風船爆弾

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[[Image:Japanese fire balloon moffet.jpg|thumb|240px|風船爆弾]] [[Image:Japanese fire balloon shotdown gun.jpg|240px|thumb|[[アッツ島]]近辺で撃墜される風船爆弾(ガンカメラによるもの)]] '''風船爆弾'''(ふうせんばくだん)とは、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])において[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]が用いた[[兵器]]である。「ふ号兵器」という秘匿名称で呼ばれていた。 効果こそ僅少でほぼ無誘導であったものの、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器となった。 == 概要 == 風船爆弾は、和紙で作られた気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカを攻撃しようとする兵器である。[[神奈川県]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[登戸研究所]]で開発された。[[満州事変]]後の昭和8年([[1933年]])頃から[[関東軍]]、陸軍によって[[研究]]され、昭和19年([[1944年]])から実用化した。当初は海軍もゴム引き絹製の気球を用いた対米攻撃を研究していたが、海軍の計画は途中で放棄され、機材と資料は陸軍に引き渡された。海軍式のゴム引き気球も少数実戦に使用されている。 当時、[[日本]]の[[高層気象台]](現・[[つくば市]])の台長だった[[大石和三郎]]らに発見されていた[[ジェット気流]]([[偏西風]]の流れ)を利用<ref>発射地点は割り出せたものの、アメリカは当時ジェット気流の存在を知らなかったため、どうやって気球を日本からアメリカまで到達させたのかはわからなかった。</ref>し、[[爆弾]]を[[気球]]に乗せ、日本本土から直接[[アメリカ本土空襲]]を行うもので、[[千葉県]]一ノ宮・[[茨城県]]大津・[[福島県]]勿来の各海岸から放球された。 気球の直径は約10m、総重量は200kg。兵装は15Kg爆弾一発と5kg焼夷弾2発である。兵装には少数ながらバリエーションがあり、爆弾を二発としたものや焼夷弾の性能を上げたものも発射された。また、爆弾の代わりに兵士2-3名を搭乗させる研究も行われた。昭和19年冬から20年春まで攻撃が実行されたが、戦況の悪化など<ref>偏西風が変わる夏から秋は攻撃不能であること、アメリカの報道管制により戦果が確認できなかったこと、搭載爆弾が少なく威力過少であるという批判、京浜工業地帯の空襲被害で水素製造が困難となったこと、食料事情の悪化、発射基地が米空母艦載機の空襲にさらされるようになったこと、などが理由である。</ref>の理由により、昭和20年冬の攻撃は計画されなかった。<ref>風船爆弾の作戦終了後、余剰の和紙から海軍の本土決戦用防毒衣がつくられた。これは江戸時代の紙製雨合羽を国防色に染めたものであった。</ref> 生産個数はおよそ1万発。このうち9300発が放球された。[[アメリカ合衆国]]で確認されたのは277発であるが、未確認のものもあるため実数は不明である。1000発程度が到達したとする推計もある。アメリカ軍はレーダーを駆使して発見につとめたが、すべてを確認することはできなかった。風船爆弾が発見されると安全地帯上空で迎撃が試みられた。風船爆弾を撃墜するアメリカ軍戦闘機のガンカメラ映像がある(画像参照)。終戦時に残存していた700発は焼却処分された。 兵器の現物は国内に残存しないが、[[江戸東京博物館]]に5分の1模型があり、[[埼玉県平和資料館]]<ref>製造に埼玉県小川町の和紙が使われた関係で展示されているようである。</ref>に7分の1模型が展示されている。 == 製造 == 材質は[[和紙]]と[[コンニャク]]糊<ref>風船爆弾の材料としてコンニャク芋が軍需品となったため、[[おでん]]のネタからコンニャクがなくなったという。</ref>で、薄い和紙を5層にコンニャク糊で貼り合わせ、乾燥させた後に、風船の表面に[[水酸化ナトリウム|苛性ソーダ]]液<ref>コンニャクを固めるのに通常は炭酸カルシウムを用いるが、カルシウムは水にとけないため和紙の表面に穴が開く。風船爆弾製造では気密性を保つために水酸化ナトリウムが用いられた。作業に動員された女学生の指紋が消えたのは水酸化ナトリウムの作用である。</ref>を塗ってコンニャク糊を強化し直径10mほどの和紙製の風船を作成<ref>気球を調査したアメリカ軍は、それが紙製であることはすぐに突きとめたものの、紙を張り合わせている接着剤を特定することはできなかった。</ref>。[[水素]]<ref>水素ガスは横浜、川崎の昭和電工で製造され、ボンベで輸送された。</ref>を充填した。 無誘導の兵器であったが、自動的に高度を維持する装置は必須であった。これにはアネロイド気圧計の原理を応用した高度保持装置が考案された。発射されると気球からは徐々に水素ガスが抜け、気球の高度は低下する。高度が低下すると気圧の変化で「空盒」と呼ばれる部品が縮み電熱線に電流が流される。バラスト嚢<ref>アメリカ軍はこの[[バラスト]][[砂]]から製造地及び発射地点を割り出して[[空襲]]の目標としていた。</ref>を吊している麻紐が焼き切られると、気球は軽くなりふたたび高度を上げた。これを50時間、約二昼夜くり返して落下するしくみであった。 当時、東京[[有楽町]]に存在した[[日本劇場]](日劇、現在跡地は商業ビル「マリオン」となっている)でも製作されたという話はよく知られている。これは気球を天井から吊り下げて行う満球テスト(水素ガスを注入して漏洩を検査する)のために天井が高い建物が必要とされたためで、日劇の他、東京では[[東京宝塚劇場]]、有楽座、浅草国際劇場、[[両国国技館]]などでも製作が行われた。作業にあたったのは動員された女子学生であった。紙の扱いによって[[指紋]]が消えたという<ref>このほか、製造の行程で使われたウルシかぶれも深刻であったという。</ref>がエピソードが残されている。製造中の事故により6名の死者を出している。 == 部隊編制 == 千葉の[[気球連隊]]が母体となり『ふ』号作戦気球部隊が編制された。 昭和19年9月編成。連隊長:井上茂大佐。連隊本部:茨城県大津。総員:約2千名。 連隊本部のほか、通信隊、気象隊、材料廠を持ち、放球3個大隊で編制された。 第1大隊(3個中隊)茨城県大津(現在の[[北茨城市]]五浦海岸一帯) 第2大隊(2個中隊)千葉県一宮<ref>昭和20年2月以降、頻繁にアメリカ空母艦載機の攻撃を受けるようになり放棄された。人員と機材は第1大隊に合流した。</ref> 第3大隊(2個中隊)福島県勿来 1個中隊は2個小隊で構成され、1個小隊は3個発射分隊(発射台各1)を持つ。 中隊人員:将校12-13名、下士官22-23名、兵約190名。大隊には水素ガスの充填、焼夷弾・爆弾等の運搬・装備を担当する段列中隊1個があった。 千葉県一宮には試射隊が置かれた。試射隊はラジオゾンデ装備の観測気球を放球し気象条件を探った。ほかに気球の行方を追う標定隊があり、宮城県岩沼に本部を置いた。実際の評定所は青森県古間木、宮城県岩沼、千葉県一宮の三カ所に設置されたが、これでは不足であったのか、後に樺太標定所が設置された。 == 戦果 == 攻撃開始日は、昭和19年11月3日未明。3カ所の基地から同時に放球された。この日が選ばれたのは、天長節であったことと、統計的に晴れの日が多いとされたためであったが、実際には土砂降りの雨だったそうである。 風船爆弾によるアメリカ側の人的被害はほとんどなかった。すでに作戦が終了していた昭和20年5月5日、[[オレゴン州]]で不発弾に触れた民間人が爆死した例がある。このときは、ピクニック中の女性1人と子供5人が爆死した。アメリカ国民は報道管制のため風船爆弾の存在を知らず、危険を察知できなかったために起こった事件である。これは[[第二次世界大戦]]中にアメリカ本土で日本軍の攻撃により死者がでた唯一の事例とされる。 また、[[プルトニウム]]製造工場(ハンフォード工場、[[ワシントン州]]リッチランド)の送電線に引っかかり短い停電を引き起こした。これが[[原爆]]の製造を3日間遅らせたという説が伝えられているが、実際には工場は予備電源で運転されており、原爆の完成にほとんど影響はなかったという<ref>[http://www.hanford.gov/doe/history/docs/rl-97-1047/c2_s8.pdf History of the Plutonium Production Facilities at the Hanford Site Historic District, 1943-1990]</ref>。焼夷弾は小規模な山火事を起こしたが、特筆される大きな戦果をあげた記録はない。 しかしながら、風船爆弾による心理的効果は大きなものがあった。アメリカ陸軍は、風船爆弾が[[生物兵器]]を搭載することを危惧していた。着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用している。また、少人数の日本兵が風船に乗って米本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。風船爆弾対策のため、アメリカは大きな努力を強いられた。一方でアメリカは厳重な報道管制をしいて風船爆弾による被害を隠蔽した。これはアメリカ側の戦意維持のためと、日本側が戦果を確認できないようにするためであった。この報道管制は徹底したもので、戦争が終わるまで日本側では風船爆弾の効果はまったくわからなかった。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[五浦海岸]] * [[アメリカ本土空襲]] * [[気球連隊]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月4日 (日) 04:45。]     
[[Image:Japanese fire balloon moffet.jpg|thumb|240px|風船爆弾]] [[Image:Japanese fire balloon shotdown gun.jpg|240px|thumb|[[アッツ島]]近辺で撃墜される風船爆弾([[ガンカメラ]]によるもの)]] '''風船爆弾'''(ふうせんばくだん)とは、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])に於いて[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]が用いた[[兵器]]である。「ふ号兵器」という秘匿名称で呼ばれていた。効果こそ僅少でほぼ無誘導であったものの、[[第二次世界大戦]]で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器となった。 == 概要 == 風船爆弾は、和紙で作られた気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカを攻撃しようとする兵器である。[[神奈川県]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[登戸研究所]]で開発された。[[満州事変]]後の昭和8年([[1933年]])頃から[[関東軍]]、陸軍によって[[研究]]され、昭和19年([[1944年]])から実用化した。当初は海軍もゴム引き絹製の気球を用いた対米攻撃を研究していたが、海軍の計画は途中で放棄され、機材と資料は陸軍に引き渡された。海軍式のゴム引き気球も少数実戦に使用されている。 当時、[[日本]]の[[高層気象台]](現・[[つくば市]])の台長だった[[大石和三郎]]らに発見されていた[[ジェット気流]]([[偏西風]]の流れ)を利用<ref>発射地点は割り出せたものの、アメリカは当時ジェット気流の存在を知らなかったため、どうやって気球を日本からアメリカまで到達させたのかはわからなかった。</ref>し、[[爆弾]]を[[気球]]に乗せ、日本本土から直接[[アメリカ本土空襲]]を行うもので、[[千葉県]]一ノ宮・[[茨城県]]大津・[[福島県]]勿来の各海岸から放球された。 気球の直径は約10m、総重量は200kg。兵装は15kg爆弾一発と5kg焼夷弾2発である。兵装には少数ながらバリエーションがあり、爆弾を二発としたものや焼夷弾の性能を上げたものも発射された。また、爆弾の代わりに兵士2-3名を搭乗させる研究も行われた。昭和19年冬から20年春まで攻撃が実行されたが、戦況の悪化など<ref>偏西風が変わる夏から秋は攻撃不能であること、アメリカの報道管制により戦果が確認できなかったこと、搭載爆弾が少なく威力過少であるという批判、京浜工業地帯の空襲被害で水素製造が困難となったこと、食料事情の悪化、発射基地が米空母艦載機の空襲にさらされるようになったこと、などが理由である。</ref>の理由により、昭和20年冬の攻撃は計画されなかった<ref>風船爆弾の作戦終了後、余剰の和紙から海軍の本土決戦用防毒衣がつくられた。これは江戸時代の紙製雨合羽を国防色に染めたものであった。</ref>。 生産個数はおよそ1万発。このうち9300発が放球された。[[アメリカ合衆国]]で確認されたのは361発であるが、未確認のものもあるため実数は不明である。1000発程度が到達したとする推計もある。アメリカ軍はレーダーを駆使して発見につとめたが、すべてを確認することはできなかった。風船爆弾が発見されると安全地帯上空で迎撃が試みられた。風船爆弾を撃墜するアメリカ軍戦闘機のガンカメラ映像がある(画像参照)。終戦時に残存していた700発は焼却処分された。 兵器の現物は国内に残存しないが、[[江戸東京博物館]]に5分の1模型があり、[[埼玉県平和資料館]]<ref>製造に埼玉県小川町の和紙が使われた関係で展示されているようである。</ref>に7分の1模型が展示されている。 == 製造 == 材質は[[楮]]製の[[和紙]]と[[コンニャク]]糊<ref>風船爆弾の材料としてコンニャク芋が軍需品となったため、[[おでん]]のネタからコンニャクがなくなったという。</ref>で、薄い和紙を5層にコンニャク糊で貼り合わせ、乾燥させた後に、風船の表面に[[水酸化ナトリウム|苛性ソーダ]]液<ref>コンニャクを固めるのに通常は炭酸カルシウムを用いるが、カルシウムは水にとけないため和紙の表面に穴が開く。風船爆弾製造では気密性を保つために水酸化ナトリウムが用いられた。作業に動員された女学生の指紋が消えたのは水酸化ナトリウムの作用である。</ref>を塗ってコンニャク糊を強化し直径10mほどの和紙製の風船を作成<ref>気球を調査したアメリカ軍は、それが紙製であることはすぐに突きとめたものの、紙を張り合わせている接着剤を特定することはできなかった。</ref>。[[水素]]<ref>水素ガスは横浜、川崎の昭和電工で製造され、ボンベで輸送された。</ref>を充填した。 無誘導の兵器であったが、自動的に高度を維持する装置は必須であった。これにはアネロイド気圧計の原理を応用した高度保持装置が考案された。発射されると気球からは徐々に水素ガスが抜け、気球の高度は低下する。高度が低下すると気圧の変化で「空盒」と呼ばれる部品が縮み電熱線に電流が流される。バラスト嚢<ref>アメリカ軍はこの[[バラスト]][[砂]]から製造地及び発射地点を割り出して[[空襲]]の目標としていた。</ref>を吊している麻紐が焼き切られると、気球は軽くなりふたたび高度を上げた。これを50時間、約二昼夜くり返して落下するしくみであった。 当時、東京[[有楽町]]に存在した[[日本劇場]](日劇、現在跡地は商業ビル「マリオン」となっている)でも製作されたという話はよく知られている。これは気球を天井から吊り下げて行う満球テスト(水素ガスを注入して漏洩を検査する)のために天井が高い建物が必要とされたためで、日劇の他、東京では[[東京宝塚劇場]]、有楽座、浅草国際劇場、[[両国国技館]]などでも製作が行われた。作業にあたったのは動員された女子学生であった。紙の扱いによって[[指紋]]が消えたという<ref>このほか、製造の行程で使われたウルシかぶれも深刻であったという。</ref>エピソードが残されている。製造中の事故により6名の死者を出している。 == 部隊編制 == 千葉の[[気球連隊]]が母体となり『ふ』号作戦気球部隊が編制された。 昭和19年9月編成。連隊長:井上茂大佐。連隊本部:茨城県大津。総員:約2千名。 連隊本部のほか、通信隊、気象隊、材料廠を持ち、放球3個大隊で編制された。 第1大隊(3個中隊)茨城県大津(現在の[[北茨城市]]五浦海岸一帯) 第2大隊(2個中隊)千葉県一宮<ref>昭和20年2月以降、頻繁にアメリカ空母艦載機の攻撃を受けるようになり放棄された。人員と機材は第1大隊に合流した。</ref> 第3大隊(2個中隊)福島県勿来 1個中隊は2個小隊で構成され、1個小隊は3個発射分隊(発射台各1)を持つ。 中隊人員:将校12-13名、下士官22-23名、兵約190名。大隊には水素ガスの充填、焼夷弾・爆弾等の運搬・装備を担当する段列中隊1個があった。 千葉県一宮には試射隊が置かれた。試射隊はラジオゾンデ装備の観測気球を放球し気象条件を探った。ほかに気球の行方を追う標定隊があり、宮城県岩沼に本部を置いた。実際の標定所は青森県古間木、宮城県岩沼、千葉県一宮の3カ所に設置されたが、これでは不足であったのか、後に樺太標定所が設置された。 == 戦果 == 攻撃開始日は、昭和19年11月3日未明。3カ所の基地から同時に放球された。この日が選ばれたのは、天長節であったことと、統計的に晴れの日が多いとされたためであったが、実際には土砂降りの雨だったそうである。 風船爆弾によるアメリカ側の人的被害はほとんどなかった。すでに作戦が終了していた1945年5月5日、[[オレゴン州]]で不発弾に触れた民間人が爆死した例がある。この時は、ピクニック中の6人(女性1人と子供5人)が爆死した。アメリカ国民は報道管制のため風船爆弾の存在を知らず、危険を察知できなかったために起こった事件である。これは[[第二次世界大戦]]中にアメリカ本土で日本軍の攻撃により死者がでた唯一の事例とされる。 また、[[プルトニウム]]製造工場(ハンフォード工場、[[ワシントン州]]リッチランド)の送電線に引っかかり短い停電を引き起こした。これが[[原爆]]の製造を3日間遅らせたという説が伝えられているが、実際には工場は予備電源で運転されており、原爆の完成にほとんど影響はなかったという<ref>[http://www.hanford.gov/doe/history/docs/rl-97-1047/c2_s8.pdf History of the Plutonium Production Facilities at the Hanford Site Historic District, 1943-1990]</ref>。焼夷弾は小規模な山火事を起こしたが、冬の山林は当然積雪で覆われていて火が燃え広がりづらく、特筆される大きな戦果をあげた記録はない。 しかしながら、風船爆弾による心理的効果は大きなものがあった。アメリカ陸軍は、風船爆弾が[[生物兵器]]を搭載することを危惧していた。着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用している({{要出典範囲|実際[[生物兵器]]を搭載される案があったが、[[昭和天皇]]の反対により搭載される事はなかった}})。また、少人数の日本兵が風船に乗って米本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。風船爆弾対策のため、アメリカは大きな努力を強いられた。一方でアメリカは厳重な報道管制をしいて風船爆弾による被害を隠蔽した。これはアメリカ側の戦意維持のためと、日本側が戦果を確認できないようにするためであった。この報道管制は徹底したもので、戦争が終わるまで日本側では風船爆弾の効果はまったくわからなかった。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * 吉野興一『風船爆弾-純国産兵器「ふ号」の記録』朝日新聞社、2000年 ISBN 4022575425 == 関連項目 == * [[五浦海岸]] * [[アメリカ本土空襲]] * [[気球連隊]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月19日 (木) 08:38。]     

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