勝海舟

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[[Image:Kaishu Katsu 1.jpg|thumb|200px|勝海舟]] '''勝 海舟'''/'''勝 安芳'''(かつ かいしゅう/かつ やすよし、[[文政]]6年[[1月30日 (旧暦)|1月30日]]([[1823年]][[3月12日]]) - [[明治]]32年([[1899年]])[[1月21日]])は、[[幕臣]]、[[政治家]]。明治期の[[枢密院|枢密顧問官]]、[[位階]][[勲等]]は[[正二位]]勲一等[[伯爵]]。 幼名は'''麟太郎'''<small>(りんたろう)</small>。本名'''義邦 '''<small>(よしくに)</small>、維新後改名して'''安芳'''</small>。これは幕末に[[武家官位]]である「安房守」を名乗ったことから'''勝 安房'''<small>(かつ あわ)</small>として知られていたため、維新後は「安房」をさけて同音<small>(あ−ほう)</small>の「安芳」に代えたもの。海舟は[[号]]で、[[佐久間象山]]から受領の篆刻「海舟書屋」からとったという。 父は[[旗本]]小普請組の[[勝小吉]]、母は信。[[幕末]]の[[剣術|剣客]]・[[男谷信友]]は[[いとこ|従兄弟]]にあたる。海舟も十代の頃は[[剣術]][[修行]]に多くの時間を費やしている。[[家紋]]は丸に剣花菱。 [[山岡鉄舟]]・[[高橋泥舟]]と共に「[[幕末の三舟]]」と呼ばれる。[[哲学館]](現:[[東洋大学]])に対して多くの寄付をし、「哲学館の三恩人」の一人にも数えられる。 海舟の長女・逸<small>(いつ)</small>は、[[専修大学|専修学校]](現:[[専修大学]])の創立者である[[目賀田種太郎]]に嫁いだ。この関係から、海舟は専修学校の学生に「[[律増甲乙之科以正澆俗 礼崇升降之制以極頽風]]」(大意:「法律は次々に多くの箇条を増加して人情の薄い風俗を矯正し、礼は挙措進退のきまりを尊重して頽廃した風俗を止めるものである」)という言葉を贈って激励し続けた。 == 生涯 == [[Image:Kaishu Katsu 2.jpg|thumb|150px|幕末期]] === 生い立ち === 海舟は1823年、江戸本所亀沢町<ref>現在の[[東京都]][[墨田区]][[両国 (墨田区)|両国]]の一部。当時の本所亀沢町と現在の墨田区亀沢とは町域が重なっていない。</ref>の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した<ref>墨田区立両国公園(両国4-25)内に「勝海舟生誕之地」碑が建っている。また、墨田区役所敷地(吾妻橋1-23)内には勝海舟像が建つ。</ref>。 曽祖父銀一は[[越後国]]三島郡長鳥村<ref>現在の[[新潟県]][[柏崎市]]の一部。</ref>の貧農の家に生まれた[[視覚障害者|盲人]]であった。[[江戸]]へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得、[[検校]]の位を買い、米山検校を名乗った。銀一の子は平蔵で、御家人株を入手して男谷家を興した。男谷家はのちに旗本に昇進した。その三男が海舟の父・勝小吉である。小吉は三男であったため、男谷家から勝家に養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は[[天正]]3年以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父にあたる命雅(のぶまさ)が、宝暦2年累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。 幼少時、犬に睾丸を噛まれ、死にそうになったことがあった。そして、男谷の親類、阿茶の局の紹介で11代将軍[[徳川家斉]]の孫初之丞(後の[[徳川慶昌|一橋慶昌]])の遊び相手として[[江戸城]]へ召されている。[[一橋徳川家|一橋家]]の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が早世したためその望みは消えることとなる。 生家の男谷家で7歳まで過ごしたのちは、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした。 === 修行時代 === 剣術は、実父小吉の本家で従兄弟の[[男谷信友|男谷精一郎]]の道場、後に精一郎の高弟[[島田虎之助]]の道場<ref>浅草[[港区 (東京都)|港区]]</ref>で習い、[[直心影流]]の免許皆伝となる。師匠の虎之助の薦めにより[[禅]]も学んだ。 [[蘭学]]は、江戸の蘭学者の[[箕作阮甫]]に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の[[福岡藩]]屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。[[1846年]]([[弘化]]3年)には住居も本所から赤坂田町に移る<ref>氷川に移ったのはさらにのちの[[1859年]]。</ref>。この蘭学修行中に[[辞典|辞書]]「[[ドゥーフ・ハルマ]]」を一年かけ、二部筆写した有名な話がある。一部は自分のために、一部は売って金を作るためであった。この時代に蘭学者佐久間象山の知遇を得た<ref>のちに妹の順子は象山に嫁いでいる。</ref>。象山の薦めもあり西洋兵学を修め、[[田町]]に私塾(蘭学と兵法学)を開いた<ref>のちに日本[[統計学]]の祖となる[[杉亨二]]が[[塾頭]]となる。</ref>。 [[画像:Kaishu Katsu 3.jpg|thumb|150px|幕末期]] === 長崎海軍伝習所 === [[1853年]]、[[マシュー・ペリー|ペリー]]が来航(いわゆる黒船)し開国を要求されると、[[老中|老中首座]]の[[阿部正弘]]は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名、町人から任侠の徒にいたるまで広く募集した。これに海舟も海防意見書を提出した。海舟の意見書は[[阿部正弘]]の目にとまることとなる。そして[[江戸幕府|幕府]][[海岸防禦御用掛|海防掛]]だった[[大久保一翁|大久保忠寛]](一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運をつかむことができた。 その後、[[長崎]]の[[海軍伝習所]]に入門した。伝習所ではオランダ語がよく出来たため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。長崎に赴任してから数週間で聞き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす<ref>第一期から三期まで在籍したことを「勝は成績が悪く、三度落第した」とする文献もある。ただし、これは反勝派の旧幕臣から出たものであり、事実とは言いがたいという反論もある。オランダ教官からは非常に評価されているとのことである。</ref>。 この時期に当時の薩摩藩主[[島津斉彬]]の知遇をも得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。<!--この時点では西郷隆盛のことは初めて噂として聞いたのみであり、実際に会うのは、[[神戸海軍操練所]]時代である。<!--のちに勝は、西郷は斉彬によって鍛えられたと述べている。--> [[画像:Katsu Kaishū2.jpg‎|thumb|200px|1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影した肖像写真]] === 渡米 === [[1860年]]、[[咸臨丸]]で[[太平洋]]を横断しアメリカ・[[サンフランシスコ]]へ渡航した。旅程は37日であった。<ref>妻には、「ちょっと品川へ船を見に行って来る」とだけ言ったらしい。</ref>この米国渡航の計画を起こしたのは[[岩瀬忠震]]ら、一橋派の[[幕臣]]である。しかし彼らは[[安政の大獄]]で引退を余儀なくされたため、[[木村芥舟|木村摂津守]]が軍艦奉行並となり、勝は[[遣米使節]]の補充員として乗船した。 [[アメリカ海軍|米海軍]]からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉が同乗した。[[通訳]][[ジョン万次郎]]、木村の従者[[福澤諭吉|福沢諭吉]]も乗り込んだ。咸臨丸の航海を、勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある。船酔いでダウン寸前だった勝がアメリカが見えた途端に大いばりを始め、さらに自分の羽織を棒にくくりつけて練り歩こうとしたのをみっともないからやめろと同行者に止められたともいう。これは目撃した福澤が本に書き残している逸話であり、福澤が勝を軽蔑するようになった一因ともいわれる<ref>福澤の勝嫌いは、その著作『痩我慢の説』に端的にあらわれている</ref><ref>この時の勝の船酔いについては、実は勝が何らかの伝染病に罹っており、自らを隔離するために船室に引き籠もっていたとする説もある。</ref>。 福澤の『[[福翁自伝]]』には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれているが、実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行並」、勝は「教授方取り扱い」という立場であった。アメリカ側は木村をアドミラル([[将官|提督]])、勝をキャプテン([[船長|艦長]])と呼んでいた。アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができた。 === 神戸海軍操練所 === [[Image:Kaishu Katsu cropped.jpg|thumb|150px|幕末期]] 帰国後、[[蕃書調所]]頭取・[[講武所]]砲術師範等を回っていたが、文久2年([[1862年]])の幕政改革で海軍に復帰し、[[軍艦操練所]]頭取を経て[[軍艦奉行]]に就任。 [[神戸市|神戸]]は、碇が砂に噛みやすく、水深が比較的深いので大きな船も入れる天然の良港であるから、[[神戸港]]を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍[[徳川家茂]]にしている<ref>神戸は[[平安時代]]末の[[平清盛]]以来の国際貿易港であったが、それは朝鮮・中国を相手にしたものである。その神戸を西欧諸国との貿易のために活かそうとした点で勝の提案は斬新だった。</ref>。 勝は神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の荒くれものが出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた<ref>この塾頭が[[坂本龍馬]]だった</ref>。さらに、[[神戸海軍操練所]]<!--(現在の[[神戸税関]]の南西の位置)-->も設立している。 後に神戸は[[東洋]]最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。 勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだと言う<ref>ただし逆にそうでない期間には本など読まなかったとも述べている。</ref>。 勝が[[西郷隆盛]]と初めて会ったのはこの時期、[[1864年]]9月11日、[[大阪]]においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を[[大久保利通]]宛に送っている === 長州征伐と宮島談判 === [[1866年]]、軍艦奉行に復帰、[[徳川慶喜]]に[[長州征討#第二次(四境戦争)|第二次長州征伐]]の[[停戦]]交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった。勝は時間稼ぎに利用され、主君に裏切られたのである。憤慨した勝は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。 === 駿府城会談と江戸城無血開城 === [[1868年]](慶応4年)、官軍の東征が始まると、勝は幕府に呼び戻され、徳川家の家職である[[陸軍総裁]]として、後に[[軍事総裁]]として旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が[[駿府城]]にまで迫ると徹底抗戦を主張する[[小栗忠順]]に対し、早期停戦と[[江戸城]]の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。 先ず3月9日、[[山岡鉄舟]]が駿府で西郷隆盛と会談して基本条件を整えた。続く13日と14日には勝が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命は戦火から救われた。 この会談の後も[[戊辰戦争]]は続くが、勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が二分される恐れがあったことなどがその理由である。 === 明治期 === [[Image:Yoshiyasu Katsu in Meiji.jpg|thumb|150px|明治期]] 維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、[[参議]]兼[[海軍卿]]、元老院議官、枢密顧問官を歴任、[[伯爵]]を授予された。<ref>海舟が新政府から[[子爵]]叙爵の内示を受けた際、「今までは 人並の身と 思いしが 五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは」との[[和歌|歌]]と共に突き返した為、新政府側が慌てて伯爵に格上げしたとされている(伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌との説も有り)。</ref>、政争の渦に巻き込まれる中、参議兼海軍卿を解かれた後、枢密顧問官となる。 勝はこうした新政府の役職を得ながらも、仕事にはあまり興味がなく、出勤して椅子に座り、ただ黙っているだけの日々を送っていたという。本人は「部下に仕事を丸投げして、判子を押すだけのような仕事しかしてないよ」と語っている。 座談を好み、特に[[薩長]]の新政府に対して舌鋒鋭く批判し続けた。西郷や大久保、[[木戸孝允]]の大きさを、その後の新政府要人たちの器と比較して語っている。 勝は日本海軍の生みの親のひとりに数えられる人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた[[日清戦争]]には始終反対の立場だった。[[連合艦隊司令長官]]の[[伊東祐亨]]や[[清|清国]]の[[北洋艦隊]]司令長官・[[丁汝昌]]は、勝の弟子とでもいうべき人物だった。丁は敗戦後に責任をとって自害しているが、勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿した。勝は戦勝気運に盛りあがる人々に、中国大陸の大きさや中国という国のありようを説いた。[[三国干渉]]などで追い詰められる日本の情勢も海舟の予見の範囲だった。[[李鴻章]]とも知り合いであり、「政府のやることなんてぇのは実に小さい話だ」と述べている。 勝と徳川慶喜は、幕末の混乱期には何度も意見が対立していたが、晩年にはその慶喜を赦免させるよう政府に働きかけている。慶喜はこのおかげで明治天皇の特旨をもって[[公爵]]を授爵し、徳川宗家とは別に[[徳川慶喜家]]を新たに興すことが許されている。その他にも旧幕臣の生活保護など、幕府崩壊による混乱を最小限に抑える努力を30余年にわたって続けた。幕末には寒村でしかなかった[[横浜市|横浜]]に旧幕臣を約10万人送り込んで[[横浜港]]発展に寄与したり、[[静岡]]に約8万人送り込んで静岡の茶の生産を全国一位に押し上げたりしたのも勝の功績である。 晩年は、ほとんどの時期を[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]][[氷川]]の地で過ごし、『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『[[海軍歴史]]』、『陸軍歴史』、『[[開国起源]]』、『[[氷川清話]]』などの執筆・口述・編纂にあたったが、その独特な大風呂敷な記述を理解出来なかった読者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。 [[1899年]]1月19日に[[脳出血|脳溢血]]により意識不明となり、21日死去。最期に遺した言葉は「コレデオシマイ」であった<ref>作家の[[山田風太郎]]は、この最期の言葉を「最期の言葉としては最高傑作にあたる」と評している</ref>。 墓は勝の別邸千束軒のあった東京[[大田区]]の[[洗足池|洗足池公園]]にある。千束軒はのちの戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っている。 ==略歴== [[Image:Yoshiyasu Katsu 2.jpg|thumb|150px|晩年]] (明治5年12月2日までは旧暦) *[[1838年]]([[天保]]9)7月27日、家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持。 *[[1855年]]([[安政]]2)1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用と就る。7月29日、海軍伝習重立取扱と就る。8月7日、小普請組から小十人組に組替。 *[[1856年]](安政3)3月11日、講武所砲術師範役と就る。6月30日、小十人組から大番に替わる。 *[[1859年]](安政6)11月24日、アメリカ派遣を命ぜられる。 *[[1860年]](安政7)1月13日、品川より咸臨丸出航。1月19日、浦賀より咸臨丸出航。2月26日、サンフランシスコに入航。閏3月8日、サンフランシスコを出航。  改元して万延元年5月6日、品川沖に入航。 5月7日、江戸に帰府。6月24日、天守番頭過人・蕃書調所頭取助と就る。石高400石取りとなる。 *[[1861年]]([[文久]]元)9月5日、天守番頭格・講武所砲術師範役に異動。 *[[1862年]](文久2)7月4日、二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。閏8月17日、軍艦奉行並に異動。役高1000石。 *[[1864年]](文久3)2月5日、摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される。改元して元治元年5月14日、作事奉行次席軍艦奉行に異動し、役高2000石。[[大身]]となり、武家官位の従五位下安房守に任官。11月10日、軍艦奉行を罷免され、寄合席となる。 *[[1866年]]([[慶応]]2)5月28日、町奉行次席軍艦奉行に復職。 *[[1867年]](慶応3)3月5日、海軍伝習掛を兼帯。 *[[1868年]](慶応4)1月17日、海軍奉行並に異動。役高5000石。列座は陸軍奉行並の上。1月23日、陸軍総裁に異動。列座は若年寄の次座。2月25日、陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。3月13日と同月14日、薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城。 *[[1869年]]([[明治]]2)7月13日、諱を安芳と改める。7月18日、維新政府の外務大丞に任官。8月13日、外務大丞を免ず。11月23日、兵部大丞に任官。 *[[1870年]](明治3)6月12日、兵部大丞を免ず。 *[[1872年]](明治5)5月10日、海軍大輔に任官。6月15日、従四位に昇叙し、海軍大輔如元。 *[[1873年]](明治6)10月25日、参議に転任し、海軍卿を兼任。 *[[1874年]](明治7)2月18日、正四位に昇叙し、参議・海軍卿如元。 *[[1875年]](明治8)4月25日、元老院議官に異動。4月27日、元老院議官を辞表を提出。11月28日、元老院議官を免ず。 *[[1887年]](明治20)5月9日、伯爵を受爵。12月、従三位に昇叙。 *[[1888年]](明治21)4月30日、枢密顧問官に任官。10月正三位に昇叙し、枢密顧問官如元。 *[[1889年]](明治22)5月8日、枢密顧問官辞表を提出するが、翌日却下。12月、勲一等瑞宝章を受ける。 *[[1890年]](明治23)7月10日、貴族院議員に当選するものの辞退。 *[[1894年]](明治27)6月30日、従二位に昇叙し、枢密顧問官如元。 *[[1896年]](明治29)10月27日、枢密顧問官辞表を提出するが、11月4日、却下。 *[[1898年]](明治31)2月26日、旭日大綬章を受ける。 *[[1899年]](明治32)1月19日、死去。1月20日、贈正二位。法名:大観院殿海舟日安大居士。 == 文献 == 回想録として吉本みのるによる『[[氷川清話]]』や巌本善治による『[[海舟座談]]』がある。これは海舟の談話を記者が速記したもので、海舟の話し方の細かな特徴まで再現されており、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来る。ただし古い版では、当時の政治を批判した部分に、編集に当たった記者による歪曲・改竄のあとが見られるという。 膨大な量の全集があり、維新史、幕末史を知る上での貴重な資料となっている。海舟は相当の筆まめであり、かなりの量の文章・手紙等が残っている。この筆力には父親の小吉の影響もある。一人称に「俺」を使う独特の[[言文一致体]]的な語りは、父・小吉の自伝[[「夢酔独言]]」([[東洋文庫]])と同じである。「清」という登場人物は[[夏目漱石]]の「[[坊つちやん]]」の素材となっている。 == 語録 == *自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。 *オレは、瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった *やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末等を心配している人たちに。) *文明、文明、というが、お前等自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかぇ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。 *敵は多ければ多いほど面白い。 *我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。(将軍家茂に拝謁した際、幕府の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われて) *コレデオシマイ(亡くなった時の言葉) ==人物評価== ファンといっていいほど高い評価をする人がいる一方、成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。坂本龍馬の文久3年の姉([[坂本乙女|乙女]])宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷も大久保宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と書いている。龍馬や西郷のような人物から高く評価されていたことがわかる。 一方、江戸を無血開城した功績は感謝しているものの、旧幕府の高官でありながら新政府に勤めて立身していることに対する嫉妬や反感もある。その決定版が福澤の「[[痩我慢の説]]」である。そこでは、幕臣としての節操を護るべきであると非難されている。 勝海舟の仕事は江戸開城をもって終わりとする見方も多いが、明治に入ってからの32年間の行動([[明治天皇]]と慶喜との和解・旧幕臣の名誉回復など)の研究が待たれる。 死の三日後、氷川邸に[[勅使]]が来て[[勅語]]を賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。 :幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻賵ヲ齎シテ以テ弔慰セシム ==逸話== [[Image:Bakushin.jpg|thumb|300px|右から三人目が勝]] *トラウマ :9歳の頃狂犬に[[睾丸]]を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境をさまよっている(「氷川清話」、「夢酔独言」)。このとき父の小吉は[[水垢離]](みずごり)をして息子の回復を祈願した。これは後も勝の[[トラウマ]]となり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出す程であったという。 *福澤諭吉との関係 :木村摂津守の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福沢諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、勝は伝染病の疑いがあったため自室に篭り切り、艦長らしさを発揮出来なかった。福沢は、それをただの船酔いだと考えていたようで、以来勝を嫌っている。 *海舟批判書状の『痩我慢の説』への返事 :「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ないとして、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分は預かり知らぬことと考えています。) *咸臨丸の実情 :和船出身の水夫が60人。士分にはベッドが与えられていたが、水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶぬれになり、航海中、晴れた日はわずかで、乾かす間もなかった。そのため艦内に伝染病が流行し、常時14、5人の病人が出た(今でいう悪性のインフルエンザか)。サンフランシスコ到着後には、3人が死亡、現地で埋葬された。ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松と惣八という2名がみずから看病のため居残りを申し出た。計9人の世話を艦長の勝海舟はブルックスという現地の貿易商に託し、充分な金も置いていった。ブルックスは初代駐日公使[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]の友人で、親日家だった。 == 系譜 == 海舟の嫡男・小鹿<small>(ころく)</small>は海舟の最晩年に40歳で急逝したため、小鹿の一子・伊代子に旧主徳川慶喜の十男・精<small>(くわし)</small>を婿養子に迎えて家督を継がせることにした。海舟はこれを見届けるかのようにしてこの世を去っている。精は実業界に入り、[[浅野セメント]]や[[石川島飛行機]]などの重役をつとめた。 海舟の長女・逸<small>(いつ)</small>は、[[専修大学|専修学校]](現:[[専修大学]])の創立者である[[目賀田種太郎]]に嫁いだ<ref>この関係から、海舟は専修学校の学生に「[[律増甲乙之科以正澆俗 礼崇升降之制以極頽風]]」(大意:「法律は次々に多くの箇条を増加して人情の薄い風俗を矯正し、礼は挙措進退のきまりを尊重して頽廃した風俗を止めるものである」)という言葉を贈って激励している。</ref>。 [[財務省 (日本)|財務省]]理財局長の勝栄二郎・[[世界銀行]]副総裁の勝茂夫の兄弟は曾孫にあたる。 ;勝家 <pre> 小吉───安芳(海舟)──┬小鹿───伊代子              └逸    ┠────────────┬芳孝───芳邦                    精            ├道子                   (徳川慶喜十男:婿養子)  ├善子                                 ├静子                                 ├中子                                 └當子 </pre> == 注釈 == <references /> == 勝海舟に関連する作品と演じた俳優 == {{Commons|Category:Katsu Kaishu}} *[[三姉妹]](1967年の[[NHK大河ドラマ]])勝役:[[内藤武敏]] *[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]](1968年のNHK大河ドラマ)勝役:[[加東大介]] *[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]](1974年のNHK大河ドラマ。[[子母澤寛]]原作) 勝役 : [[渡哲也]](勝麟太郎)→[[松方弘樹]](勝海舟) *[[竜馬がゆく (1982年 テレビドラマ)|竜馬がゆく]]([[1982年]]、[[テレビ東京]])勝役 : [[若林豪]] *[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]](1990年のNHK大河ドラマ)勝役:[[林隆三]] *[[勝海舟 (テレビドラマ)]](1990年に放映された日本テレビ年末時代劇スペシャル) 勝役 : [[田村正和]] *[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]](1998年NHK大河ドラマ)勝役:[[坂東三津五郎 (10代目)|坂東八十助]] *[[新選組!]](2004年のNHK大河ドラマ)勝役:[[野田秀樹]] *[[幕末機関説 いろはにほへと]](声:[[樫井笙人]])[[2006年]](登場は2007年)、[[GyaO]] *[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]](2008年のNHK大河ドラマ)勝役:[[北大路欣也]] == 談話集 == *『氷川清話』[[講談社]][[[講談社学術文庫]]]、[[江藤淳]]・[[松浦玲]]共編。ISBN 406159463X *『海舟語録』講談社学術文庫、江藤淳・松浦玲共編。ISBN 4061596772 *『海舟座談』[[岩波書店]][[[岩波文庫]]]。ISBN 4003310012。 == 参考資料 == *[[石井孝]]「勝海舟」(人物叢書)[[吉川弘文館]]。ISBN 4642050620 *[[小西四郎]]「勝海舟のすべて」[[新人物往来社]]。ISBN 4404012918 *[[勝部真長]]「勝海舟」上・下巻[[PHP研究所]]。ISBN 4569536174,4569536182 *''Katz Awa: The Bismarck of Japan'', Edward Warren Clark, 1904年 == 外部リンク == *[http://www.katsu-kaisyu.net/ 勝海舟を顕彰する会] *[http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person354.html 勝 海舟:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月3日 (土) 07:24。]     

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