田中隆吉

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{{Infobox 軍人 |name=田中 隆吉 |lived=[[1893年]][[7月9日]] - [[1972年]][[6月5日]] |placeofbirth=[[島根県]][[安来市]] |placeofdeath= |image=[[Image:Tanaka Ryukichi.jpg|170px]] |caption=陸軍少将 田中隆吉 |nickname= |allegiance=大日本帝国陸軍 |serviceyears=[[1913年]] - [[1943年]] |rank=陸軍少将 |commands=[[第1軍 (日本軍)|第1軍]]参謀長 |unit= |battles=[[上海事変]]<br />[[張鼓峰事件]] |awards= |laterwork= }} '''田中 隆吉'''(たなか りゅうきち、[[1893年]][[7月9日]] - [[1972年]][[6月5日]])は[[島根県]]出身の[[陸軍少将]]。 [[上海事変|第一次上海事変]](1932年)・[[綏遠事件]](1936年)の主導的役割を果たし、[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])開戦時の[[陸軍省]]兵務[[局長]]という要職にありながら、[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]において検事側の証人として被告に不利な証言もしたことで知られている。 田中は日本軍の数々の謀略に直接関与しており、日本軍の闇の部分に通じた人物であった。また、驚異的な記憶力の持ち主で、これらが東京裁判において発揮された。 == 略歴 == * [[1893年]] - [[島根県]][[安来市]]の商家に生まれる。[[島根県立松江北高等学校|島根県立松江中学校]]へ進む。 * [[1907年]] - [[陸軍幼年学校|陸軍広島地方幼年学校]]入学。 * [[1910年]] - [[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]入学。 * [[1913年]]3月 - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]砲兵科卒業(26期)。野砲兵第23連隊(岡山)に赴任。 * [[1914年]] - [[少尉|陸軍砲兵少尉]]任官。 * [[1917年]] - [[陸軍砲工学校]]卒業。 * [[1918年]] - [[中尉|陸軍中尉]]任官。結婚。野砲兵第26連隊(朝鮮)に赴任。 * [[1919年]] - [[陸軍大学校]]入学(34期生)。 * [[1922年]] - 陸軍大学校卒業。野砲兵連隊に帰任。 * [[1923年]] - [[大尉|陸軍大尉]]任官。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]に赴任。 * [[1924年]] - [[参謀本部]]支那班に所属。この頃[[大川周明]]と関係。 * [[1927年]]7月 - 参謀本部付・支那研究生として[[北京市|北京]]・[[張家口]]に駐在([[特務機関]]任務)。 * [[1929年]]8月 - [[少佐|陸軍砲兵少佐]]任官。参謀本部支那課兵要地誌班に異動。 * [[1930年]]10月 - 上海公使館附[[駐在武官|武官]]として[[上海市|上海]]に赴任。[[川島芳子]]と出会い、男女の仲になる。川島をスパイの道に引き入れる。 * [[1932年]]1月 - [[上海事変]]。田中と川島は共謀し、上海事変を引き起こす謀略を実行する。 * [[1932年]]8月 - 野砲兵第4連隊の大隊長に着任。 * [[1934年]]3月 - [[中佐|陸軍中佐]]任官。野戦重砲兵第1連隊付(市川、連隊長は[[下村定]])に着任。 * [[1935年]]3月 - [[関東軍]]参謀部第2課(情報課)兵要地誌班長(蒙古工作担当)の参謀として[[満州]]に赴任。 * [[1936年]]8月 - [[徳化特務機関]]長を兼務(~[[1937年]]1月)。対ソ戦略の一環として内蒙工作に従事。[[デムチュクドンロブ|徳王]]と連携して[[綏遠事件]]を起こす。 * [[1937年]]8月 - [[大佐|陸軍大佐]]任官。[[第19師団 (日本軍)|第19師団]](朝鮮)山砲兵第25連隊長に着任。 * [[1938年]]8月 - [[張鼓峰事件]]の戦闘に参加。 * [[1939年]]1月 - [[陸軍省]]兵務局兵務課長に着任。 * [[1940年]]3月 - [[少将]]に昇進、[[第1軍 (日本軍)|第1軍]](中国)参謀長として[[閻錫山]]工作に従事。 **12月 - 陸軍省兵務局長。 * [[1941年]]6月 - [[陸軍中野学校]]長を兼ねる。10月、兼職を免ぜられる。 * [[1942年]]9月 - [[東部軍管区 (日本軍)|東部軍司令部]]付に異動。 **11月~12月 - 初老期憂鬱症状のため国府台陸軍病院に入院。 * [[1943年]]3月 - [[予備役]]編入。 * [[1945年]]3月 - 召集され[[羅津要塞]]司令官を任命されるが、[[阿南惟幾]]を通じて工作し、神経衰弱の再発を理由に召集解除。終戦後は、[[宇垣一成]]を担いで新政党を発足させようとするが、宇垣の[[公職追放]]のため失敗。 * [[1946年]]1月 - 陸軍の内情を明かした『敗因を衝く』を刊行。これによって田中は東京裁判に巻き込まれる事となる。 * [[1946年]]7月5日 - 国際検事団に出頭させられる。 * [[1948年]]11月 - 東京裁判終了。 * [[1949年]] - 戦時中から住んでいた山中湖畔に隠棲する。 * [[1949年]][[9月15日]] - 短刀による自殺未遂。 * [[1972年]][[6月5日]] - [[直腸癌]]のため死去。享年78。 == [[川島芳子]]との関係 == [[1930年]]10月、田中は関東軍中佐として[[上海市|上海]]の公使館付武官として赴任した。そこで田中は川島と知り合い、ほどなく男女の関係になる。そして川島の語学力や明晰な頭脳・行動力を利用し、謀略工作の世界に引き込んだ。 第1次上海事変は[[1932年]]1月に始まる。しかし、上海事変は関東軍の謀略で、その真相は戦後になって田中が自ら公表した。日本人僧侶襲撃以降の脚本を書いたのが田中で、川島が関東軍から渡された軍資金2万円を使って反日中国人を扇動し、日本人僧侶を襲わせた。 その後も、国民党軍のスパイ活動を川島に行わせていたが、小説『[[男装の麗人]]』などで川島の名が有名になると、逆に2人の仲は冷えていき、しばしば口論するようになったため田中と川島は別れることになった(その後も田中は川島にラブレターのような手紙を送っているので、完全にふっきれたのではないようである)。 == [[極東国際軍事裁判|東京裁判]] == 東京裁判において、田中は数人の軍人に責任を押し付け、[[昭和天皇の戦争責任]]を回避させるために検事側に協力した。しかし[[人間関係]]の不満により、旧陸軍の内部告発をしたとする批判もある。かつての上司である[[東條英機]]、[[木村兵太郎]]にとって不利となる証言を次々とした。その為、田中に対して「裏切り者!」「日本の[[イスカリオテのユダ|ユダ]]!」という罵声を浴びせる者もいた。特に、7月6日の公判において、[[橋本欣五郎|橋本]]、[[板垣征四郎|板垣]]、[[南次郎|南]]、[[土肥原賢二|土肥原]]、[[梅津美治郎|梅津]]などを名指しで証言した際には、[[鈴木貞一]]はその日の日誌に「''田中隆吉証言。全ク売国的言動ナリ。精神状態ヲ疑ワザルヲ得ズ''」と記し、[[板垣征四郎]]も日記に二重丸をつけて「''◎人面、獣心ノ田中出テクル。売国的行動悪ミテモ尚余リアリ''」と書き、[[重光葵]]はその時の心境を「''証人が被告の席を指さして 犯人は彼と云ふも浅まし''」と歌に詠んだ。 田中の行為に、[[天皇の免責]]と自らの責任回避のどちらの要素が多いかは論議が分かれるところであるが、次のようなエピソードがある。[[1947年]]の暮れ、[[木戸幸一]]担当の弁護士が、東條に対して「木戸に天皇のご意思にそむくような行いがあったかどうか」と質問をしたところ、東條は「いやしくも日本人たるもの、一人といえども陛下のご意思に反して行動するがごとき、不忠の臣はおりません。いわんや文官においてをや」と大見得を切ってしまった。 これを受けて、アメリカの新聞は「東条、天皇の戦争責任を証言」と書きたてた。これを受けてさらに、[[ソビエト連邦|ソ連]]の検事が正式に天皇追起訴を提言して[[ジョセフ・キーナン]]主席検事に迫った。キーナンと田中は、天皇は開戦の意図を持っていなかった、天皇には責任はないということを、いかにして東條に再度言明させるかを深夜まで協議をした。<!--どのようにして工作を行ったのかが書かれていないのですが…-->東條への工作は成功した。 [[1948年]]1月6日の午後の法廷において、東條に「2、3日前にこの法廷で日本臣民たるも者は何人たりとも天皇の命令に従わないと述べたことは、単に個人的な国民感情を述べたにすぎず、天皇の責任とは別の問題であり、大東亜戦争(太平洋戦争)に関しては、統帥部その他自分をふくめて責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが実情である」と発言させることに成功したのだった。これにより、この危機は救われた。 東京裁判の席上、田中隆吉が東條を指差し、東條を激怒させた。特に[[武藤章]]においては「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強硬した」という田中の証言により、[[死刑]]が確定したとも言われている。武藤は対米開戦には慎重派であった。田中は上海事変に関与しており、戦犯行為を行なっているので、[[検事]]側に協力しなければ起訴されていたという説もある。一説では、武藤が軍務局長の頃に、田中は武藤の地位を狙って策謀したが、未遂に終わって予備役に回された事から、武藤を逆恨みしていたと言われている。だが、田中には終戦間際中将への昇進の話があったが、自ら断ったというエピソードがある。裁判後、田中は武藤の[[幽霊]]が現れると言う[[精神錯乱]]に陥ったとも言われている。 しかし、田中の軍歴が示す通り全てが計算された戦後における謀略であったとの指摘もある(元外務省主任分析官[[佐藤優]]などの分析)。真に売国奴であるならば戦後においても継続された中野学校の国土遊撃戦計画(泉工作)などをGHQに売り払うはずであり、所謂A級戦犯に対する告発も「被害者」を「最小限」に食い止める為の一つの手段であったと考えることも出来る。また田中の目的として国体護持が絶対のものとして念頭に置かれていることも中野学校の戦後潜伏活動の目的と一致している(中野戦士たちは占領軍が国体を毀損した場合にゲリラ戦に移行すると決定していた)。真の愛国者は売国奴の汚名も着るとの言葉を田中は実際にやって見せたと考えられる。 戦後、田中に対し非公式ながら宮中から御下賜があり田中は涙を流してこれを拝受したという。 == 田中自身の戦争責任感 == 他人に対して好悪の激しかった田中は、東京裁判で上司・同僚に不利な証言をしたというだけでなく、戦後期の著述でも様々な自説を論じている。そのため特に非難が集まりやすく、周囲の証言からだけでは「田中隆吉の人物像」というものが見えにくくなりがちである。だが、東京裁判の終了直後の[[1949年]](昭和24)に田中が自殺未遂をした際の遺書には、下記の記述がある。 * 日本の[[軍閥]]の一員として[[大東亜戦争]]中に死すべき身を今日迄生き長らへたるは小生の素志に反し、何とも申し訳なし。 * 既往を顧みれば我も亦確かに有力なる戦犯の1人なり。殊に北支、[[満州]]においてしかり。免れて晏如たること能はず 晩年が鬱病状態であった事を勘案しても、この一文からも田中自身、その戦争責任は感じていたと言えよう。 == 著作 == * 『敗因を衝く <small>軍閥専横の実相</small>』・・・終戦直後に出版された本で、戦争末期においても上層部で政治闘争が続いていたことを明らかにした。ただし、この本を書いたことによってGHQから呼び出しを受けることとなる。(後書きを参照) : (山水社、1946年) : (中公文庫、1988年、2006年) ISBN 412204720X * 『日本軍閥暗闘史』 : (静和堂書店、1947年) : (中公文庫、1988年、2005年) ISBN 4122045630 * 『裁かれる歴史 <small>敗戦秘話</small>』 : (新風社、1948年) : (長崎出版、1985年) ISBN 4930695597 == 田中隆吉を演じた人物 == *[[佐藤慶]](『[[山河燃ゆ]]』) *[[島木譲二]](『[[プライド・運命の瞬間]]』) == 参考文献 == * [[粟屋憲太郎]] 編集・岡田良之助 翻訳『東京裁判資料・田中隆吉尋問調書』(大月書店、1994年) ISBN 4272520288 * 田中稔「東京裁判と父田中隆吉」 : 田中隆吉『敗因を衝く <small>軍閥専横の実相</small>』(中公文庫、2006年) p188~p209 * [[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]「『日本軍閥暗闘史』解説」 : 田中隆吉『日本軍閥暗闘史』(中公文庫、2005年) p175~p186 * [[保阪正康]]『戦後の肖像 <small>その栄光と挫折</small>』(中公文庫、2005年) ISBN 4122045576 : 裏切りの軍人という烙印…………田中隆吉 p325~p351 : 〔初出:「日本のユダ 田中隆吉の虚実」 『諸君!』1983年8月号〕 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%9A%86%E5%90%89 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月15日 (木) 16:39。]    
{{Infobox 軍人 |name=田中 隆吉 |lived=[[1893年]][[7月9日]] - [[1972年]][[6月5日]] |placeofbirth=[[島根県]][[安来市]] |placeofdeath= |image=[[Image:Tanaka Ryukichi.jpg|170px]] |caption=陸軍少将 田中隆吉 |nickname= |allegiance=大日本帝国陸軍 |serviceyears=[[1913年]] - [[1943年]] |rank=陸軍少将 |commands=[[第1軍 (日本軍)|第1軍]]参謀長 |unit= |battles=[[上海事変]]<br />[[張鼓峰事件]] |awards= |laterwork= }} '''田中 隆吉'''(たなか りゅうきち、[[1893年]]([[明治]]26年)[[7月9日]] - [[1972年]]([[昭和]]47年)[[6月5日]])は、[[陸軍少将]]。[[上海事変|第一次上海事変]](1932年)・[[綏遠事件]](1936年)において主導的役割を果たし、[[太平洋戦争]]開戦時の[[陸軍省]]兵務局長という要職にありながら、[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]において検事側の証人として被告に不利な証言もした。 田中は日本軍の数々の謀略に直接関与しており、日本軍の闇の部分に通じた人物であった。また、驚異的な記憶力の持ち主で、これらが東京裁判において発揮された。 == 略歴 == * [[1893年]](明治26年) - [[島根県]][[安来市]]の商家に生まれる。[[島根県立松江北高等学校|島根県立松江中学校]]へ進む。 * [[1907年]](明治40年) - [[陸軍幼年学校|陸軍広島地方幼年学校]]入学。 * [[1910年]](明治43年) - [[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]入学。 * [[1913年]]([[大正]]2年)3月 - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]砲兵科卒業(26期)。野砲兵第23連隊(岡山)に赴任。 * [[1914年]](大正3年) - [[少尉|陸軍砲兵少尉]]任官。 * [[1917年]](大正6年) - [[陸軍砲工学校]]卒業。 * [[1918年]](大正7年) - [[中尉|陸軍中尉]]任官。結婚。野砲兵第26連隊(朝鮮)に赴任。 * [[1919年]](大正8年) - [[陸軍大学校]]入学(34期生)。 * [[1922年]](大正11年) - 陸軍大学校卒業。野砲兵連隊に帰任。 * [[1923年]](大正12年) - [[大尉|陸軍大尉]]任官。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]に赴任。 * [[1924年]](大正13年) - [[参謀本部]]支那班に所属。この頃、[[大川周明]]と関係。 * [[1927年]](昭和2年)7月 - 参謀本部付・支那研究生として[[北京市|北京]]・[[張家口]]に駐在([[特務機関]]任務)。 * [[1929年]](昭和4年)8月 - [[少佐|陸軍砲兵少佐]]任官。参謀本部支那課兵要地誌班に異動。 * [[1930年]](昭和5年)10月 - 上海公使館附[[駐在武官|武官]]として[[上海市|上海]]に赴任。[[川島芳子]]と出会い、男女の仲になる。川島をスパイの道に引き入れる。 * [[1932年]](昭和7年) ** 1月 - [[上海事変]]。田中と川島は共謀し、上海事変を引き起こす謀略を実行する。 ** 8月 - 野砲兵第4連隊の大隊長に着任。 * [[1934年]](昭和9年)3月 - [[中佐|陸軍中佐]]任官。[[野戦重砲兵第1連隊]]付(市川、連隊長は[[下村定]])に着任。 * [[1935年]](昭和10年)3月 - [[関東軍]]参謀部第2課(情報課)兵要地誌班長(蒙古工作担当)の参謀として[[満州]]に赴任。 * [[1936年]](昭和11年)8月 - [[徳化特務機関]]長を兼務(~[[1937年]]1月)。対ソ戦略の一環として内蒙工作に従事。[[デムチュクドンロブ|徳王]]と連携して[[綏遠事件]]を起こす。 * [[1937年]](昭和12年)8月 - [[大佐|陸軍大佐]]任官。[[第19師団 (日本軍)|第19師団]](朝鮮)山砲兵第25連隊長に着任。 * [[1938年]](昭和13年)8月 - [[張鼓峰事件]]の戦闘に参加。 * [[1939年]](昭和14年)1月 - [[陸軍省]]兵務局兵務課長に着任。 * [[1940年]](昭和15年) ** 3月 - [[少将]]に昇進、[[第1軍 (日本軍)|第1軍]](中国)参謀長として[[閻錫山]]工作に従事。 **12月 - 陸軍省兵務局長。 * [[1941年]](昭和16年) ** 6月 - [[陸軍中野学校]]長を兼ねる。 ** 10月、兼職を免ぜられる。 * [[1942年]](昭和17年) ** 9月 - [[東部軍管区 (日本軍)|東部軍司令部]]付に異動。 **11月~12月 - 初老期憂鬱症状のため国府台陸軍病院に入院。 * [[1943年]](昭和18年)3月 - [[予備役]]編入。 * [[1945年]](昭和20年)3月 - 召集され[[羅津要塞]]司令官を任命されるが、[[阿南惟幾]]を通じて工作し、神経衰弱の再発を理由に召集解除。終戦後は、[[宇垣一成]]を担いで新政党を発足させようとするが、宇垣の[[公職追放]]のため失敗。 * [[1946年]](昭和21年) ** 1月 - 陸軍の内情を明かした『敗因を衝く』を刊行。これによって田中は東京裁判に巻き込まれる事となる。 ** 7月5日 - 国際検事団に出頭させられる。 * [[1948年]](昭和23年)11月 - 東京裁判終了。 * [[1949年]](昭和24年) - 戦時中から住んでいた山中湖畔に隠棲する。 ** [[9月15日]] - 短刀による自殺未遂。 * [[1972年]](昭和47年)[[6月5日]] - [[直腸癌]]のため死去。享年78。 == 川島芳子との関係 == [[1930年]](昭和5年)10月、田中は関東軍中佐として[[上海市|上海]]の公使館付武官として赴任した。そこで田中は[[川島芳子]]と知り合い、ほどなく男女の関係になる。そして川島の語学力や明晰な頭脳・行動力を利用し、謀略工作の世界に引き込んだ。 第1次上海事変は[[1932年]](昭和7年)1月に始まる。しかし、上海事変は関東軍の謀略で、その真相は戦後になって田中が自ら公表した。日本人僧侶襲撃以降の脚本を書いたのが田中で、川島が関東軍から渡された軍資金2万円を使って反日中国人を扇動し、日本人僧侶を襲わせた。 その後も、国民党軍のスパイ活動を川島に行わせていたが、小説『[[男装の麗人]]』などで川島の名が有名になると、逆に2人の仲は冷えていき、しばしば口論するようになったため田中と川島は別れることになった(その後も田中は川島にラブレターのような手紙を送っているので、完全にふっきれたのではないようである)。 == 東京裁判 == [[東京裁判]]において、田中は数人の軍人に責任を押し付け、[[昭和天皇の戦争責任]]を回避させるために検事側に協力した。しかし人間関係の不満により、旧陸軍の内部告発をしたとする批判もある。かつての上司である[[東條英機]]、[[木村兵太郎]]にとって不利となる証言を次々とした。そのため、田中に対して「裏切り者!」「日本のユダ!」という罵声を浴びせる者もいた。特に、7月6日の公判において、[[橋本欣五郎]]・[[板垣征四郎]]・[[南次郎]]・[[土肥原賢二]]・[[梅津美治郎]]などを名指しで証言した際には、[[鈴木貞一]]はその日の日誌に「田中隆吉証言。全ク売国的言動ナリ。精神状態ヲ疑ワザルヲ得ズ」と記し、板垣征四郎も日記に二重丸をつけて「◎人面、獣心ノ田中出テクル。売国的行動悪ミテモ尚余リアリ」と書き、[[重光葵]]はその時の心境を「証人が被告の席を指さして 犯人は彼と云ふも浅まし」と歌に詠んだ。 田中の行為に、天皇の免責と自らの責任回避のどちらの要素が多いかは論議が分かれるところであるが、次のようなエピソードがある。[[1947年]](昭和22年)の暮れ、[[木戸幸一]]担当の弁護士が、東條に対して「木戸に天皇のご意思にそむくような行いがあったかどうか」と質問をしたところ、東條は「いやしくも日本人たるもの、一人といえども陛下のご意思に反して行動するがごとき、不忠の臣はおりません。いわんや文官においてをや」と大見得を切ってしまった。 これを受けて、アメリカの新聞は「東条、天皇の戦争責任を証言」と書きたてた。これを受けてさらに、[[ソビエト連邦|ソ連]]の検事が正式に天皇追起訴を提言して[[ジョセフ・キーナン]]主席検事に迫った。キーナンと田中は、天皇は開戦の意図を持っていなかった、天皇には責任はないということを、いかにして東條に再度言明させるかを深夜まで協議をした。<!--どのようにして工作を行ったのかが書かれていないのですが…-->東條への工作は成功した。 [[1948年]](昭和23年)1月6日の午後の法廷において、東條に「2、3日前にこの法廷で日本臣民たるも者は何人たりとも天皇の命令に従わないと述べたことは、単に個人的な国民感情を述べたにすぎず、天皇の責任とは別の問題であり、大東亜戦争(太平洋戦争)に関しては、統帥部その他自分をふくめて責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが実情である」と発言させることに成功したのだった。これにより、この危機は救われた。 東京裁判の席上、田中隆吉が東條を指差し、東條を激怒させた。特に[[武藤章]]においては「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」という田中の証言により、死刑が確定したとも言われている。武藤は対米開戦には慎重派であった。田中は上海事変に関与しており、戦犯行為を行なっているので、検事側に協力しなければ起訴されていたという説もある。一説では、武藤が軍務局長の頃に、田中は武藤の地位を狙って策謀したが、未遂に終わって予備役に回された事から、武藤を逆恨みしていたと言われている。だが、田中には終戦間際中将への昇進の話があったが、自ら断ったというエピソードがある。裁判後、田中は武藤の幽霊が現れると言う[[精神錯乱]]に陥ったとも言われている。 しかし、元外務省主任分析官[[佐藤優 (外交官)|佐藤優]]は「田中の軍歴が示す通り、全てが計算された戦後における謀略であった」と指摘している。真に売国奴であるならば、戦後においても継続された陸軍中野学校の国土遊撃戦計画(泉工作)などをGHQに売り払うはずであり、A級戦犯に対する告発も「被害者」を「最小限」に食い止める為の一つの手段であったと、考えることもできる。また、田中の目的が、絶対に国体護持を念頭していたことも、中野学校の戦後潜伏活動の目的と一致している(中野戦士たちは、占領軍が国体を毀損した場合に、ゲリラ戦へ移行すると決定していた)。真の愛国者は売国奴の汚名も着るとの言葉を、田中は実際にやって見せたと考えられる。 戦後、田中に対し非公式ながら宮中から御下賜があり、田中は涙を流してこれを拝受したという。 == 田中自身の戦争責任感 == 他人に対して好悪の激しかった田中は、東京裁判で上司・同僚に不利な証言をしたというだけでなく、戦後期の著述でも様々な自説を論じている。そのため特に非難が集まりやすく、周囲の証言からだけでは田中隆吉の人物像というものが見えにくくなりがちである。だが、東京裁判の終了直後の[[1949年]](昭和24年)に田中が自殺未遂をした際の遺書には、下記の記述がある。 * 日本の[[軍閥]]の一員として[[大東亜戦争]]中に死すべき身を今日迄生き長らへたるは小生の素志に反し、何とも申し訳なし。 * 既往を顧みれば我も亦確かに有力なる戦犯の1人なり。殊に北支、[[満州]]においてしかり。免れて晏如たること能はず また、晩年は鬱病状態であった。 == 著作 == * 『敗因を衝く <small>軍閥専横の実相</small>』 : (山水社、1946年) : ([[中公文庫]]、1988年、2006年) ISBN 4-12-204720-X :: 終戦直後に出版された本で、戦争末期においても上層部で政治闘争が続いていたことを明らかにした。ただし、この本を書いたことによってGHQから呼び出しを受けることとなる(後書きを参照)。 * 『日本軍閥暗闘史』 : (静和堂書店、1947年) : (中公文庫、1988年、2005年) ISBN 4-12-204563-0 * 『裁かれる歴史 <small>敗戦秘話</small>』 : (新風社、1948年) : (長崎出版、1985年) ISBN 4-930695-59-7 == 参考文献 == * [[粟屋憲太郎]] 編\岡田良之助 訳『東京裁判資料・田中隆吉尋問調書』(大月書店、1994年) ISBN 4-272-52028-8 * 田中稔「東京裁判と父田中隆吉」 ** 田中隆吉『敗因を衝く <small>軍閥専横の実相</small>』(中公文庫、2006年) p188 - p209 * [[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]「『日本軍閥暗闘史』解説」 ** 田中隆吉『日本軍閥暗闘史』(中公文庫、2005年) p175 - p186。 * [[保阪正康]]『戦後の肖像 <small>その栄光と挫折</small>』(中公文庫、2005年) ISBN 4-12-204557-6 ** 「裏切りの軍人という烙印……田中隆吉」 p325 - p351 〔初出:「日本のユダ 田中隆吉の虚実」 『諸君!』1983年8月号〕 == 田中隆吉を演じた人物 == * [[佐藤慶]](『[[山河燃ゆ]]』、[[NHK大河ドラマ]]、1984年) * [[島木譲二]](『[[プライド・運命の瞬間]]』、[[東映]]、1998年) * [[吹越満]](『[[男装の麗人〜川島芳子の生涯〜]]』、[[テレビ朝日]]、2008年) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%9A%86%E5%90%89 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月8日 (月) 02:31。]    

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