九カ国条約

「九カ国条約」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

九カ国条約」(2008/12/09 (火) 22:58:41) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

'''九カ国条約'''(きゅうかこくじょうやく)は、1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]に出席した9カ国、すなわち[[アメリカ合衆国]]・[[イギリス]]・[[オランダ]]・[[イタリア]]・[[フランス]]・[[ベルギー]]・[[ポルトガル]]・[[日本]]・[[中華人民共和国|中国]]間で締結された[[条約]]。 [[四カ国条約]]が、列強による日本牽制の意味が強いことに対し、こちらはアメリカの権威拡大を象徴し、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、中国権益の保護を図ったものである。 日本は、[[第一次世界大戦]]中に結んだ[[石井・ランシング協定]]を解消し、機会均等を体現する。また、この条約に基づき、中国と別途条約を結び、[[山東省]]権益の多くを返還した。 これ以後、国際社会は、[[ワシントン体制]]と呼ばれる、中国権益の侵害を忌む傾向に向かう。 == 日本とワシントン体制 == ワシントン体制とはワシントン会議で締結された九カ国条約、四カ国条約、[[ワシントン海軍軍縮条約]]を基礎とする、アジア・太平洋地域の国際秩序を維持する体制のことを言う。日本では、この体制を基盤とする外交姿勢を[[協調外交]](''[[幣原外交]]''参照)と呼び、代々[[立憲民政党]]内閣の外相[[幣原喜重郎]]らによって遵守されてきた。 しかし、[[蒋介石]]の[[北伐]]が開始されると、国内で協調外交に対する不満が大きくなり、とりわけ軍部は「協調外交」による外交政策を「弱腰外交」として強く批判した。そして、[[1931年]]の[[満州事変]]が九カ国条約で定められた中国の領土保全の原則に違反しているとして、はじめて非難された。それ以後もたびたび日本の行動は同条約違反と非難されたが、日本側は非難を受けるたびに本条約を遵守する声明を公表し続けた。しかし、[[1937年]][[7月7日]]に起きた[[盧溝橋事件]]にはじまる[[日中戦争]]でも不拡大方針を発表しているにもかかわらず、戦線が徐々に拡大していったので、[[1937年]][[11月]]に[[ブリュッセル]]で九カ国条約会議(ブリュッセル国際会議)を開催することになった。これを受けて、休戦を主張する[[石原莞爾]]らの協力もあり、[[第1次近衛内閣]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[広田弘毅]]は[[トラウトマン工作]]を開始した。しかし、日本側は会議への出席を拒否したことによって、本条約は事実上無効となった。<ref>満州事変が起きた時点で既に条約は無効となっていたとする説もある。</ref>これによって、ワシントン体制は崩壊する。<ref>ワシントン体制の一翼を担っていたワシントン海軍軍縮条約は[[1936年]][[12月]]に失効している。</ref>その後も、日本やその他加盟国も和平の道を探るも、[[1938年]][[1月16日]]には「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とする[[第一次近衛声明]]が発表され、和平への道は閉ざされた。更に、[[近衛文麿]][[内閣総理大臣]]は[[汪兆銘政権]]を樹立し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。こうして、[[日中戦争]]は泥沼化し、日本の国際的孤立が加速することとなる。 == 脚注 == <references /> {{脚注ヘルプ}} ==外部リンク== *[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/pw/19220206.T2J.html データベース「世界と日本」 - 中國に關する九國條約(九国条約、ワシントン条約)] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B9%9D%E3%82%AB%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月7日 (月) 00:53。]     
'''九カ国条約'''(きゅうかこくじょうやく、Nine-Power Treaty)は、[[1922年]]([[大正]]11年)の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]に出席した9カ国、すなわち[[アメリカ合衆国]]・[[イギリス]]・[[オランダ]]・[[イタリア]]・[[フランス]]・[[ベルギー]]・[[ポルトガル]]・[[日本]]・[[中華民国]]間で締結された[[条約]]。 [[四カ国条約]]が、列強による日本牽制の意味が強いことに対し、こちらはアメリカの権威拡大を象徴し、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、中国権益の保護を図ったものである。日本は、[[第一次世界大戦]]中に結んだ[[石井・ランシング協定]]を解消し、機会均等を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、[[山東省]]権益の多くを返還した([[山東懸案解決に関する条約|山東還付条約]])。 これ以後、国際社会は、[[ワシントン体制]]と呼ばれる、中国権益の侵害を忌む傾向に向かった。 == 日本とワシントン体制 == ワシントン体制とはワシントン会議で締結された九カ国条約、[[四カ国条約]]、[[ワシントン海軍軍縮条約]]を基礎とする、アジア・太平洋地域の国際秩序を維持する体制のことを言う。日本では、この体制を基盤とする外交姿勢を協調外交(''[[幣原外交]]''参照)と呼び、代々[[立憲民政党]]内閣の外相[[幣原喜重郎]]らによって遵守されてきた。 しかし、[[蒋介石]]の[[北伐]]が開始されると、国内で協調外交に対する不満が大きくなり、とりわけ軍部は「協調外交」による外交政策を「弱腰外交」として強く批判した。そして、[[1931年]]([[昭和]]6年)の[[満州事変]]は九カ国条約で定められた中国の領土保全の原則に違反しているとして、各国から非難を受けた。それ以後もたびたび日本の行動は同条約違反と非難されたが、日本側は非難を受けるたびに本条約を遵守する声明を公表し続けた。 しかし、[[1937年]](昭和12年)[[7月7日]]に起きた[[盧溝橋事件]]にはじまる[[日中戦争]]([[支那事変]])でも不拡大方針を発表しているにもかかわらず、戦線が徐々に拡大していったので、日中和平を仲介すべく、[[1937年]][[11月]]に[[ブリュッセル]]で九カ国条約会議(ブリュッセル国際会議)の開催が急遽決定された。これを受けて、休戦を主張する[[石原莞爾]]らの協力もあり、[[第1次近衛内閣]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[広田弘毅]]は[[トラウトマン工作]]を開始した。 しかし、日本側はこの会議への出席を拒否。これにより本条約は事実上無効となり<ref>満州事変が起きた時点で既に条約は無効となっていたとする説もある。</ref>、ワシントン体制は名実ともに崩壊した<ref>ワシントン体制の一翼を担っていたワシントン海軍軍縮条約は[[1936年]](昭和11年)[[12月]]に失効している。</ref>。 その後も、日本やその他加盟国も和平の道を探るも、[[1938年]](昭和13年)[[1月16日]]には「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とする[[第一次近衛声明]]が発表され、和平への道は閉ざされた。 更に、[[近衛文麿]][[内閣総理大臣]]は[[汪兆銘政権]]を樹立し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。こうして、[[日中戦争]]は泥沼化し、日本の国際的孤立が加速することとなる。 == 脚注 == <references /> {{脚注ヘルプ}} == 関連項目 == *[[山東懸案解決に関する条約]] *[[門戸開放政策]] ==外部リンク== *[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/pw/19220206.T2J.html データベース「世界と日本」 - 中國に關する九國條約(九国条約、ワシントン条約)] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B9%9D%E3%82%AB%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月1日 (月) 16:31。]     

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。