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'''独立協会'''(どくりつきょうかい)は、[[1896年]]から[[1898年]]まで[[李氏朝鮮]]にあった[[開化派]]の運動団体。[[甲午農民戦争]]を率いた[[徐載弼]]が[[李完用]]とともに創設し、朝鮮における[[立憲君主制]]導入を目指した。
当時、李氏朝鮮は[[清]]の[[属国]]から解放されたものの、李氏朝鮮に対する[[ロシア帝国|ロシア]]の支配力が強くなった。このような背景の中、国の自主独立を願う徐載弼が、李氏朝鮮がロシアの保護国化・植民地化を危惧し、開化思想を民衆に啓蒙するために、[[1896年]]に独立協会を設立。同年4月より[[独立新聞]]を発行し、協会の主張を啓蒙している。
独立協会は、李氏朝鮮の国内勢力と対抗しロシア[[公使館]]に逃げていた[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]に対し、王宮に戻ることを進言。後に、高宗は王宮に戻り、高宗は朝鮮初の[[皇帝]]に即位し(別名:光武皇帝)、国号を[[大韓帝国]]と改め、李氏朝鮮の自主独立を世界に宣言した。
また独立協会は、[[日本]]と清との[[日清戦争]]で日本が勝利し、1895年の[[下関条約]]で清に朝鮮の独立を認めさせた後、それを祝い、開化思想を啓蒙する一環として、[[1897年]]、[[独立門]]を建設した。
1897年8月からは、公開討論会を毎週開いている。この議会では政府のロシアに対する屈辱的な外交が非難され、国家の改革が必要であると議論された。こうした議論の中で、近代の[[民主主義]]思想が育まれ、活発な民主主義運動が展開された。当時の討論会には、李完用、[[李采淵]]、[[李承晩]]なども参加している。
大韓帝国成立の後に設立された議会では、独立協会から多くの議員を出すことになるが、即位した高宗(光武皇帝)は[[絶対王政]]を維持しようと復古主義的政策をとったため、立憲君主制を願う独立協会は国内の保守勢力に弾圧され、[[1898年]][[11月25日]]に政府が解散を命令、[[1898年]][[12月25日]]に皇帝勅令によって強制解散となる。以後、活動は[[一進会]]などに引き継がれた。
歴代の会長は[[安駉寿]]、李完用、[[尹致昊]]。
== 関連項目 ==
*[[露館播遷]]
*[[迎恩門]]
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%8D%94%E4%BC%9A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月16日 (火) 05:35。]