高砂義勇隊

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[[Image:Takasago Volunteer Corps.JPG|right|250px|thumb|高砂義勇隊]] '''高砂義勇隊'''(たかさごぎゆうたい)は[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])末期、[[台湾原住民]]を[[フィリピン]]など、南方の戦場に投入するために創設された部隊。隊員は[[軍属]]であり[[軍人]]ではないが、[[戦闘]]にも参加した。もともと台湾原住民等は[[狩猟採集社会|狩猟採集]]を得意としたため、南方戦線にあって高い戦闘力、食料収集能力を発揮し、崩壊寸前の[[大日本帝国陸軍]]を助けた。戦後、[[日本国民]]では無くなったとの理由から、生存者や遺族は長らく恩給や補償を得られていなかったが{{要出典}}、1990年代に戦病死者及び重傷者を対象に一人200万円(台湾ドルで約43万ドル)の弔慰金が支払らわれた。 7度にわたって編成され、合計1,800名が参加した。参加者は全て台湾特別志願兵制度もしくは高砂特別志願兵制度に基づく志願兵であったため、[[皇民化教育]]の成果として謳われた。[[台湾]]の[[志願兵]]制度は同じく大日本帝国統治下の[[朝鮮]]に遅れ、[[昭和17年]](1942年)に実施されたこともあり500倍以上の倍率となった。生存する元隊員のほとんどは[[親日家|日本に好意的]]であり、兵役経験を肯定的に捉えていると言われているが、一方で事実上の強制によって参加させられたという心証を持つと主張する元隊員や遺族も存在する{{要出典}}。 [[1974年]]末に[[インドネシア]]のモロタイ島で発見された[[台湾人日本兵]]、中村輝夫(本名、スニオン)も台湾原住民[[アミ族]]出身の義勇隊員であった。 ==高砂義勇隊に関連した裁判== 戦後、未払いの軍事郵便貯金の払い戻し(確定債務問題)、戦死者の[[靖国神社]]への合祀などを巡って生存者や遺族の一部は裁判等で係争を続けていたが、2005年9月30日の大阪高裁の判決で敗訴が確定した。この裁判に反対する生存者や遺族も居り、数百名の反対署名を裁判所に提出し、また靖国神社への参拝などを希望し、継続している。[[靖国神社]]が「いったん合祀した英霊を分割する事は出来ない」と主張するなか、[[台湾団結連盟靖国神社参拝事件]]に反発して‎[[2005年]]6月14日には[[台湾]]の立法委員([[議員|国会議員]])[[高金素梅]](チワスアリ)ら60人の台湾原住民が靖国神社を訪れた。これは戦没した義勇兵の霊を取り戻す儀式「還我祖霊」を行う為であったが、事前に[[台湾団結連盟]]をはじめとする台湾政治団体、[[西村修平]]を中心とした日本の保守系政治団体による抗議があったことや、高金素梅宛に脅迫状が届いた事を理由に騒乱を懸念した警察が高金素梅を説得、結果儀式の挙行は断念された。 今回の高金素梅らの行為は台湾の各種メディアで大きく報道され、台湾内部でその行為の是非について議論を呼んだ。支持者と反対派では、この報道についての受け取り方が大きく異なっている。 *支持者から見た見方 :台湾原住民の習慣に先祖を自宅で祭る文化があり、自宅で先祖を祭らない者は「不孝者」として、コミュニティ、世間体から軽蔑視される文化があった。このような背景の下で、台湾原住民及びその他台湾出身の旧日本軍遺族の強い意思で、「迎霊招魂」の儀式の挙行を望んでいるのに、靖国神社が断固として台湾の遺族の意思、そして台湾の文化を無視した点については、台湾の一部メディアは高金素梅ら及び遺族に対して同情を示し、また日本政府及び靖国神社の強硬な対応を批判的に捉えている。 *反対派から見た見方 :{{要出典範囲|各種メディアの報道ではこの運動は台湾人の意見を代表するものではないとの批判的な意見が出されている。台湾でも「反日団体が糸を引いている反靖国運動」「高金素梅は外省人、つまり反日的な中国人で本来の台湾人とは違う」など、『本来の台湾人は親日的で戦前の日本を非難しない』という主張がなされている。また、「「迎霊招魂」の儀式の挙行を望んでいる」という主張に対して、過去に「迎霊招魂の儀式」を靖国神社側が許諾し一度であるが挙行されているため、支持者の主張の一部は満たされているはずと靖国神社側は主張している。2005年6月14日の訪問に関しても、現地台湾では「日本への観光旅行」という名目で募集が行われたとの情報もあり、実際に来日でのスケジュールもほとんどが観光であった(旅行日程表による)ため、政治目的の動員ではないかと疑われている。大阪地裁への訴訟の際にも、台湾原住民本人の許諾なしで数百名の名簿を作成。しかしその名簿を元に個人確認を行った結果、ほとんどは同意なしで名簿化されたことが確認され名簿からの抹消が行われた|[[特別:Contributions/82.50.26.237|82.50.26.237]]}}。 ==高砂義勇隊慰霊碑== 台湾では戦後、台湾原住民の周麗梅が慰霊碑を建立し、現在は長男の邱克平、甥の簡福源が管理しているが、慰霊碑の敷地を提供していた[[台北]]郊外の観光会社が、[[重症急性呼吸器症候群|新型肺炎(SARS)]]流行による日本人観光客激減で倒産してしまい、慰霊碑は撤去されそうになった。[http://www.sankei.co.jp/event/takasago/index.html] この事態は産経新聞朝刊一面に「高砂義勇兵慰霊碑に撤去の危機」と題して掲載され、読者などが「慰霊碑を守る会」を作って義援金を募集した。その結果、3,398件の寄付の申し出があり、義援金の総額は3,201万2,391円に上った。慰霊碑は移転させて存続する事になった。 その結果、2005年8月には日本側の支援の動きに呼応して建立委員会(代表烏来郷元郷長(町長)簡福源氏)ができ、社団法人「台北県烏来郷高砂義勇隊記念協会」の設立準備を進める一方、台北県から県有地の提供を受けることで交渉がまとまった。 その後、[[2006年]]2月8日に慰霊碑の移設は完了したが、17日に[[中国時報]]により日本を賛美する碑文であると報道されたことから反発が広がり、同日に敷地を提供している台北県政府から撤去要請がなされるという事態が生じた[http://www.emaga.com/bn/?2006020100839308005402.3407]。24日、強制撤去に着手した県政府と地元側との衝突があり、話し合いの結果、記念碑は存続し、日本の遺族団体などが寄贈した、「皇民」など日本語が入った石碑8基を撤去するというギリギリの妥協案で決着した。しかし記念碑側面に刻まれた「大和魂」などの日本語の文言は覆い隠され、説明が無ければ慰霊碑であることすら分かりづらいものとなっている。撤去された8基の石碑は当面、台北県風景管理局に保管されている。なお、慰霊碑撤去を要請した県長は[[中国国民党]]所属であり、[[民主進歩党]]は撤去に反対していた。 ==関連項目== *[[台湾原住民]] *[[台湾人日本兵]] ==外部リンク== *[http://taj.taiwan.ne.jp/koe/ メールマガジン『台湾の声』バックナンバー一覧(台湾独立派)] * [http://www.flickr.com/photos/changturtle/131913510/ 高砂義勇隊] on Flickr.com(台湾 国立政治大学教授 傅琪貽) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%AB%98%E7%A0%82%E7%BE%A9%E5%8B%87%E9%9A%8A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月7日 (火) 00:46。]     

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