労働農民党

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'''労働農民党'''(ろうどうのうみんとう)は、戦前([[第二次世界大戦]]、[[太平洋戦争]]以前)の[[日本]]の合法[[左派]][[無産政党]]である。 [[1926年]][[3月]]に創立。前年12月に結成された[[農民労働党]]が[[共産主義]]と繋がっているとの嫌疑で即日禁止されたことから、当初は左派を排除した形で結党されていた。委員長には[[日本農民組合]]委員長だった[[杉山元治郎]]が就任する。しかし、結党後に地方支部が組織されていく過程で左派が流入、親共産主義の立場を取る左派の地方党員と反共産主義の立場を取る右派の幹部が対立し、1926年12月には右派が脱党して[[社会民衆党]]を結成、相前後して中間派が[[日本労農党]]を結成し、労働農民党は左派が主導権を握った。 分裂後の労働農民党は[[大山郁夫]]委員長・[[細迫兼光]]書記長が指導し、対華非干渉・労働法制定などの運動を進めた。最初の普通選挙となった[[1928年]]の[[第16回衆議院議員総選挙]]では権力の干渉は厳しく、香川県から立候補した大山郁夫陣営に対する弾圧は強烈をきわめた。このときの現地の運動員として、当時農民組合の指導にはいっていた後の小説家[[島木健作]]がいた。しかし、全国で28万票を獲得し、[[水谷長三郎]]と[[山本宣治]]の2名の当選者を出す。特に[[京都府]]選挙区から立候補した山本は[[帝国議会]]で[[特別高等警察]](特高)の[[拷問]]行為を暴露することを得意としたが、[[右翼]]青年に[[暗殺]]される。[[三・一五事件]]で[[日本共産党]]の活動家が多く労働農民党から出馬していたことから同時に結社禁止処分となった。 労働農民党の流れは、中間派に合流して[[社会大衆党]]に参加する者・[[労農無産団体協議会]]を経て[[日本無産党]]に参加する者・[[日本共産党]]に参加する者と四分五裂したが、戦後はその多くが[[日本社会党]]を結成、[[社会党左派]]と呼ばれるグループを形成するに至った。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%BE%B2%E6%B0%91%E5%85%9A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月26日 (土) 20:17。]     

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