バー・モウ

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ドクター・'''バー・モウ'''(ラテン文字転写は'''Dr. Ba Maw'''、'''バーモウ、バモウ、バモー、バーモー'''とも、[[1893年]][[2月8日]] - [[1977年]][[5月29日]])はビルマ(現[[ミャンマー]])の独立運動家、政治家。 1893年ビルマの法律家の家庭に生まれた。1924年、フランスの[[:en:University of Bordeaux|ボルドー大学]]で博士号を取得、1934年にはビルマ州政府(当時は英領インドの一州)の教育相、1937年にビルマがインドから分離されて別個の植民地になると、その初代首相となるが、退任後、反乱の廉で投獄された。[[1942年]]4月、[[大日本帝国陸軍|日本軍]]政下で釈放され行政府長官となり、[[1943年]]8月、[[ビルマ国]]の[[独立]]を宣言、国家元首に就任し、対米英宣戦布告。1943年11月には東京で開かれた[[大東亜会議]]に参加した。しかし、[[1944年]]末、日本の敗色が濃くなると、[[ビルマ国民軍]]がクーデターを起こして[[イギリス]]側に寝返り、[[1945年]]5月、日本軍がラングーン(現[[ヤンゴン]])から撤退した。1945年8月、日本へ[[亡命]]し[[新潟県]][[南魚沼郡]][[塩沢町]](現[[南魚沼市]])の薬照寺に身を潜めていたが、12月自ら英占領軍に出頭した。翌年、特赦され、帰国。一時政界に復帰するが、軍事政権下では拘禁、後釈放され[[1977年]]ラングーンの自宅で死去。 ==関連記事== * [[大東亜宣言]] * [[第二次世界大戦に関連する人物の一覧]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%A6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年10月5日 (金) 14:30。]     
[[Image:Greater East Asia Conference.JPG|thumb|280px|大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、[[張景恵]]、[[汪兆銘]]、[[東條英機]]、[[ナラーティップポンプラパン]]、[[ホセ・ラウレル]]、[[スバス・チャンドラ・ボース]]]] ドクター・'''バー・モウ'''(ラテン文字転写:Dr. Ba Maw, バーモウ、バモウ、バモー、バーモーとも、[[1893年]][[2月8日]] - [[1977年]][[5月29日]])は、ビルマ(現[[ミャンマー]])の[[独立運動]]家、[[政治家]]。 ==略歴== 1893年に、当時[[イギリス]]の[[植民地]]であったビルマの裕福な法律家の家庭に生まれた。その後ラングーンで中等教育を受け、[[1924年]]に、[[留学]]先の[[フランス]]の[[:en:University of Bordeaux|ボルドー大学]]で[[博士号]]を取得した。 1934年にはビルマ州政府(当時は[[イギリス領インド]]の一州)の教育相、1937年にビルマがインドから分離されて別個の植民地になると、その初代首相となるが、退任後、反乱のかどで投獄された。 [[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])開戦後の[[1941年]][[12月16日]]に、[[アウン・サン]]らは[[日本軍]]の南機関の支援を得て[[バンコク]]に「ビルマ独立義勇軍」を創設。[[日本軍]]と共に[[イギリス軍]]と戦い、[[1942年]]3月に[[ラングーン]]を陥落させ、[[1942年]]7月ビルマからイギリス軍を駆逐することに成功し、ビルマ独立義勇軍をビルマ国防軍に改組した。南機関はバー・モウを中央行政府長官に据えビルマに軍政を敷き、[[1943年]]8月、[[ビルマ国]]の[[独立]]を宣言、国家元首に就任し、対[[連合国]]への宣戦布告を行う。 [[1943年]]11月には東京で開かれた[[大東亜会議]]に参加した。しかし、[[1944年]]末に日本の敗色が濃くなると、[[ビルマ国民軍]]が[[クーデター]]を起こしてイギリス側に寝返った。その後[[1945年]]5月にイギリス軍や[[アメリカ軍]]が日本軍を放逐し、日本軍はラングーン(現[[ヤンゴン]])から撤退した。 [[1945年]]8月に[[日本]]へ[[亡命]]し、[[新潟県]][[南魚沼郡]][[塩沢町]](現[[南魚沼市]])の薬照寺に身を潜めていたが、12月に自ら連合国の占領軍(イギリス軍)に出頭した。しかし翌年に特赦されビルマに帰国した。 [[1948年]]1月にイギリスからビルマが独立した後に一時政界に復帰するが、[[1950年代]]以降の[[ネ・ウィン]]将軍の軍事政権下では拘禁された。その後釈放され、[[1977年]]ラングーンの自宅で死去。 ==関連記事== * [[大東亜共同宣言]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%A6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年10月26日 (日) 01:07。]     

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