攘夷論

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[[画像:Foreigner and Wrestler at Yokohama 1861.jpg|thumb|220px|攘夷論の風刺図(開港直後の横浜で行われた相撲の模様を描いている)]] '''攘夷論'''(じょういろん)は、[[日本]]に於いては、[[江戸時代|江戸]]末期に広まった考えで、夷人(外国人)をしりぞける。つまり外国人を実力行使で排斥しようという[[思想]]。元は[[中国]]の[[春秋時代]]の言葉。 [[帝国主義]]の発想を持つ[[欧米]]の[[アジア]]への接近([[侵略]]・進出・[[植民地]]化)により、それまでの江戸の天下泰平の世の中([[鎖国]]体制下の[[社会]])を維持したいという発想として盛り上がった。 == 概要 == 元々は朱子学を重んじた水戸学から発して全国に尊皇攘夷思想として広まった。だが、それが勤皇思想と結んだ結果において倒幕と言うエネルギーに一転した。これは一種のすり替えであった。 開港以後は、[[国学 (学問)|国学]]の発展によって強化されつつあった日本は[[神国]]であるという[[ナショナリズム]]の発想である[[尊皇論]]と結びつき、[[尊皇攘夷]]論となって諸藩の志士や公卿によって支持された。 しかし[[薩英戦争]]や[[下関戦争]]において外国艦隊との力の差に直面したことにより、単純な攘夷論に対する批判が生じて、[[津和野藩]]の[[国学者]][[大国隆正]]らによって唱えられた国内統一を優先して、外国との交易によって富国強兵を図ってでも、諸外国と対等に対峙する力をつけるべきだとする「[[大攘夷]]」論が登場した事によって、これを受け入れた攘夷運動の主力であった[[長州藩]]・[[薩摩藩]]の主張も事実上[[開国|開国論]]へと転向していくのである。 その後も、一部の人々は攘夷運動を進めようとした([[草莽]])が、明治2年([[1869年]])に入ると、[[明治政府]]は[[公議所]]・[[上局]]から上げられた「[[公議輿論]]」が攘夷は不可能であるという意見であったことを理由に「開国和親」を[[国是]]として以後は攘夷を議題としないことを決定(5月28日)し、また草莽に対しても出稼ぎの農民とともに勝手に本国より離れたものとして[[人返し]]の対象にすることを決定した([[五榜の掲示]]の第5札、実際の取締規定は明治2年以後である)。 だが、復古的な攘夷論がこれによって一掃されたわけではなく、[[大楽源太郎]]の反乱計画や[[二卿事件]]、[[久留米藩難]]など明治政府を倒して攘夷を断行しようとする事件が暫くの間継続されることとなる。 == 攘夷運動の代表例 == *'''[[下関戦争]] [[Image:Ichimonjimitsuboshi.svg|20x18px]] [[長州藩]] vs [[Image:Flag of the United Kingdom.svg|20x18px]] [[大英帝国|英国]]・[[Image:Flag of France.svg|20x18px]] [[フランス|仏国]] [[Image:Flag of the Netherlands.svg|20x18px]] [[オランダ|蘭国]]・[[Image:Flag of the United States.svg|20x18px]] [[アメリカ合衆国|米国]]''' 連合軍 *'''[[薩英戦争]] [[Image:Japanese Crest Maruni Juuji.png|20x18px]] [[薩摩藩]] vs [[Image:Flag of the United Kingdom.svg|20x18px]] 英国''' == 関連項目 == * [[尊皇攘夷]] * [[征夷大将軍]] * [[対外硬派]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%94%98%E5%A4%B7%E8%AB%96 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月4日 (火) 04:10。]     

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