岐阜事件

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[[Image:Taisuke Itagaki bronze statue 1.JPG|thumb|right|250px|板垣退助が襲われた場所に建つ板垣退助の銅像<br/>[[岐阜公園]]にて([[岐阜市]])]] '''岐阜事件'''(ぎふじけん)とは、[[1882年]]([[明治]]15年)[[4月6日]]に[[岐阜市|岐阜]]で、[[自由党 (日本)|自由党]]党首[[板垣退助]]が暴漢([[相原尚褧]])に襲われた事件である。'''板垣退助遭難事件'''、'''岐阜遭難事件'''ともいう。このとき板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとして知られるが、事実であるかは不明である。 == 事件前の状況 == [[1881年]](明治14年)[[10月18日]]、10年後の[[帝国議会]]開設の[[詔]]が出されたのを機に[[自由党 (日本)|自由党]](日本初の政党の一つ)が結成され、[[自由民権運動]]は頂点を迎える。そのような中、[[11月9日]]に板垣退助は[[自由党 (日本)|自由党]]総理(党首)に就任する。 [[1882年]](明治15年)[[3月10日]]、[[板垣退助]]は[[竹内綱]]、[[宮地茂春]]、[[安芸喜代香]]らとともに、東海道遊説旅行の為に東京を出発。静岡、浜松を経て、[[3月29日]]に名古屋で演説後、[[4月5日]]に岐阜の旅館(玉井屋)に到着する。 4月6日PM1:00、岐阜の中教院(現在の[[岐阜公園]]にあった建物)にて、[[板垣退助]]、[[内藤魯一]]らが演説を行い、PM6:00頃演説を終える。 == 板垣退助遭難 == [[1882年]](明治15年)4月6日PM6:30頃、板垣退助は帰途に就こうと中教院の玄関の階段を下りる。その時、「将来の賊」と叫びながら相原尚褧が、刃渡り9寸(約27cm)の短刀を振りかざし板垣退助に襲い掛かる。相原は板垣の胸を狙い、左胸を刺す。板垣は相原の腹部に[[肘]]で[[当身技|当身]]を行い(板垣は呑敵流小具足術の[[柔術]]を会得していた)怯ませるが、再び相原は襲い掛かる。板垣は短刀を持った手を押さえた際、短刀で親指と人差し指の間を負傷する。二人がもみ合うのに気づいた内藤魯一が駆け寄り、相原を押さえ込む。 その場にいた者たちは第2の刺客に警戒しつつ板垣を連れ、近くの民家に避難する。通報を受けた岐阜警察署から警察医が派遣され、診察をする。その結果、命に別状は無いが、左胸、右胸に各1ヶ所、右手に2ヶ所、左手に2ヶ所、左頬に1ヶ所の、計7ヶ所に傷を負っていた。 夜になり、東京の自由党本部に板垣遭難の連絡が入る。この時点では板垣が殺されたという連絡であり、[[大石正巳]]は、[[後藤象二郎]]、[[谷重喜]]にその事を伝える。怒った後藤象二郎は直ちに岐阜へ向かう用意をするが、板垣が無事という報告を受けると、自由党総代として谷重喜のみ岐阜へ向かう。又、知らせを受けた大阪の[[中島信行]]、高知の[[片岡健吉]]、[[植木枝盛]]も岐阜に向かい、[[立憲改進党]]の[[大隈重信]]も使いを岐阜へ向かわせる。 [[4月7日]]、政府首脳にも板垣遭難の連絡が入り、政府は閣議を中止。[[山縣有朋]]は[[明治天皇]]に事件を上奏すると、直ちに勅使の派遣が決定する。同日午前、内藤魯一の連絡を受けた愛知県病院長[[後藤新平]]が板垣の治療の為に訪れる。板垣は後藤新平を政府からの刺客と勘違いし会う事を断るが、まわりの者に説得されて治療を受け、正午過ぎに治療を終える。 正午過ぎ、翌日に明治天皇勅使来訪との電報を受ける。一部の自由党員は、刺客が政府によるものと思い、勅使を追い返す事を訴えるが、板垣はこの事を咎め、勅使を受け入れる事を決める。その頃、勅使来訪の知らせを受けた岐阜県令が慌てて見舞いを送るが、板垣は事件に対し見て見ぬ振りをしていた事に怒り、見舞いを断る。 [[4月12日]]、明治天皇の勅使が到着。御手元金を下賜する。 [[4月15日]]、傷が癒えた板垣は、岐阜から大阪へと出発する。 == 「板垣死すとも自由は死せず」の真相 == 「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉は、板垣退助が襲撃を受けた際に叫んだと言われている。しかし、本当にそう叫んだかは不明である。文章として登場したのは、4月11日の大阪[[朝日新聞]]の、板垣退助は「板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と叫んだという記事である。 後の[[報知新聞]]の取材によると、この「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、内藤魯一が事件時に叫んだ言葉であり、内藤が板垣が叫んだ事にしたという。 他にも説があり、板垣本人がよく似た言葉を襲撃された際叫んだという。 *「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」(自由党の臨時報より) *「吾死スルトモ自由ハ死セン」(政府密偵の上申書より) *「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキトゾ」(岐阜警察署警部長の上申書より) == 襲撃犯 相原尚褧(あいはらなおぶみ) == 板垣退助を襲撃した犯人、相原尚褧は小学校教員であり、[[東京日日新聞]]の保守主義に傾倒していた。その為自由党を敵視しており、板垣の東海道遊説を知ると、板垣の殺害を決意する。1882年(明治15年)4月5日、自由党員に扮し、岐阜の玉井屋に泊まる。この時、板垣と面会し殺害を試みたが、面会を断られる。そして翌日、犯行におよぶ。 事件後、6月26日から岐阜重罪裁判所で裁判を受ける。相原は無期懲役の判決を受けるが、[[1889年]](明治22年)、[[大日本帝国憲法]]発布の[[恩赦]]で釈放される。釈放後、板垣の元に謝罪に訪れる。板垣は罪を許した。 相原は[[北海道]]の殖民事業に携わる為北海道へ向かうが、その向かう船上で行方不明となる。自殺したとも、誤って海に転落したとも言われている。一説には相原の背後にいた板垣襲撃を計画した者に殺害されたともいうが、真相は不明である。 == その他 == [[板垣退助]]が襲撃時に着用していた[[シャツ]]と、[[凶器]]の[[短刀]]は現存する。シャツは個人蔵で公開されていないが、短刀は[[高知市立自由民権記念館]]に保管されている。 == 現在 == [[1917年]]([[大正]]6年)、板垣遭難の地である中教院の跡地付近である岐阜県岐阜市の[[岐阜公園]]([[金華山 (岐阜県)|金華山]]の麓)に、銅像が建てられた。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B2%90%E9%98%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月8日 (火) 21:26。]     
[[Image:Taisuke Itagaki bronze statue 1.JPG|thumb|right|250px|板垣退助が襲われた場所に建つ板垣退助の銅像<br/>[[岐阜公園]]にて([[岐阜市]])]] '''岐阜事件'''(ぎふじけん)とは、[[1882年]]([[明治]]15年)[[4月6日]]に[[岐阜市|岐阜]]で、[[自由党 (日本)|自由党]]党首[[板垣退助]]が暴漢([[相原尚褧]])に襲われた事件である。'''板垣退助遭難事件'''、'''岐阜遭難事件'''ともいう。このとき板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとして知られるが、事実であるかは不明である。 == 事件前の状況 == [[1881年]](明治14年)[[10月18日]]、10年後の[[帝国議会]]開設の[[詔]]が出されたのを機に[[自由党 (日本)|自由党]](日本初の政党の一つ)が結成され、[[自由民権運動]]は頂点を迎える。そのような中、[[11月9日]]に板垣退助は[[自由党 (日本)|自由党]]総理(党首)に就任する。 [[1882年]](明治15年)[[3月10日]]、[[板垣退助]]は[[竹内綱]]、[[宮地茂春]]、[[安芸喜代香]]らとともに、東海道遊説旅行の為に東京を出発。静岡、浜松を経て、[[3月29日]]に名古屋で演説後、[[4月5日]]に岐阜の旅館(玉井屋)に到着する。 4月6日PM1:00、岐阜の中教院(現在の[[岐阜公園]]にあった建物)にて、[[板垣退助]]、[[内藤魯一]]らが演説を行い、PM6:00頃演説を終える。 == 板垣退助遭難 == [[1882年]](明治15年)4月6日PM6:30頃、板垣退助は帰途に就こうと中教院の玄関の階段を下りる。その時、「将来の賊」と叫びながら相原尚褧が、刃渡り9寸(約27cm)の短刀を振りかざし板垣退助に襲い掛かる。相原は板垣の胸を狙い、左胸を刺す。板垣は相原の腹部に[[肘]]で[[当身技|当身]]を行い(板垣は呑敵流小具足術の[[柔術]]を会得していた)怯ませるが、再び相原は襲い掛かる。板垣は短刀を持った手を押さえた際、短刀で親指と人差し指の間を負傷する。二人がもみ合うのに気づいた内藤魯一が駆け寄り、相原を押さえ込む。 その場にいた者たちは第2の刺客に警戒しつつ板垣を連れ、近くの民家に避難する。通報を受けた岐阜警察署から警察医が派遣され、診察をする。その結果、命に別状は無いが、左胸、右胸に各1ヶ所、右手に2ヶ所、左手に2ヶ所、左頬に1ヶ所の、計7ヶ所に傷を負っていた。 夜になり、東京の自由党本部に板垣遭難の連絡が入る。この時点では板垣が殺されたという連絡であり、[[大石正巳]]は、[[後藤象二郎]]、[[谷重喜]]にその事を伝える。怒った後藤象二郎は直ちに岐阜へ向かう用意をするが、板垣が無事という報告を受けると、自由党総代として谷重喜のみ岐阜へ向かう。又、知らせを受けた大阪の[[中島信行]]、高知の[[片岡健吉]]、[[植木枝盛]]も岐阜に向かい、[[立憲改進党]]の[[大隈重信]]も使いを岐阜へ向かわせる。 [[4月7日]]、政府首脳にも板垣遭難の連絡が入り、政府は閣議を中止。[[山縣有朋]]は[[明治天皇]]に事件を上奏すると、直ちに勅使の派遣が決定する。同日午前、内藤魯一の連絡を受けた愛知県病院長[[後藤新平]]が板垣の治療の為に訪れる。板垣は後藤新平を政府からの刺客と勘違いし会う事を断るが、まわりの者に説得されて治療を受け、正午過ぎに治療を終える。 正午過ぎ、翌日に明治天皇勅使来訪との電報を受ける。一部の自由党員は、刺客が政府によるものと思い、勅使を追い返す事を訴えるが、板垣はこの事を咎め、勅使を受け入れる事を決める。その頃、勅使来訪の知らせを受けた岐阜県令が慌てて見舞いを送るが、板垣は事件に対し見て見ぬ振りをしていた事に怒り、見舞いを断る。 [[4月12日]]、明治天皇の勅使が到着。御手元金を下賜する。 [[4月15日]]、傷が癒えた板垣は、岐阜から大阪へと出発する。 == 「板垣死すとも自由は死せず」の真相 == 「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉は、板垣退助が襲撃を受けた際に叫んだと言われている。しかし、本当にそう叫んだかは不明である。文章として登場したのは、4月11日の大阪[[朝日新聞]]の、板垣退助は「板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と叫んだという記事である。 後の[[報知新聞]]の取材によると、この「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、内藤魯一が事件時に叫んだ言葉であり、内藤が板垣が叫んだ事にしたという。 他にも説があり、板垣本人がよく似た言葉を襲撃された際叫んだという。 *「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」(自由党の臨時報より) *「吾死スルトモ自由ハ死セン」(政府密偵の上申書より) *「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキトゾ」(岐阜警察署警部長の上申書より) == 襲撃犯 相原尚褧(あいはらなおぶみ) == 板垣退助を襲撃した犯人、相原尚褧は小学校教員であり、[[東京日日新聞]]の保守主義に傾倒していた。その為自由党を敵視しており、板垣の東海道遊説を知ると、板垣の殺害を決意する。1882年(明治15年)4月5日、自由党員に扮し、岐阜の玉井屋に泊まる。この時、板垣と面会し殺害を試みたが、面会を断られる。そして翌日、犯行におよぶ。 事件後、6月26日から岐阜重罪裁判所で裁判を受ける。相原は無期懲役の判決を受けるが、[[1889年]](明治22年)、[[大日本帝国憲法]]発布の[[恩赦]]で釈放される。釈放後、板垣の元に謝罪に訪れる。板垣は罪を許した。 相原は[[北海道]]の殖民事業に携わる為北海道へ向かうが、その向かう船上で行方不明となる。自殺したとも、誤って海に転落したとも言われている。一説には相原の背後にいた板垣襲撃を計画した者に殺害されたともいうが、真相は不明である。 == その他 == [[板垣退助]]が襲撃時に着用していた[[シャツ]]と、[[凶器]]の[[短刀]]は現存する。シャツは個人蔵で公開されていないが、短刀は[[高知市立自由民権記念館]]に保管されている。 == 現在 == [[1917年]]([[大正]]6年)、板垣遭難の地である中教院の跡地付近である岐阜県岐阜市の[[岐阜公園]]([[金華山 (岐阜県)|金華山]]の麓)に、銅像が建てられた。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B2%90%E9%98%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月1日 (木) 21:37。]     

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