尼港事件

「尼港事件」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

尼港事件」(2008/10/01 (水) 23:06:48) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

[[画像:12PM-May-24-1920 Do not forget.JPG|thumb|240px|監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書<br/>「大正9年5月24日午後12時忘ルナ」]] '''尼港事件'''(にこうじけん、Nikolayevsk Incident)は、[[シベリア出兵]]中の[[1920年]]([[大正]]9)3月から5月にかけて、[[ロシア]]の[[トリャピーチン]]率いる露中共産[[パルチザン]](遊撃隊)によって[[黒竜江]](アムール川)の河口にある[[ニコラエフスク・ナ・アムーレ|ニコライエフスク]]港(尼港、現在のニコライエフスク・ナ・アムーレ)の[[大日本帝国陸軍]]守備隊([[第14師団 (日本軍)|第14師団]]歩兵第2連隊第3大隊)および[[日本人]]居留民が無差別に[[虐殺]]された事件。 パルチザンに対して一旦休戦した後、パルチザンが騙し討ちをし、大日本帝国陸軍側が反撃するも敗北。生き残った[[日本人]]は軍人であるか民間人であるかを問わず[[捕虜]]とされた。そして、5月に日本陸軍がニコライエフスクへ援軍を送るやパルチザンは全ての捕虜を殺害した上で逃亡した。また、日本人以外の市民も殺害した上、町を焼き払った。 [[画像:Nikolaevsk-na-amure old00.jpg|260px|left|thumb|1900年の尼港(ニコラエフスク港)]] のちにこのパルチザンの責任者は[[ソビエト連邦]]政府により死刑に処せられることとなった。 この事件による日本人犠牲者は約700名にのぼり、その半数は民間人であったため、国内世論は憤激の声が渦巻き、[[反共]]の気運が強まって、後々まで尾を引くことになった。 日本政府が[[シベリア出兵]]を延長したのは、この事件によるものという見方もある。政府は[[樺太|北樺太]]への駐留を継続し、ソ連に対して[[賠償金|賠償]]を求めたが、結局は取り下げた。 ==経過== ; 1919年夏 :[[ウラジオストク]]付近から逃れてきたパルチザンと[[過激派]]が尼港に潜入して工作を開始。 ; 1920年1月24日 :過激派の使者が和議を申込むが守備隊はそれを拒否。 ; 2月24日 :過激派軍から休戦の申込み。 ; 2月28日 :休戦交渉成立。しかしニコライエフスク港に入った過激派は、協約を無視して反過激派を投獄、虐殺し、労働者を集めて軍隊を編成し、勢力を拡大して、日本軍撃滅の準備を進めた。 ; 3月11日 :過激派は守備隊の武装解除を要求。守備隊は機先を制して翌未明、過激派の主要拠点を不意急襲。しかしパルチザン兵力ははるかに優勢で、激烈な市街戦となって戦況は逐次不利となり、大隊長以下大部分が戦死。市内の日本人居住民は老若男女問わず虐殺された。 ; 5月25日 :過激派は日本軍の襲来を察知し監禁していた日本人と、残っていた反過激派の人々を惨殺し、市内の建物全部を焼き払って、西方の[[アムグン河]]谷の森林内に逃走した。 ==関連項目== * [[通州事件]] - 「第二の尼港事件」と呼ばれた。 * [[大輝丸事件]] - 剣客[[江連力一郎]]による日本海賊史上有名な事件。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月19日 (土) 13:48。]    

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。