市立大名小学校、福岡県立修猷館(現・[[福岡県立修猷館高等学校]])を卒業。当初は陸軍志望であったが、修猷館時代に起きた[[三国干渉]]に衝撃を受け、外交官を志した。またこのころから、後に自らも社員となる[[玄洋社]]との関係が始まっている。 上京して[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]、[[東京帝国大学]]法学部政治学科に学んだ。学生時代から[[山座円次郎]]ら外交官の私邸に出入りし、[[1903年]](明治36年)には満州・朝鮮の視察を命じられている。大学卒業後[[1905年]](明治38年)に外交官試験を受けるが英語が苦手で落第、ひとまず[[韓国統監府]]に籍を置いて試験に備え、翌年には首席で合格して外務省に入省した。同期に[[吉田茂]]、[[武者小路公共]]、[[林久治郎]]らがいる。 === 外交官時代 === [[1907年]](明治40年)、[[清]]国公使館付外交官補として[[北京]]に在勤、その後は三等書記官として[[ロンドン]]の在英大使館に赴任。5年後、本省の通商局第一課長となり[[第一次世界大戦]]後、中国への「[[対華21ヶ条要求]]」の条約作製に参加するものの最後通牒の形で出すことには強く反対した。[[1919年]]([[大正]]8年)、[[ワシントン]]に赴任することになり、その際[[サンフランシスコ]]に着くと外務省の役人として初めて日本人移民村の視察を行い、移民たちから歓迎を受ける。その後、新設された情報部の課長、次長を経て[[1923年]](大正12年)、第2次[[山本権兵衛]]内閣発足にともない欧州局長となる。次の加藤高明内閣では国際協調を重んじる「幣原外交」のもとで欧州局長として対ソ関係の改善に取り組み、[[1925年]](大正14年)の[[日ソ基本条約]]締結により国交回復にこぎつける。 当時、広田は党派を超え広く外部と交際しており「外務省には幣原、出淵、広田の3人の大臣がいる」と言われるほどであった。 [[1927年]](昭和2年)、オランダ公使を拝命。[[1930年]](昭和5年)から[[1932年]](昭和7年)にかけて、駐[[ソビエト連邦]][[特命全権大使]]を務めた。当時は[[学歴貴族|学歴立身出世]]の典型として知られた。着任後、[[満州事変]]が勃発。政府は軍を直ちに撤兵させる旨を各国政府に通告するよう駐在大使・公使に訓令を出したが広田は慎重な態度をとり、ソ連に通告を出さなかった。関東軍は永久占領の形で[[チチハル]]に居座り、駐在大使・公使が各国政府の信頼を失う中、モスクワだけが例外となった。 === 協和外交 === [[1933年]](昭和8年)[[9月14日]]、[[斎藤実|斎藤]]内閣の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に就任。これは[[内田康哉]]前外相の人選によるものである。このとき、各国の駐日大公使を招いて新任挨拶をした際、駐日米国大使[[ジョセフ・グルー]]の信頼を得る。斉藤内閣で5回にわたり開かれた五相会議では、強硬意見を唱える[[荒木貞夫]]陸相と[[大角岑生]]海相を相手によく渡り合い、陸軍の提出した「皇国国策基本要綱」を骨抜きにした。次の[[岡田啓介|岡田]]内閣でも外相を留任。当時ソ連との間で懸案となっていた、[[東支鉄道]]買収交渉を妥結、条約化し、鉄道をめぐる紛争の種を取り除いた。また、ソ連との間で国境画定と紛争処理の2つの小委員会をもつ委員会を設けることを取り決め、のちに自身の内閣で国境紛争処理委員会として設置される。 [[1935年]](昭和10年)に議会において広田は日本の外交姿勢を「協和外交」と規定し万邦協和を目指し、「私の在任中に戦争は断じてないことを確信しているものである」と発言した。この発言は[[蒋介石]]や[[汪兆銘]]からも評価された。その後、中国に対する外交姿勢は高圧的なものから融和的なものに改められ、[[治外法権]]の撤廃なども議論されるようになった。さらに在華日本代表部を公使から大使に昇格させた。これにより[[中国国民党]]政府は広田外交を徳とし大いに評価した。しかし、軍部は現地で中国側と衝突し中国側は日本の二重外交を非難し、協和外交は偽装ではないかと疑われるようになった。そのため広田は外務・陸・海の3大臣の了解事項として、以下の「広田の対華三原則」を決定した。 #支那側をして排日言動の徹底的取締りを行いかつ欧米依存より脱却すると共に対日親善政策を採用し、諸政策を現実に実行し、さらに具体的問題につき帝国と提携せしむること。 #支那側をして満州国に対し、窮極において正式承認を与えしむること必要なるも差当り満州国の独立を事実上黙認し、反満政策を罷めしむるのみならず少なくともその接満地域たる北支方面においては満州国と間に経済的および文化的の融通提携を行わしむること。 #外蒙等より来る赤化勢力の脅威が日満支三国の脅威たるに鑑み、支那側をして外蒙接壌方面において右脅威排除のためわが方の希望する諸般の施設に協力せしむること。 これは一見すると日本側の一方的な要求のようだが、対中外交の大枠を決定することにより、実質的に軍部を牽制するものであった。 また、軍の国防問題講演会や[[国体明徴]]講演会に対抗するため、吉田茂ら待命の大公使に国内各地で外交問題講演会を開かせた。 === 内閣総理大臣 === [[Image:The Hirota Cabinet.jpg|thumb|right|300px|広田内閣([[1936年]](昭和11年)[[3月9日]])]] [[二・二六事件]]の責任をとり岡田内閣が総辞職した。当時の総理大臣は最後の[[元老]]であった[[西園寺公望]]が天皇の御下問を受けて推薦していた。このとき西園寺はまず[[近衛文麿]]を推し、初めに近衛に組閣命令が下ったが、病気を理由に辞退。そのため西園寺は広田弘毅を候補に挙げる。天皇は広田が総理になることについて、西園寺に「広田は名門の出ではない。それで大丈夫か」と尋ねた。広田は名家出身ではなく、親類・縁者にもこれといった人がなかった。当時はまだ本人自身よりも親類・縁者の関係が重視され、いわゆる毛並みのいい人が総理大臣に選ばれていた時代であった(代表的な例として、近衛は[[摂家|五摂家]]筆頭の名門である。広田以前の首相は武士や富農の出がほとんどである)。これを後で聞いた広田は「陛下は自分に対して信任がないのではないか」ととても気にしていた。 西園寺は首相就任を引き受けさせるため近衛文麿と[[吉田茂]](広田とは外交官の同期生)を説得役として派遣した。広田は拒み続けたがついには承諾し[[1936年]](昭和11年)[[3月5日]]、天皇から組閣大命が下る。この際、天皇から新総理への注意として歴代総理に与えられた3ヵ条の注意(第一に憲法の規定を遵守して政治を行なうこと。第二に外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように。第三に財界に急激な変動を与えることのないように)の他に「第四に名門を崩すことのないように」という1ヵ条が特に付け加えられた。これにより広田は「自分は50年早く生まれ過ぎたような気がする」と語ったという。 組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでた。好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、[[川崎卓吉]](内相)、[[小原直]](法相)、[[下村海南]]、[[中島知久平]]である。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務し、小原、下村らも辞退、川崎を商工相に据えることになり[[3月9日]]、広田内閣が成立した。 就任後は[[二・二六事件]]当時の[[陸軍次官]]、[[軍務局長]]、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、寺内ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を[[寺内寿一]]に実行させた。しかし[[軍部大臣現役武官制]]を復活させ、軍備拡張予算を成立させるなど軍部の意見を広範に受け入れることとなる。 また粛軍と共に「庶政刷新」に取り組み、以下の広田内閣の七大国策・十四項目を決定した。 #国防の充実 #教育の刷新改善 #中央・地方を通じる税制の整備 #国民生活の安定 #*(イ)災害防除対策、(ロ)保護施設の拡大、(ハ)農漁村経済の更生振興及び中小商工業の振興 #産業の統制 #*(イ)電力の統制強化、(イ)液体燃料及び鉄鋼の自給、(ハ)繊維資源の確保、(ニ)貿易の助長及び統制、(ホ)航空及び海運事業の振興、(ヘ)邦人の海外発展援助 #対満重要国策の確立、移民政策及び投資の助長等 #行政機構の整備改善 具体的には[[義務教育]]期間を6年から8年へ延長、地方財政調整交付金制度の設立、発送電事業の国営化、[[母子保護法]]などの法案化を決定した。11月には[[日独防共協定]]を締結した。 また自ら天皇にも働きかけ、[[文化勲章]]を制定した。 [[Image:Hirota_and_Terauchi_during_the_Kappuku-mondou.jpg|thumb|right|200px|割腹問答<br/><small>険しい表情で浜田議員に反駁する寺内陸相、奥が広田総理</small>]] [[1937年]](昭和12年)1月、議会で[[浜田国松]]議員の「[[腹切り問答|割腹問答]]」があると、これに激怒した寺内寿一陸相が広田に[[衆議院解散]]を要求、広田は議会を解散するつもりがなかったため閣内不統一を理由に[[内閣総辞職]]を行った。広田の後任として組閣大命を受けたのは[[宇垣一成]]であったが、軍部が反対し組閣できずに終わる。替わって[[林銑十郎]]に組閣大命が下り、[[2月2日]]に林内閣が成立した。 === 辞職後 === しばらくは[[鵠沼]]の別荘で恩給生活を送る。その後、[[第一次近衛内閣]]の外務大臣に就任。[[支那事変]]([[盧溝橋事件]])勃発に際しては不拡大方針を主張し現地解決を目指した。閣議で不拡大方針が放棄された後も[[有田八郎]]元外相を北京に派遣して国民党政府との交渉の糸口を探らせ、また駐日ドイツ大使[[ディルクセン]]を介して蒋介石に支那事変の平和的解決を働きかけるなど平和外交に努めた。 この頃、上海でのヒューゲッセン事件、揚子江のパネー号事件、蕪湖のレディバード号事件に善処し、英国大使・[[クレーギー]]と米国大使・[[グルー]]から高く評価された。また[[企画院]]による総理直属の対華中央機関である対支局設置構想に外交の一元主義を破壊するとして反対した。また元首相として[[重臣会議]]に出席、勅選の[[貴族院議員]]にもなった。[[米内光政]]内閣では請われて内閣参議となった。 [[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])中は[[東郷茂徳]]や[[石黒忠篤]]とともに院内会派[[無所属倶楽部]]を組織して、[[東條内閣]]や[[大政翼賛会]]と対抗した。 戦争末期の[[1945年]](昭和20年)6月にソ連を通じた和平交渉を探っていた政府の意を受けて、[[箱根]]・強羅に疎開していたソ連大使[[ヤコブ・マリク]]と非公式の接触を図る。広田は私的な来訪を装ってソ連の条件を探り出そうとしたが、ソ連は既に対日参戦の方針を固めていたため、政府側が期待した返答を得ることはできなかった。 === A級戦犯 === [[画像:Hirota Koki.jpg|right|200px|thumb|[[ウィリアム・ウェブ]]裁判長から死刑宣告を聞かされる広田]] 大戦終結後、進駐してきた[[連合国軍]]により[[A級戦犯|A級戦争犯罪人]]容疑者として逮捕される。[[巣鴨プリズン]]に収容された広田に対し、GHQの組織した国際検察局が、[[極東国際軍事裁判]]の訴追対象とするかどうかを決定するための尋問を行った<ref>尋問調書が米国の国立公文書館に保存されている。以下、内容については2007年8月13日放送の[[NHKスペシャル]]「A級戦犯は何を語ったのか ~東京裁判・尋問調書より~」による。</ref>。この中で国際検察局側は、組閣時に閣僚人事に軍の干渉を受けたことや、首相時代に軍部大臣現役武官制を復活した点を重視した。広田は後者については「この決定が現在の情勢を招いたとは思わない」と回答している。ただし、「軍の活動が緊迫したものになると外交政策はそれに引きずられてしまうことが多い。そうなると外務大臣などほとんど無力化されてしまう」と[[統帥権]]の独立を盾に政府に圧力をかける軍への対応に苦慮したことも率直に明かしている。日中戦争当時、追加派兵の予算を認めた点を「陸軍の活動を承認したことにならないか」と問われたことには「事実はその通り」とも答えた。こうした広田の回答から、国際検察局は広田を「軍国主義者とは認められないが、政府を統制しようとする軍の圧力に屈した」「広田の反対は言葉の上に限られており、彼は陸軍の積極的追随者だった」として、共同謀議の一端を担ったと認め、訴追対象に加えた。なお、広田は尋問の最後で「自分の処罰を軽くするための弁明を行っているとは思わないでほしい。過ちだと判定される事柄については、私は責任を取る」と述べている。 この結果、「対アジア侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」等に問われて起訴された。近衛文麿が自決していたために、文官の大物戦犯として首相経験者であった広田が注目され、文官で唯一の[[死刑]]判決を受けた。 最も大きな罪状とされたのは[[日中戦争]]を始めたことについてである。[[南京大虐殺|南京虐殺事件]]に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したとして外務省が事件を黙認したものと認定した。 広田は公判では沈黙を貫いた。弁護人の一人(ジョージ山岡)が統帥権の独立の元では官僚は軍事に口を出せなかったことを弁明した際にも、広田はそれについて語ろうとしなかった。外国人の弁護士と日本人の弁護士がついて「このままあなたが黙ってると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、本当の事を言えば重い刑になることはないんですから」としきりに勧め、同じA級戦犯の[[佐藤賢了]]も同様に広田に無罪を主張するよう促していた。にもかかわらず東京裁判で広田が沈黙を守り続けたのは、天皇や自分と関わった周囲の人間に累が及ぶことを一番心配していたからだとされる。広田は御前会議にも重臣会議にも出席しており、日中戦争が始まる時にも天皇を交えた話し合いがもたれていた。また広田の場合は、裁判において軍部や近衛に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができた、という分析も多く、広田とは対照的に軍部に責任を擦り付ける発言に終始した[[木戸幸一]]は、後に広田の裁判における姿勢について「立派ではあるけどもだ、…つまらん事だと思うんだ」と評している(木戸は裁判で終身刑に受けている)。 広田は最終弁論を前に、弁護人を通じて「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という言葉を伝えている。また、判決が確定した後に広田に「残念でなりません」と語りかけてきた[[大島浩]]に対しては、「雷に打たれた様なものだ」と飄々とした表情で返答したという。 なお、11人の裁判官中3人([[インド]]、[[オランダ]]、[[フランス]])が無罪、2人([[オーストラリア]]、[[ソビエト連邦|ソ連]])が禁錮刑を主張している。[[オランダ]]の[[ベルト・レーリンク]][[判事]]は「広田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは疑う余地が無い」と明確に無罪を主張している。 戦争を止めようとしていた感が強い広田に対する死刑判決には多くの疑問の声もあったという。占領軍の決定に対する反対運動などが皆無だった当時において、減刑するように全国から数十万という署名<ref>特に多かったのが郷里である福岡での7万2千、東京での3万人。</ref>が集められた程である<ref>広田自身は息子を通して、嘆願書は絶対に出してはいけないという声明を出した。</ref>。また、死刑を求刑していたはずの[[連合国]]の検察側からですら判決は意外だったとの声もあり、最終弁論で「彼らは誰一人として、人類の品位というものを尊重していない」と被告人達に罵詈雑言を浴びせた首席検事の[[ジョセフ・キーナン]]ですら「なんという馬鹿げた判決か! どんなに重い刑罰を考えても終身刑までではないか!」とのコメントを残している。[[国粋主義]]団体[[玄洋社]]幹部・[[月成功太郎]]の娘・静子を妻にしていたこと<ref>GHQの調査分析課長であった[[エドガートン・ハーバート・ノーマン]]は玄洋社を「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」という見解を示していた。</ref>や、大陸で工作活動をした[[黒龍会]]を設立した[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]と友人であったことから、「広田=[[右翼]]」という先入観があったと見る説もある。なお広田の妻静子は東京裁判開廷前に自殺している。自殺の理由として国粋団体の幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えていたためとされている。 1948年(昭和23年)12月23日の午前0時21分、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]内で[[刑罰の一覧|絞首刑]]を執行される。他のA級戦犯同様広田も[[靖国神社|靖國神社]]に合祀されている。 ===その後=== [[2001年]]([[平成]]13年)当時首相であった[[小泉純一郎]]が靖國神社に参拝したことをきっかけにA級戦犯分祀論が議論された中、広田の孫の弘太郎氏(当時67歳)が[[2006年]](平成18年)[[7月27日]]付[[朝日新聞]]をはじめとする[[マスメディア]]の取材に対し「広田家が[[1978年]](昭和53年)の合祀に同意した覚えはない。祖父は軍人でも戦没者でもなかったので靖國神社と広田家はそもそも縁がない。また、首相であったので何らかの責任はある」という趣旨の発言をしている。ただし、靖國神社では合祀に際して遺族への同意を必要としていない。 == 逸話 == [[画像:Hirota Kouki statue.jpg|200px|right|thumb|福岡市美術館前にある広田弘毅の銅像]] * 現在の[[国会議事堂]]は広田が首相の当時の1936年(昭和11年)に「帝国議会議事堂」として完成しており、現在の議事堂に初めて登壇した首相でもある。 * 戦前唯一の福岡県出身の首相であり、[[麻生太郎]]が就任するまで唯一の福岡県出身首相であった。 * 福岡市[[中央区 (福岡市)|中央区]]の[[福岡市美術館]]前に広田の銅像が設置されている。 * 福岡市天神の[[水鏡天満宮]]にある、日清戦争戦勝を祝して建立された石碑「水鏡神社」は、広田が17歳のときに揮毫したものである。(長らく、「天満宮」の扁額が広田11歳の筆になるものと言い伝えられてきたが、それが誤りであることは長男・弘雄によって確認されている)。 * [[重光葵]]の手記『巣鴨日記』(「[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]」[[1952年|昭和27年]]8月号掲載)によると、広田は[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]収監中に受けた揮毫の依頼には何十篇でも「物來順応 弘毅書」と書き、まるで自身の経文であるかのようで筆跡も見事なものだったという。 * 巣鴨拘置所に自由に出入りし得た唯一の日本人[[花山信勝]]の著『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』によると花山が絞首刑前の感想を求めたところ「すべては無に帰して、言うべきことは言ってつとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何も言うことは事実ない。自然に生きて自然に死ぬ」と言い、後の評論家[[唐木順三]]はそれを引き「[[東條英機|東條]]らと比べ虚飾がなく態度ができている」と評した。 *処刑に際し、先に執行された東條らの万歳三唱について「いま、「マンザイ」をやっていたのでしょう?」と花山に問いかけている。これについては広田の出身地である福岡では「バ」と「マ」が混同しやすいことから生じた聞き間違いではないかとも言われている(言語学的には「B」と「M」は共に破裂音であり、混同しやすいとされている)が、[[小林よしのり]]は自著『いわゆるA級戦犯』の中で「単なる駄洒落ではないか」との説を提唱しているが、何ら確証は存在しない([[城山三郎]]の『[[落日燃ゆ]]』では「文官の自分が処刑されるのは漫才のようなもの」との皮肉を込めた発言としているが、これは創作である)。 == 参考文献 == * 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波書店〈岩波新書〉、1992年。 * 服部龍二 『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』  中央公論新社〈中公新書〉、2008年、ISBN 4121019512) === 伝記 === * 岩崎栄 『広田弘毅伝』 新潮社、1936年。 * 吉井魯斎 『児童の鑑 広田弘毅さん』 尚文館、1936年。 * 沢田謙 『広田弘毅伝』 歴代総理大臣伝記刊行会、1936年。 * 永松浅造 『新日本の巨人を語る:人間・広田弘毅(他三編)』 森田書房、1936年。 * 北川晃二 『黙してゆかむ:広田弘毅の生涯』 講談社、1975年。[[講談社文庫]]、1987年、ISBN 4061840959。 * 広田弘毅伝記刊行会編 『広田弘毅』 広田弘毅伝記刊行会、1966年。複製版: 葦書房、1992年5月、ISBN 4751204270 * 渡邊行男 『秋霜の人 広田弘毅』 [[葦書房]]、1998年、ISBN 475120730X === 伝記小説 === * [[城山三郎]] 『落日燃ゆ』 新潮社、1974年、ISBN 4103108045。新潮文庫、1986年、ISBN 4101133182。単行本新装版: 2002年、ISBN 4103108142 == 脚注 == <references/> == 関連項目 == * [[廣田内閣]] * [[重臣会議]] == 外部リンク == *[http://ndl.go.jp/portrait/datas/183.html 広田弘毅 | 近代日本人の肖像] *[http://www.c20.jp/p/hkoki.html 広田 弘毅 / クリック 20世紀] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月1日 (土) 11:24。]    

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