田中義一内閣

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{{日本の内閣記事|たなかぎいち ないかく|26|田中義一|{{和暦|1927}}|4月20日|{{和暦|1929}}|7月2日|[[立憲政友会]]|[[第16回衆議院議員総選挙]]|1928年(昭和3年)1月21日<br/>普選解散|http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/26.html|立憲政友会総裁・[[貴族院議員]]}} ==概要== [[昭和金融恐慌]]の発生によって窮地に陥った[[第1次若槻内閣]]は、[[緊急勅令]]によって事態切り抜けを図ったが、[[幣原外交]]に反感を抱く枢密院の[[平沼騏一郎]]や[[伊東巳代治]]の策動で否決されて倒れた。元老[[西園寺公望]]と内大臣[[牧野伸顕]]はともに[[憲政常道]]の観点から[[立憲政友会]]総裁の田中義一を後継に推挙し、[[陸軍_(日本)|陸軍]]出身の田中に幣原外交路線の破棄を期待する反西園寺派の平沼・伊東までがこれに便乗した。金融恐慌に動揺する[[貴族院_(日本)|貴族院]]にも田中待望論の動きが高まった。 大命降下を受けた田中は平沼の意向に従って内務大臣に[[鈴木喜三郎]]、司法大臣に[[原嘉道]]を起用、外務大臣には当初[[井上準之助]]か[[本多熊太郎]]が予定されていたが、合意には至らず最終的に田中自らが兼務して[[政務次官]]に[[森恪]]を配置した。大蔵大臣には金融恐慌解決までという条件で[[高橋是清]]元首相(前政友会総裁・元蔵相・[[日銀総裁]])が入った(のち、高橋側近の[[三土忠造]]に交代)。更に事務官僚の面においては内務省[[警保局長]]に[[山岡万之助]]、[[外務省]][[事務次官]]に最初は前内閣の[[出淵勝次]]の留任としたが後に[[吉田茂]]に交替させた。これが後に大きな影響を与える事となる。 この内閣は行った代表的な政策としては金融恐慌解決のために[[日本銀行]]から市中銀行への緊急融資を行い、その際、需要に間に合わせるために急遽片面だけが印刷された新紙幣を発行した。 続いて、鈴木内相・山岡局長主導で、予定されていた初の[[普通選挙]]([[第16回衆議院議員総選挙]])に備えて[[府県知事]]の大規模な人事異動を行って政友会に批判的な知事を休職・免職にした(これは[[立憲民政党]]が政権を握った際にも報復として行われ、「党弊」と呼ばれて地方政治の停滞を招き、後に[[革新官僚]]の台頭と彼らへの国民の支持を集める遠因となった)。更に[[治安維持法]]の改正を行って最高刑を[[死刑]]とし、[[3・15事件]]によって[[日本共産党]]を壊滅に追い込んだ。これは、田中・鈴木・原と[[政党内閣]]でありながら[[大正デモクラシー]]に批判的な人々が治安関係を占めた(田中は元[[陸軍大将]]、鈴木は社会運動弾圧で活躍した[[検事総長]]、原は鈴木とともに[[国本社]]会員)という矛盾に由来する政策であった。更に鈴木は第16回衆議院議員総選挙では大規模な[[選挙干渉]]を行った。これには国民・野党のみならず、貴族院や政友会内の古参幹部(大正デモクラシーの推進勢力)の反感を買い、鈴木は失脚する(だが、田中の築いた党内派閥を継承して、妻の弟である古参の[[鳩山一郎]]を味方につけた鈴木は後に総裁に昇ることになる)。 そして、外交政策としては従来の穏健な中国政策と国際協調を基調とした「幣原外交」を破棄して、[[東方会議_(1927年)|東方会議]]を挟んで3度の[[山東出兵]]を行った。実は[[満洲]]・[[蒙古]]・[[中国]]における日本利権の確保と言う路線は従来の政友会内閣や民政党内閣の「幣原外交」とも基本的に差が無い。ただ、公然とした軍事力による介入を行ったのは田中とそのブレーンであった森政務次官であった([[白川義則]][[陸軍大臣]]ら陸軍首脳も「幣原外交」には批判的であったが、軍事行使にもまた慎重であった)。だが、第2回目の出兵で[[済南事件]]を起こして、予定外の第3回出兵を行ったにも関わらず成果が上がらず、また国際的な批判も高まってきたことで、田中は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]との軍事衝突を危惧して軍部が要望した[[関東軍]]の投入を見送ったことで、軍内部からは中途半端な気紛れに付き合わされたという不満が高まり、出兵を行った以上は満洲の日本支配の確立という目的を貫徹すべしとする若手将校によって後に[[満洲某重大事件]]が惹き起こされる事になる。更に同様の不満を持った森と田中の対立が激しくなり、田中はこれを収めるために田中・森双方とも親しい吉田茂が事務次官に任命されることとなった(吉田はこの時[[奉天]][[総領事]]で満洲に詳しく、親英米ではあったが田中外交を支持する立場にあった。また、吉田の義父である牧野伸顕内大臣がかつて田中を後継首相に推挙したこと事も大きかった)。 更に恐慌対策を兼ねて「産業立国」路線を採った。これは[[犬養毅]]の[[革新倶楽部]]が田中政友会と合同する際の条件でもあったが、犬養は[[軍縮]]を行って浮いた経費を国内投資に充てるべきであると唱えたのに対して、田中は積極財政と中国大陸における勢力拡大に伴う市場拡大と大陸への移民で実現しようとしたのである。更に国内投資においては古参幹部ながら治安維持法改正や田中外交を支持してきた[[小川平吉]][[鉄道大臣]]の所管である[[鉄道]]分野などへの投資が積極的に行われて、後に小川を被告とする[[5私鉄疑獄]]が発生することとなった。 だが、選挙干渉問題で国民や貴族院の反感を買った上に鈴木の更迭によって面目を潰された平沼を中心とする枢密院が反対派に回った。更に鈴木更迭時に行われた内閣改造を巡って[[水野文相優諚問題]]が発生して貴族院から「[[天皇]]の政治利用」との非難を浴び、山東出兵の失敗は田中の出身母体である陸軍からも反発を受けた(特に田中の後継者としてその信任を受けていた[[宇垣一成]]前陸相までが、民政党の倒閣に支持を伝える有様であった)。そして止めを指したのが満洲某重大事件の発生であった。これは関東軍が[[奉天軍閥]]の[[張作霖]]を爆殺したものであったが、田中はその事実を知ると、処分に躊躇してしまった。これを知った[[昭和天皇]]が激怒して「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再び聞くことは自分は厭だ」([[原田熊雄]]『西園寺公と政局』)と述べたという話を聞いた田中は[[内閣総辞職]]をした。 田中内閣はまさしく政党内閣であったが、要職を実質的には非政党員が占めたことによって、左翼のみならず自由主義者・平和主義者を弾圧する法制が整備されて、社会問題を民主的に解決する方策を閉ざしてしまい、それが結果的に政党そのものの没落を招いた一因とされている。また、軍部や官僚の不満も高めて彼らの革新官僚化を促した面においても大きな転換期であった。[[吉野作造]]は政党政治を理解していない軍人出身者が総理・総裁となったこと、選挙干渉によって強引に多数派を形成したこと、そして政党内閣に否定的であった軍部や枢密院・貴族院などが組閣の行き掛かり上、田中内閣に対しては長く与党的立場に立った事で田中内閣の政策を止める存在がいなくなってしまった事を挙げて「最悪の内閣」と糾弾している(『現代政局の展望』)。 ==国務大臣== *内閣総理大臣 :田中義一([[立憲政友会]]総裁・[[貴族院_(日本)|貴族院]][[交友倶楽部]]):1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[外務大臣 (日本)|外務大臣]] :田中義一(兼任):1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[内務大臣]] :[[鈴木喜三郎]]([[貴族院_(日本)|貴族院]][[交友倶楽部]]):1927年(昭和2年)4月20日 - 1928年(昭和3年)5月4日 :田中義一(兼任):1928年(昭和3年)5月4日 - 同年5月23日 :[[望月圭介]]([[立憲政友会]]・[[衆議院議員]]):1928年(昭和3年)5月23日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[大蔵大臣]] :[[高橋是清]]([[立憲政友会]]前総裁・[[衆議院議員]]):1927年(昭和2年)4月20日 - 同年6月2日 :[[三土忠造]]([[立憲政友会]]・[[衆議院議員]]):1927年(昭和2年)6月2日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[陸軍大臣]] :[[白川義則]]:1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[海軍大臣]] :[[岡田啓介]]:1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[司法大臣]] :[[原嘉道]]([[貴族院_(日本)|貴族院]]・[[弁護士]]):1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[文部大臣]] :三土忠造:1927年(昭和2年)4月20日 - 同年6月2日 :[[水野錬太郎]]([[貴族院_(日本)|貴族院]][[交友倶楽部]]):1927年(昭和2年)6月3日 - 1928年(昭和3年)5月25日 :[[勝田主計]]([[貴族院_(日本)|貴族院]][[交友倶楽部]]):1928年(昭和3年)5月25日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[農林大臣]] :[[山本悌二郎]]([[立憲政友会]]・[[衆議院議員]]):1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[商工大臣]] :[[中橋徳五郎]]([[立憲政友会]]・[[衆議院議員]]):1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[逓信大臣]] :望月圭介:1927年(昭和2年)4月20日 - 1928年(昭和3年)5月23日 :[[久原房之助]]([[立憲政友会]]・[[衆議院議員]]):1928年(昭和3年)5月23日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[鉄道大臣]] :[[小川平吉]]([[立憲政友会]]・[[衆議院議員]]):1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[拓務大臣]](1929年(昭和4年)6月10日、[[拓務省]]設置) :田中義一(兼任):1929年(昭和4年)6月10日 - 同年7月2日 *[[内閣書記官長]] :[[鳩山一郎]]([[立憲政友会]]・[[衆議院議員]]):1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 *[[法制局長官]] :[[前田米蔵]]([[立憲政友会]]・[[衆議院議員]]):1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 == 政務次官 == *外務政務次官:[[森恪]] *内務政務次官:[[武藤金吉]] *大蔵政務次官:[[大口喜二]] *陸軍政務次官:[[竹内友治郎]] *海軍政務次官:[[内田信也]] *司法政務次官:[[浜田国松]] *文部政務次官:[[山崎達之輔]] *農林政務次官:[[東武 (衆議院議員)|東武]] *商工政務次官:[[吉植庄一郎]] *逓信政務次官:[[秋月清]] *鉄道政務次官:[[上埜安太郎]] いずれも立憲政友会所属衆議院議員である。 == 参与官 == *外務参与官:[[植原悦二郎]] *内務参与官:[[加藤久米四郎]] *大蔵参与官:[[山口義一]] *陸軍参与官:[[高草美代蔵]] *海軍参与官:[[松本君平]] *司法参与官:[[黒住成章]] *文部参与官:[[安藤正純]] *農林参与官:[[砂田重政]] *商工参与官:[[牧野良三]] *逓信参与官:[[向井倭雄]] *鉄道参与官:[[志賀和多利]] いずれも立憲政友会所属衆議院議員である。 == 外部リンク == *[http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/26.html 首相官邸 - 田中内閣] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80%E5%86%85%E9%96%A3 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 14:40。]     

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