大阪商大事件

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[[画像:大阪市立大学1号館と旧図書館.jpg|thumb|300px|右が大阪市大1号館(旧商大本館)、左が大阪市大旧図書館(旧商大図書館)。2006年撮影。1号館は1988年-1989年に大改装された。]] '''大阪商大事件'''(おおさかしょうだいじけん)は、[[太平洋戦争]]中の[[1943年]]から[[1945年]]初めにかけて、[[大阪商科大学 (旧制)|大阪商科大学]](現[[大阪市立大学]])の教員・卒業生・学生ら数十名が[[治安維持法]]違反容疑で[[特別高等警察]]により検挙、投獄された事件である。 ==背景 == [[画像:大阪市立大学2号館.jpg|thumb|200px|大阪市大2号館(旧商大予科校舎)。2006年撮影。1987年に大改装された。]] [[日中戦争]]の始まった[[1937年]]以降、大阪商大では戦時下にもかかわらず[[マルクス経済学]]についての研究会活動が活発となった。この背景には、[[河田嗣郎]]学長のもとリベラルな学風が強かったことに加え、1937年から[[1941年]]にかけて商大において[[岩波書店]]版『経済学辞典』の編集が行われ、その執筆陣として多数のマルクス経済学者が参加したことがあげられる。 また同じ時期、進歩的な[[大学予科|予科]]講師として人気のあった[[立野保男]]の退職処分に反対する運動(1941年)が展開された。この運動をきっかけに商大では[[上林貞治郎]]教授ら教員、学生により「[[帝国主義]]戦争に反対し、マルクス経済学を研究する」非公然の「文化研究会」が発足し、「工業研究会」「国際研究会」など公然の研究会と提携しつつ数十名の学生を組織するに至った。 == 経緯 == [[1943年]]3月15日、[[内田穣吉]]を初めとする大阪の「貿易研究所」のメンバー5名(内田を除く4名が商大卒業生)が検挙され、また[[満鉄調査部事件]]の関連で[[名和統一]]商大教授が検挙された。商大における非公然研究会の存在は、これらの検挙を通じて警察に発覚したと考えられている。この結果、名和のグループに関与していた卒業生3名、非公然研究会に参加した上林および学生32名、商大経済研究所嘱託の坂井豊一、さらに[[1942年]]春に[[東北帝国大学]]法文学部講師に転じていた立野保男が、同年3月30日から11月にかけていずれも[[治安維持法]]違反により検挙された。12月には学生約40名が短期拘留ないし不拘束のまま[[特別高等警察|特高]]の取り調べを受け、[[1945年]]1月にはさらに2名が検挙された。 上記の被検挙者約50名のうち約30名が起訴され3名が実刑判決を受けた(うち若干名は執行猶予により釈放された)。起訴されなかった者もそのまま未決囚として拘置所・刑務所に拘留された。このため拷問、栄養失調などにより3名が獄死、数名が精神に異常をきたす結果となった。この事件の被告・拘留者は、1945年10月の[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ/SCAP]]による政治犯釈放指令をまって初めて解放された。 == 関連書籍 == *上林貞治郎 『大阪商大事件の真相;大阪市大で何が起こったか』 日本機関紙出版センター、1986年。 == 関連項目 == *[[満鉄調査部事件]] *[[横浜事件]] == 外部リンク == *[http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/airphoto/photo.cgi?index=513564&group=USA10kKK&course=R443-2&num=34&size=small 戦後の1948年に米軍が撮影した空中写真] - 杉本学舎と堺市にある[[大阪刑務所]]は大和川と阪和線(旧阪和電気鉄道)を隔てているがそれほど離れていない。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%95%86%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月2日 (木) 07:15。]     
[[画像:大阪市立大学1号館と旧図書館.jpg|thumb|300px|右が大阪市大1号館(旧商大本館)、左が大阪市大旧図書館(旧商大図書館)。2006年撮影。1号館は1988年-1989年に大改装された。]] '''大阪商大事件'''(おおさかしょうだいじけん)は、[[太平洋戦争]]中の[[1943年]]から[[1945年]]初めにかけて、[[大阪商科大学 (旧制)|大阪商科大学]](現[[大阪市立大学]])の教員・卒業生・学生ら数十名が[[治安維持法]]違反容疑で[[特別高等警察]]により検挙、投獄された事件である。 ==背景 == [[画像:大阪市立大学2号館.jpg|thumb|200px|大阪市大2号館(旧商大予科校舎)。2006年撮影。1987年に大改装された。]] [[日中戦争]]の始まった[[1937年]]以降、大阪商大では戦時下にもかかわらず[[マルクス経済学]]についての研究会活動が活発となった。この背景には、[[河田嗣郎]]学長のもとリベラルな学風が強かったことに加え、1937年から[[1941年]]にかけて商大において[[岩波書店]]版『経済学辞典』の編集が行われ、その執筆陣として多数のマルクス経済学者が参加したことがあげられる。 また同じ時期、進歩的な[[大学予科|予科]]講師として人気のあった[[立野保男]]の退職処分に反対する運動(1941年)が展開された。この運動をきっかけに商大では[[上林貞治郎]]教授ら教員、学生により「[[帝国主義]]戦争に反対し、マルクス経済学を研究する」非公然の「文化研究会」が発足し、「工業研究会」「国際研究会」など公然の研究会と提携しつつ数十名の学生を組織するに至った。 == 経緯 == [[1943年]]3月15日、[[内田穣吉]]を初めとする大阪の「貿易研究所」のメンバー5名(内田を除く4名が商大卒業生)が検挙され、また[[満鉄調査部事件]]の関連で[[名和統一]]商大教授が検挙された。商大における非公然研究会の存在は、これらの検挙を通じて警察に発覚したと考えられている。この結果、名和のグループに関与していた卒業生3名、非公然研究会に参加した上林および学生32名、商大経済研究所嘱託の坂井豊一、さらに[[1942年]]春に[[東北帝国大学]]法文学部講師に転じていた立野保男が、同年3月30日から11月にかけていずれも[[治安維持法]]違反により検挙された。12月には学生約40名が短期拘留ないし不拘束のまま[[特別高等警察|特高]]の取り調べを受け、[[1945年]]1月にはさらに2名が検挙された。 上記の被検挙者約50名のうち約30名が起訴され3名が実刑判決を受けた(うち若干名は執行猶予により釈放された)。起訴されなかった者もそのまま未決囚として拘置所・刑務所に拘留された。このため拷問、栄養失調などにより3名が獄死、数名が精神に異常をきたす結果となった。この事件の被告・拘留者は、1945年10月の[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ/SCAP]]による政治犯釈放指令をまって初めて解放された。 == 関連書籍 == *上林貞治郎 『大阪商大事件の真相;大阪市大で何が起こったか』 日本機関紙出版センター、1986年。 == 関連項目 == *[[満鉄調査部事件]] *[[横浜事件]] == 外部リンク == *[http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/airphoto/photo.cgi?index=513564&group=USA10kKK&course=R443-2&num=34&size=small 戦後の1948年に米軍が撮影した空中写真] - 杉本学舎と堺市にある[[大阪刑務所]]は大和川と阪和線(旧阪和電気鉄道)を隔てているがそれほど離れていない。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%95%86%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月4日 (日) 17:16。]     

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