唐生智

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'''唐生智'''(とう せいち、[[1889年]] - [[1970年]][[4月6日]])は、[[中華民国]]の[[軍人]]、[[中華人民共和国]]の[[政治家]]。 [[1937年]][[12月]]における[[南京]]防衛戦の総指揮官を[[蒋介石]]より任命される。7日に蒋介石が南京を脱出した後も徹底抗戦の指示を守り、[[12月9日]]の日本軍からの降伏勧告にも抵抗を以て返答。その後、南京陥落直前の12日夕方に全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」という命令を出し自らは南京城を脱出。この時に明確な撤退命令を出さず、更にこの指示は中国軍の末端までは伝わらず、多くの中国兵が指揮系統不在のまま南京に取り残され、結果、その後も散発的に戦闘が続けられる事になった<ref>南京陥落時の混乱については[[南京事件 (1937年)|南京事件]]参照。</ref>。[[中華人民共和国]]の成立以降も大陸に残る。[[1949年]]、[[湖南省]]の知事に命じられ、[[中国国民党革命委員会]]の委員、[[全国人民代表大会]]の常務委員を歴任した。 ==中国語版翻訳<ref>[http://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%94%90%E7%94%9F%E6%99%BA&oldid=3983656 2007年6月1日の版]であり、また翻訳の正確さを保証しないので正しくは原版参照のこと。</ref>== 唐生智(1889年―1970年4月6日)、[[字|字(あざな)]]を孟瀟と名乗る。湖南東安の芦洪市で生まれで中国の軍人。彼は[[中華民国]]の建国から抗日戦争が始まるまでとそれ以降とではそれぞれ異なる重要な職務を担当し、[[大将|上将]]まで出世する。国民党と共産党の内戦が起きると唐生智は湖南において中国共産党として戦い、それ以後は湖南軍に在籍する。後に政府機関に勤めたうえ、[[湖南省]]の副省長にまで出世する。唐生智の第四の弟の[[:zh:唐生明|唐生明]]は国民革命軍の中将である。 唐生知は保定陸軍士官学校を卒業の後、[[辛亥革命]]、[[:zh:護國戰爭|護國戰爭]]、[[:zh:護法戰爭|護法戰爭]]、[[北伐|北伐戦争]]などの中華民国の建国初期の重要な戦争に参加した。 [[北洋軍閥]]の時代にあっては、唐生知は湖南の軍閥に属しており、北洋軍閥が湖南から撤退した後に、唐生知は湖南省の第四師団長となった。その時、湖南省省長の[[:zh:趙恒惕|趙恒惕]]と反目し、趙恒惕を[[長沙]]に追い出した後、自ら省長の職に就いた。唐生知の敵はその時、武漢で反撃準備をしていた[[呉佩孚]]に救助を求めた。その結果、唐生知は敗戦してしかたなく長沙から退出し、北閥軍に参加することを決定した。1926年6月2日に彼は正式に部下を率いて国民革命軍に参加し、国民革命軍の第八軍の軍長を任命され、6月には再び長沙を占領した後、湖南省の主席を務めた。1927年武漢国民党の中央政治委員会委員、軍事委員会7人主席団の役員となり、武漢国民政府の委員、第4集団軍総司令官などの職に就いた。 北伐戦争勝利の後、唐生知の勢力は反[[蒋介石]]勢力と[[:zh:新桂系|新桂系]]の武漢政府の軍事勢力の主力になる。1927年11月12日に[[:zh:寧漢戦争|寧漢戦争]]の中で彼は[[:zh:李宗仁|李宗仁]]に負けて日本に逃げる。1929年4月に唐生知は国民政府軍事参議院院長、第五路線の軍の総指揮官を任せられて、蒋介石と広西チワン族軍閥との戦争に参加し、また蒋介石に倒される。10月に蒋馮戦争に参加し、反蒋介石の護党救国軍第四路総指揮官を任せられ、12月に再び石友三と連合して蒋介石に立ち向かうが敗戦して1930年に再び下野する。 1931年、広州の国民政府と軍事委員会の常務委員となる。[[満州事変]]の後で再び南京政府に帰り、南京国民政府軍事参議院院長に復任する。1935年4月に[[大将|上将]]を授与される。1937年11月に日本軍が南京に進撃した際、彼は死守を強く主張し、自ら志願して首都の警備司令官の長官を担当し、中国側の南京防衛戦の最高指揮官となった。彼は首都と共に存亡を共にすることを公言して南京に通じる長江以北の道路を封鎖する命令を下し、渡し船を廃棄して大量の市民が避難することができないようにした。彼は何ら組織な撤退を準備しない情況の下で12月12日に棄城命令を下達して、自分だけ保留するモーターボートに乗って逃走した。守備隊は指揮を失い、軍心が動揺して翌日南京は陥落し、その後とても悲惨な[[南京事件 (1937年)#虐殺の誤認と下関埠頭/挹江門|南京大虐殺]]が発生した。その後、<b>唐生知は湖南で何もせずに仏教学を研究していた</b>。 1948年11月に南京、上海に行き、蒋介石に中国共産党と停戦する和議を提案し、1949年湖南では「平和自救」運動の組織することに参加して、「湖南人民自救委員会」の主任委員に就いた。率先して湖南の平和解放を支援した。 中華人民共和国が創立した後に彼は湖南省と中南の軍区で各種の軍、政治の職務を担当して、例えば湖南省人民政府の副主席、副省長、中南の軍事と政治委員会の委員、国防委員会の委員など。彼はその時また中国国民党の革命委員会中央の常務委員、全国人民代表大会の常務委員会の委員を担当し、中国人民政治協商会議の常務委員会の委員などの職を経て、1970年4月6日に長沙で病死した。 ==朝日新聞による他説== 唐生智は徹底抗戦を叫びながら整然たる撤退作戦の指導もせず、敗残兵を城内に残したまま、12日夕刻、「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と命じて自分ひとり、ひそかに揚子江北岸に遁走したのである。その無責任と劣悪な統制能力が糾弾され<ref>[[挹江門事件|挹江門における事件]]参照。</ref>、唐生智は12月18日軍法会議にかけられ、<b>19日銃殺刑に処せられた</b>と伝えられる(「朝日新聞」12月20日)。 ==英語版翻訳<ref>2007年6月3日の版であり、また翻訳の正確さを保証しないので正しくは原版参照のこと。</ref>== しかし、首都防衛線が当初の計画どおりに進まなかっただけではなく,一般人の退却もまた計画さえ明らかにされることがなかった。 混乱の中, 組織的な退却であるはずのものが無秩序の逃走になってしまった。多くの指揮官は、何らの退却命令を下すことなく単に彼らの軍隊を放棄して勝手に逃げてしまった。10万人の(首都防御隊と数千以上の中国人部隊)は、前戦から逃げて市内に戻ってしまった。2つの連隊のみが当初の計画に従ってなんとかうまく退却できた。そして、組織的撤退計画待っていた他のすべての部隊は、日本軍の犠牲者になった。唐生知自身は、同じくほとんどそれ(組織的撤退計画)を作らなかった。 後日談によると彼が埠頭に車で都市から逃げるようとした際、日本の軍人が男の首をはね<ref>この12日夕刻の時間帯には南京北西部は逃げる市民と敗残兵でいっぱいであって、日本軍は到達していなかったので、首をはねたのは日本軍ではなかっただろう。</ref>、犠牲者の死体が落ちてきて唐生智の肩を直撃した。唐は、後方に倒れて死体の下敷きになって穴に落ちた。それに誰も気づかず、後になって彼は2人の同僚によって救われ、彼は奇跡的にこの試練から生き延びた。 蒋介石の支援と擁護があったにもかかわらず、唐生知は[[南京事件 (1937年)|南京大虐殺]]の結果を招いた失敗により非難された<ref>この非難が[[南京事件 (1937年)#蒋介石軍督戦隊または防守部隊による射殺|挹江門における混乱]]に対するものなのか、その後の[[南京事件 (1937年)#幕府山捕虜の扱いに関する事件|捕虜・敗残兵の射殺]]に対するものなのかが不明である。</ref>。 第二次世界大戦後、唐生知は国民党体制の没落までその存在が不明であった。[[:zh:白崇禧|白崇禧]]が国家主義勢力として彼の存在を追及しようとしたが不明だった。彼は国家主義勢力によって捕えられることを避けるため変装して別の場所に隠れ、中国外に出ることを避けた。その過程で片足を傷めた。彼は、[[1949年]]以降に湖南省で指揮官、および知事になった。 ==脚注== <references /> _ [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%94%90%E7%94%9F%E6%99%BA 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年10月26日 (金) 11:03。]     
'''唐生智'''(とう せいち、[[1889年]] - [[1970年]][[4月6日]])は、[[中華民国]]の[[軍人]]、[[中華人民共和国]]の[[政治家]]。 [[1937年]][[12月]]における[[南京攻略戦|南京防衛戦]]の総指揮官を[[蒋介石]]より任命される。7日に蒋介石が[[南京市|南京]]を脱出した後も徹底抗戦の指示を守り、[[12月9日]]の日本軍からの降伏勧告にも抵抗を以て返答。その後、南京陥落直前の12日夕方に全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」という命令を出し自らは南京城を脱出。この時に明確な撤退命令を出さず、更にこの指示は中国軍の末端までは伝わらず、多くの中国兵が指揮系統不在のまま南京に取り残され、結果、その後も散発的に戦闘が続けられる事になった<ref>南京陥落時の混乱については[[南京大虐殺]]参照。</ref>。[[中華人民共和国]]の成立以降も大陸に残る。[[1949年]]、[[湖南省]]の知事に命じられ、[[中国国民党革命委員会]]の委員、[[全国人民代表大会]]の常務委員を歴任した。 ==中国語版翻訳<ref>[http://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%94%90%E7%94%9F%E6%99%BA&oldid=3983656 2007年6月1日の版]であり、また翻訳の正確さを保証しないので正しくは原版参照のこと。</ref>== 唐生智(1889年―1970年4月6日)、[[字|字(あざな)]]を孟瀟と名乗る。湖南東安の芦洪市で生まれで中国の軍人。彼は[[中華民国]]の建国から抗日戦争が始まるまでとそれ以降とではそれぞれ異なる重要な職務を担当し、[[大将|上将]]まで出世する。国民党と共産党の内戦が起きると唐生智は湖南において中国共産党として戦い、それ以後は湖南軍に在籍する。後に政府機関に勤めたうえ、[[湖南省]]の副省長にまで出世する。唐生智の第四の弟の[[:zh:唐生明|唐生明]]は国民革命軍の中将である。 唐生智は[[保定陸軍軍官学校|保定陸軍士官学校]]を卒業の後、[[辛亥革命]]、[[:zh:護國戰爭|護國戰爭]]、[[:zh:護法戰爭|護法戰爭]]、[[北伐|北伐戦争]]などの中華民国の建国初期の重要な戦争に参加した。 [[北洋軍閥]]の時代にあっては、唐生智は湖南の軍閥に属しており、北洋軍閥が湖南から撤退した後に、唐生智は湖南省の第四師団長となった。その時、湖南省省長の[[:zh:趙恒惕|趙恒惕]]と反目し、趙恒惕を[[長沙]]に追い出した後、自ら省長の職に就いた。唐生智の敵はその時、武漢で反撃準備をしていた[[呉佩孚]]に救助を求めた。その結果、唐生智は敗戦してしかたなく長沙から退出し、北閥軍に参加することを決定した。1926年6月2日に彼は正式に部下を率いて国民革命軍に参加し、国民革命軍の第八軍の軍長を任命され、6月には再び長沙を占領した後、湖南省の主席を務めた。1927年武漢国民党の中央政治委員会委員、軍事委員会7人主席団の役員となり、武漢国民政府の委員、第4集団軍総司令官などの職に就いた。 北伐戦争勝利の後、唐生智の勢力は反[[蒋介石]]勢力と[[:zh:新桂系|新桂系]]の武漢政府の軍事勢力の主力になる。1927年11月12日に[[:zh:寧漢戦争|寧漢戦争]]の中で彼は[[李宗仁]]に負けて日本に逃げる。1929年4月に唐生智は国民政府軍事参議院院長、第五路線の軍の総指揮官を任せられて、蒋介石と広西チワン族軍閥との戦争に参加し、また蒋介石に倒される。10月に蒋馮戦争に参加し、反蒋介石の護党救国軍第四路総指揮官を任せられ、12月に再び石友三と連合して蒋介石に立ち向かうが敗戦して1930年に再び下野する。 1931年、広州の国民政府と軍事委員会の常務委員となる。[[満州事変]]の後で再び南京政府に帰り、南京国民政府軍事参議院院長に復任する。1935年4月に[[大将|上将]]を授与される。1937年11月に日本軍が南京に進撃した際、彼は死守を強く主張し、自ら志願して首都の警備司令官の長官を担当し、中国側の南京防衛戦の最高指揮官となった。彼は首都と共に存亡を共にすることを公言して南京に通じる長江以北の道路を封鎖する命令を下し、渡し船を廃棄して大量の市民が避難することができないようにした。彼は何ら組織な撤退を準備しない情況の下で12月12日に棄城命令を下達して、自分だけ保留するモーターボートに乗って逃走した。守備隊は指揮を失い、軍心が動揺して翌日南京は陥落し、その後とても悲惨な[[南京大虐殺]]が発生した。その後、<b>唐生智は湖南で何もせずに仏教学を研究していた</b>。 1948年11月に南京、上海に行き、蒋介石に中国共産党と停戦する和議を提案し、1949年湖南では「平和自救」運動の組織することに参加して、「湖南人民自救委員会」の主任委員に就いた。率先して湖南の平和解放を支援した。 中華人民共和国が創立した後に彼は湖南省と中南の軍区で各種の軍、政治の職務を担当して、例えば湖南省人民政府の副主席、副省長、中南の軍事と政治委員会の委員、国防委員会の委員など。彼はその時また中国国民党の革命委員会中央の常務委員、全国人民代表大会の常務委員会の委員を担当し、中国人民政治協商会議の常務委員会の委員などの職を経て、1970年4月6日に長沙で病死した。 ==朝日新聞による他説== 唐生智は徹底抗戦を叫びながら整然たる撤退作戦の指導もせず、敗残兵を城内に残したまま、12日夕刻、「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と命じて自分ひとり、ひそかに揚子江北岸に遁走したのである。その無責任と劣悪な統制能力が糾弾され<ref>[[挹江門事件|挹江門における事件]]参照。</ref>、唐生智は12月18日軍法会議にかけられ、<b>19日銃殺刑に処せられた</b>と伝えられる(「朝日新聞」12月20日)。 ==英語版翻訳<ref>2007年6月3日の版であり、また翻訳の正確さを保証しないので正しくは原版参照のこと。</ref>== しかし、首都防衛線が当初の計画どおりに進まなかっただけではなく,一般人の退却もまた計画さえ明らかにされることがなかった。 混乱の中, 組織的な退却であるはずのものが無秩序の逃走になってしまった。多くの指揮官は、何らの退却命令を下すことなく単に彼らの軍隊を放棄して勝手に逃げてしまった。10万人の(首都防御隊と数千以上の中国人部隊)は、前戦から逃げて市内に戻ってしまった。2つの連隊のみが当初の計画に従ってなんとかうまく退却できた。そして、組織的撤退計画待っていた他のすべての部隊は、日本軍の犠牲者になった。唐生智自身は、同じくほとんどそれ(組織的撤退計画)を作らなかった。 後日談によると彼が埠頭に車で都市から逃げるようとした際、日本の軍人が男の首をはね<ref>この12日夕刻の時間帯には南京北西部は逃げる市民と敗残兵でいっぱいであって、日本軍は到達していなかったので、首をはねたのは日本軍ではなかっただろう。</ref>、犠牲者の死体が落ちてきて唐生智の肩を直撃した。唐は、後方に倒れて死体の下敷きになって穴に落ちた。それに誰も気づかず、後になって彼は2人の同僚によって救われ、彼は奇跡的にこの試練から生き延びた。 蒋介石の支援と擁護があったにもかかわらず、唐生智は[[南京大虐殺]]の結果を招いた失敗により非難された<ref>この非難が挹江門における混乱に対するものなのか、その後の捕虜・敗残兵の射殺に対するものなのかが不明である。</ref>。 第二次世界大戦後、唐生智は国民党体制の没落までその存在が不明であった。[[白崇禧]]が国家主義勢力として彼の存在を追及しようとしたが不明だった。彼は国家主義勢力によって捕えられることを避けるため変装して別の場所に隠れ、中国外に出ることを避けた。その過程で片足を傷めた。彼は、[[1949年]]以降に湖南省で指揮官、および知事になった。 ==脚注== <references /> _ [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%94%90%E7%94%9F%E6%99%BA 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月11日 (土) 20:18。]     

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