地租改正

「地租改正」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

地租改正」(2008/10/04 (土) 00:54:20) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

[[Image:Kamakura Maru.jpg|thumb|right|300px|[[横浜港]]に戻った第1次日英交換船の鎌倉丸]] '''交換船'''(こうかんせん、'''戦時交換船'''や'''抑留者交換船'''などとも呼ばれる)は、[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]]/[[大東亜戦争]])当時に、開戦により[[枢軸国]]、[[連合国]]双方の交戦国や断交国に取り残された[[外交官]]や駐在員、[[留学生]]などを帰国させるために運行された[[船]]のことである。 ==いきさつ== [[1941年]][[12月8日]]の[[大日本帝国]](当時の[[日本]]国の呼称。以下、日本)と[[イギリス]]や[[アメリカ]]、[[オランダ]]などの[[連合国]]との開戦に伴い、両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残された[[外交官]]や民間人(企業の駐在員や[[留学]]生、研究者、それらに帯同した家族など)の帰国方法が問題になった。 しかし、開戦後に両陣営の国家同士の国交が断絶され、それぞれの国に駐在する[[外交]]官の資格が停止されたことに伴い、政府間の直接交渉が不可能になったことから、まずアメリカが、[[12月17日]]に[[中立国]]である[[スイス]]を経由して日本の[[外務省]]に交換船の運行を打診し、その後、スイスや[[ポルトガル]]、[[スウェーデン]]などの中立国を通じて日本とイギリス、アメリカの各外務省担当者が交渉を行った。 その結果、[[1942年]]5月に両国の間で残留外交官と残留民間人の交換に関する協定が結ばれ、日本(とその同盟国)とアメリカ(とその近隣の同盟国)の間については[[1942年]]6月と[[1943年]]9月の2回、日本とイギリス(および[[イギリス連邦]]諸国)との間については1942年8月の1回交換船が運航されることになった。 ==運行概要== ===ルート=== [[Image:Asama-maru 1931.jpg|right|220px|thumb|浅間丸]] [[Image:Lourenco-Marques-pc-c1905.jpg|right|220px|thumb|ロレンソ・マルケス(1905年)]] 日本からの交換船は、[[浅間丸]]や[[コンテ・ヴェルデ]]([[第二次世界大戦]]勃発で帰国不能となり、[[日本海軍]]に戦時徴用された[[イタリア]]船)、[[龍田丸]]などの[[客船]]がイギリス人やアメリカ人などを乗せ、イギリス、アメリカ側からの交換船は、スウェーデンの客船である[[グリップス・ホルム]]などが[[日本人]]を乗せ、交換地となった東[[アフリカ]]にあるポルトガル領東アフリカのロレンソ・マルケス(現在のモザンビークの[[マプート]])に向かい、到着後に乗客を交換するというものであった。なお、第二次日米交換船のみはポルトガル領[[ゴア州|ゴア]](現在の[[インド]]西海岸中部)を交換地とした。 ====第一次日米交換船==== 日本からの交換船は、[[上海]]や[[香港]]、[[サイゴン]]で、同地を含む日本の勢力圏内に住み抑留されたイギリス人やアメリカ人などを乗せて交換地へ向かった。また、アメリカからの交換船は、[[ブラジル]]や[[メキシコ]]、[[パナマ]]などの[[中南米]]の[[連合国]](その多くは開戦後日本との国交を断絶した)に住み拘留された日本人も多数いたために、アメリカの[[ニューヨーク]]からブラジルの[[リオ・デ・ジャネイロ]]を経由し、現地に集合していた中南米諸国に在住していた日本人を乗せて交換地へ向かった。 ====第二次日米交換船==== 日本からの交換船は、日本に占領された元アメリカ領で日本軍の占領下にあった[[フィリピン]]で拘留されていたアメリカ人を帰国させるためにフィリピンの[[マニラ]]港などに寄港し、交換地のポルトガル領ゴアに向かった。アメリカからの交換船は、[[ウルグアイ]]の[[モンテビデオ]]などを経由し、中南米諸国に在住していた日本人を乗せて交換地に向かった。 ====日英交換船==== [[Image:Japanese troops marching through Fullerton Square, Singapore.jpg|220px|thumb|昭南中心部のフラートン・スクェアを行進する日本兵(1942年)]] 日本からの交換船は、横浜から、日本が占領した元イギリス領の[[昭南]](現在の[[シンガポール]])や上海、[[仏領インドシナ]]のサイゴンを経由して交換地へ向かい、イギリスからの交換船のエル・ナイル号は、イギリスなどに在住していた日本人や[[タイ王国|タイ]]人ら[[枢軸国]]の国民を乗せて、[[イギリス領インド]]からは、シティ・オブ・パリス号が西アジアや[[アフリカ]]にあるイギリスの植民地などに在住していた日本人やタイ人らを乗せて交換地へ向かった。 他にも、[[イギリス連邦]]である[[オーストラリア]]の[[メルボルン]]からも、オーストラリアの客船であるシティ・オブ・カンタベリーが、オーストラリアや[[ニュージーランド]]、イギリス領[[インド]]や[[フランス]]領[[ニューカレドニア]]などに在住していた日本人やタイ人ら枢軸国の残留者を乗せて交換地へ向かった。 なお、日英交換船は日米交換船同様、第一次交換船に次ぎ第二次交換船も計画されていたものの、戦争の激化などにより実現されることなく終わった。 ===安全保障=== なお、世界各国で激戦が繰り広げられていた最中に交換船が運行されることに際し、全ての交戦国から交換船に対して[[国際法]]に基づき「[[セーフコンダクト]]」が与えられ、航路周辺に展開する全ての交戦国の軍隊に対して交換船の運航が通告され、その運行上の安全が保障された。さらに、安全を期するために交換船から付近を航行する船や地上基地に対して定期的に現在地の報告が行われた他、船腹には[[白十字]]の塗装と、夜間でも認識できるように照明が施された。なお、[[遣独潜水艦作戦]]中の第一次遣独艦が南アフリカ沖で交換船を誤って攻撃しそうになったが、直前に船体に描かれた白十字に気づき撃沈を回避している。 また、交換船によるスパイ活動などの軍事活動が行われていないかという点や、両国民の交換が適正に行われているかを監視するために、中立国の外交官が交換監視員として乗船していた。 ===思想教育=== なお、日米及び日英交換船によって日本に帰国した民間人に対しては、昭南出航後に乗り込んだ[[軍人]]や[[軍属]]により日本[[文化]]や戦況についての[[教育]]が施された他、帰国後に思想調査が行われ、その結果によって、「英米の思想に染まっていた」と思われる者に対して思想教育が行われた。なお、イギリスやアメリカにおいては、日本などから帰国した民間人に対して同じような思想教育は行われなかった。 ---- ===第1次日米交換船=== [[Image:LocationMozambique.png|right|220px|thumb|ポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)]] [[Image:Jap occupy hk.jpg|right|220px|thumb|日本占領下の香港(1942年)]] [[Image:Rio de Janeiro 1920's.png|right|220px|thumb|リオ・デ・ジャネイロ(1932年)]] *交換地:ポルトガル領[[東アフリカ ]]、[[ロレンソ・マルケス]](17,944トン) *日本(および日本を経由してタイ王国)への帰還者数:1468名(ニューヨークから1,066人。リオ・デ・ジャネイロから383人。他タイ人19人。''総数については諸説あり'') ====日本側==== *船名:浅間丸(16,975トン、[[日本郵船]])、コンテ・ヴェルデ/Conte Verde(18,765トン、イタリア船) *運行日程: **1942年6月17日:[[横浜港|横浜]]出港(浅間丸) **1942年6月28日:香港出港(浅間丸) **1942年6月28日:[[上海]]出港(コンテ・ヴェルデ号) **1942年7月4日:サイゴン出港(浅間丸) **1942年7月9日:昭南出港(横浜から来た浅間丸と、昭南で待機していたコンテ・ヴェルデ号が合流) **1942年7月22日:ロレンソ・マルケス入港 **1942年7月24日:同盟国であるドイツとイタリアの[[領事]]が、日本人に対する歓迎パーティーを開催 **1942年7月26日:ロレンソ・マルケス出港(北アメリカ諸国からの帰還者は浅間丸へ、中南米諸国からの帰還者はコンテ・ヴェルデ号へ乗船) **1942年8月11日:昭南入港(タイ人19人はここで下船) **1942年8月9日:昭南出港 **1942年8月20日:横浜帰港 ====アメリカ側==== *船名:グリップス・ホルム/Gripsholm(瑞米線 スウィーディシュ・アメリカン・ライン/Swedish American Line) *運行日程: **1942年6月18日:ニューヨーク出港 **1942年7月2日:リオ・デ・ジャネイロ入港 **1942年7月4日:リオ・デ・ジャネイロ出港 **1942年7月20日-7月28日:ロレンソ・マルケス寄港 **1942年8月25日:ニューヨーク帰港 ---- ===第2次日米交換船=== [[Image:IndiaGoa.png|right|220px|thumb|ポルトガル領ゴア]] [[Image:MontevideoIndependencePlaza1900.jpg|right|220px|thumb|モンテビデオ(1900年代)]] *交換地:ポルトガル領[[ゴア州|ゴア]](インド) *日本への帰還者数:1517名 ====日本側==== *船名:帝亜丸(日本郵船、元[[フランス]]船籍「アラミス」) *運行日程: **1943年9月14日:横浜出港>大阪寄港>上海寄港>香港寄港>サンフェルナンド寄港>サイゴン寄港> **1943年10月15日:ポルトガル領ゴア入港 **1943年10月21日:ポルトガル領ゴア出港 **1943年10月31日:昭南入港 **1943年11月2日:昭南出港>マニラ寄港> **1943年11月14日:横浜帰港 ====アメリカ側==== *船名:グリップス・ホルム号 *運行日程: **1943年9月2日:ニューヨーク出港 **1943年9月17日:リオ・デ・ジャネイロ入港 **1943年9月18日:リオ・デ・ジャネイロ出港 **1943年9月22日:[[モンテビデオ]]入港 **1943年9月23日:モンテビデオ出港 **1943年10月4日:[[南アフリカ]]連邦ポート・エリザベス入港 **1943年10月16日:ポルトガル領ゴア入港 **1943年10月21日:ポルトガル領ゴア出港 ---- ===第1次日英交換船=== *交換地:ポルトガル領東アフリカ、ロレンソ・マルケス *日本への帰還者数:1742名 ====日本側==== [[Image:Shanghai1937IJA streets.jpg|right|220px|thumb|上海(1937年)]] *船名:龍田丸(日本郵船) *運行日程: **1942年7月30日:横浜出港>上海寄港>サイゴン寄港 **1942年8月13日:昭南出港 **1942年8月27日-9月2日:ロレンソ・マルケス寄港 **1942年9月17日:昭南出港 **1942年9月27日:横浜帰港 *船名:鎌倉丸(日本郵船) *運行日程: **1942年8月10日:横浜出港 **1942年8月17日:上海出港>昭南寄港 **1942年9月6日-9月11日:ロレンソ・マルケス寄港 **1942年9月11日:ロレンソ・マルケス出港>昭南寄港>[[香港]]寄港 **1942年10月8日:横浜帰港 ====イギリス側==== [[Image:Dirigivel Hindenburgo.jpg|right|220px|thumb|リスボン(1936年)]] [[Image:BEST-double-decker-tram.jpg|right|220px|thumb|ボンベイ(1920年代)]] =====イギリス===== *船名:エル・ナイル号([[エジプト]]船籍) *運行日程: **1942年7月29日:[[リバプール]]出港>[[リスボン]]寄港 **1942年8月31日:ロレンソ・マルケス入港 **1942年9月8日:ロレンソ・マルケス出港 **1942年10月9日:リバプール帰港 =====イギリス領インド===== *船名:シティ・オブ・パリス号(City of Paris) *運行日程: **1942年8月13日:[[ボンベイ]]出港 **1942年8月28日:ロレンソ・マルケス入港 **1942年9月12日:ロレンソ・マルケス出港>[[ダーバン]]寄港 **1942年9月23日:ボンベイ帰港 =====オーストラリア===== *船名:シティ・オブ・カンタベリー号(City of Canterbury) *運行日程: **1942年8月16日:メルボルン出港 **1942年9月9日:ロレンソ・マルケス入港 ==乗客== 日本発着の交換船の乗客の多くはイギリスやアメリカとその同盟国に住む日本人と、同盟国であったタイ人であった。また、イギリスとアメリカ発着の交換船の乗客の多くは、日本とその占領地に住むイギリス人やアメリカ人であった。 他にも、これらの国々から帰国、もしくはこれらの国々に赴任するスペインやポルトガル、スウェーデンなどの中立国の外交官や、交戦国にある在外公館で任務についていたものの、本国へ一時帰国せずに、ロレンソ・マルケスを経由して第3国へそのまま赴任する日本やイギリス、ドイツなどの交戦国や中立国の外交官も交換船を利用した。 なお、[[クーリエ]]や外交官の身分を隠れ蓑にした日本やイギリス、アメリカの[[諜報員]]も交換船の乗客となった他、ロレンソ・マルケスから日本まで[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]と海軍の将兵が、航路上での敵国船舶の動向や港湾の状況を監視することを主な目的に交換船の運行乗務員として乗り込んだが、この様なことはイギリスやアメリカ側でもみられた。 交換船の運航に先立ち、日本とイギリスの両[[外務省]]の間で「外交官等の交換に関する提案事項」と名づけられた文書が交換され、乗客の身分について下記のように記されている。 *公吏其の他官吏に準ずべき者及公共団体より派遣せられたる者並に其の家族及従者 *[[新聞]]記者並に其の家族及従者 *[[銀行]]及[[商社]]等の支店員、代表的在留民並に其の家族及従者 *[[宗教]]家、[[学者]]、[[学生]]並に其の家族及従者 *婦女子及其の従者 *特別の事由(老年・病気など)にある者並に其の家族及従者 なお、日本において当時海外に駐在する企業関係者は[[銀行]]などの金融機関と[[商社]]、[[マスコミ]]などの企業の駐在員がその殆どを占めていた。また、あえてこのように身分が記されたのは、帰国できる人数が限られていたために、外交官や企業駐在員、留学生として一時的に駐在していた民間人の帰国を優先し、以前より現地国に[[移民]]として渡っていた者がこの機会に便乗して帰国することを防ぐことにあった。 === 主な乗船客 === (肩書きは当時のもの) *[[来栖三郎 (外交官)|来栖三郎]](駐アメリカ[[特命全権大使]]) *[[野村吉三郎]](駐アメリカ特命全権大使]) *[[石射猪太郎]](駐ブラジル特命全権大使) *[[阪本端男]](駐スイス[[公使]]) *[[岡本季正]](駐ポルトガル公使) *[[森島守人]](駐ニューヨーク総[[領事]]) *[[寺崎英成]](駐アメリカ大使館員) *[[天野芳太郎]]([[実業家]]、在[[パナマ]]天野商会) *[[淸田竜之助]]([[ブリスベン大学]]教授) *[[都留重人]]([[ハーバード大学]]講師) *[[坂西志保]]([[アメリカ議会図書館]][[東洋]]部主任) *[[竹久千恵子]]([[女優]]) *[[鶴見俊輔]](留学生) *[[鶴見和子]](留学生) *[[武田清子]](留学生) *[[ジャニー喜多川]](後の[[ジャニーズ]]事務所社長) *[[ジョセフ・グルー]](駐日アメリカ大使) *[[エドガートン・ハーバート・ノーマン]](駐日カナダ公使館員) *[[ジョン・モリス]]([[東京文理科大学]]講師) *[[ダニエル・マッキンノン]]([[小樽高等商業学校]]英語教師) また、その他に、[[特殊潜航艇によるシドニー港攻撃]]で戦死し、[[オーストラリア海軍]]によって鄭重に海軍葬が行われた松尾敬宇[[海軍中佐]]・中馬兼四海軍中佐・大森猛[[少尉|海軍特務少尉]]・都竹正雄[[准士官|海軍兵曹長]]の遺骨も、日豪間の交換船(シティ・オブ・カンタベリーと鎌倉丸)によって日本に返還された。 == 他国の交換船 == なお、日本と同じく枢軸国であった[[イタリア]]と[[ドイツ]]と連合国のアメリカの間にも、1942年4月から5月にかけて中立国であるポルトガルの[[リスボン]]を交換地とする交換船(スウェーデン船籍のドロトニングホルム号)が運航された。 == 参考文献 == * 天野芳太郎『わが囚われの記 <small>第二次大戦と中南米移民</small>』(中央公論社、1983年10月) ISBN 4122010705 * 内藤初穂『太平洋の女王浅間丸』(中央公論新社、1998年8月) ISBN 4122032199 * [[鶴見俊輔]]・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月) ISBN 4103018518 ==関連項目== *[[日本人街]] *[[日系人の強制収容]] *[[日系ブラジル人]] *[[日系アメリカ人]] *[[山河燃ゆ (NHK大河ドラマ)]] *[[東京ローズ]] *[[遣独潜水艦作戦]] *[[柳船]] == 外部リンク == *[http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/reference/reference_07.html 外務省外交資料館レファレンス情報第7号] *[http://www.janm.org/jpn/main_jp.html 全米日系人博物館(日本語トップ)] *[http://www.nikkeyshimbun.com.br/ ニッケイ新聞(日本語トップ)] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E8%88%B9 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月25日 (月) 05:02。]     
'''地租改正'''(ちそかいせい)とは、[[1873年]]([[明治]]6年)に明治[[政府]]が行った[[租税]]制度改革である。また、この改革により日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。 ==旧貢租・田租について== 地租の由来は、[[大化の改新]]により成立した[[律令国家]]が、[[唐]]に倣って採用した[[租税]]制度である「[[租庸調]]」のうちの「租」にさかのぼる。ここでいう租とは、田畑([[口分田]])の収益を[[課税物件]]とした租税である。明治以前には'''田租'''(たそ)・'''貢租'''(こうそ)などと呼ばれていた。 [[豊臣秀吉]]の行った[[太閤検地]]により、[[土地]]の生産力を[[石高]]([[玄米]]の生産量)であらわし、その石高に応じて[[年貢]]を課すこととされた。また、検地帳に土地の直接耕作者を登録し、その者を租税負担の責任者とした。 地租は収穫量を今日でいう[[課税標準]]とし、直接に耕作者である[[百姓]]からその生産物をもって徴収された([[物納]])。なお、この納入は[[村請]]により村単位で一括して行われた。 ==地租改正の検討== 明治初期から[[大蔵省]]や[[民部省]]では、全ての土地に賦課して一定の額を金納させる新しい税制である'''[[地租]]'''の導入が検討されていた。また、[[神田孝平]]も[[1870年]](明治3年)に「田租改革建議」を提出して各藩ごとの税の不均衡を正して公正な税制にするための貢租改革が提案されていた。だが、土地の賦課の是非は[[大名]]などの[[領主]]の権限と考えられていたこと、従来の検地に代わる大規模な測量の必要性があることから、政府内でも賛否両論があってまとまらなかった。だが、明治4年に[[廃藩置県]]が行われると、日本からは領主が一掃される形となり、反対論の大きな理由が失われた。同年9月「地所売買放禁分一収税施設之儀正院伺」が大蔵省によって作成され、[[田畠永代売買禁止令]]の廃止とともに地租改正の実施が明治政府の方針として正式に決定されその準備が急がれたのである。 ==経過== [[1873年]](明治6年)[[7月28日]]に'''地租改正法'''([[上諭]]と地代の3%を地租とする旨を記載した1ヶ条で構成)と具体的な規定を定めた'''地租改正条例'''などから成る[[太政官布告]]第272号[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40022968&VOL_NUM=00008&KOMA=276&ITYPE=0]が制定され、明治政府は翌年[[1874年]](明治7年)から地租改正に着手した。 政府は当初、検地が農民からの反発を受けることを懸念し、農民からの自己申告主義を採った。すなわち、農民自らが地押丈量を行い、面積・収量を算出し、地方庁は地方官心得書の検査例に基づいて点検し、これを経て地方庁が地券(改正地券)を発行するかたちをとった。しかしこの方法では、全国一律公平の租税を徴収する目的は達しがたく、また、1874年(明治7年)の改租結果から、目標の租税額が確保できそうにないことが明らかとなった。また、政府高官間の政争の産物である「大蔵省分割問題」も影を落としていた([[内務省_(日本)|内務省]]設置による測量機構と税額算定機構の分離)。 このため政府は、[[1875年]](明治8年)に内務省及び大蔵省の両省間に[[地租改正事務局]]を設置し、これを中心として改租を強力に進めるよう方針転換した(明治8年太政官達第38号)[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40022968&VOL_NUM=00010&KOMA=348&ITYPE=0]。 このなかで、府県庁は地租改正事務局があらかじめ見当をつけた平均反収を絶対的な査定条件とし、申告額がこれに達しない場合は、農民が自らの労力と費用をかけて算定した地価を否定し強圧的に変更させたことから、伊勢暴動をはじめとした大規模な暴動が各地で頻発した。これをうけて政府は[[1877年]](明治10年)1月に、地租を100分の3から100分の2.5に減額することを決定した。 その後政府の強硬姿勢は[[1878年]](明治11年)頃まで続いたが、税収の見込みがつくようになると徐々に緩和されていき、[[1880年]](明治13年)に耕地宅地の改正作業が完了した。この地租改正は約7年にわたる大事業であった。 ==旧貢租と新地租の違い== 前述のとおり、[[江戸時代]]までの貢租は米による物納制度であり、あくまで生産者が納税義務者であった。また、その制度は全国で統一したものではなく、地域毎に違いがあった。このような制度を、地租改正により、土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改めたのである。 新地租の要点としては以下の点が挙げられる。 *収穫量の代わりに、収穫力に応じて決められた[[地価]]を課税標準とした。 *村単位とする賦課体系を廃して、個別の土地単位で賦課を行うこととした。 *従前は物納であったものを、金納とした。 *税率を地価に対する一定率(3%:「旧来ノ歳入ヲ減ゼザルヲ目的」として算定)とした。 *耕作者ではなく、地券の発行により確認された土地所有者(地主)を納税義務者とした。 *制度を全国統一のものとした。 ==地租改正の影響== ===安定した税収の確保=== 税率を地価に対する一定率とすることにより、従前のように農作物の豊凶により税収が変動することなく、政府は安定した収入を確保することができるようになった。具体的には、農作物の価格変動リスクを、政府から農民へ転嫁したものといえる。しかも、「旧来の歳入を減じない」という方針によって3%という高額な税率が算定されたのである(なお、地租改正の推進派であった[[木戸孝允]]はこの高税率を聞くと、農民を幕藩体制よりも酷い状況に追い込むものだとして最後まで反対している)。 これは結果的には大多数の農民の負担を高めることにつながり、また土地の所有者がおらず納税が困難な[[入会地]]が事実上、政府に没収されたことなどから伊勢暴動、真壁暴動など[[一揆]]([[地租改正反対一揆]])が頻発し、[[自由民権運動]]へ影響を与えた。このため、士族反乱と農民一揆の結合を恐れた[[大久保利通]]の意見で、前述のとおり、1877年(明治10年)に税率が2.5%に引き下げられた。 ===土地の私的所有の開始=== 地券の発行により、個人に対する土地の私的所有が認められることとなった。この結果、土地は[[天皇]]のものであり、臣民は天皇または領主からその使用を許されているに過ぎないと考える[[公地公民制|公地公民]]思想('''王土王民説''')や封建領主による領主権や村などの地域共同体による共同保有といった[[封建制度]]的な土地保有形態が完全に崩壊し、土地にも保有者個人の[[所有権]]が存在する事が初めて法的に認められることになり、土地が個人の財産として流通や担保の対象として扱われるようになった。その意味で、地租改正は日本における[[資本主義]]体制の確立を基礎づける重要な一歩であるといえる。 なお、地租改正に先立って、政府は1872年(明治5年)に[[田畑永代売買禁止令]]を解除して既に形骸化していた土地の売買禁止の合法化を行い、1873年(明治6年)には地所質入書入規則及び動産不動産書入金穀貸借規則を定めて土地を担保とした貸借も合法化した。 ===地主階級に対する参政権の付与=== 地主を納税義務者とすることで、従来の村請負制度が消滅することとなった。また、地主を納税義務者とすることは、彼らに参政権を付与することを意味し、地主階級に対して一定の政治的な力を与えることになった。 後に[[帝国議会]]が開かれた時に、当初[[衆議院]]の[[選挙権]]や[[貴族院_(日本)|貴族院]]の[[多額納税議員]]の資格が与えられたのは、その多くがこうした地主層であった。 ===商業や流通に与える影響=== 従来の[[藩]]が租税として集めた[[米]]をまとめて[[江戸]]や[[大坂]]の[[蔵屋敷]]を経由して同地の米問屋に売却するというこれまでの米の[[流通]]システムが崩壊して、個々の農民が地元の米商人などに直接米を換金してその代金を納め、地元の米商人が全国市場に米を売却するようになるなど、[[商業]]や流通に対する影響も大きかった。 ===その他=== 地租改正は全ての土地に課税されるものとし、以前に認められていた[[恩賞]]や[[寺社]]領などに対する免税を否認した。また、[[入会地]]なども同様に否定して[[国有地]]に編入した。 また、欧米の農村社会の仕組みをそのまま日本に想定したために、不都合な例も発生した。例えば、地租の算定における一般的な農家の経営の基準を商業生産的な家族経営による拡大再生産が行われている農家とし、また[[地主]]と[[小作人]]は自由契約による[[小作]]関係によって成立しており小作料の増減は地租の増減に対応することを前提として立法された。これは実際には「生かさぬように殺さぬように」という発想で再生産が抑圧され、地主の地位が強力であった日本の農業社会の実態に合わず、また実際の地租算定においても生産経費を実際よりも低く見積もられたために、高率の税率も重なって地租が生産経費を圧迫し、小作料を跳ね上げる(当時の物価水準では収穫の1/3近くが地価の3%に相当し、更に地主が利潤を上乗せするために、結果的に小作料が上昇した)結果をもたらした。 更に、法令などにおいて、政府自身が実は3%が高率であることを認めている部分がある。現在の税率は[[印紙税]]・[[物品税]]などの商工業などからの収入が一定の軌道にのるまでの暫定的な税率で、将来はそこからの歳入と財政支出の抑制によって地租依存度を減少させて最終的には1%にまで引き下げると説明しているからである(地租改正条例第6条、[[地租条例]]で廃止)。だが、現実にはなかなか引き下げられなかった。ところが、後に地租改正条例に代わって制定された[[地租条例]]ではこの規定が削除されてしまった。このことが自由民権運動や初期[[帝国議会]]における激しい政府批判を招き、また地租に替わる財源として[[酒造税]]の相次ぐ増税の一因となった。 ==地券の作成== [[Image:Chiken akita face.jpg|thumb|200px|right|1879年(明治12年)発行の地券。裏面は[http://commons.wikimedia.org/w/index.php?title=Image:Chiken_akita_back.jpg]]] 地租改正の際に行われた[[測量]]結果は地券に記され、この内容は地券台帳にまとめられた。地券は、土地所有を公証し、かつ納税義務者を表示するものとされ、また土地売買の法的手段であるとされたことから、土地の流通および土地金融はすべて地券により行われることとなった。 明治19年の[[登記法]]成立後は、登記簿が土地所有を公証するものとされた。 また、地券台帳自体も明治17年に創設された土地台帳制度に引き継がれ、明治22年に事実上廃止されて、以後地租の収税はこの土地台帳によって行われた。 さらに土地台帳は登記簿と一元化されることで、昭和35年に廃止された。このとき、土地台帳に記載されていた土地の表示に関する記載(所在、地番、地目、地積)が登記簿の表題部に移記された。したがって、現在の土地登記は、もとは地租改正時に作成された地券及び地券台帳にさかのぼるものであるといえる。 しかしながら、地租改正当時の測量技術が未熟であったこと、時間と人員の制約から測量の専門家でない素人が測量にあたったこと、また税の軽減を図るために故意に過小に測量したことなどから、その内容は必ずしも正確なものではなかった。このことが、現在の登記簿においても、登記簿と実際の地形や測量面積が一致しないこと(いわゆる「縄伸び」「縄縮み」)の原因となっている。 現在、正確な登記簿を作るべく[[地籍調査]]が全国的に進められている。 ==補注== <references /> ==参考文献== * 丹羽邦男『地租改正法の起源―開明官僚の形成』(ミネルヴァ書房、1995年) ISBN 4623025101 ==外部リンク== *[http://www.ntc.nta.go.jp/sozei/h16shiryoukan/all/01.htm 税務大学校平成16年度特別展示「町と村の地租改正」] == 関連項目 == *[[班田収授法]] *[[太閤検地]] *[[地籍調査]] *[[登記]] *[[地租条例]] *[[日本の税金]] *[[日本史の出来事一覧]] *[[神田孝平]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9C%B0%E7%A7%9F%E6%94%B9%E6%AD%A3 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月7日 (月) 14:17。]    

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。