社会大衆党

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'''社会大衆党'''(しゃかいたいしゅうとう) #1932年結成の[[日本]]の[[無産政党]]。本項目で解説。 #1950年結成の[[沖縄県]]の革新系地域政党。⇒[[沖縄社会大衆党]]を参照。 #1960年結成の[[大韓民国|韓国]]の革新政党。⇒[[社会大衆党 (韓国)]]を参照。 ---- '''社会大衆党'''(しゃかいたいしゅうとう)は、[[昭和時代]]戦前期の[[日本]]に存在した[[無産政党]]。結党は[[1932年]]。略称は'''社大党'''。 戦前の無産政党は長く離合集散を繰り返していたが、[[1931年]]7月に[[労働者農民党]]・[[全国大衆党]]・[[社会民衆党]]合同賛成派が合同し、[[全国労農大衆党]]が結成された。これがきっかけとなり、さらに[[1932年]]7月に全国労農大衆党と社会民衆党が合同して、社会大衆党が結成された([[安部磯雄]]委員長・[[麻生久]]書記長)。 こうして、無産政党の統一が実現した。 しかし、社会大衆党は[[軍部]]・[[新官僚]]に迎合・接近していく。親軍路線を主導したのは、[[麻生久]]を中心とする旧[[日本労農党]]系のグループであった。麻生は[[1934年]]「戦いは文化の母である」と主張する「陸軍パンフレット」を「[[広義国防論]]」(戦争協力とひきかえに国民の社会権の保障を求める主張)の観点から支持。[[1937年]]、社会大衆党は総選挙で37名当選の成果を得たが、同年の[[日中戦争]]勃発を受けて、「国体の本義」を支持する新綱領を制定。その後も軍部との関係を強化し、[[1940年]]7月に自発的解散の形をとって消滅、[[大政翼賛会]]に合流した。[[第二次世界大戦]]後の[[日本社会党]]の源流の一つとなり、戦前に社大党選出の代議士であった[[三輪寿壮]]・[[河上丈太郎]]・[[西尾末広]]・[[浅沼稲次郎]]が戦後には社会党幹部となるなど、人脈的にも強くつながっている。 なお、2008年現在、[[沖縄県|沖縄]]に存在する[[地域政党]]・[[沖縄社会大衆党]]もしばしば「社大党」と略されるが、本項目の社会大衆党とは全く関係がない。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%A4%A7%E8%A1%86%E5%85%9A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月8日 (土) 14:10。]     

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