五代友厚

「五代友厚」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

五代友厚」(2008/12/13 (土) 19:09:13) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

[[画像:Godai Tomoatsu.gif|200px|right]] [[画像:Osaka-SE_Godai-Tomoatsu_statue.jpg|thumbnail|200px|大阪証券取引所前の銅像]] '''五代 友厚'''(ごだい ともあつ、[[天保]]6年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]([[1836年]][[2月12日]]) - [[明治]]18年([[1885年]])[[9月25日]])は、江戸末期の[[武士]]・[[薩摩藩]]士、明治期の[[実業家]]。[[薩摩国]][[鹿児島郡]]長田町城ヶ谷([[鹿児島城]]下、現[[鹿児島市]]長田町)生まれ。[[幼名]]は徳助。[[仮名 (通称)|通称]]'''才助'''。関西経済界の重鎮。「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。東の[[渋沢栄一]]、西の五代友厚とも称される。 ==経歴・人物== 『三国名勝図会』の執筆責任者で記録奉行の五代直左衛門秀尭の子として生まれ、後に分家する。[[薩摩藩]]藩士として[[長崎海軍伝習所]]に学ぶ。海外視察のため[[上海市|上海]]に密航もした。このために、藩からは[[脱藩]]の罪に問われるが、[[長崎市|長崎]]で出会った同じ薩摩藩士の[[野村盛秀]]の取り成しによって罪を許された。欧州視察後、明治元年([[1868年]])に明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、[[堺事件]]などの外交処理にあたった。また、大阪に造幣寮(現・[[造幣局 (日本)|造幣局]])を誘致した。初代[[大阪税関]]長となり、大阪税関史の幕を開けた。 明治2年([[1869年]])の退官後、金銀分析所などを設立し、鉱山経営、紡績、製藍業などをはじめ実業家として道を歩む。薩長藩閥政府との結びつきが強く、<!---[[薩摩藩]]出身者と関係が深く、--->明治8年([[1875年]])に[[大久保利通]]、[[木戸孝允]]、[[板垣退助]]らが料亭に集って意見の交換を行った「[[大阪会議]]」や、[[黒田清隆]]が批判を浴びた[[開拓使官有物払下げ事件]](参照:[[明治十四年の政変]])にも関わり、政商といわれた。 大阪株式取引所(現・[[大阪証券取引所]])、大阪商法会議所(現・[[大阪商工会議所]]、初代会頭は五代友厚)、大阪商業講習所(現・[[大阪市立大学]]、[[大阪市立天王寺商業高等学校|天王寺商業高等学校]])、大阪製銅、関西貿易社、[[共同運輸会社]]、神戸桟橋、[[大阪商船]]、[[阪堺鉄道]](現・[[南海電気鉄道]])などの設立に関わった。 [[鹿児島市]]泉町(泉公園内)、[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]の大阪証券取引所前、[[大阪商工会議所]]前に銅像が建立されている。 ==文献== *五代龍作「五代友厚伝」(1933年) *[[直木三十五]]「大阪物語第6巻五代友厚」([[改造社]]、1934年) *[[織田作之助]]「五代友厚」(現代新書、1956年) *「五代友厚秘史」(五代友厚七十五周年追悼記念刊行会、1960年) *西村重太郎「五代友厚小伝」([[大阪商工会議所]]、1968年) *「五代友厚伝記資料第1~4巻」(日本経営史研究所、1970~74年) *「五代友厚関係文書目録」(大阪商工会議所、1973年) *[[宮本又次]]「五代友厚伝」([[有斐閣]]、1981年) *真木洋三「五代友厚」([[文藝春秋]]、1986年) *小寺正三「起業家 五代友厚」([[現代教養文庫]]、1988年) *[[阿部牧郎]]「大阪をつくった男 五代友厚」(文藝春秋、1998年) *[[佐江衆一]]「士魂商才 五代友厚」([[新人物往来社]]、2004年) *[[童門冬二]]「ニッポンの創業者」([[ダイヤモンド社]]、2004年) ==関連項目== *[[鹿児島県出身の人物一覧]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8F%8B%E5%8E%9A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月15日 (土) 10:06。]     

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。