東郷平八郎

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'''真岡郵便電信局事件'''('''まおかゆうびんでんしんきょくじけん'''、または'''真岡郵便局事件'''と呼ばれる。)とは[[1945年]][[8月20日]]、[[樺太庁|樺太]][[真岡郡]][[真岡町]]に、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]が[[艦砲|艦砲射撃]]を行って侵攻した際、真岡[[郵便局]][[電話交換手]](当時の郵便局では電信電話も管轄していた)の女性12名のうち9名が[[自殺]](自決)し3名が生還した事件。なお、電話交換手以外の局員や、この日、勤務に就いていなかった電話交換手に、自殺者はいない。電信課職員男性6名、女性2名、計8名も生還している。 == 事件の経緯 == 1945年[[8月16日]]、真岡郵便局の朝礼で残留交換手に関する説明がなされた。主事補の鈴木かずえは緊急疎開命令が出されて職場を離れる交換手が出ている現状を話し、仮にソビエト軍が上陸しても電話交換業務の移管が行われるまでは業務を遂行しなければならないと前置きし、残って交換業務を続けてもらえる人は、一度家族と相談した上で、返事を聞かせてほしい旨を説いた。鈴木の言葉に誰もが手を挙げ、声を出して残る意思を現した。これに対し鈴木は、本日は希望者を募らないとし、一度家族と相談の上で班長に伝えるよう指示。後日希望を聞くと告げた。最終的には、20名の電話交換手が残留した。<ref>川嶋康男「永訣の朝」</ref>  後年、[[川嶋康男]]が著書で残留要員選定を命じられたとする斎藤春子の証言を取り上げている。それによると斎藤は昭和20年のある日(具体的な日付は不明。また月も「一瞬の夏」では8月、「永訣の朝」では7月と記述が異なる)、上田局長に最低でも24,5人の残留要員を選考するように命じられたという。だが、その後残留交換手を募る目立った動きはなく、斎藤は立ち消えになったのかと思ったという。なお、斎藤は同時に残留組が24,5人となった後にも引き揚げの申し出を受けて自分が二人を残留組から外したとも証言している。また、そこからさらに斎藤自身が残留組から外れることとなる。斎藤は妹・美枝子とともに残留組に志願していたのだが、母親は上田局長に、娘二人を預けたままでは引き揚げられない、一人は連れて還りますと電話をかけた。18日に上田局長に呼び出された斎藤は電話の旨を知らされ、「美枝子さんと二人で相談してどちらか一人引揚げるようにしてください」と告げられたという。斎藤姉妹は互いに自分が残ると押し問答を繰り返したのち、姉である斎藤が諦め、引き揚げることとなった。<ref>川嶋康男「永訣の朝」</ref>  希望者がいない場合は責任番号(交換手の経験年数によって付けられる番号)順に残ってもらうと主事補から聞かされたとする証言(葛西節子)もある。しかし、最終的に決定した残留交換手20人は比較的経験年数の少ない10代の交換手が多くを占めていた(20人中10代が全部で何人だったかは不明だが、8月20日当時の高石班11人中6人が10代であり、上野班にも少なくとも1人10代の女子交換手(藤本照子・当時17歳)がいた。また、前述の斎藤春子は昭和8年入局の古参交換手であるが、前述の通り残留交換手が24,5人からさらに絞られた後に引き揚げ組に加わっている。<ref>川嶋康男「永訣の朝」</ref>  [[8月19日]]朝、非常体制が敷かれる。[[電話]]・[[電信]]業務は、昼夜を通して行われるため、通常3交代制であたっていたが、この時から非常勤務体制となった。電話交換手の夜間勤務は上野主事補を班長とする上野班と、高石主事補を班長とする高石班に分けられた。 8月19日午後7時過ぎ、電話交換手は夜勤体制になった。この夜、当直の電話交換手は高石班長以下11名の女性であり、この他に、電信課には、電信主事・平井茂蔵を筆頭に、職員7名の男女(男性5名、女性2名)が勤務していた。 8月20日、早朝。ソ連[[軍艦]]接近の報告が入ると、高石班長は郵便局長・上田豊蔵に緊急連絡したのを始め、局幹部に緊急連絡を行った。緊急連絡を受けた電話主事・菅原寅次郎は電話交換手・志賀晴代に出勤を求め、電話交換手は12名となった。非常事態に際し局員たちは郵便局へと向かったが、ソ連軍の攻撃は激しく、民間人に対しても見境のない攻撃が加えられた。電信受付の折笠雅子は郵便局へ向かう途中射殺され、避難した防空壕に手榴弾を投げ込まれて爆死した局員などもいた。<ref>金子俊男「樺太一九四五年夏 樺太終戦記録」P332</ref>上野班の交換手だった藤本照子も「決死隊の一員として、空襲の時はすぐ郵便局へ行くことになっていたのですが、ソ連兵がどんどん上陸し始め、実弾が飛びかい、とても無理でした」と語っている。<ref>創価学会婦人平和委員会編「平和への願いをこめて(11) 樺太・千島引き揚げ(北海道)編 フレップの島遠く」P91-96</ref> 上田局長も郵便局へと向かったが、栄町二、三丁目の十字街で避難民が背後から撃たれて山膚を転げ落ちるのを目の当たりにした。十字街には局長の他5,6人が釘付けされていたが、そのうち真岡署木村巡査部長が弾丸の中を駆け出し、局長の目の前で撃たれて倒れた。局長と由田与三吉は、巡査部長を家の陰に引きずり込もうとして路上に飛び出し、局長は左手に貫通銃創、由田は右足に盲管銃創を負った。局長は由田らと図り、若い男に棒の先に白布を縛り付けさせ、ソ連兵の目に触れるように振らせた。これにより、局長らは助かったものの、直ちに海岸の倉庫に連行された。<ref>金子俊男「樺太一九四五年夏 樺太終戦記録」</ref> 緊急連絡からおよそ1時間後、ソ連軍艦が真岡港に現われ、2艘の舟艇が上陸を試みる。([[ロシア]]側資料によれば、上陸開始時刻は午前7時33分である。)この時、[[日本軍]]憲兵隊から[[上陸艇]]に対して発砲。これをきっかけに、ソ連艦隊から艦砲射撃が始まった。なお、艦砲射撃に至った経緯ははっきりしていないが、ソ連側が先に空砲を撃ったという点では、概ね一致している。実弾をどちらが先に撃ったかについてはわからないとする証言、見解が多い。<ref>金子俊男「樺太一九四五年夏 樺太終戦記録」P285-286</ref><ref>谷川美津枝「女たちの太平洋戦争 北の戦場 樺太で戦った乙女たちの生と死」P161</ref><ref>川嶋康男「永訣の朝」P89</ref> この当時、真岡郵便局には平屋建ての本館と、2階建ての別館があった。電話交換業務は別館2階で行われていた。ソ連軍艦からの艦砲射撃が始まると、真岡郵便局内も被弾するようになり、電話交換手12名は、別館2階に女性のみが孤立することになった。 高石班長が[[青酸カリ]]で服毒自殺、続いて代務を務める可香谷が自殺。この後、1人また1人と合計7名が青酸カリ或いは[[モルヒネ]]で自殺した。この間、電話交換手は、泊居郵便局、豊原郵便局などに電話連絡している。  この後、伊藤は、既に7人が自殺し、自分も自殺することを泊居郵便局に連絡。更に、蘭泊郵便局へも同様の連絡をした。この時点では、伊藤のほか境、川島、松橋、岡田の4名が生存していた。伊藤は、続いて、[[内線電話]]で電信課へ自殺を連絡し、自ら服毒自殺。この時点で、松橋も自殺をしていたので、自殺者9名、生存者3名となった。急の知らせを受けた電信課男性職員は、2階電話交換室へ急行し、境、川島の2名を救出し本館へ移動させた。 一方、本館では、戦闘が始まり郵便局舎も被弾するようになると、被弾を恐れた女性達は、奥の押入れに隠れていた。境、川島救出後暫くしてソ連兵が現われると、被弾の恐れも無くなった。最初は男性局員のみが応対し、女性はそのまま隠れていたが、安全であると判断すると、救出された2名の電話交換手を含む4名の女性局員も姿を現した。金品の略奪はあったが、被弾することも陵辱されるようなことは無かった。その後、局員は港の倉庫へ移動した。電話交換手のもう一人の生き残りである岡田は、その後、港の倉庫に移った。 事件から10日以上経ってから遺体は仮埋葬され、12月に火葬・本葬が行われた。 <ref>参考文献『「九人の乙女」はなぜ死んだか(川嶋康男/著)』</ref><ref>参考文献『女たちの太平洋戦争 北の戦場樺太で戦った乙女たちの生と死(谷川美津枝/著)』P157~P177</ref><ref>参考文献『女交換手真岡に玉砕す(桜井千代子/著)』文藝春秋1967年9月号P242~P249</ref><ref>参考文献『千島占領(ボリス・スラヴィンスキー/著)』P72~P75</ref> == 事件後の真岡郵便局 == 事件から1ヶ月程経つと真岡の町も平静を取り戻し、[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]命令で郵便局も業務を再開した。局の各部署には元の局員が就業すると共に、[[ソビエト連邦|ソ連]]の局員も配置された。業務は先ず[[ロシア語]]を学ぶことから始められた。間もなくして、ロシア語による電話の取次ぎを日本人局員により行えるようになった。給与は日本時代よりも多かったが、ソ連人局員は更に高給だった。ソ連人が業務に慣れるにつれ、日本人局員はソ連人の部下として配属されるようになった。<ref>参考文献『樺太の郵便(山下精一/著)』P96~P97</ref> == 慰霊碑 == [[北海道]][[稚内市]]の[[稚内公園]]にある「殉職九人の乙女の碑([[九人の乙女の像]])」はこの事件を慰霊するものである。 当初、碑文には以下のように、自殺は[[軍]]の命令であると記されていた(…は省略)。 :昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は、青酸カリを渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に、日本軍の命ずるまま青酸カリをのみ、…<ref>参考文献『昭和史の天皇6(読売新聞社)昭和55年9月』P363</ref> その後、碑文は次のように、[[殉職]]であると書き換えられた(…は省略)。 :…その中で交換台に向った九人の乙女らは、死を以って己の職場を守った。…静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた… 自殺した9名は公務殉職として、[[1973年]](昭和48年)[[3月31日]]付け<!--昭和48年5月8日付け官報号外第60号掲載。叙勲は3月1日付けでなく3月31日付け。-->で[[勲八等]][[宝冠章]]を受勲した。また、[[靖国神社]]に合祀されている。 == ものかたり・映画・小説 == 昭和37年、[[北海タイムス]]に「樺太終戦ものかたり」が連載された。この事件を含め、終戦前後の樺太の事情を題材としている。「樺太終戦ものかたり」は1972年に増補改訂の上「樺太一九四五年夏―樺太終戦記録([[金子俊男]]/著 )」として出版された。 「樺太終戦ものかたり」に掲載された挿話を原作とし、脚色を施した上で[[映画]]「[[樺太1945年夏 氷雪の門]]」が[[1974年]]に製作された。ソ連による日ソ中立条約を破った宣戦布告、8月15日以降も続く侵攻、停戦軍使の射殺、民間人の逃避行、疎開開始後も留まった女子交換手たちとその自決といった主要ストーリーは概ね史実どおりだが、細部は脚色がなされている。映画は、配給会社である[[東宝]]の「営業政策の変更」により、上映直前になって配給が中止された。昭和54年、この映画のことを[[朝日新聞]]北海道版が「映画北の舞台」という特集で取り上げた。その紙面に[[村山三男]]監督は「上映問題での障害」が理由だったという手紙を寄せている。当時、[[タス通信]]が「ソ連国民とソ連軍を中傷する反ソ映画」と論評する状況下にあり、東宝側の詳しい説明もなかったという経緯を考えれば、関係者の間では「理由」ははっきりしていたという。<ref>川嶋康男「九人の乙女 一瞬の夏」P189</ref>その後、この作品は各地の[[公民館]]などで細々と自主上映され、2006年には[[靖国神社]][[遊就館]]にて特別上映された。 [[1980年]]に出版された「氷雪の門(松山善三/著)」は真岡郵便電信局事件に関連した[[小説]]であるが、この事件を直接扱ったものではない。 [[佐藤大輔]]の仮想シミュレーション小説「[[征途]]」では、この事件をモデルとした事件が描かれている。 [[2008年]][[8月25日]]に、『[[霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち]]』というタイトルで、[[日本テレビ]]がこの事件をドラマ化し、放送された。 == 参考文献 == *[[金子俊男]]『樺太一九四五年夏-[[樺太]]終戦記録-』(1974年4月28日第4刷) *[[川嶋康男]]『「九人の乙女」はなぜ死んだか』(1989年8月20日)ISBN 9784765290494 *[[川嶋康男]]文、大宮健嗣絵『死なないで!-一九四五年真岡郵便局「九人の乙女」』(農文協1995年6月発行)ISBN 978-4540950247 *[[谷川美津枝]]『女たちの太平洋戦争 北の戦場[[樺太]]で戦った乙女たちの生と死』(1995年9月10日発行)ISBN 9784769807308 *[[川嶋康男]]『九人の乙女一瞬の夏-「終戦悲話」樺太・真岡郵便局電話交換手の自決』(恒友出版1989年刊『「九人の乙女」はなぜ死んだか』の増補)(2003年4月発行)ISBN 4877990127 *日本電信電話株式会社広報部『電話100年小史』(1990年7月) <references/> == 関連事項 == *『[[樺太1945年夏 氷雪の門]]』(映画) *『[[霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち]]』(テレビドラマ) *[[樺太]] / [[真岡町]] / [[北方領土]] / [[宗谷岬]] / [[マサダ要塞]] *[[ソ連対日参戦]] *[[靖国神社]] *[[集団自決]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%9C%9F%E5%B2%A1%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E5%B1%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月22日 (土) 00:11。]     
{{Infobox 軍人 |name=東郷 平八郎 |lived=[[1847年]][[1月27日]]&ndash;[[1934年]][[5月30日]] |placeofbirth=[[薩摩国]][[鹿児島城]]下 |placeofdeath=[[東京市]] |image=[[Image:Tōgō Heihachirō.jpg|center|250px]] |caption=元帥海軍大将 東郷平八郎 |nickname=海の東郷<br />東洋のネルソン<br /><!-- 世界三大提督 --> |allegiance=[[大日本帝国海軍]] |serviceyears=[[1863年]]&ndash;[[1913年]] |rank=[[元帥 (日本)|元帥]][[海軍大将]] |commands=[[舞鶴鎮守府]]司令長官<br />[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]司令長官<br />[[連合艦隊司令長官]] |unit= |battles=[[薩英戦争]]<br />[[戊辰戦争]]<br />[[日清戦争]]<br />[[日露戦争]] |awards= [[従一位]]・[[大勲位]]・[[功一級]]<br />[[侯爵]] |laterwork=東宮御学問所総裁 |Mausoleum=[[東郷神社]] }} '''東郷 平八郎'''(とうごう へいはちろう、[[弘化]]4年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]([[1847年]][[1月27日]]) - [[昭和]]9年([[1934年]])[[5月30日]]は、[[日本]]の[[武士]]・[[薩摩藩]]士、[[大日本帝国海軍]][[軍人]]である。[[軍隊における階級呼称一覧|階級]][[位階]][[勲等]][[爵位]]は[[元帥_(日本)|元帥]][[海軍大将]]・[[従一位]]・[[菊花章|大勲位]]・[[金鵄勲章|功一級]]・[[侯爵]]。 [[明治時代]]の日本海軍の司令官として[[日清戦争|日清]]・[[日露戦争]]の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争においては、[[連合艦隊]]を率いて[[日本海海戦]]で当時屈指の戦力を誇った[[ロシア海軍|ロシアバルチック艦隊]]を一方的に破って世界の注目を集め、'''アドミラル・トーゴー'''(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の[[日英同盟|同盟]]国であった英国の[[ジャーナリスト]]らは東郷を「東洋の[[ホレーショ・ネルソン|ネルソン]]」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、『陸の乃木 海の東郷』と[[乃木希典]]陸軍大将と並び称され、日露戦争の英雄として国民の尊敬を集めた<ref>『日本の歴史 明治』より。</ref>。 == 生涯 == === 生い立ち === [[薩摩国]][[鹿児島城]]下の加冶屋町二本松馬場(下加治屋町方限)に、[[薩摩藩]]士・[[東郷実友]]と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。[[幼名]]は仲五郎、14歳の時[[元服]]して平八郎実良と名乗る。[[慶応]]3年([[1867年]]6月に分家して一家を興す。薩摩[[藩士]]として[[薩英戦争]]に従軍し、[[戊辰戦争]]では[[新潟]]・[[函館]]に転戦して[[阿波沖海戦]]や[[箱館戦争]]、[[宮古湾海戦]]で戦う。 === イギリス留学 === [[Image:Togo in Europe.jpg|200px|thumb|留学時の東郷(1877年)]] [[大政奉還]]、[[明治]]の世の中になると海軍士官として明治4年([[1871年]])から同11年([[1878年]])まで、イギリスの[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]に官費[[留学]]する。東郷は当初[[鉄道]]技師になることを希望していた。イギリスに官費留学する際、最初は[[大久保利通]]に「留学をさせてください」と頼み込んだが、大久保は「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」と言い断った。次いで[[西郷隆盛]]に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定した。東郷の才能を軍人にあると見込んだ西郷の人物眼の確かさをも物語るものであろう。 当初英国ダートマスの[[海軍兵学校 (イギリス)|王立海軍兵学校]]への留学を希望したが英国の事情で許されず、[[商船学校]]のウースター協会で学ぶことになる。留学先では「togo、china」とからかわれるなど苦労が多く、おしゃべりだった性格はすっかり無口になってしまったと言われている。しかし[[宮古湾海戦]]に参戦していたことを告げると、一躍英雄として扱われることとなった。この留学の間に[[国際法]]を学んだことによって、日清戦争時に防護巡洋艦[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]の[[艦長]]として停船の警告に応じない英国の商船(高陞号)を撃沈するにあたって、このことは国際法に違反しない行為であると正しく判断できたのだとされている。さらに、このときの沈着な判断力が、のちに連合艦隊司令長官に人選される要素となった。 帰国途上、西郷隆盛が[[西南戦争]]を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際、東郷の実兄である[[小倉壮九郎]]は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。 === 日清戦争 === 明治27年([[1894年]])の[[日清戦争]]では緒戦より「[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]」[[艦長]]を務め、[[豊島沖海戦]](イギリス船籍の[[高陞号撃沈事件]])、[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]、[[威海衛海戦]]で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に[[常備艦隊]]司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として[[澎湖島]]攻略戦に参加。 日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に[[佐世保鎮守府]]司令長官となり、明治34年([[1901年]])には新設の[[舞鶴鎮守府]]初代司令長官に就任した。これは後の対米戦備での位置づけから閑職であったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定してロシアの[[ウラジオストック]]軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。但し、東郷自身は中央への移動を希望していたようである。しかしながら日露開戦前の緊迫時期に海軍首脳の[[山本権兵衛]]に呼び戻され、明治36年([[1903年]])12月に[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]兼連合艦隊司令長官に就任する。本来は常備艦隊司令長官である[[日高壮之丞]]がそのまま就任するのが筋であったが、山本が我の強い日高を嫌って命令に忠実な東郷を据えたのだといわれる。しかし実際には、日高が健康問題を抱えており指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実戦経験豊富な東郷が至極順当に選ばれたというのが真相であった。 またこの時、[[明治天皇]]に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われている。 === 日露戦争 === [[画像:MIKASAPAINTING.jpg|250px|thumb|連合艦隊旗艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]の艦橋で指揮をとる東郷、1905年]] 明治37年([[1904年]])2月10日からの[[日露戦争]]では、旗艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]に座乗してロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃([[旅順港閉塞作戦]])や[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。 そして明治38年([[1905年]])[[5月27日]]、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきた[[ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー|ロジェストヴェンスキー]]提督率いるロシアの[[バルチック艦隊]](ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この[[日本海海戦]]に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し 」と[[秋山真之]]参謀が起草し[[大本営]]に一報を打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と[[Z旗]]を掲げて全軍の士気を鼓舞した<ref>晩年になってこの文言を、1932年の軍人勅諭奉戴五十周年記念放送において[[レコード]]に録音した。このことで肉声が残っている。</ref>。東郷は丁字戦法「トウゴウ・ターン」を使って海戦に勝利を納めた。 この海戦における勝利は、当時[[帝政ロシア|ロシア]]の圧力に苦しんでいた[[トルコ]]においても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は国民的英雄となった<ref>『学び、考える歴史』[[浜島書店]]</ref>。その年に同国で生まれた子供たちの中には、'''トーゴー'''と名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった<ref>『学び、考える歴史』[[浜島書店]]</ref>。 === 日露戦争後 === 日本海海戦での勝利により海軍大将に昇進する。日露戦争終了直後、訪問艦にてイギリスに渡洋、他の将校・乗組員とともに[[サッカー]](フットボールリーグ、[[ニューカッスル・ユナイテッド]]のホームゲーム)を観戦<ref>[[ニューカッスル・ユナイテッド]]、初期の黄金期の出来事である。[[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]]は[[造船所]]や兵器工廠、砲廠アームストロング社などがあり、日本にとって重要な取引先であり留学先でもあった。[[日本海海戦]]にもこの造船所で作られた戦艦が多数参加、主力艦を占めた。</ref>。 明治38年(1905年)から同42年([[1909年]])まで海軍軍令部長、[[東宮御学問所]]総裁を歴任。明治39年([[1906年]])、日露戦争の功により[[大勲位菊花大綬章]]と功一級[[金鵄勲章]]を授与される。明治40年([[1907年]])には[[伯爵]]を授爵。[[大正]]2年([[1913年]])4月には[[元帥_(日本)|元帥府]]に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年([[1926年]])に[[大勲位菊花章頸飾]]を受章。当時の頸飾受章者は皇太子[[昭和天皇|裕仁親王]]と[[閑院宮載仁親王]]だけだった。 また、[[タイム (雑誌)|タイム誌]]の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなった。 === 晩年 === [[Image:Togo&Tetsu.jpg|200px|thumb|妻テツと(1913年)]] [[末次信正]]、[[加藤寛治]]らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用し[[軍政]]に干渉した。昭和5年([[1930年]])の[[ロンドン海軍軍縮会議]]に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題はその典型であるが、その他に明治以来の懸案であった兵科と機関科の処遇格差の是正(一系問題。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても東郷は改革案に反対した。結局、この問題は終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。その他にも、第一種軍装を詰襟から[[イギリス|英国]]式のダブルに変更する案が出たが、「この服(詰襟を指す)で、日本海海戦に勝ちました」との東郷の一言で、変更の話は立ち消えになった。 壮年時代はよく遊び、[[料亭]]に数日間も居続けたり、[[鉄砲]]打ちに出かけたりしたが、晩年は質素倹約を旨とし、[[趣味]]といえば[[盆栽]]と[[碁]]を嗜む程度であった。自ら七輪を用いて、料理をすることもあったという。しかし新聞記者に対し妻が、新婚時代内職して家計を支えたエピソードを話すと、家族に経済的心配を掛けたことはないと激怒した。 === 死去 === 昭和9年([[1934年]])、88歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。死去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。[[6月5日]]に[[国葬]]が執り行われた。国葬の際には[[イギリス帝国]]海軍東洋艦隊旗艦の重巡洋艦ケント、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]海軍アジア艦隊旗艦のヒューストンや[[フランス]]、[[オランダ]]、[[イタリア]]、[[中国]]の艦船が直ちに[[東京湾]]を目指して出港。[[儀仗隊]]を葬列に参加させ、[[弔砲]]を定刻に発砲し、偉大な功績を称えた<ref>中国の軍艦寧海は国葬時刻に間に合わぬと判断し、儀仗隊を[[下関市|下関]]から列車で東京に向かわせ、自らは後日弔意を示した</ref>。 東郷の遺髪は[[英海軍]]の[[ホレーショ・ネルソン]]の遺髪と共に[[幹部候補生学校#海上自衛隊幹部候補生学校|海上自衛隊幹部候補生学校]]([[江田島基地|江田島]])に厳重に保管されている。 子孫には[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]40期生で少将になった息子の[[東郷実 (海軍軍人)|東郷実]]、その子で72期生の東郷良一(少尉で重巡洋艦[[摩耶]]に乗組み、[[比島沖海戦]]で戦死し2階級特進で大尉になった)、曾孫には[[防衛大学校]]卒の幹部[[海上自衛官]]がいる。係累の[[東郷良尚]]は[[日本ユニセフ協会]]の副会長である。 == 影響 == === 神格化 === [[画像:Togo_gensui_kinen_koen.jpg|thumb|right|250px|東郷元帥記念公園(東京都千代田区)]] 死後[[東京都]][[渋谷区]]と[[福岡県]][[宗像郡]][[津屋崎町]](現[[福津市]])に「[[東郷神社]]」が建立され[[神]]として祭られた。但し東郷自身は生前[[乃木神社]]建立の時、将来自身を祭る神社の設立計画を聞いて、止めて欲しいと強く懇願したが、結局神社は建立されている。また銅像が[[長崎県]][[佐世保市]]の旧海軍墓地[[東公園 (佐世保市)|東公園]]と[[鹿児島県]][[鹿児島市]]の多賀山公園にある。東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]には別荘地に建立された[[東郷寺]]があり、桜の名所である。 晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた。[[海軍省]]内では[[伏見宮博恭王]][[軍令部総長]]とともに「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障碍とみなされた。[[井上成美]]は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐したうえで、「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と語っている。また[[岡田啓介]]・[[米内光政]]・[[山本五十六]]なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。 錬度を上げることに熱心で[[聯合艦隊解散之辞|聯合艦隊解散の辞]]に「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」という言葉を残している。 [[昭和天皇]]は[[学習院]]時代、院長であった[[乃木希典]]については印象深く、尊敬もしていると述べているが、東宮御学問所総裁であった東郷については、後年、記者の質問に「何の印象もない」と答えている。 東郷元帥の名を冠した「東郷鋼(はがね)」という[[鉄鋼]]製品が作られていた事から、東郷元帥に反発する海軍内の佐官や将官の手で「東郷バカネ」という[[地口]]が作られ、流布したという。ただ実際は海外鋼輸入[[問屋]]河合鋼鉄のライバル流通が考え出した[[洒落]]という説もある。日本の産業界が当時、国産第一を標榜していた背景で考察する事も可能である<ref>参考、「たたらのはなし」日立金属HP</ref>。 === 東郷ビール伝説 === 「長年[[ロシア]]の圧迫を受けてきた北欧諸国では人気絶大で、[[フィンランド]]では東郷の肖像をラベルにした[[ビール]]が売られていた」といういわゆる「東郷ビール伝説」があるが、これは[[1970年]]から[[1992年]]まで製造され[[2003年]]に復刻版製造された「提督ビールシリーズ」の一つで、[[山本五十六]]、また日露戦争で東郷と戦ったロシアの[[ステパン・マカロフ]]、[[ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー]]両提督も同じシリーズのラベルになっており、フィンランドで特別に東郷平八郎が人気絶大といった事実はない。東郷のラベルのものは[[1971年]]製造開始された。なお現在日本で販売されている「東郷ビール」は、[[オランダ]]で製造されているプライベートビールに日本の会社がフィンランド「提督ビールシリーズ」で使われた東郷ラベルをつけているものである。 == 逸話 == 死後、私邸が[[東郷元帥記念公園]]として使用される。現在でも私邸に置かれていた獅子像などが残っている。 一般に寡黙、荘重という印象があるが時として軽忽な一面もみせた。晩年学習院に招かれた際、講演中に生徒に「将来は何になりたいか」と質問し「軍人になりたい」と答えた生徒に''「軍人になると死ぬぞ」 「なるなら[[大日本帝国陸軍|陸軍]]ではなく[[大日本帝国海軍|海軍]]に入れ。海軍なら死なないから」''と発言し、[[陸軍大将]]であった[[乃木希典]]院長を憮然とさせたというエピソードがある。 東郷は宮古湾海戦にて奮戦、戦死した[[甲賀源吾]]を軍人として尊敬していた。また、明治新政府によって逆賊として斬首に処せられた[[小栗忠順]]の名誉を後に回復している。[[日本海海戦]]でバルチック艦隊を破って後、山村で隠棲していた彼の遺族を私邸に招き、「日本海海戦で勝利を得たのは、(小栗上野介が生前に建造した)[[横須賀造船所]]で艦隊の十分な補給と整備を受けることができたからである」と故人の功績を称え、感謝の言葉を惜しまなかったという。 東郷の国葬に併せて米英両国から日本向けに追悼のメッセージが[[ラジオ]]で放送された。アメリカからは[[ウィリアム・スタンドレイ]][[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長]]のメッセージが[[NBC]]から、イギリスからは[[ボルトン・イヤーズ=モンセル]][[海軍省 (イギリス) |海軍大臣]]のメッセージが[[英国放送協会]]からそれぞれ放送されたが、アメリカからの放送では予定より早く終了したため、時間調整に日本の曲として『お江戸日本橋』『かっぽれ』という、おおよそ追悼に似つかわしくない音楽が放送されてしまうというハプニングが起こった。この模様が全国に生中継されてしまった日本国内では、アメリカ側の選曲を問題視する声が一部で出たという。 ワシントン軍縮条約の結果主力艦の保有比率が対米英6割と希望の7割より低く抑えられたことに憤激する将官達に向かって、「でも訓練には比率も制限もないでしょう」と諭したと言われる。(伊藤正徳著「連合艦隊の最後」) 日本海海戦時[[カール・ツァイス]]の[[双眼鏡]]を敵の沈没状況や降伏確認に使用した。この双眼鏡は5倍と10倍兼用で、発売されて間もない[[1904年]](明治37年)小西本店(現[[コニカミノルタホールディングス]])が輸入したもの。現在は三笠記念館に収蔵されている。 元国連事務総長の[[ブトロス・ガリ]]は日本に来ると必ず東郷神社に参拝した。[[エジプト]]出身であるガリは「小さい頃、ものすごく励まされた、心を解放された」と言っている。 水生昆虫の[[カワゲラ]]には[[トウゴウカワゲラ属]](''Togoperla'' )がある。これは、[[チェコ]]人昆虫学者Frant Klapálekが東郷平八郎にちなんで名づけたとされ、他にも[[オオヤマカワゲラ]]([[大山巌]])、[[ノギカワゲラ]]([[乃木希典]])、[[カミムラカワゲラ]]([[上村彦之丞]])と名づけられたカワゲラ属が存在する。 東郷が亡くなった1934年にはブラジルでカステロエス会社が東郷へのオマージュとして『Cigarros Guensui』という銘柄のタバコを販売した。宣伝には日本語で『聖将東郷元帥永久の思ひ出にシガーロス「元帥」を日本の皆様に捧ぐ』と書かれていた。 [[日本海海戦]]の際、旗艦[[三笠]]に掲げられた大将旗は1911年、英国国王[[ジョージ5世]]の戴冠式に[[明治天皇]]の名代、東伏見宮依仁親王に随行して出席した際、かつての留学先だった海員練習船「ウースター」校に寄贈されていた。日本側にこうした経緯を記した記録がなかったため、長らく所在不明となっていたが、2004年[[東郷神社]]の松橋暉男宮司が著書の執筆にあたり調査したところ、ウースター校の財産を引き継いでいる財団マリン・ソサエティーが、同時に寄贈された銀杯や東郷元帥の胸像とともに所蔵していることがわかった。神社側が来年の大祭の際に貸してもらうよう申し入れたところ、無償で永久貸与されることになった。 == 系譜 == * '''[[薩摩東郷氏|東郷氏]]''' [[桓武平氏]]渋谷氏流 <pre> 吉左衛門実友━┳実猗        ┣祐之進(夭折)         ┣小倉壮九郎        ┣平八郎━━━━┳彪━━┳一雄―=┳良夫━━┳良久━━┳龍太        ┗四郎左衛門実武┣實  ┣良子  ┣尚子  ┗平   ┗将平                ┗八千代┗百子  ┗宗子 </pre>       == 東郷を演じた俳優 == * [[田崎潤]] - 『[[明治天皇と日露大戦争]]』 * [[三船敏郎]] - 『[[日本海大海戦]]』・『[[日本海大海戦 海ゆかば]]』 * [[渡哲也]] - 『[[坂の上の雲]]』([[日本放送協会|NHK]]・21世紀スペシャル[[大河ドラマ]]) == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> == 参考文献 == * [[真木洋三]] 『東郷平八郎 (上・下)』 ISBN 4163084304 ISBN 4163084401 ISBN 416730502X ISBN 4167305038 * [[星亮一]] 『沈黙の提督―海将 東郷平八郎伝』 ISBN 4769809891 * [[生出寿]] 『海軍の父 山本権兵衛~日本を救った炯眼なる男の生涯』 ISBN 4769804504 ISBN 4769820542 * 『日本戦艦史』(『世界の艦船』増刊号)海人社、1988 * [[アレクセイ・ノビコフ=プリボイ|ノビコフ, プリボイ]] 『ツシマ―バルチック艦隊の壊滅 (上・下)』 ISBN 4562014768 ISBN 4562022515 ISBN 4562022523 * [[司馬遼太郎]] 『坂の上の雲』 ** 文春文庫(1999年版): 1 ISBN 4167105764、2 ISBN 4167105772、3 ISBN 4167105780、4 ISBN 4167105799、5 ISBN 4167105802、6 ISBN 4167105810、7 ISBN 4167105829、8 ISBN 4167105837 * [[吉村昭]] 『海の史劇』、新潮文庫、ISBN 4101117101 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月5日 (木) 14:30。]     

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