洪思翊

「洪思翊」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

洪思翊」(2009/03/03 (火) 22:35:56) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

{{Infobox 軍人 |name=洪 思翊 |lived=[[1889年]][[3月4日]] - [[1946年]][[9月26日]] |placeofbirth=朝鮮[[京畿道]]安城 |placeofdeath=フィリピン |image= |caption= |nickname= |allegiance=[[大日本帝国陸軍]] |serviceyears= |rank=陸軍中将 |commands=在比第14方面軍兵站監 |unit= |battles= |awards=死刑(マニラ軍事裁判) |laterwork= }} '''洪 思翊'''(ホン・サ・イク、こう しよく;[[1889年]][[3月4日]] - [[1946年]][[9月26日]])は[[朝鮮人]]の[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[軍人]]。[[陸軍中将]]。[[戦犯]]として[[フィリピン]]で[[処刑]]された。 ==出自== {{韓国の人物| title=洪思翊| latin=Hong Sa Ik| hangeul=홍사익| hanja=洪思翊| hiragana=こう しよく| katakana=ホン・サイク| }} [[1889年]]、[[京畿道]][[安城市 (京畿道)|安城]]の[[両班]]の家に生まれた。[[本貫]]は南陽洪氏である。[[1905年]]の[[日韓保護条約]]締結後、[[大韓帝国]]の陸軍武官学校に入学している。[[1909年]]に陸軍武官学校廃止にともない、日本の[[陸軍幼年学校|中央幼年学校]]に国費[[留学]]し、首席で卒業した後、間もなく[[陸軍士官学校_(日本)|陸軍士官学校]]に進学した。当時、陸軍士官学校には大韓帝国からの派遣留学生が何人も在籍しており、[[1910年]]の[[日韓併合]]に衝撃を受けて抗日独立運動に身を投じた者も多数いたが、洪思翊は現在決起するのは朝鮮の独立を回復するのに繋がらず、しばらく研鑽を積み実力を養成した後戦うべきとして級友達と路線を分かつ。 ==軍歴== [[1914年]]に陸軍士官学校を卒業し(26期。卒業時の成績は742人中31番)、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]に勤務、[[1923年]]には[[陸軍大学校]](35期)も卒業している。彼は士官学校時代からの旧友である韓国[[光復軍]]司令官[[李青天]]から[[大韓民国臨時政府]]に加わったらどうかと誘われたが、朝鮮の独立にはいまだ時機が至っておらず、今立ち上がることは良策ではないとして旧友の招聘を断った。だがその一方で李青天を含む旧韓国軍出身の抗日活動家と秘密裏に友情を保ち、その家族を自費を以て支援したり(これは一歩間違えば洪本人にも危険が及ぶ行為であった。)、[[創氏改名]]が行われた時も、最後まで改名を行わず、姓の洪をそのまま氏とした。この点、親日派でありながらもそれにとどまらない民族の矜持を持っていたと高く評価する声もある。また、[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]皇帝が下賜した大韓帝国の軍人勅諭を生涯身に付けていたとも言われている。 洪はその卓越した能力と研鑽で昇進を遂げ、将官の地位まで上った。[[1941年]][[少将|陸軍少将]]として歩兵第108[[旅団長]]となり、[[1944年]]3月比島俘虜収容所長として[[フィリピン]]に赴任、同年10月陸軍中将に昇進、同年12月には在比第14方面軍兵站監となって終戦を迎えた。皮肉なことにこれが長年彼が心の中で望んでいた朝鮮解放の瞬間であった。終戦後は故郷の朝鮮で教師になり静かに暮らしたいと望んだ彼だったが、結局解放された祖国を見ることは出来なかった。戦後[[連合軍]]から捕虜収容所長時代の責任を問われた洪は軍人として弁解や証言することを潔しとせず、自らについては一切沈黙を守ったままマニラ軍事法廷で[[戦犯]]として死刑判決を受け、1946年[[9月26日]][[マニラ]]で処刑された。 ==辞世の句== :「''昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ''」 :「''くよくよと思ってみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし''」 ==子息== 洪思翊は独立後の韓国では[[チンイルパ|親日派]]として糾弾の対象となった。長男の洪国善は[[早稲田大学]]を卒業後、[[朝鮮銀行]]に勤務していたが、当時の[[李承晩]][[大統領]]の直接命令により辞職させられた。また、未亡人の李清栄も、東京女子高等師範学校(現・[[お茶の水女子大学]])を卒業していたが、韓国に帰国した後は一切の職業から追放され、日本に戻らざるを得なくなった。しかし日本に協力した責任を差し引いてもなお評価に値する人物であるとする意見もある。 ==参考文献== * [[山本七平]]『洪思翊中将の処刑』上、下(筑摩書房ちくま文庫、2006年) : 上 ISBN 4480422692、下 ISBN 4480422706 * 長野為義『李朝の武人と桜花 <small>日韓史の中の洪思翊中将</small>』([[角川書店]]、1992年) ISBN 404893015X * [[名越二荒之助]]『日韓共鳴二千年史―これを読めば韓国も日本も好きになる』(明成社、2002年) ISBN 4944219113 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B4%AA%E6%80%9D%E7%BF%8A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月23日 (日) 15:06。]     
{{韓国の人物| title=洪思翊| latin=Hong Sa Ik| hangeul=홍사익| hanja=洪思翊| hiragana=こう しよく| katakana=ホン・サイク| }} {{基礎情報 軍人 | 氏名 = 洪 思翊 | 各国語表記 = | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 渾名 = | 生年月日 = [[1889年]][[3月4日]] | 生誕地 = 朝鮮京畿道安城 | 没年月日 = [[1946年]][[9月26日]] | 死没地 = フィリピン | 埋葬日 = | 埋葬地 = | 所属政体 = [[Image:Flag of Japan (bordered).svg|20px]] [[大日本帝国]] | 所属組織 = [[画像:War flag of the Imperial Japanese Army.svg|20px]][[大日本帝国陸軍]] | 軍歴 = [[1914年]] - [[1945年]] | 最終階級 = 陸軍[[中将]] | 部隊 = | 指揮 = 在比[[第14方面軍 (日本軍)|第14方面軍]]兵站監 | 作戦・戦闘 = | 功績 = | 賞罰 = 死刑(マニラ軍事裁判) | 除隊後 = }} '''洪 思翊'''(ホン・サイク、こう しよく;[[1889年]][[3月4日]] - [[1946年]][[9月26日]])は[[朝鮮人]]の[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[軍人]]。[[陸軍中将]]。[[戦犯]]として[[フィリピン]]で[[処刑]]された。 ==出自== [[1889年]]、[[京畿道]][[安城市 (京畿道)|安城]]の[[両班]]の家に生まれた。[[本貫]]は南陽洪氏である。[[1905年]]の[[日韓保護条約]]締結後、[[大韓帝国]]の陸軍武官学校に入学している。[[1909年]]に陸軍武官学校廃止にともない、日本の[[陸軍幼年学校|中央幼年学校]]に国費[[留学]]し、首席で卒業した後、間もなく[[陸軍士官学校_(日本)|陸軍士官学校]]に進学した。当時、陸軍士官学校には大韓帝国からの派遣留学生が何人も在籍しており、[[1910年]]の[[日韓併合]]に衝撃を受けて抗日独立運動に身を投じた者も多数いたが、洪思翊は現在決起するのは朝鮮の独立を回復するのに繋がらず、しばらく研鑽を積み実力を養成した後戦うべきとして級友達と路線を分かつ。 ==軍歴== [[1914年]]に陸軍士官学校を卒業し(26期。卒業時の成績は742人中31番)、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]に勤務、[[1923年]]には[[陸軍大学校]](35期)も卒業している。彼は士官学校時代からの旧友である[[韓国光復軍]]司令官[[池青天]]から、[[大韓民国臨時政府]]に加わったらどうかと誘われたが、朝鮮の独立には未だ時機が至っておらず、今立ち上がることは良策ではないとして、旧友の招聘を断った。だがその一方で、池青天を含む旧韓国軍出身の抗日活動家と秘密裏に友情を保ち、その家族を自費を以て支援したり(これは一歩間違えば洪本人にも危険が及ぶ行為であった)、[[創氏改名]]が行われた時も、最後まで改名を行わず、姓の洪をそのまま氏とした。この点、親日派ではあるが媚日派ではなく、朝鮮民族の矜持を持っていたと高く評価する声もある。また、[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]皇帝が下賜した大韓帝国の軍人勅諭を、生涯身に付けていたとも言われている。 洪はその卓越した能力と研鑽で昇進を遂げ、[[1941年]]には[[少将|陸軍少将]]に進級、歩兵第108[[旅団長]]となり、[[1944年]]3月比島俘虜収容所長として[[フィリピン]]に赴任、同年10月陸軍中将に進級、同年12月には在比第14方面軍兵站監となって終戦を迎えた。皮肉な事に、これが長年彼が心の中で望んでいた朝鮮解放の瞬間であった。終戦後は、故郷の朝鮮で教師になり静かに暮らしたいと望んだ彼だったが、結局解放された祖国を見ることは出来なかった。戦後、[[連合軍]]から捕虜収容所長時代の責任を問われた洪は、軍人として弁解や証言することを潔しとせず、自らについては一切沈黙を守ったまま、マニラ軍事法廷で[[戦犯]]として死刑判決を受け、1946年[[9月26日]]に[[マニラ]]で処刑された。 ==辞世の歌== :「''昔より冤死せしものあまたありわれもまたこれに加わらんのみ''」 :「''くよくよと思ってみても愚痴となり敗戦罪とあきらむがよし''」 ==子息== 洪思翊は独立後の韓国では[[チンイルパ|親日派]]として糾弾の対象となった。長男の洪国善は[[早稲田大学]]を卒業後、[[朝鮮銀行]]に勤務していたが、当時の[[李承晩]][[大統領]]の直接命令により辞職させられた。また、未亡人の李清栄も、東京女子高等師範学校(現・[[お茶の水女子大学]])を卒業していたが、韓国に帰国した後は一切の職業から追放され、日本に戻らざるを得なくなった。しかし日本に協力した責任を差し引いてもなお評価に値する人物であるとする意見もある。 == 参考文献 == * [[山本七平]]『洪思翊中将の処刑』上、下([[筑摩書房]][[ちくま文庫]]、2006年) : 上 ISBN 4-480-42269-2、下 ISBN 4-480-42270-6 * 長野為義『李朝の武人と桜花 <small>日韓史の中の洪思翊中将</small>』([[角川書店]]、1992年) ISBN 4-04-893015-X * [[名越二荒之助]]『日韓共鳴二千年史 <small>これを読めば韓国も日本も好きになる</small>』(明成社、2002年) ISBN 4-944219-11-3 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B4%AA%E6%80%9D%E7%BF%8A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月11日 (水) 22:41。]     

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。