大成会

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{{Battlebox| battle_name=独ソ戦| campaign=XXXX |colour_scheme=background:#ffccaa | image=[[Image:Red army soldiers raising the soviet flag on the roof of the reichstag berlin germany.jpg|300px]] | campaign=第二次大戦東部戦線 | caption=<small>ベルリンを占領したソ連軍</small> | conflict=[[第二次世界大戦]] | date=1941年6月22日から1945年5月8日 | place=主に[[ソビエト連邦|ソ連]]西部・ドイツ東部 | result=ソ連軍の勝利 | combatant1=[[Image:Flag of Germany 1933.svg|20px]] '''[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]'''<br /> [[Image:Flag of Italy (1861-1946).svg|20px]][[イタリア王国|イタリア]]<br />[[Image:Flag_of_Romania.png|20px]] [[ルーマニア]]<br />[[Image:Flag of Finland (bordered).svg|20px]] [[フィンランド共和国|フィンランド]]<br />[[Image:Flag of Hungary 1940.svg|20px]] [[ハンガリー共和国|ハンガリー]]<br />[[Image:1stslovakia flag large.svg|20px]] [[独立スロバキア|スロバキア]]<br />[[Image:Flag of Croatia Ustasa.svg|20px]][[クロアチア独立国|クロアチア]]<br />[[Image:Bg-1913.gif|20px]] [[ブルガリア]]| combatant2=[[Image:Flag of the Soviet Union.svg|20px]]<b>ソ連</b><br />[[Image:Flag of Poland.svg|20px]] [[ポーランド共和国|ポーランド]]<br />[[Image:Flag of SFR Yugoslavia.svg|20px]][[ユーゴスラビア]]<br />[[Image:Flag_of_Romania.png|20px]] [[ルーマニア]](1944)<br />[[Image:Bg-1913.gif|20px]] [[ブルガリア]](1944) | commander1=[[Image:Flag of Germany 1933.svg|20px]][[アドルフ・ヒトラー]]<br /> [[Image:Flag of Italy (1861-1946).svg|20px]][[ベニート・ムッソリーニ]]<br />[[Image:Flag_of_Romania.png|20px]] [[イオン・アントネスク]]<br />[[Image:Flag of Finland (bordered).svg|20px]][[リスト・リュティ]]<br />[[Image:Flag of Hungary 1940.svg|20px]][[ホルティ・ミクローシュ]]<br />[[Image:1stslovakia flag large.svg|20px]] [[ヨゼフ・ティソ]]<br />[[Image:Flag of Croatia Ustasa.svg|20px]] [[アンテ・パベリッチ]]<br />[[Image:Bg-1913.gif|20px]] [[ドブリ・ボジノフ]] | commander2=[[Image:Flag of the Soviet Union.svg|20px]][[ヨシフ・スターリン]]<br />[[Image:Flag of Poland.svg|20px]][[エドヴァルト・オスプカ=モラフスキ]]<br />[[Image:Flag of SFR Yugoslavia.svg|20px]][[ヨシップ・ブロズ・チトー]]<br />[[Image:Flag_of_Romania.png|20px]] [[コンスタンチン・サナテスク]](1944)<br />[[Image:Bg-1913.gif|20px]] [[キモン・ゲオルギエフ]](1944) |strength1=不明 |strength2=不明 | casualties1=死者 400~600万人<br />(諸説あり)<br />| casualties2=死者 1500~2000万人<br />(諸説あり)<br /> |}} '''独ソ戦'''(どくそせん)または'''独ソ戦争'''(どくそせんそう)は、[[第二次世界大戦]]中の[[1941年]]から[[1945年]]にかけて[[ナチス・ドイツ]]を中心とする枢軸各国と[[ソビエト連邦]]との間で戦われた[[戦争]]を指す。1941年6月22日に[[ドイツ国防軍]]がソビエト連邦に侵入した。当時のソ連は国民を鼓舞するためにナポレオンに勝利した'''[[1812年ロシア戦役|祖国戦争]]'''に擬えて'''大祖国戦争'''('''{{lang|ru|Великая Отечественная Война}}'''<small>ヴィリーカヤ・アチェーチェストヴィェンナヤ・ヴァイナー</small>)と呼称した。 == 概説 == [[独ソ不可侵条約|モロトフ=リッベントロップ協定]]いわゆる'''独ソ不可侵条約'''の成立が世界を驚かせたことからもわかるように、それまでの両国は不倶戴天の状態であった。共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつもやはり世界の孤児であり、[[ナチス・ドイツ]]は反共の急先鋒であったからだ。欧州を巡る混乱の中、孤立と疑心暗鬼の中にいたソビエトは、イギリス・フランスの煮え切らない態度に対してドイツと手を握ることにした。 ドイツがポーランドと戦争を始めるとソ連は、モロトフ=リッベントロップ協定の秘密議定書に基づき[[緩衝地帯]]の分割を進めた。1939年9月の[[ポーランド分割]]によって、ナチス・ドイツとソ連は緩衝地帯を自らの手で消滅させた。国境を接した両列強の戦争は時間の問題であり、ヒトラーは<!--、ソ連との戦争は時間の問題であり-->[[ヨシフ・スターリン]]がドイツに対する戦争準備をしていると考えていた。 また、当時[[イギリス]]はソ連と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の参戦をあてにしていたため、ヒトラーはソ連を倒せばイギリスが講和してくると考えた。 [[1941年]][[6月22日]]3時15分、ドイツ軍は作戦名「[[バルバロッサ作戦|バルバロッサ]]」の下にソ連を奇襲攻撃した。イギリス・フランスとの戦争は対ポーランド戦の関係から結果的に始まったものであるが、対ソビエトの戦争はヒトラーにとって、避けられないものであった。このナチス・ドイツの[[生存圏]]をめぐるという地政学的な発想に基づく争いにより、ドイツ国とソビエト連邦の二大列強の戦いは第二次世界大戦における他の戦線と異なり、民族の存亡を賭けた壮絶な戦いを繰り広げることとなるのである。 開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方やウクライナの一部の住民はドイツ軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。しかし、あくまで[[スラブ民族]]と[[共産主義]]の完全根絶を目論むヒトラーの過酷な占領政策は親独的な地域住民の感情をも逆撫し、彼らを抵抗分子の[[ゲリラ|パルチザン]]に変えてしまうものであった。両国軍による捕虜虐待、虐殺、暴行、強姦、略奪行為は戦場の各地で見られた。 緩衝地帯の国家が枢軸・連合に鞍替えするといった状況の中、ナチス・ドイツ東部にいたる地域をソビエトの支配領域とすることにより戦争は終結する。 <!--#ドイツの[[ナチズム]]とソ連の[[共産主義]]が相容れないものであった。 #ヒトラーは、ソ連との戦争は時間の問題であり[[ヨシフ・スターリン]]はドイツに対する戦争準備をしていると考えていた。 #当時[[イギリス]]はソ連と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の参戦を期待していたため、ヒトラーはソ連を倒せばイギリスが講和してくると考えた。 #[[ルーマニア]]の油田を防御するため、 #ナチスはヒトラーの教義『[[我が闘争]]』に基づき東ヨーロッパの[[スラヴ人|スラブ民族]]を[[シベリア]]に強制退去させ、[[ゲルマン民族]](ドイツ人、北欧人)を東ヨーロッパに移住、東方大帝国をつくる計画があった。などがある。--> == 経過 == === 1941年 === 6月22日、侵攻開始(バルバロッサ作戦)。開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソビエト軍を圧倒し、北方軍集団では[[レニングラード包囲戦|レニングラードを包囲]]、中央軍集団は開戦1ヶ月で[[ミンスク]]を占領するなど快進撃を続けた。しかし南方軍集団は、投入兵力の割りに作戦地域が広大であったため、進撃が遅れ気味であった。(近年公開された資料によれば開戦前ドイツに対し先制攻撃を考えていたソ連軍が南部に兵力を集中させていたからであるからともと言われている)また、ソ連軍の航空部隊はドイツ軍の爆撃により壊滅し、制空権はドイツ軍が掌握した。 その為、8月には[[スモレンスク]]を陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、南方軍集団を支援した。これによりウクライナ地方に展開していた数十万のソ連軍部隊は壊滅し、[[キエフ]]、[[ハリコフ]]などが陥落した。これにより中央軍集団の首都[[モスクワ]]への進撃が約1ヵ月ロスされ、9月に[[モスクワの戦い|モスクワ攻略(タイフーン作戦)]]に乗り出す。しかし、例年より早い冬により、[[クレムリン]]まであと数十キロのところまで迫ったが、ドイツ軍の攻勢は頓挫し、モスクワ攻略は失敗した。短期決戦を挑んだドイツの目論見は外れ持久戦の様相を呈する。電撃戦を続けてきたナチス・ドイツにとっては初めてのケースであり、補給路が延び切った上、短期決戦を想定して冬季戦の準備もしなかったドイツ軍は各地で進撃の停止を余儀なくされた。 その頃、ソ連側は[[リヒャルト・ゾルゲ]]など日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、[[日本軍]]が参戦する可能性は無いと確信し、10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊を[[モスクワ]]周辺に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入された。この騎兵部隊は戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅したが、ソ連軍の奮闘を示すエピソードである。 冬季戦に長けたこれらの部隊は各地でドイツ軍を食い止めることに成功し、12月初旬から冬季大反攻を開始しドイツ軍をモスクワ正面から後退させる事に成功した。しかし、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の死守命令によって撤退できないドイツ軍の必死の抵抗と自軍の稚拙な作戦によりソ連軍は各個撃破され、辛うじて戦線崩壊は回避された。 ソビエトは出来うる限り工場の生産能力の移動を行い、ドイツの手の届かないウラル山脈近くにまで移動させることに成功した。このことにより一時的に生産力は格段に低下することとなった。 === 1942年 === 1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。南部戦線にて、[[ヴォルガ川]]への到達とコーカサス地方の[[石油]]資源獲得を目的とした[[ブラウ作戦]]が発動される。作戦開始当初は快進撃が続くがソビエト軍の撤退速度は早く、前年にあったような敵の撃破が伴わないものであった。ヴォルガ川の要衝の地における[[スターリングラード攻防戦]]において、ドイツ軍は、市街戦での消耗戦に陥る。また、コーカサスを目指した軍集団は、嶮しい山岳地帯とソ連軍の抵抗により、こちらの進撃もゆきづまってしまった。冬季が訪れると11月には、再びソ連軍の反撃により枢軸軍33万人がスターリングラードに包囲されてしまった。ヒトラーはあくまで空輸を通じて徹底抗戦を命じるが、1943年1月後半に総司令官の[[フリードリヒ・パウルス|パウルス]]以下約10万人の枢軸軍が投降し捕虜となる。 === 1943年 === スターリングラードでの損害により、ドイツ軍は予備兵力を殆ど投入せざるを得なくなる。1943年夏季攻勢においてドイツ軍内部では積極的に攻勢に出るか、防衛の後攻勢に出るかで意見が分かれたが、ヒトラーが主張した積極攻勢が実施された。中央軍集団と南方軍集団の間にできたクルスク突出部を南北から挟撃する作戦が実行された。([[クルスクの戦い]])ドイツ軍は、諜報活動に基づき十分に事前準備された針鼠のごとく巡らされたソビエト軍の対戦車陣地に進撃をはばまれ、多大の出血を強いられた。時を同じくして[[シチリア]]への連合軍上陸の報に作戦は決戦を待たずして中止される。以後、ドイツ軍は完全に東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連軍の冬季攻勢の猛攻に敗走を続けることとなる。これにより戦線は、ドニエプル河を越えて、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連軍に奪回された。 === 1944年 === 開戦から3年目の日、ソビエト軍の夏季攻勢[[バグラチオン作戦]]が始まる。ドイツ軍は、ソ連軍夏季攻勢を、南部戦線と予測しており、ソ連軍の欺瞞作戦の効果もあって、ソ連軍攻勢は、ドイツ軍の意表を突く形となった。物量でソ連軍はドイツ軍を圧倒し、ドイツ中央軍集団は事実上の壊滅。ドイツ軍は白ロシア全域から駆逐され、開戦前の国境付近まで後退を余儀なくされる。 南部では、4月に[[クリミア]]が陥落。8月には、ソ連軍は、[[ルーマニア]]に侵攻し、ルーマニアでは、政変がおこって、逆にドイツに宣戦を布告。9月には、[[ブルガリア]]と[[フィンランド]]も、枢軸側から脱落してしまった。 === 1945年 === ドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して[[春の目覚め作戦]]を行うが、圧倒的な戦力差により惨敗を喫する。4月16日、[[ゲオルギー・ジューコフ|ジューコフ]]元帥の[[ベルリンの戦い|ベルリン総攻撃]]が開始される。4月30日、ヒトラーが自殺。5月2日、ベルリンは陥落した。5月9日、ベルリン市内のカールスホルストで[[ヴィルヘルム・カイテル]]陸軍元帥がドイツ陸軍を代表して対ソ無条件降伏に調印した。 == 開戦までの両国の関係 == [[第一次世界大戦]]後、世界の孤児であったドイツとソ連は1922年、[[ラパッロ条約 (1922年)|ラパッロ条約]]により国交を回復させた。当時のドイツは[[ヴェルサイユ条約]]により、過大な賠償金負担に苦しみ、軍備は10万人に制限されていた。経済も世界的に不況で、ドイツには資源が乏しかった。一方、ソ連も共産主義国家として孤立し、[[シベリア出兵]]など列強各国政府から軍事干渉を受けた。ドイツには資源と場所が皆無だった。ソ連は資源と場所は恵まれていたが、技術が乏しかった。互いに世界から孤立していたが為に利害が一致し、ドイツとソ連は手を結んでしばし蜜月の時を刻む。 1933年ヒトラーが政権を握り[[イデオロギー]]上でも対立し、双方の独裁者はお互いを「人類の敵」、「悪魔」などと罵り合った一方で、互いの利害のために利用した。スペイン内戦では、代理戦争という形で両国は対決した。ヒトラーは[[二正面作戦]]を避けるために、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]はイギリスのドイツに対する[[宥和政策]]をみて対ソ連包囲網を結んでいるのではないかとの被害妄想から[[独ソ不可侵条約]]を結ぶ。 この間にソ連はドイツに[[ヴェルサイユ条約]]が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などをおこない、更にソ連に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図った。 しかし、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は反共主義者であり、政権を握ってから[[ラパッロ条約 (1922年)|ラパッロ条約]]は終焉を迎えた。 同じ独裁国家同士であるが、「[[我が闘争]]」でも記述されている通り独ソ戦の真の目的はソ連西部の[[植民地]]化でありゲルマン民族至上主義を唱え掲げているヒトラーと、世界に国境はないとする共産主義思想、これらの関係や、ドイツの資源の枯渇等からも、もともと戦争は避けられなかった。戦争間際までソ連からの資源のドイツへの輸入はあり、戦争開始数時間前まで鉄道による輸送が続いていた。 スターリンは、目の前で[[バルバロッサ作戦]]の準備をしているのに気付いておきながら、ソ連軍にはドイツ軍への挑発につながるとして戦争準備を行わせなかった。このスターリンの弱気は今なお歴史家の間で疑問とされている。 == 戦場としてのソビエト・東部戦線 == {{ナチズム}} {{USSR}} ドイツ軍がそれまでに行った戦いは鉄道網、道路網が整備された限定的な地域であり、進軍・補給ともに計画したように行動できたために[[電撃戦]]の効果を十二分に発揮できた。電撃戦によって自軍の損害を小規模にとどめ、短期間に他国を蹂躙・占領し戦闘で消耗した兵器・兵士は修理・補充・休養を取り、資源を搾取する。このことは資源を持たないドイツにとって重要なことであった。しかし、これまでの戦いとは異なり、本国とはるか離れた広大な領土を持つソビエトにおける戦いは電撃戦による短期決戦に失敗すれば即[[持久戦]]を意味した。 それまでの対象となる国家はドイツと同等もしくは劣等であると考えられる対戦国であったのに対し、ソビエトは資源・生産力・人口においてドイツを圧倒していた。戦争が長引けば、国力の差がドイツを日々圧倒してくることは間違いなく、それはナチス・ドイツの敗北を意味していた。 すでに同等以上の国力を誇っている英米連合国との戦争をしている状況において、西部・東部・北アフリカの三つの戦線を維持し続けることはナチス・ドイツにとって過大な負担となることは明白であった。 この状況・段階でのヒトラーのソビエトに対する認識はあくまでも過小評価であり、バルバロッサ開始時だけでなくブラウ開始後においても、ソビエト・赤軍の戦力の低下を認識し、それを参謀本部にも確認する状況であった。 確かにソビエト・赤軍の対フィンランド戦での戦力比に対しての戦闘の状況、その元となる赤軍の総合的な戦力の低下はまぬがれなかった。まして独ソ戦初期における損害は膨大であり戦力の低下は間違いなかったが、ソビエトは全力をあげて赤軍の組織を再編し、無骨で洗練されてはいないが量産性に特化してロシアの大地に最適なT-34を大量生産しうる体制を確立し、ナチス・ドイツと対決することとなる。 === 交通事情 === ドイツとは[[軌間|ゲージ]](2本の線路間の幅)が異なることにより、鉄道によりドイツから直接乗り入れることができない現実、満足に整備されておらず充分な情報もないうえに、満足に舗装もされていない道が多い道路網。なにより軍備増強を急いだために、自動車化が完全ではなく移動・補給の多くに軍馬を必要としているドイツ軍にとっては困難な戦場であった。又同時期に戦場となっていた北アフリカには自動車以外の補給手段がない為にその作戦規模に比較して膨大な輸送用自動車が割かれていたことも大きな問題となっていた。 <!--この状況を打開するために、ドイツ軍は[[ウニモグ]]という[[軍用車両]]を開発した。状況に即した極めて使いやすい車両であったが、作られるのが遅すぎ活用される状況ではなかった。 --> === 土壌と気候 === ソビエトの大地は春と秋には泥濘と化し、夏は乾燥、冬は厳寒の土地であった。春・秋の泥濘の時期には移動はもとより、最低限の補給にも大きな影響を与えた。また、冬季の厳寒における戦線の維持も重大な問題であった。だがこれは攻められる側のロシアにとっては有利なことであった。大地そのものが[[要塞]]であり、毎年早くに訪れる[[冬将軍]]も侵略者を苦悩に陥らせるのである。 以上のことから夏季にドイツ軍の攻勢・反撃を行うが冬には装備の不備から防戦に回り、赤軍は夏・冬に攻勢・反撃を行った。 フィンランドとの戦いでの冬の戦争において無様な戦いをしいられた赤軍であるが、ドイツとの戦いでは日本との戦争に備えてシベリア方面にいた精鋭軍を投入できたことも大きかった。 === 焦土作戦 === かつて[[焦土作戦]]を展開し[[大北方戦争]]で[[スウェーデン]]を、[[祖国戦争]]でナポレオンの[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]([[:en:La Grande Armée]])を撃退したロシアは、三度同じ戦略を決行することは明白であった。 もっともこの作戦は、ロシア側にとっても多大な犠牲を強いることになった。 攻勢が転じドイツ軍が防戦に回ると、同じようにソ連領土内を焦土としていった。このことにより多くの都市は廃墟となった。 === 同盟国 === 戦況の変化により各国は同盟する陣営を変えた。枢軸国側は一枚岩ではなく、長年問題を抱える隣国同士が枢軸側として同盟していたこともあり敵側にまわることにより戦争状態に入ることに対して問題を感じることなく対応することもあった。 == 東部戦線の立場と援助 == ソビエトは第二次世界大戦開始当時の状況を考えると侵略軍であった。それはポーランド、フィンランド、ルーマニア、バルト三国に対しての行動から見ても考えるまでもない。これらの状況をふまえてイギリス・アメリカは困惑を含めて眺めていた。連合軍の目的は全体主義国家であり地政学的な[[ランドパワー]]としての地位を復活しようとするナチス・ドイツの殲滅である。では、ソビエトはその対象であるのか? 反共で知られるイギリスの首相[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]は、ナチス・ドイツの敵であるがゆえに「敵の敵は味方」という判断をくだしたのである。この理屈がこの戦争の列強の利害関係を明確にするのであり数年後の冷戦状態を生み出すのである。 独ソ戦が始まると、それまでたびたびソ連を非難していた英国はただちに大量の物資の援助を提案し、中立であったアメリカは5月に制定した[[武器貸与法]]をソ連にも適用することにした。ソ連と米英の協定は1941年10月に結ばれ、この時から1945年までに武器と物資がソ連に供与された。援助の効果は1942年にめだちはじめ、1943年にはソ連軍の兵站物資・機材の相当部分を占めるようになった。おおざっぱに言えば、スターリングラード戦までのソ連軍はほぼ自国製品で戦い、クルスク戦以降は援助物資とともに戦ったと言える。 [[航空機]]、[[戦車]]などの[[正面装備]]、[[貨物自動車|トラック]]、[[ジープ]]、[[機関車]]、[[無線機]]、[[野戦電話]]、[[電話線]]などの[[後方支援]]のための物資、さらに[[缶詰]]、[[靴]]、[[ブーツ]]のような一般工業製品から[[銅]]、[[アルミニウム]]といった原材料まで、さまざまな援助物資が届けられた。供与兵器は、正面装備に関するかぎりソ連戦力で大きな比率を占めなかった。戦車はソ連製の方が要目上は優れていたため、前線で歓迎されない型もあったが、機械的信頼性の高さからアメリカ・イギリス製戦車が好まれる場合もしばしばあった。しかし、援助物資が[[兵站]]と経済、生活に与えた寄与は大きかった。主要工業地帯がドイツ軍に占領され、残る生産能力も兵器生産に向けられたため、ソ連では[[後方支援]]と生活のための物資が著しく不足していたからである。また、兵站などはソ連が立ち遅れていた分野で、米英からの援助が重要であった。 スターリン以下のソ連の指導者は、援助がソ連の戦争遂行能力を支えていることを自覚していたが、同時に、ドイツ軍の戦力のほとんどをソ連が引き受けている以上、援助は当然だとも考えていた。ソ連は米英軍が西ヨーロッパのいずれか(フランス、あるいはイタリア)に上陸して第二戦線を開くことを要求したが、この要請は1944年まで満たされなかった。このためスターリンは、米英が自らは戦わず、独ソをともに消耗させようとしているのではないかという疑念を抱いていた。そこでソ連が米英に用いたのが、対独単独講和というカードであり、援助を止めさせないために単独講和をほのめかし続けた。 == 対敵協力者 == ドイツの捕虜になったソ連軍将兵のなかには[[アンドレイ・ウラソフ|ヴラソフ]]将軍が組織した[[ロシア解放軍]]を始めとして[[対独協力者]]([[:de:Hiwi|Hiwi]])となった者も少なくなかった。大戦後半、人的資源の枯渇に苦しむドイツ軍で多くのソ連軍捕虜が弾薬、燃料輸送など後方活動に従事し、中には最前線でかつての「同志」に銃口を向ける者もいた。協力者の多くが、人間扱いされない捕虜生活より、生きるためやむを得ず協力者の道を選んだ。戦後、スターリンは「裏切り者」に対して容赦をせず、その殆どが銃殺されるか生涯をシベリアで終えることとなった。また、ドイツ軍人の中にも、[[フリードリヒ・パウルス|パウルス]]元帥や[[ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ|フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ]]将軍など、捕虜になった後に反ナチ運動に参加したものは多かった。 == 文献 == ;ソ連側から *N.チーホノフ(著)、(レーニングラード戦を題材にソ連側から描かれた小説)、『レーニングラード』、創元社、1952年 *Harrison E. Solisbury(著)、(米人記者がソ連側から見た独ソ戦)、『独ソ戦:この知られざる戦い』、早川書房、1980年 *Theodor Plievier(著)、金森誠也(訳)、(ソ連側から描かれた独ソ戦の小説)、『モスクワ』、フジ出版社、1986年、ISBN 4-89226-069-X *David M.Glantz / Jonathan M.House(著)、守屋純(訳)、(ソ連側から見た独ソ戦)、『独ソ戦全史;「史上最大の地上戦」の実像』、学習研究社、2005年、ISBN 4-05-901173-8 ;ドイツ側から *井上鍾(編)、(昭和17年に出版された写真集)、『モスクワへ、独逸宣伝戦闘隊写真報告第一報』、番町書房、1942年 *[[パウル・カレル]](著)、[[松谷健二]](訳)、『バルバロッサ作戦』、フジ出版社、1971年 *[[パウル・カレル]](著)、[[松谷健二]](訳)、『焦土作戦:ソ連の大反抗とヒトラーの敗走』、フジ出版社、1972年 *Jürgen Thorwald(著)、[[松谷健二]](訳)、(ソ連人対独協力者の運命)、『幻影、ヒトラーの側で戦った赤軍兵士たちの物語』、フジ出版社、1979年 *[[パウル・カレル]](著)、(ドイツ兵士の撮った写真に見る独ソ戦)、 ''Unternehmen Barbarossa im Bild: Der Rußlandkrieg fotografiert von Soldaten'', Ullstein, 1985, ISBN 3-550-08509-5 *Richard Muller(著)、手島尚(訳)、『東部戦線の独空軍』、朝日ソノラマ、1995年、ISBN 4-257-17295-9 *Werner Maser(著)、守屋純(訳)、(スターリンの戦争準備)、『独ソ開戦、盟約から破約へ、ヒトラーVSスターリン』、学習研究社、2000年、ISBN 4-05-400983-2 *[[クルト・マイヤー]](著)、[[松谷健二]](訳)、(武装親衛隊指揮官の回顧録)、『擲弾兵:パンツァー・マイヤー戦記』、学習研究社(フジ出版社版の復刻)、2000年、ISBN 4-05-400984-0 == ボードゲーム == *[[シックス・アングルズ]]第9号 『War for the Motherland』[[FGA]]/[[山崎雅弘]] *[[コマンドマガジン日本版]]第45号 『120シリーズ・リスペクト』、[[国際通信社]] *コマンドマガジン日本版第57号 『日独電撃戦』国際通信社 *コマンドマガジン日本版第60号「Ukraine '43」、国際通信社 *コマンドマガジン日本版第74号「ドイツ装甲軍団」、国際通信社 == 外部リンク == *[http://members.at.infoseek.co.jp/leibstandarte/kk1.html バルト三国地方でスターリン体制からの解放軍として歓迎されるドイツ軍の映像] *[http://members.at.infoseek.co.jp/Stosstrupp/seba1.html セバストポリ要塞に砲撃を加えるドイツ軍の映像] == 関連項目 == *[[東部戦線]] *[[独ソ不可侵条約]] *[[焦土作戦]] *[[バルバロッサ作戦]] *[[ゾルゲ事件]] *[[祖国戦争]](ナポレオン軍のロシア侵攻) *[[冬将軍]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%8B%AC%E3%82%BD%E6%88%A6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月25日 (月) 14:05。]     
'''大成会'''(たいせいかい)は、[[明治時代]]の[[日本]]の[[温和派]]の[[院内会派]]である([[1890年]][[8月23日]]-[[1891年]][[12月26日]])。 1890年の[[第1回衆議院議員総選挙]]後、[[立憲自由党]]及び[[立憲改進党]]に属しない議員の糾合の動きが盛んになった。彼らは党派色の強い[[民権派]]系の自由・改進両党([[民党]])に対抗する意図を有していたが、政府との関係や新しい組織を[[政党]]とするか院内会派にするかなどその意見は様々であった。 それでも、1890年[[8月22日]]に会則と「大成会」の名称が定められ、翌日に東京の愛宕館で正式な結成大会が開かれて、この会が[[衆議院議員]]有志によって構成される団体であると位置付けて政党である事を否定した。これは、日本の議会に政党自体を不要と考える[[超然主義]]を唱える議員に配慮したものである。代表者として3名の常務委員([[増田繁幸]]・[[堀部勝四郎]]・[[俣野景孝]])が選出された。この他、[[杉浦重剛]]・[[元田肇]]・[[津田真道]]・[[末松謙澄]]・[[岡田良一郎]]・[[西毅一]]・[[天野若円]]らが参加して、「不偏不党」・「中立」を掲げた。 一般には大成会を「[[吏党]]」すなわち政府[[与党]]とする見方があるが、当時の政府が掲げる超然主義においては、「与党」の存在自体を否定している事、また「吏党」という呼称も民党側の非難の過程で生まれた言葉であり、実際には「反民党」勢力ではあっても「親政府」勢力ではなかったとされている。ただ、政治志向に保守的な側面が強いために政府の政策に近く、政府との全面対決を掲げた民党よりは政府に対して宥和的な立場であった(もっとも、[[集会条例]]・[[新聞紙条例]]などの緩和のように、民党と結んで政府と対立した案件も存在する)。 あくまでも大成会は院内会派であり、政党ではなかったため、1891年の[[衆議院解散]]によってその時点で役割を果たしたものとして解散された。 == 参考文献 == *佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』(吉川弘文館 1992年 ISBN 4642036326) == 関連項目 == *[[中央交渉会]] *[[国民協会_(日本)|国民協会]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%88%90%E4%BC%9A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年12月30日 (日) 22:20。]    

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