大日本生産党

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'''大日本史料'''(だいにほんしりょう)は、[[明治|明治時代]]([[1901年]])から現在まで、刊行が続けられている[[日本の歴史|日本史]]の史料集である。 [[六国史]]([[日本書紀]]~[[日本三代実録]])以降、国史の編纂事業が行われていないため、その欠落部分を埋めるべく、年月日順に史料を掲載するもの。[[宇多天皇]]([[887年]]即位)から江戸時代までを対象とする。 == 概要 == [[1895年]](明治28年)に[[東京大学|帝国大学]]文科大学に史料編纂掛(現・[[東京大学史料編纂所]])が設けられて歴史書の編纂が始まった。当初は通史の記述を考えていたが、結局史料集を編纂することになった([[明治政府の修史事業]]参照)。 :[[江戸時代]]に[[塙保己一]]が開設した和学講談所で編纂された「'''史料'''」を基礎とした。「史料」は宇多天皇から[[後一条天皇]](1016-1036在位)までが対象である。 宇多天皇の[[仁和]]3年(887年)から[[慶応]]3年([[1867年]])を16編に分けて編纂が行われ、「'''史料稿本'''」(5600冊程の草稿)が作成された。 [[1901年]](明治34年)に「大日本史料」の刊行が始まった。「史料稿本」をもとに校訂作業が行われ、各編ごとに順次刊行を行っている。ただし、実際に刊行されているのは第12編([[1603年]]以降の江戸時代初期の分)までであり、第13編以降は未刊である。現在までに380冊ほどが刊行され、<!--384冊 2007年3月刊行分まで--->近年ではおよそ年に3冊ほどのペースで刊行され続けている。 * 記述のスタイルは、はじめに要約文(綱文)を記し、その後にその事項の史料(日記、古文書など)を原文で引用する。これは和学講談所の「史料」を範としたスタイルである。 * 「大日本史料」には未刊行部分が多いが、綱文の部分と引用史料の名称を掲載する「'''史料綜覧'''」が刊行されているので、未刊行部分の時期を調べる場合の手がかりになる(既刊17巻。17巻は[[寛永]]16年([[1639年]])までが対象)。 * 「史料稿本」を含むデータベースが、東京大学史料編纂所の公式サイトで公開されている。 == 関連項目 == * [[歴史書]] * [[明治政府の修史事業]] == 外部リンク == * [http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html 東京大学史料編纂所] * [http://www.toride.com/~sansui/materials/hint/hint01.html 『大日本史料』の手引き] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E6%96%99 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月4日 (月) 17:50。]     
'''大日本生産党'''(だいにほんせいさんとう)は[[1931年]]に結党された「国粋ファシスト」の政治団体。 == 概要 == 当初は[[黒龍会]]大阪支部長の吉田益三が提唱し、[[玄洋社]]系の[[内田良平]]の賛同を得て[[大阪中央公会堂]]において結成された。その後、[[1931年]](昭和6年)11月20日、玄洋社系の[[頭山満]]・[[内田良平]]等の黒龍会の主な構成員、日本国民党、津久井龍雄の急進愛国党などが合同し[[東京都|東京]]の[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の「三会堂」において結党式を行った。約1500名が参集した。本部は当時の[[東京市]][[麹町区]][[永田町]]に置かれた。[[1932年]](昭和7年)1月には愛国急進党、[[大衆党]]長野県連の秦数馬の一派、[[大日本帝国陸軍]]大阪労働組合、横浜自治革正党などが解消・入党し勢力を拡大した。 多くの[[国家主義]]団体は上部構造偏重であったが、大日本生産党は[[大衆]]に密着し、党員2万人を称していた。 しかし、[[1933年]](昭和8年)7月の[[神兵隊事件]]において青年部員が多数連座し検挙され、さらに内部対立の影響もあって党員数は減少。[[1942年]](昭和17年)6月には政治団体としての性格を持たない思想団体・[[大日本一新会]]に改組された。 == 機関誌 == 機関誌は「改造戦線」「興民新聞」の2誌。「打倒政党政治」のスローガンを掲げる。 [[1932年]](昭和7年)5月15日の[[犬養毅]][[総理大臣]][[暗殺]]事件([[五・一五事件]])に際しては「声明書」において「政、民両党が国家を害した公憤の激成」として擁護した。 == 政策 == #亡国的[[資本主義]]経済組織の根本的改革 #生産者立国の国家統制 #我利的金融の寄生虫、政、民両党絶対排撃 #国賊[[共産党]]、全協、亜流[[共産主義]]党、[[社会民主主義]]打倒 == 阿久津事件 ==<!--記事が大きくなったら分割して下さい。--> [[1931年]](昭和6年)12月、[[栃木県]]阿久津村で全農組合員・全国労働大衆党員らの[[小作]]争議に反対して暴行を重ねた。小作人側はこれに対抗して竹槍・日本刀での大乱闘となり、[[1932年]](昭和7年)1月9日、大日本生産党の党員17名が殺傷された。 <ref>「全国労農大衆新聞」1932年1月13日号外。</ref> == 参考文献 == *[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[砲兵]][[中佐]]<!--この肩書きは以下の書籍の表紙の表現-->久保田鉄蔵・永松浅造『昭和大暗殺秘史』芳山房、1932年10月。 == 出典 == <references /> == 関連項目 == *[[天皇制ファシズム]] *[[皇国青年党]] *[[浪人会]] *[[右翼]] *[[右翼団体]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%94%9F%E7%94%A3%E5%85%9A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月17日 (土) 08:56。]    

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