昭和天皇

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<div class="references-small"></div>{{半保護S}}{{基礎情報 天皇 | 名 =昭和天皇 | 代数=第124 | 画像=[[画像:Hirohito in dress uniform.jpg|250px]] | 説明=昭和天皇 | 在位=[[1926年]][[12月25日]]-[[1989年]][[1月7日]] | 時代=[[昭和]] | 元号=[[昭和]] | 首都=[[東京]] | 皇居=[[江戸城|宮城・皇居]] | 諱=裕仁 | 幼称=迪宮 | 別名=摂政宮 | 印=若竹 | 生年=[[1901年]][[4月29日]] | 生地=[[東京府]][[東京市]]([[東宮御所]]) | 没年=[[1989年]][[1月7日]] | 没地=[[東京都]][[千代田区]]([[吹上御所]]) | 陵墓=[[武蔵陵墓地|武蔵野陵]] | 先代=[[大正天皇]] | 次代=[[明仁|今上天皇]] | 子=[[東久邇成子|照宮成子内親王]]<br />[[祐子内親王|久宮祐子内親王]]<br />[[鷹司和子|孝宮和子内親王]]<br />[[池田厚子|順宮厚子内親王]]<br />[[明仁|継宮明仁親王]]<br />[[常陸宮正仁親王|義宮正仁親王]]<br />[[島津貴子|清宮貴子内親王]] | 皇后=[[香淳皇后]] | 父=[[大正天皇]] | 母=[[貞明皇后]] |}} '''昭和天皇'''(しょうわてんのう、[[1901年]]([[明治]]34年)[[4月29日]] - [[1989年]]([[昭和]]64年)[[1月7日]])は、[[日本]]の第124代[[天皇]]。名は'''裕仁'''(ひろひと)。印は若竹(わかたけ)。歴代[[天皇]]の中で([[日本神話|神話]]上を除き)在位期間は最も長く、最も長寿であった。 (現在の)[[明仁|今上天皇]]の実父にあたる。 ==略歴== [[画像:Emperor Hirohito and empress Kojun of japan.JPG|thumb|200px|[[香淳皇后]]とともに。]] [[画像:Empress Sadako with Prince of Wales in 1922.jpg|thumb|200px|[[1922年]]、[[イギリス]][[皇太子]][[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード・デイヴィッド]](右)訪日時、[[貞明皇后]](中)とともに。]] [[画像:Emperor Hirohito-1926.jpg|thumb|200px|[[1928年]]、[[即位の礼]]。]] [[画像:Privy Council (Japan).jpg|thumb|right|200px|1946年10月29日、憲法改正案を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。]] [[画像:Hirohito Signing.JPG|thumb|200px|[[1946年]][[11月3日]]、[[日本国憲法]]に署名。]] 昭和天皇は、[[1901年]](明治34年)[[4月29日]](22時10分)、[[大正天皇]]と皇后・九条節子([[貞明皇后]])の第一皇子として、[[東京府]][[東京市]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂区]][[青山 (東京都港区)|青山]](現、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]元赤坂)の[[東宮御所]]で生まれた。名は'''裕仁'''(ひろひと)、[[御称号]]は'''迪宮'''(みちのみや)。生後70日で[[枢密顧問官]]の[[伯爵]]・[[川村純義]]に預けられ、[[沼津御用邸]]で養育された。[[1908年]](明治40年)、[[学習院]]初等科に入学し、学習院院長・[[乃木希典]](陸軍大将)の厳格な教育を受けた。初等科在学中の[[1912年]](大正元年)、[[皇族身位令]]の定めにより陸海軍[[少尉]]に任官し、近衛歩兵第一連隊および第一艦隊附となった。[[1914年]](大正3年)3月、学習院初等科を卒業。 [[1916年]](大正5年)年、[[立太子]]礼を経て[[皇太子]]となった。[[1918年]](大正7年)、[[香淳皇后|久邇宮良子]]女王が[[皇太子妃]]に内定。[[1919年]](大正8年)、満18歳となり、成年式が執り行なわれた。[[大正天皇]]の病状悪化の中で、[[1921年]](大正10年)[[3月3日]]から同年[[9月3日]]まで、[[イギリス]]をはじめ[[ヨーロッパ]]諸国を歴訪。同年[[11月25日]]、20歳で[[摂政]]に就任し、'''摂政宮'''と称された。同年[[12月27日]]には、[[虎ノ門]]付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた([[虎ノ門事件]])。[[1924年]](大正13年)に、久邇宮良子女王と結婚した。 [[1926年]](大正15年)[[12月25日]]、大正天皇[[崩御]]を受け[[践祚]]して第124代[[天皇]]となり、[[昭和]]に[[改元]]<ref>(昭和とは)別の元号が予定されていたが、正式発表前に外部に漏れ、[[東京日日新聞]]に発表されてしまったため昭和に変更されたと伝わる([[光文事件]])。</ref>。[[1928年]](昭和3年)11月、[[京都御所]]で[[即位の礼|即位の大礼]]を行なった。以後、終戦まで国策決定に深く関与し、特に軍事・外交政策にはしばしば独自の判断を示した。[[1933年]](昭和8年)[[12月23日]]、皇太子・[[明仁|継宮明仁親王]]が降誕(誕生)。[[1945年]](昭和20年)[[8月]]、[[ポツダム宣言]]受諾を決定し、[[8月15日|同15日]]、戦争終結を告げるラジオ放送([[玉音放送]])により、歴代天皇で初めて国民に天皇の声を聞かせた。[[1946年]](昭和21年)[[1月1日]]の[[詔書]](いわゆる[[人間宣言]])により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。 [[1947年]](昭和22年)に施行された[[日本国憲法]]において 天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされ、「国政に関する権能を有しない」とされたが、占領期には[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ総司令官]][[ダグラス・マッカーサー]]との会見などにより、独自の政治的影響力を保持した。[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]、[[サンフランシスコ講和条約]]が発効して日本が独立を回復し、報告のため[[伊勢神宮]]と[[神武天皇]]の畝傍山陵、[[明治天皇]]の[[伏見桃山陵]]、[[靖国神社]]をそれぞれ参拝した。 戦後は、天皇としての公務の傍ら、生物学研究者としての業績をあげた。[[1971年]](昭和46年)、皇后と共にイギリス、[[オランダ]]などを歴訪。[[1975年]](昭和50年)には、皇后と共に[[アメリカ合衆国]]を訪問した。[[1981年]](昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。[[1986年]](昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、(神代を除き)歴代天皇で最長の在位期間を記録した。 [[1987年]](昭和62年)[[9月22日]]、歴代天皇で初めて開腹[[手術]]を受けた。[[1988年]](昭和63年)[[8月15日]]、[[全国戦没者追悼式]]に出席。これが公の場への、最後の出席となった。[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]午前6時33分、[[十二指腸]]乳頭周囲[[悪性腫瘍|腫瘍]]により崩御(死去)。87歳と、歴代の天皇で(神代を除き)最も長寿であった。在位中の[[元号]]である昭和より、'''昭和天皇'''と[[追号]]された。 同年(平成元年)[[2月24日]]、[[新宿御苑]]において[[大喪の礼]]が行なわれ、武蔵野陵に埋葬された。 ===年表=== * [[1901年]](明治34年)[[4月29日]](22時10分)、[[大正天皇]]と皇后・九条節子([[貞明皇后]])の第一皇子として青山の[[東宮御所]]で生まれる。称号は'''迪宮'''(みちのみや)。生後70日で[[枢密顧問官]]の[[伯爵]][[川村純義]]に預けられ、[[沼津御用邸]]で養育される。 * [[1908年]](明治40年)[[学習院]]初等科に入学。学習院院長・[[乃木希典]](陸軍大将)から厳格な教育を受ける。 * [[1912年]](大正元年)陸海軍[[少尉]] 近衛歩兵第一連隊・第一艦隊附となる。 * [[1914年]](大正3年)3月、学習院初等科を卒業。4月、陸海軍[[中尉]]任官。 * [[1916年]](大正5年)陸海軍[[大尉#日本|大尉]]昇任。[[立太子]]礼を経て[[皇太子]]となる。 * [[1918年]](大正7年)[[香淳皇后|久邇宮良子]]女王が妃に内定する。 * [[1919年]](大正8年)成年式。 * 1919年(大正8年)陸海軍[[少佐]]に昇任。 * [[1921年]](大正10年)[[3月3日]]から同年[[9月3日]]まで[[イギリス]]をはじめ[[ヨーロッパ]]諸国を歴訪する。ロンドンにおいて、[[ロバート・ベーデン・パウエル]]卿と謁見し、英国[[ボーイスカウト]]の最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈呈される。 * 1921年[[11月25日]]、20歳で[[摂政]]に就任する('''摂政宮'''と称される)。 * [[1923年]](大正12年)10月、陸海軍[[中佐]]昇任。[[12月27日]]、[[虎ノ門]]付近で[[アナキズム|無政府主義]]者の[[難波大助]]に狙撃されるが、命中を免れ命を取り留める。([[虎ノ門事件]]) * [[1924年]](大正13年)に[[久邇宮]]良子女王と結婚。 * [[1925年]](大正14年)10月、陸海軍[[大佐#日本|大佐]]に昇任。 * [[1926年]](大正15年)[[12月25日]]、大正天皇の[[崩御]]により[[践祚]]し、昭和と改元。葉山の御用邸内において剣璽渡御の儀を行なう。 * [[1926年]](昭和元年)第124代天皇、陸海軍[[大元帥]]となる。 * [[1928年]](昭和3年)11月、[[京都御所]]にて[[即位の礼|即位の大礼]]を行なう。12月、御大典記念観兵式。 * [[1929年]](昭和4年)神島([[和歌山県]][[田辺市]])への行幸の際、[[南方熊楠]]から、粘菌などに関する進講を受ける。 * [[1933年]](昭和8年)[[12月23日]]、皇太子[[明仁|継宮明仁親王]]降誕(皇族の誕生を示す用語)。 * [[1940年]](昭和15年)[[皇居前広場]]において[[皇紀2600年]]奉祝式典に出席。 * [[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]、[[太平洋戦争]]開戦。 * [[1945年]](昭和20年)[[8月15日]]正午、国民に対してラジオ放送を通じて「戦争終結」を告げた([[玉音放送]])。歴代天皇で初めて、一般国民に天皇の肉声を聞かせる。[[9月2日]]、東京湾内・アメリカ軍艦・ミズーリ号上にて日本政府および軍代表が降伏文書に署名する。 * [[1946年]](昭和21年)[[1月1日]]、[[新日本建設に関する詔書]]を煥発する。 * [[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]、[[サンフランシスコ講和条約]]発効。講和報告のため[[伊勢神宮]]と畝傍山陵・[[桃山陵]]、[[靖国神社]]をそれぞれ参拝。 * [[1959年]](昭和34年)、皇太子明仁親王と[[美智子 (皇室)|正田美智子]]の成婚に出席(朝見の儀において)。 * [[1962年]](昭和37年)[[白浜町|南紀白浜]]にて30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし[[南方熊楠]]を思ふ」を詠んだ。 * [[1971年]](昭和46年)[[9月27日]]より香淳皇后とともにイギリス、[[オランダ]]などを歴訪する。オランダでは生卵を投げつけられるという事件があった。 * [[1975年]](昭和50年)[[9月30日]]から同年[[10月14日]]まで皇后とともに[[アメリカ]]を訪問する。 * [[1981年]](昭和56年)新年一般参賀で初めて参集した国民に向かい「お言葉」を述べる。<!-- FIXME: いい常体の表現があったらなおしてください… --> * [[1987年]](昭和62年)[[9月22日]]、歴代天皇で初めての開腹[[手術]]。 * [[1988年]](昭和63年)[[8月15日]]、[[全国戦没者追悼式]]に御出席、これが公の場への最後の御出席となる。 * [[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]・午前6時33分、[[十二指腸]]乳頭周囲[[悪性腫瘍|腫瘍]]により崩御(死去)、87歳。 * 1989年(平成元年)[[2月24日]]、[[新宿御苑]]において[[大喪の礼]]が行われ、武蔵野陵に埋葬される([[日本国憲法]]と(現行の)[[皇室典範]]を経て葬られた最初の天皇)。 ==系譜== 昭和天皇の父は大正天皇、母は皇后・九条節子(くじょう・さだこ)([[貞明皇后]])。父方の祖父は[[明治天皇]]、祖母は[[典侍]]・[[柳原愛子]]。母方の祖父は[[九条道孝]]、祖母は[[野間幾子]]。 ===系図=== {{皇室明治以降}} == 皇子女 == [[香淳皇后]]との間に7人の皇子女を儲ける。以下誕生順。 * [[東久邇成子|照宮成子内親王]](てるのみや しげこ、[[1925年]]-[[1961年]]) - 東久邇宮[[盛厚王]]妃 * [[祐子内親王|久宮祐子内親王]](ひさのみや さちこ、[[1927年]]-[[1928年]]) * [[鷹司和子|孝宮和子内親王]](たかのみや かずこ、[[1929年]]-[[1989年]]) - [[鷹司平通]]夫人 * [[池田厚子|順宮厚子内親王]](よりのみや あつこ、[[1931年]]-) - [[池田隆政]]夫人 * [[明仁|継宮明仁親王]](つぐのみや あきひと、[[1933年]]-) - 第125代天皇・[[今上天皇]] * [[常陸宮正仁親王|義宮正仁親王]](よしのみや まさひと、[[1935年]]- ) - [[常陸宮]] * [[島津貴子|清宮貴子内親王]](すがのみや たかこ、[[1939年]]- ) - [[島津久永]]夫人 == 主な出来事 == === 宮中某重大事件 === {{Main|宮中某重大事件}} [[1919年]](大正8年)11月に[[元老]]・[[山縣有朋]]が、「皇太子裕仁親王妃に内定」と発表されていた良子女王の家系(島津家)に[[色盲]][[遺伝]]があるとして婚約破棄を進言した事件。「良子でなければならぬのだ」との裕仁親王本人の意志が尊重されて、「婚約に変更なし」と発表された。 山縣は皇室を思って進言したのだが長閥の巨頭として非難された。山縣は責任を感じて大正10年3月、枢密院議長・元老など全ての辞表を提出したが 5月、優詔にて却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。 === 婚礼の儀の延期と関東大震災 === [[1923年]](大正12年)の[[関東大震災]]により、同年秋季予定されていた[[皇太子]]裕仁親王(当時[[摂政]]であった)の婚礼の儀は延期されることとなった。本来なら関東という一地方で起きた地震であるので、国事である皇族の婚礼を延長することはせず[[遷都]]するのが通例であったが、東京の惨状を視察した裕仁親王の意向により延期となった。<!--東京と地方を帝都という特殊性と遷都することの意義とを峻別したものであるといえよう。--> この関東大震災で裕仁親王は、後に「加藤のおかげで命拾いをした」と語っている。背景には、[[霞関離宮]]が修理中であったため[[箱根]](大きな震災を被った)に行く予定であったが、[[加藤友三郎]][[内閣総理大臣]]が死去し、政変が起きていたため東京の宮城([[皇居]])に留まったことがある(1973年の記者会見より。会見記録は高橋紘「陛下、お尋ね申し上げまする」に詳しい)。 また後年、昭和天皇は次のように述懐している。「その 惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」([[1981年]]の記者会見より) === 田中義一首相を叱責 === [[満州某重大事件]]の責任者処分に関して、内閣総理大臣・[[田中義一]]は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、[[田中義一内閣|田中内閣]]は総辞職したとされる(田中はその直後に死去)。 田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる[[牧野伸顕]][[内大臣府|内大臣]]の指導の下、選挙目当てでの[[内務省]]の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人や右翼・[[国粋主義]]者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。 この事件で、天皇はその後の政治的関与について臆病になったという。 なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に[[内閣総辞職]]を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らしあわせるとそこまで踏み込んだ発言はなかった可能性が高い。 === 天皇機関説事件 === [[1935年]](昭和10年)、[[天皇機関説]]が排撃された[[天皇機関説事件]]について、昭和天皇は[[侍従|侍従武官長]]・[[本庄繁]]に「[[美濃部達吉|美濃部]]説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言った。 昭和天皇が[[帝王学]]を受けた頃には[[憲法学]]の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていたにもかかわらず、直接・間接には何ら行動を起こすことはなかった。機関説に関しての述懐を、昭和天皇の[[リベラル]]な性格の証左としながら、同時に美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする記述は、しばしば見られるが、現実にはそれほど単純でない。 機関説は、国家法人説と呼ばれるドイツの学説に由来するが、この学説は国家の本質を「法人」とする点において[[主権]]および主権者の存在をあいまいにする意図をもった学説であり、当時すでに、後発[[資本主義]]国であり、外見的立憲主義の典型とされていた[[ドイツ]]においてさえ「時代遅れ」とされていた。しかし、[[戦前]]期の日本においては、天皇を国家の一機関として観念するという点において、社会科学的思考と結びつく側面をもつと同時に、[[吉野作造]]の「[[民本主義]]」と並んで[[護憲運動]]や[[大正デモクラシー]]の理論的バックボーンを演じていたことは、日本資本主義がドイツよりもさらに後発であることと立憲主義がさらに外見的であったことを反映していた。しかし、昭和天皇がそこまでの理解を持っていたかは疑問である。昭和天皇の理解していた機関説は、「一機関」としての性質を強調する一木-美濃部ラインのものではなく、有機体の「頭部」であることを強調する、[[清水澄]]の学説に近かったとする説もある。 === 二・二六事件 === [[1936年]](昭和11年)に起きた[[陸軍]][[皇道派]]青年[[将校]]らによる[[二・二六事件]]の際、侍従武官長・本庄繁[[陸軍大将]]の「彼らも国を憂えて起こした行動で必ずしも咎めるものではないかと存じます」との進言に、昭和天皇は怒りも露に「朕が頼みとする股肱の老臣を殺害する、かくの如き凶暴の将校の精神に何ら許すべきものがあると言うのか。老臣たちを悉く倒すは朕が首を[[真綿]]で締めるに等しき行為ではないか」、さらに「お前達がやらぬなら朕自ら[[近衛師団]]を率いてこれを鎮圧に当たらん」と発言したとされる。この事は「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面し初めて自らの意思を述べたとも言える。これによって決起軍は[[反乱軍]]と認定され、事件は速やかに解決に向かったのである。この時の発言を、[[太平洋戦争]]終結のいわゆる“ご聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」とか「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。なお、[[1975年]](昭和50年)に[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス女王]]が来日した際、影の首謀者と言われることもある[[真崎甚三郎]]の息子を昭和天皇は自分の通訳に選んでいる。 === 真珠湾攻撃・開戦詔勅 === [[1941年]](昭和16年)[[9月6日]]の[[御前会議]]で、対英米戦は避けられないものとして決定された。[[御前会議]]では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、[[明治天皇]]御製の : 「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」 : ''(四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)'' という[[短歌]]を詠み上げた。 昭和天皇自身は開戦には消極的であったと言われている。しかし、戦争が始まった後の[[1941年]][[12月25日]]には日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。 === 戦争指導 === [[画像:Hiro-Hito on Musashi.jpg|thumb|250px|[[1943年]][[6月24日]]、[[戦艦]][[武蔵 (戦艦)|武蔵]]に[[行幸]]した昭和天皇(中央)]] 戦争末期のころは文字通り世界中で日本軍が戦火をあげていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際に幾つか指示等もしている。また、この様なやりとりのなかで答えてしまったがために、後にはひけずに[[ニュージーランド]]など[[オセアニア]]付近へ戦局を広げねばならなくなってしまった経緯が存在する。<!--若手将校とのやりとりだった気がする。発言内容があればそれもどこかで--> === 和平に向けて === [[1945年]](昭和20年)[[1月6日]]、アメリカ軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は[[木戸幸一]]に重臣の意見を聞くことを求めた。この時、木戸は陸海両総長と閣僚の招集を勧めている<ref>『木戸幸一日記』一月六日(土) 下巻 一一六四頁。 一月三十日(火) 下巻 一一六七頁 近衛が木戸に斡旋を求めている。上巻 三一頁 「解題」[[岡義武]]による序文 木戸と[[宮内省|宮内大臣]]の[[松平恒雄]]とが協議し、重臣が個々に拝謁することになった。</ref>。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった<ref>『侍従長の回想』「天皇の終戦秘密工作」P.43-P.54 木戸が参内を制限していたため近衛文麿が運動して重臣との会談を実現させたという説があるが、藤田はこれを信じていない。<!-- この説の元ネタをどなたかご存知でしょうか? --></ref>。 そのなかで特筆すべきものとしては、[[2月14日]]に行われた[[近衛文麿]]の[[上奏]]がある。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案している。昭和天皇は近衛の言うとおりの人事が出来ないことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった<ref>「時局ニ関スル重臣奉答録」『木戸幸一関係文書』 四九五頁-四九八頁</ref><ref>『侍従長の回想』「陽の目を見た近衛上奏文」P.55-P.67</ref>。{{main|近衛上奏文}} [[東京大空襲]]の戦渦を視察し、[[関東大震災]]につづく帝都の破壊に直面した昭和天皇は、これをもって終戦を決意したと後に述懐している{{要出典}}<!-- 昭和天皇独白録? -->。[[8月9日]]に[[ポツダム宣言]]受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかっため、首相・[[鈴木貫太郎]]の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった<ref>議論は午前10時半からの最高戦争指導会議から二回の閣議、御前会議を経て全て終了したのが翌10日午前2時20分であった。会議により出席者は異なるが、最高戦争指導会議では受諾賛成が鈴木(首相)、[[東郷茂徳|東郷]](外相)、[[米内光政|米内]](海相)、受諾反対が[[阿南惟幾|阿南]](陸相)、[[梅津美治郎|梅津]](参謀総長)、[[豊田副武|豊田]](軍司令部総長)であった。御前会議ではこれに[[平沼騏一郎|平沼]](枢密院議長)が加わる。鈴木が六閣僚に意見を聞くと、平沼が軍代表に質問した後に賛成に回り3対3となった。このとき平沼も天皇に御聖断を求めている。二時間にわたる会議の末に鈴木が行動を起した。</ref>。 昭和天皇は受諾の意思を表明し、[[8月15日]]、[[玉音放送]]。終戦となった。後に昭和天皇は侍従長の[[藤田尚徳]]に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と臥薪嘗胆した鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている<ref>『大日本帝国の興亡』5巻 平和への道「七部 耐え難きを耐え 1 ポツダム宣言受諾」P.203-P.213(章題 ページ番号はハヤカワ文庫版)</ref><ref>『侍従長の回想』会議の経過については「聖断下る」P.118-P.136。昭和天皇の発言は「異例、天皇の心境吐露」P.207-P.208からの引用。</ref>。 === 人間宣言 === [[画像:Macarthur hirohito.jpg|thumb|250px|right|昭和天皇(右)と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の会見で([[1945年]])]] [[1946年]](昭和21年)[[1月1日]]、[[人間宣言]]<!--「年頭、国運振興ノ詔書」も正式名称ではない。「人間宣言」が最も普遍的--><!--普遍的とは通称であって正式名称であるとは限らない。実際には「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」などと人間宣言の項目にもあるように冗長なものが件名であり正式であるとみなせる-->を渙発。この詔書は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の指導下にあった[[マスコミ]]により天皇の神格否定として喧伝され、国民に大きな衝撃を与えた。 これと前後して、天皇がGHQ本部を表敬訪問した際に撮影された、GHQ総司令官でアメリカ陸軍の[[ダグラス・マッカーサー]][[元帥]]と一緒に並んだ全身写真が公開(情報局により「不敬」を理由に発禁処分<!--{{要出典}}:たとえば毎日新聞社編『毎日新聞百年史』214頁-->)されている。天皇が正装の[[モーニングコート|モーニング]]を着用し直立不動でいるのに対し、マッカーサーがラフな服装で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は改めて敗戦の重みを思い知らされた。天皇はマッカーサーに比べて身長が低かったことも衝撃を与えている。 [[画像:Ford and Emperor1975.jpg|thumb|250px|[[アメリカ合衆国大統領]][[ジェラルド・R・フォード]]夫妻と昭和天皇、[[香淳皇后]]。[[1975年]][[10月2日]]、アメリカ合衆国にて]] [[画像:Reagan hirohito.jpg|thumb|250px|[[アメリカ合衆国大統領]][[ロナルド・レーガン]]夫妻と昭和天皇(右)。[[1983年]][[11月9日]]、[[東京都]]にて]] === 外遊 === [[皇太子]]時代の[[1921年]](大正10年)[[3月3日]]から同年[[9月3日]]までの間、[[イギリス]]や[[フランス]]、[[ベルギー]]、[[イタリア]]、[[バチカン]]などを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧<ref>皇太子の外遊の初例は、[[1907年]](明治40年)の嘉仁親王(後の[[大正天皇]])による[[大韓帝国]]訪問である。この当時の大韓帝国は[[日韓協約]]により事実上大日本帝国の保護国であったが、正式にはまだ併合前の「外国」であった。</ref>であり、国内には反対意見も根強かったが、[[山県有朋]]や[[西園寺公望]]などの[[元老]]らの尽力により実現した。出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には[[巡洋艦]][[香取 (練習巡洋艦)|香取]]が用いられた。イギリスでは[[日英同盟]]のパートナーとして大歓迎を受け、国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]や[[ロイド・ジョージ]]首相らと会見した。ジョージ5世は[[バッキンガム宮殿]]での最初の夜、慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いたという。イタリアでは国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]らと会見した他、各国で公式[[晩餐会]]に出席したり、[[第一次世界大戦]]当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べている。 [[1971年]](昭和46年)には[[9月27日]]から[[10月14日]]にかけて17日間、再度イギリスや[[オランダ]]、スイスなど[[ヨーロッパ]]諸国7カ国を訪問した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地として[[アラスカ州|アラスカ]]の[[アンカレッジ]]に立ち寄っており、実質的にアメリカも訪問している。当初の訪問地である[[デンマーク]]や[[ベルギー]]、[[フランス]]などでは暖かく歓迎された。フランスでは旧知である[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]と再会、しばし歓談している。しかし当時両国が[[植民地]]支配していた[[ビルマ]]や[[インドネシア]]戦線で旧日本軍の捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは、彼らの抗議活動に遭遇することになった。特にインドネシアの宗主国であったオランダにおいては生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいものであった。 また、[[1975年]](昭和50年)には[[ジェラルド・R・フォード|フォード]]大統領の招待によって[[9月30日]]から[[10月14日]]まで14日間にわたって、[[アメリカ合衆国]]を公式訪問した。天皇の訪米は史上初の出来事である。これに先立つこと10余年前、[[皇太子]][[明仁親王]]夫妻が訪米しており、この訪米は皇太子夫妻のつけた道筋をたどってのものといえる。なお、[[1973年]](昭和48年)、[[1974年]](昭和49年)にも訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。訪米前にはアメリカ人は天皇の訪米にあまり関心がないという報道がなされ、[[侍従長]]・[[入江相政]]によると天皇に対する激しい憎しみを露わにしたアメリカ人もいたといい、関係者を悩ませた。天皇は[[ウィリアムズバーグ]]に到着して後、2週間にわたってアメリカに滞在し、訪米前の予想を覆して[[ワシントンD.C.]]や[[ロサンゼルス]]など、訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日フォード大統領との公式会見、10月3日の[[アーリントン国立墓地]]に眠る[[無名戦士の墓]]への献花、10月4日の[[ニューヨーク]]での[[ロックフェラー]]邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々的に報道し、新聞紙面のトップは天皇の写真で埋まった。ニューヨーク訪問時には、[[真珠湾攻撃]]の生き残りで構成される[[パールハーバー生存者協会]]が天皇歓迎決議を行っている。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソードが多かった。[[ホワイトハウス]][[晩餐会]]でのスピーチでは、戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時には[[ディズニーランド]]を訪問し、[[ミッキーマウス]]の隣で微笑む写真も新聞の紙面を飾った。同地ではミッキーマウスの[[腕時計]]を購入したことが話題になった。昭和天皇の外遊はこの訪米が最後のものであった。[[2007年]]現在13回の海外訪問を行なっている今上天皇と比較しても回数はごくわずかである。しかし、二度の外遊はいずれも第二次世界大戦の痛手からの回復、国際社会への復帰を印象付けるに十分以上の成果を挙げたといえる。帰国の当日には二種類の[[記念切手]]が発行されており、この訪米が一大事業であったことを物語っている。 === 行幸 === [[Image:Hirohito gaze at Great sugi of Kayano.jpg|thumb|250px|right|[[昭和22年]]([[1947年]])[[石川県]]で開催の第二回[[石川国体#第2回石川国体(1947年)|国民体育大会]]の折り、[[山中温泉]]で[[栢野大杉]]を見上げる昭和天皇。<br>あまりの大きさに暫し言葉もなく見上げたと伝ふ。]] 戦後は[[1946年]](昭和21年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。[[三池炭鉱]]の地下1000メートルもの地底深くや満州からの引揚者が入植した[[浅間山]]麓開拓地などにも赴いている。開拓地までの道路は当時整備されておらず、約2キロの道のりを徒歩で村まで赴いた。[[1947年]](昭和22年)には[[原爆投下]]後初めて[[広島市|広島]]に行幸し、「家が建ったね」と復興に安堵する言葉を口にした。その他、行幸先でのエピソード、御製も非常に多い([[天覧の大杉]]のエピソード参照)。全国46都道府県を巡幸するも、[[沖縄県|沖縄]]巡幸だけは沖縄が米軍の占領下にあったためついに果たすことができず、死の床にあっても「もうだめか」と沖縄巡幸を行なえないことを悔やんでいた。 また、[[1964年]](昭和39年)の[[東京オリンピック]]、[[1970年]](昭和45年)の[[大阪万国博覧会]]、[[1972年]](昭和47年)の[[札幌オリンピック]]、[[バブル経済]]前夜の[[1985年]](昭和60年)の[[つくば博]]の開会式にも出席している。これらイベントの成功にどれほど寄与したか正確に計ることはできないが、特に敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には大きな影響を与えたと見られている。病臥した[[1987年]](昭和62年)秋にも、[[沖縄海邦国体]]への出席が予定されていた。病臥し自ら訪沖することが不可能と判明した後は皇太子明仁親王を名代として派遣しお言葉を伝えた。これに関して、「''思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを''」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した皇太子明仁親王(今上天皇)は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりしてまいりました」と手にしたお言葉をおしいただき、真摯にこれを代読した。 ===スポーツ観戦=== {{Main|天覧試合}} 皇太子時代から大変な[[好角家]]であり、戦前戦後合わせて51回も[[国技館]]に[[天覧相撲]]に赴いている。特に戦後は[[1955年]](昭和30年)以降、病臥する[[1987年]](昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も[[蔵間竜也|蔵間]]、[[富士櫻栄守|富士桜]]、[[霧島一博|霧島]]など複数が伝わっている。特に富士桜の取り組みには身を乗り出して観戦したと言われ、同タイプの力士であり毎回熱戦となる[[麒麟児和春|麒麟児]]との取り組みはしばしば天覧相撲の日に組まれた。 [[1959年]](昭和34年)には[[天覧試合]]として、プロ野球の巨人-阪神戦いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては当時の[[大映]]の[[永田雅一]]社長がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、[[大相撲|相撲]]、[[野球]]の振興に与えた影響は計り知れないと言える。この後プロ野球において天覧試合は行われなかったが、プロ以外では[[1966年]](昭和41年)[[11月8日]]の日米野球[[ドジャース]]戦が天覧に付されている。 === 「崩御」前後 === [[1988年]](昭和63年)の暮れに入って病臥すると、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にものぼり、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。 1988年[[9月19日]]に吐血してから[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]に[[崩御]]するまでの期間は、テレビなどでバラエティの派手な演出などが不謹慎であるという理由で自粛になった。なおこの「自粛」は、同年の[[流行語]]となった。このほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることがあった。 * 1988年の[[中日ドラゴンズ]]のリーグ優勝[[ビールかけ]]およびパレードの自粛 * 1988年の[[明治神宮野球大会]]中止 * [[井上陽水]]出演のCM([[日産自動車]]:[[日産・セフィーロ|セフィーロ]])で「みなさんお元気ですか?」の音声カット * [[五木ひろし]]の結婚披露宴の中止(更には一般市民でも自粛・延期する人が続出した) * [[全日本プロレス]]出場プロレスラー流血自粛([[新日本プロレス]]は流血続行) * 1988年の「[[日本歌謡大賞]]」が中止 * [[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]の[[オープニングテーマ]]の自粛・差し替え * [[ロート製薬]]のオープニングキャッチ自粛 * 伝統行事の中止・縮小 このほか、多数のCMが所謂自粛バージョンになっている。 昭和天皇が病気で倒れた後は暫くの間、公式行事や儀式、歌舞音曲を伴う行事が自粛された。 * [[大相撲]]初場所の開催を1日延期して1月9日から行う * 崩御後2日間に渡って、TVは[[コマーシャルメッセージ|CM]]なしでニュースおよび追悼特番のみの放送(ただし[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]ではほぼ通常放送であった。) ** 各放送局とも「[[Xデー]]」と呼んで、密かに特番体制を準備していた。事前の噂では、5日間追悼番組が放映されることになっていたが、[[レンタルビデオ]]店に客が殺到するなど、特番自体の[[視聴率]]が振るわなかったことや、経営上の判断から2日間で特番体制は解除されたと言われている。 * [[1989年]]の[[全国高等学校ラグビーフットボール大会|全国高校ラグビー]]決勝中止([[大阪府]]・[[大阪工業大学高等学校]]と[[茨城県]]・[[茗溪学園|茗溪学園高等学校]]の両校優勝) * 1989年の[[全国高校サッカー選手権大会]]が2日間順延 * 1989年の[[爆風スランプ]][[日本武道館|武道館]][[ライブ]]順延 * 1989年1月8日の[[ラジオ体操]]の中止 * 1989年1月8日の公演を[[宝塚歌劇団]]が中止 * 学校や塾では[[始業式]]を遅らせたり授業を中止するところも多数あった。 * このほか、地下鉄通路の広告の照明までが落とされたり、[[パチンコ]]屋ですら店内で音楽を流さなかったなどの出来事も起こっている。 [[1989年]](昭和64年)1月7日午前6時35分に危篤報道があり(実際は午前6時33分に崩御)、[[日本放送協会|NHK]]をはじめとする各放送局は一斉に特別報道体制に入った。この時NHKでは青地に黄色の丸ゴシック体で「臨時ニュース」というテロップと共に[[チャイム]]を鳴らした。7時56分、[[藤森昭一]][[宮内庁|宮内庁長官]](当時)が「''天皇陛下におかせられましては、本日午前6時33分[[吹上御所]]において崩御あらせられました''」と発表。直後NHKでは黒地に白の楷書体の手書き筆字で「天皇陛下崩御」というテロップに切り替わり、チャイムが鳴らされた。このときのチャイムは「<nowiki>a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'8 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'2</nowiki>」というものであった(これは臨時ニュースにおいてNHKが用いる通常のチャイム「<nowiki>a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 e''8 cis''4 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'2</nowiki>」と微妙に違い、長い)。同日14時36分に新元号発表の記者会見が始まる冒頭には、記者会見場に入場する[[小渕恵三]][[内閣官房長官]](当時)の映像をバックにスーパーインポーズで「新元号決まる」というテロップが表示され、再び同じチャイムが鳴らされた。小渕が着席し、「ただいま終了しました[[閣議]]で「元号を改める[[政令]]」が決定され、第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。新しい元号は、[[平成]]であります」と言って額に入った「平成」の文字のしたためられた色紙を掲げた。このエピソードから小渕は「平成おじさん」と称されることになった。この新元号は[[毎日新聞]]が最も早く報じ、「リベンジを果たした」と[[光文事件]]と結びつけた報道がなされた。 危篤発表直後および崩御発表から翌1月8日終日まではNHK(総合)および民放各局が特別報道体制に入り、CMの自粛、昭和天皇の業績を偲ぶ番組、崩御報道を受けてのニュースなどが放送された。7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。特別報道体制内の番組(前年末からの危篤報道を受けてあらかじめ製作していたもの)にて昭和史が回顧され「'''激動の昭和'''」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。日付の切り替わる前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真を取る、[[二重橋]]などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。 翌1月8日から新聞活字には「平成元年」の文字が初めて現れることになった。 昭和64年は7日間しかなかったため、「昭和64年」が刻印された[[硬貨]]は希少であると認識されがちだが、これは正しくない。実際には「平成元年」の金型が手配される平成元年3月頃までは「昭和64年」の硬貨は発行され続けており、他の年と比較してその数が際立って少ないということはない。 [[1989年]](平成元年)[[2月24日]]に[[大喪の礼]]が執り行われ、武蔵野陵に埋葬された。 昭和天皇崩御の日、[[1989年]][[1月7日]]のNHK朝の「ワイドニュース」(6時36分から3時間24分間)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日のNHK「ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日」(8時30分から4時間40分間)の平均視聴率は44.5%を記録した(視聴率は[[ビデオリサーチ]]・関東地区調べによる)。 崩御後、1988年まで[[天皇誕生日]]であった[[4月29日]]は[[みどりの日]]という[[国民の祝日]]となった。[[2007年]]からは、[[昭和の日]]に祝日名称が変更された。 ==== 各地の記帳所、記帳所の設置された場所 ==== *皇居前記帳所 *千葉県民記帳所 *葉山御用邸通用門記帳所 *名古屋熱田神宮境内記帳所 *京都御所前記帳所 *福岡市庁舎内記帳所 *東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所 *:※同町は[[伊豆大島]]に存在し、前年には[[三原山噴火]]という天災に見舞われたばかりであった。 ==== 関連項目 ==== * [[コマーシャルメッセージ#CMが放送されなかった日|CMが放送されなかった日]] * [[s:天皇陛下崩御に関する件]] 後半は、[[昭和天皇-2]]、[[昭和天皇-3]]参照 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月5日 (月) 16:14。]     

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