日本海海戦-2

「日本海海戦-2」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

日本海海戦-2」(2009/03/07 (土) 22:57:42) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

{{Infobox 軍人 |name=東郷 平八郎 |lived=[[1848年]][[1月27日]]&ndash;[[1934年]][[5月30日]] |placeofbirth=[[薩摩国]][[鹿児島城]]下 |placeofdeath=[[東京市]] |image=[[Image:Tōgō Heihachirō.jpg|center|250px]] |caption=元帥海軍大将 東郷平八郎 |nickname=東洋のネルソン<br>世界三大提督 |allegiance=[[大日本帝国海軍]] |serviceyears=[[1863年]]&ndash;[[1913年]] |rank=[[元帥 (日本)|元帥]][[海軍大将]] |commands=[[舞鶴鎮守府]]司令長官<br />[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]司令長官<br />[[連合艦隊司令長官]] |unit= |battles=[[薩英戦争]]<br />[[戊辰戦争]]</br>[[日清戦争]]<br>[[日露戦争]] |awards= [[従一位]]・[[大勲位]]・[[功一級]]・[[侯爵]]・[[メリット勲章]] |laterwork=東宮御学問所総裁 |Mausoleum=[[東郷神社]] }} '''東郷 平八郎'''(とうごう へいはちろう、[[1848年]][[1月27日]]([[弘化]]4年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[1934年]]([[昭和]]9年)[[5月30日]]は、日本の[[武士]]・[[薩摩藩]]士、[[大日本帝国海軍]][[軍人]]である。[[本姓]]は[[桓武平氏]]渋谷氏流。[[元帥_(日本)|元帥]][[海軍大将]]・[[従一位]]・[[菊花章|大勲位]]・[[金鵄勲章|功一級]]・[[侯爵]]・[[メリット勲章|OM]]。 [[明治時代]]の日本海軍の司令官として[[日清戦争|日清]]・[[日露戦争]]の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。[[連合艦隊]]を率いて日露戦争における[[日本海海戦]]で当時屈指の強さを誇った[[ロシア海軍]]を破って世界の注目を集め、当時の西洋の[[ジャーナリスト]]らは東郷を「'''東洋のネルソン'''」と賞賛した。日本海海戦での敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督と評価され、日露戦争の英雄として[[乃木希典]]と並び称された。 [[ホレーショ・ネルソン]]、[[ジョン・ポール・ジョーンズ (軍人)|ジョン・ポール・ジョーンズ]]と並ぶ[[世界三大一覧#軍事|世界三大提督]]の一人でもあり世界の[[海軍将校]]から'''アドミラル・トーゴー'''(''Admiral Togo'' 、東郷提督)としてその名を知られている。 == 生涯 == === 生い立ち === [[薩摩国]][[鹿児島城]]下の下加冶屋町に、[[薩摩藩]][[武士|士]]・[[東郷吉左衛門]]実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。[[幼名]]は仲五郎、14歳の時[[元服]]して平八郎実良と名乗る。[[1867年]](慶応3年)6月に分家して一家を興す。薩摩藩士として[[薩英戦争]]に従軍し、[[戊辰戦争]]では新潟・函館に転戦して[[阿波沖海戦]]や[[箱館戦争]]、[[宮古湾海戦]]で戦う。 === イギリス留学 === [[Image:Togo in Europe.jpg|200px|thumb|留学時の東郷(1877年)]] [[大政奉還]]、[[明治]]の世の中になると海軍士官として[[1871年]](明治4年)から[[1878年]](明治11年)まで、イギリスの[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]に官費[[留学]]する。東郷は当初[[鉄道]]技師になることを希望していた。イギリスに官費留学する際、最初は[[大久保利通]]に「留学をさせてください」と頼み込んだが、大久保は「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」と言い断った。次いで[[西郷隆盛]]に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定した。東郷の才能を軍人にあると見込んだ[[西郷隆盛]]の人物眼の確かさをも物語るものであろう。 当初英国ダートマスの[[海軍兵学校 (イギリス)|王立海軍兵学校]]への留学を希望したが英国の事情で許されず、[[商船学校]]のウースター協会で学ぶことになる。留学先では「togo、china」とからかわれるなど苦労が多く、おしゃべりだった性格はすっかり無口になってしまったと言われている。しかし[[宮古湾海戦]]に参戦していたことを告げると、一躍英雄として扱われることとなった。この留学の間、[[国際法]]を学び、このことが日清戦争時、防護巡洋艦[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]の[[艦長]]として国際法に違反していないと判断し、停船の警告に応じない英国の商船(高陞号)を撃沈した際の、正しい法的判断を行えたとされる。さらに、このときの沈着な判断力が、のちに連合艦隊司令長官に人選される要素となった。 帰国途上、西郷隆盛が[[西南戦争]]を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際、東郷の実兄である[[小倉壮九郎]]は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。 === 日清戦争 === [[画像:ADMIRALTOGO.jpg|200px|thumb|[[日露戦争]]を前にして撮影、1903年]] [[1894年]](明治27年)の[[日清戦争]]では「[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]」[[艦長]]を務め、[[豊島沖海戦]](イギリス船籍の[[高陞号撃沈事件]])、[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]、威海衛海戦で活躍する。 日清戦争後病床に伏す。[[1901年]](明治34年)には[[舞鶴鎮守府]]初代司令長官に就任した。これは閑職であったとされているが、来る対露戦を想定して設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。但し、東郷自身は中央への移動を希望していたようである。しかしながら日露開戦前の緊迫時期に海軍首脳の[[山本権兵衛]]に呼び戻され、[[1903年]](明治36年)12月に[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]兼連合艦隊司令長官に就任する。本来は常備艦隊司令長官である[[日高壮之丞]]がそのまま就任するのが筋であったが、山本が我の強い日高を嫌って命令に忠実な東郷を据えたのだといわれる。しかし実際には、日高が健康問題を抱えており指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実戦経験豊富な東郷が至極順当に選ばれたというのが真相であった。 またこの時、[[明治天皇]]に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われている。 === 日露戦争 === [[画像:MIKASAPAINTING.jpg|250px|thumb|連合艦隊旗艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]のブリッジで指揮をとる東郷、1905年]] [[1904年]](明治37年)2月10日からの[[日露戦争]]では、旗艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]に座乗してロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃([[旅順港閉塞作戦]])や[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。 そして[[1905年]](明治38年)[[5月27日]]、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきた[[ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー|ロジェストヴェンスキー]]提督率いるロシアの[[バルチック艦隊]](ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この[[日本海海戦]]に際し、「''敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し''」と[[秋山真之]]参謀が起草し[[大本営]]に一報を打電した。また、艦隊に対し、「''皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ''」と[[Z旗]]を掲げて全軍の士気を鼓舞した<ref>晩年になってこの文言を、1932年の軍人勅諭奉戴五十周年記念放送において[[レコード]]に録音した。このことで肉声が残っている。</ref>。東郷は丁字戦法「トウゴウ・ターン」を使って海戦に勝利を納めた。 この海戦における勝利は、当時[[帝政ロシア|ロシア]]の圧力に苦しんでいた[[トルコ]]においても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は国民的英雄としてもてはやされた。その年に同国で生まれた子供たちの中には、'''トーゴー'''と名づけられる者もいた。 === 日露戦争後 === 日本海海戦での勝利により海軍大将に昇進する。日露戦争終了直後、訪問艦にてイギリスに渡洋、他の将校・乗組員とともに[[サッカー]](フットボールリーグ、[[ニューカッスル・ユナイテッド]]のホームゲーム)を観戦<ref>[[ニューカッスル・ユナイテッド]]、初期の黄金期の出来事である</ref>。[[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]]は[[造船所]]や兵器工廠、砲廠アームストロング社などがあり、日本にとって重要な取引先であり留学先でもあった。[[日本海海戦]]にもこの造船所で作られた戦艦が多数参加、主力艦を占めた。 [[1905年]](明治38年)から[[1909年]](明治42年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任し、[[1906年]](明治39年)、日露戦争の功により[[大勲位菊花大綬章]]と功一級[[金鵄勲章]]を受章、[[1907年]](明治40年)には[[伯爵]]に叙せられる。[[1913年]]([[大正]]2年)4月には[[元帥_(日本)|元帥]]に列せられ、帝の御前での杖の使用を許される。[[1926年]](大正15年)に[[大勲位菊花章頸飾]]を受章した。同時期の受章者は[[皇太子]]・[[昭和天皇|裕仁親王]]と[[閑院宮載仁親王]]だけであった。 また、[[タイム (雑誌)|タイム誌]]の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなった。 === 晩年 === [[Image:Togo&Tetsu.jpg|200px|thumb|妻テツと(1913年)]] [[末次信正]]、[[加藤寛治]]らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用し[[軍令]][[軍政]]に干渉した。[[1930年]](昭和5年)の[[ロンドン海軍軍縮会議]]に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題はその典型であるが、その他に明治以来の懸案であった兵科と機関科の処遇格差の是正(一系問題。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても東郷は改革案に反対した。結局、この問題は終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。その他にも、第一種軍装を詰襟から[[イギリス|英国]]式のダブルに変更する案が出たが、「''この服''(詰襟を指す)''で、日本海海戦に勝ちました''」との東郷の一言で、変更の話は立ち消えになってしまった。 壮年時代はよく遊び、[[料亭]]に数日間も居続けたり、[[鉄砲]]打ちに出かけたりしたが、晩年は質素倹約を旨とし、趣味といえば[[盆栽]]と[[碁]]を嗜む程度であった。自ら七輪を用いて、料理をすることもあったという。しかし新聞記者に対し妻が、新婚時代内職して家計を支えたエピソードを話すと、家族に経済的心配を掛けたことはないと激怒した。 === 死去 === [[1934年]](昭和9年)、87歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。死去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。[[6月5日]]に国葬が執り行われた。国葬の際には[[イギリス帝国]]海軍東洋艦隊旗艦の重巡洋艦ケント、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]海軍アジア艦隊旗艦のヒューストンや[[フランス]]、[[オランダ]]、[[イタリア]]、[[中国]]の艦船が直ちに[[東京湾]]を目指して出港。[[儀仗隊]]を葬列に参加させ、弔砲を定刻に発砲し、偉大な功績を称えた<ref>中国の軍艦寧海は国葬時刻に間に合わぬと判断し、儀仗隊を[[下関市|下関]]から列車で東京に向かわせ、自らは後日弔意を示した</ref>。<!--国葬がもう少し遅ければ更に多くの各国海軍が駆けつけたものと予想される。{{要出典}}--> 東郷の遺髪は[[英海軍]]の[[ホレーショ・ネルソン]]の遺髪と共に[[幹部候補生学校#海上自衛隊幹部候補生学校|海上自衛隊幹部候補生学校]]([[江田島基地|江田島]])に厳重に保管されている。 子孫には[[海軍兵学校]]40期生で少将になった息子の[[東郷実 (海軍軍人)|東郷実]]、その子で72期生の東郷良一(少尉で重巡洋艦[[摩耶]]に乗組み、[[比島沖海戦]]で戦死し2階級特進で大尉になった)、曾孫には[[防衛大学校]]卒の幹部[[海上自衛官]]がいる。 == 影響 == === 神格化と批判 === [[画像:東郷元帥記念公園.jpg|thumb|right|250px|東郷元帥記念公園(東京都千代田区)]] 死後[[東京都]][[渋谷区]]と[[福岡県]][[宗像郡]][[津屋崎町]](現[[福津市]])に「[[東郷神社]]」が建立され[[神]]として祭られた。但し東郷自身は生前[[乃木神社]]建立の時、将来自身を祭る神社の設立計画を聞いて、止めて欲しいと強く懇願したが、結局神社は建立されている。また銅像が[[長崎県]][[佐世保市]]の旧海軍墓地[[東公園 (佐世保市)|東公園]]と[[鹿児島県]][[鹿児島市]]の多賀山公園にある。東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]には別荘地に建立された東郷寺があり、桜の名所である。 晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた。[[海軍省]]内では[[伏見宮博恭王]][[軍令部総長]]とともに「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障碍とみなされた。[[井上成美]]は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐している。また[[岡田啓介]]・[[米内光政]]・[[山本五十六]]なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。 錬度を上げることに熱心で[[聯合艦隊解散之辞|聯合艦隊解散の辞]]に「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」という言葉を残している。この言葉が東郷の信念を表すとともにその後の日本海軍の姿勢と限界(後に[[井上成美]]は「百発百中の砲一門と百発一中の砲百門が撃ち合ったら,相手には百発一中の砲九十九門が残る」と批判)をも示したものとなっている{{要出典}}。 [[昭和天皇]]は[[学習院]]時代、院長であった[[乃木希典]]については印象深く、尊敬もしていると述べているが、東宮御学問所総裁であった東郷については、後年、記者の質問に「何の印象もない」と答えている。 東郷元帥の名を冠した「東郷鋼(はがね)」という[[鉄鋼]]製品が作られていた事から、東郷元帥に反発する海軍内の佐官や将官の手で「東郷バカネ」という[[地口]]が作られ、流布したという。ただ実際は海外鋼輸入[[問屋]]河合鋼鉄のライバル流通が考え出した[[洒落]]という説もある。日本の産業界が当時、国産第一を標榜していた背景で考察する事も可能である(参考、「たたらのはなし」日立金属HP)。 === 東郷ビール伝説 === 「長年[[ロシア]]の圧迫を受けてきた北欧諸国では人気絶大で、[[フィンランド]]では東郷の肖像をラベルにした[[ビール]]が売られていた」といういわゆる「東郷ビール伝説」があるが、これは[[1970年]]から[[1992年]]まで製造され[[2003年]]に復刻版製造された「提督ビールシリーズ」の一つで、[[山本五十六]]、また日露戦争で東郷と戦ったロシアの[[ステパン・マカロフ]]、[[ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー]]両提督も同じシリーズのラベルになっており、フィンランドで特別に東郷平八郎が人気絶大といった事実はない。東郷のラベルのものは[[1971年]]製造開始された。なお現在日本で販売されている「東郷ビール」は、[[オランダ]]で製造されているプライベートビールに日本の会社がフィンランド「提督ビールシリーズ」で使われた東郷ラベルをつけているものである。 == 逸話 == 死後、私邸が[[東郷元帥記念公園]]として使用される。現在でも私邸に置かれていた獅子像などが残っている。 一般に寡黙、荘重という印象があるが、時として軽忽な一面もみせた。晩年学習院に招かれた際、講演中に生徒に「将来は何になりたいか」と質問し「軍人になりたい」と答えた生徒に''「軍人になると死ぬぞ」 「なるなら[[大日本帝国陸軍|陸軍]]ではなく[[大日本帝国海軍|海軍]]に入れ。海軍なら死なないから」''と発言し、[[陸軍大将]]であった[[乃木希典]]院長を憮然とさせたというエピソードがある。 東郷は宮古湾海戦にて奮戦、戦死した[[甲賀源吾]]を軍人として尊敬していた。また、明治新政府によって逆賊として斬首に処せられた[[小栗忠順]]の名誉を後に回復している。[[日本海海戦]]でバルチック艦隊を破って後、山村で隠棲していた彼の遺族を私邸に招き、「日本海海戦で勝利を得たのは、(小栗上野介が生前に建造した)[[横須賀造船所]]で艦隊の十分な補給と整備を受けることができたからである」と故人の功績を称え、感謝の言葉を惜しまなかったという。 東郷の国葬に併せて米英両国から日本向けに追悼のメッセージが[[ラジオ]]で放送された。アメリカからは[[ウィリアム・スタンドレイ]][[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長]]のメッセージが[[NBC]]から、イギリスからは[[ボルトン・イヤーズ=モンセル]][[海軍省 (イギリス) |海軍大臣]]のメッセージが[[英国放送協会]]からそれぞれ放送されたが、アメリカからの放送では予定より早く終了したため、時間調整に日本の曲として『お江戸日本橋』『かっぽれ』という、おおよそ追悼に似つかわしくない音楽が放送されてしまうというハプニングが起こった。この模様が全国に生中継されてしまった日本国内では、アメリカ側の選曲を問題視する声が一部で出たという。 ワシントン軍縮条約の結果主力艦の保有比率が対米英6割と希望の7割より低く抑えられたことに憤激する将官達に向かって、「でも訓練には比率も制限もないでしょう」と諭したと言われる。(伊藤正徳著「連合艦隊の最後」) 日本海海戦時[[カール・ツァイス]]の[[双眼鏡]]を敵の沈没状況や降伏確認に使用した。この双眼鏡は5倍と10倍兼用で、発売されて間もない[[1904年]](明治37年)小西本店(現[[コニカミノルタホールディングス]])が輸入したもの。現在は三笠記念館に収蔵されている。 元国連事務総長の[[ブトロス・ガリ]]は日本に来ると必ず東郷神社に参拝した。[[エジプト]]出身であるガリは「小さい頃、ものすごく励まされた、心を解放された」と言っている。 水生昆虫の[[カワゲラ]]には[[トウゴウカワゲラ属]](''Togoperla'' )がある。これは、[[チェコ]]人昆虫学者Frant Klapálekが東郷平八郎にちなんで名づけたとされ、他にも[[オオヤマカワゲラ]]([[大山巌]])、[[ノギカワゲラ]]([[乃木希典]])、[[カミムラカワゲラ]]([[上村彦之丞]])と名づけられたカワゲラ属が存在する。 == 系譜 == * '''[[薩摩東郷氏|東郷氏]]''' [[桓武平氏]]渋谷氏流 <pre> 吉左衛門実友━┳四郎兵衛実猗        ┣祐之進(夭折)         ┣小倉壮九郎        ┣平八郎━━━━┳彪━━┳一雄―=┳良夫━━┳良久━━┳龍太        ┗四郎左衛門実武┣實  ┣良子  ┣尚子  ┗平   ┗将平                ┗八千代┗百子  ┗宗子 </pre>       == 東郷を演じた俳優 == * [[田崎潤]] - 『[[明治天皇と日露大戦争]]』 * [[三船敏郎]] - 『[[日本海大海戦]]』・『[[日本海大海戦 海ゆかば]]』 * [[渡哲也]] - 『[[坂の上の雲]]』([[日本放送協会|NHK]]・21世紀スペシャル大河ドラマ) == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> == 参考文献 == * [[真木洋三]] 『東郷平八郎 (上・下)』 ISBN 4163084304 ISBN 4163084401 ISBN 416730502X ISBN 4167305038 * [[星亮一]] 『沈黙の提督―海将 東郷平八郎伝』 ISBN 4769809891 * [[生出寿]] 『海軍の父 山本権兵衛~日本を救った炯眼なる男の生涯』 ISBN 4769804504 ISBN 4769820542 * 『日本戦艦史』(『世界の艦船』増刊号)海人社、1988 * [[アレクセイ・ノビコフ=プリボイ|ノビコフ, プリボイ]] 『ツシマ―バルチック艦隊の壊滅 (上・下)』 ISBN 4562014768 ISBN 4562022515 ISBN 4562022523 * [[司馬遼太郎]] 『坂の上の雲』 ** 文春文庫(1999年版): 1 ISBN 4167105764、2 ISBN 4167105772、3 ISBN 4167105780、4 ISBN 4167105799、5 ISBN 4167105802、6 ISBN 4167105810、7 ISBN 4167105829、8 ISBN 4167105837 * [[吉村昭]] 『海の史劇』、新潮文庫、ISBN 4101117101 == 関連項目 == {{Commons|Category:Togo Heihachiro}} * [[東郷彪]] * [[鹿児島県出身の人物一覧]] * [[明治の人物一覧]] * [[大日本帝国海軍軍人一覧]] * [[海軍記念日]] * [[伊和都比売神社]] * [[宗像大社]] * [[日英関係]] * [[東郷神社]] * [[聯合艦隊解散之辞]] * [[加瀬俊一 (1925年入省)]] * [[肉じゃが]] - 東郷平八郎が[[ビーフシチュー]]を模して作らせたのが由来とされる。 == 外部リンク == * [http://www4.airnet.ne.jp/soutai/07_douzou/20_to/tougou_heihatirou.html 東郷平八郎 銅像] * [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/141.html?c=8 近代日本人の肖像]([[国立国会図書館]]) * [http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tougo_k.html 東郷氏系譜] * [http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/ 記念艦みかさ公式ホームページ(財団法人三笠保存会)](世界三大[[記念艦]]として横須賀市の三笠公園に保存) * [http://suomi.racco.mikeneko.jp/Elama/togo-j.html フィンランド語](東郷の顔入りラベルのビールについて) * [http://www.russojapanesewar.com/galsworthy.html 高陞号船長(T.R.Galsworthy)の報告書(英文)] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月29日 (土) 16:50。]     
前半は[[日本海海戦]]参照 == バルチック艦隊の敗因 == === 長途の航海 === バルチック艦隊は33,340キロもの長大な距離を1904年10月15日から1905年5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは水兵の間に潜在的にまん延していた。[[カムラン湾]]出航後は[[ウラジオストク]]まで寄港できる港がなく、またウラジオストクでも補給は期待できないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積み込んでいた。このためただでさえ実際の[[排水量]]が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦は更に排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、[[復元力]]の低下につながり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。 長期の航海では船底についた[[貝]]や[[フジツボ]]が船足を落とす。当時の軍艦は2か月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは本格的には[[ドック]]に入らなければできない作業であったから、長い航海の間にバルチック艦隊は徐々に性能を落としていったといえる。 また、燃料である石炭も、無煙炭の確保に苦労した結果、艦自体のスピードの低下や、もうもうと吐く黒煙によって艦隊の位置を知らせてしまう失態を演じてしまった。 === 編制・装備 === バルチック艦隊の上級将校の多くは自艦隊の「強い」という世界的評判に自信を持っており、日本海に現れるだけで日本艦隊は恐れて攻撃を控えるだろうという期待をしていた者すらいた。一方で、当時のロシア社会は、上級士官である[[貴族]]が水兵である[[庶民]]を支配するという構造的問題を抱えていた。上官と兵士ではなく、主人と奴隷のような関係の軍隊は、時に対立や非効率を産んだ。水兵の中にも[[ロシア革命]]にも繋がる自由思想の芽が育ち始めた時期で、無能な高級士官への反発が戦う意義への疑問を産み、士気を削いでいた。結果、[[サボタージュ]]行為が頻繁に見られた。 ロシア海軍の水兵の内、優秀な者は太平洋艦隊と黒海艦隊に集められており、バルチック艦隊の水兵の質は最も低かった。航海前に多くの新水兵を乗せたが、[[マダガスカル]]での長期滞在中など、十分に戦闘訓練を行ったものの目的が明かでなく「訓練のための訓練」となってしまって実戦に有効でなかった。 バルチック艦隊主力の[[ボロジノ級戦艦]]の中には、完工しておらず工員を乗せたまま出港した艦もあった。ロシア艦は家具調度品や石炭などの可燃物を多く積んでいた。当時の艦艇は木造部分が多く、浸水よりも火災で戦闘不能になることが多かった<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。 === 指揮統率 === バルチック艦隊司令部は長い航海の終わりに疲れきった状態での戦闘を避けるべく、終始、守勢の行動をとった。また、ウラジオストクに一目散に逃げ込んで、十分な休養の後、日本艦隊と対峙しようという考えも、決戦の勢いを鈍らせた。結果、自艦隊に有利な状況での先制攻撃の決心を欠き、チャンスを生かせなかった。ロジェストヴェンスキー提督が規律を重んじすぎる性格で、各艦の勝手な発砲に過敏なほど嫌悪感を示した影響も大きい<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。 後年、東郷は緒戦でロシア艦隊の隊形の不備を指摘して「ロシアの艦隊が小短縦陣(2列縦列)で来たのが間違いの元だったのさ、力の弱い第二戦艦隊がこちら側にいたから、敵が展開を終えるまでに散々これを傷めた。あのときもし、単縦陣で来られたらああは易々とならなかったろう」と述べている。<ref>木村勲著 『日本海海戦とメディア』 講談社 2006年5月10日第1刷発行 ISBN 4-06-258362-3</ref> === 気象 === 海戦当日の気象は、「天気晴朗ナレドモ浪高シ」とあるように、風が強く波が高く、東郷らの回り込みによって風下に立たされたバルチック艦隊は、向かい風のために砲撃の命中率がさらに低くなった。[[喫水]]線を高く設計したロシアの艦艇は、波が高いと無防備の喫水線以下をさらけ出すことになり、[[魚雷]]1発だけで撃沈された。さらにこの構造は波高の時は転覆しやすかった<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。 == 連合艦隊の勝因 == === 日英同盟 === 日英同盟の恩恵として、ロシアの同盟国フランスは事あるごとに英国の干渉を受けたため、局外中立を堅持せざるを得なくなり、バルチック艦隊はフランス植民地の港湾での本格的支援を受けることができなかった。一方日本はイギリスからバルチック艦隊の行動に関する情報を随時入手することができた。さらに、イギリス製の新型射撃盤、最新型の[[三六式無線電信機]]など、当時最新の軍事技術を利用することができた<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。 === 指揮統率 === 連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、指揮能力、統率能力も秀でていた。東郷大将は、死を覚悟した超最前線で、敵の動向に瞬時に対応する陣頭指揮を行いつつ、幕僚を戦艦三笠で最も安全な場所に移動させ、自らの戦死の後の指揮をも保障するほどの繊細な指揮をとった。東郷は旅順封鎖の期間中も演習を行い、十分に艦隊の練度を挙げていた。直前の黄海海戦などの戦闘経験と、その勝利によって士気が高かった。また、黄海海戦の教訓を十分に活かした。複数の艦を同時に自由に反転させるなどの様々な艦隊運動を思いのままに行うことが出来た。このため、逃げ回るバルチック艦隊の風上に常に回りこみ、見事な艦隊を維持しながら、猛烈な砲撃を加え続けることが出来た。当時、このような複雑な艦隊運動を自由自在に行うことが出来るのは、イギリス海軍と日本海軍だけであると言われた。 ===参謀による作戦の実施 === 連合艦隊司令部は第1艦隊参謀秋山真之、第2艦隊参謀佐藤鉄太郎という俊才を参謀に擁し、上層部、参謀集団もその意見をよく重用しつつ、組織的、有機的に、最善の判断を行うよう常に努力した。秋山参謀は「智謀湧くがごとし」と絶賛されるほどの天才だった。また、各艦隊司令官・各艦艦長は必要に応じて独自の判断で行動する高い能力を持ち、高速巡洋艦からなる第二艦隊には猛将といわれた上村将軍が任命されるなど適材が適所に配属されていた。バルチック艦隊の旗艦の急転回に対し、東郷司令長官が判断を誤ったため、第1艦隊はバルチック艦隊を逃がしてしまう。この時、佐藤参謀がその判断が誤りであることを見抜き、上村提督率いる第2艦隊が、その高速性を生かしてバルチック艦隊を猛追撃し、戦艦相手に至近距離での砲撃戦を行い、第1艦隊の方向へバルチック艦隊を追い込み、結果的に挟み撃ちに持ち込んだことが海戦の完全勝利を確定させた<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。 === 戦術 === ==== 丁字戦法 ==== 連合艦隊は丁字戦法を採用した。実際の進展は次のようなものだった。 # 敵艦隊に対して平行にすれ違う航路(反航)をとる # すれ違い直前で敵前回頭を行う # 自艦隊の足の速さを頼りに敵艦隊の先頭に対して斜め後方から敵進路を遮蔽する(このため、実際には「丁」より「イ」に近い形になる) 当時の海戦の常識から見れば、敵前での回頭(しかも2分あまりを費やしての160度もの回頭)は危険な行為であった。実際、旗艦であり先頭艦であった[[三笠 (戦艦)|三笠]]の被弾数48発の内、実に40発が大回頭時に無防備になった右舷に集中しており、帰還時の三笠は、突き刺さった砲弾の重みだけで、かなり右舷側に傾いていたという。しかし、一見冒険とも思える大回頭の2分間には、日本海軍の緻密な計算と英断が込められていた。それは次のようなようなものである。 # 確かに連合艦隊は2分間余り無力になるが、バルチック艦隊には照準合わせなどのため数十秒から1分程度の時間がどうしても必要であり、第1弾を打つまでに時間がかかる。 # 当時は照準計の精度が悪く、第1弾が艦橋や主砲などの主要部に1発で命中することはごく稀であった。 # そのため、第1弾の着弾位置(水柱)から照準を修正して第2弾を正確に命中させるという手法をとることが多かった。しかしバルチック艦隊が使用していた黒色火薬は、発砲後にその猛烈な爆煙によって視界が覆われ、煙が晴れて第2弾を放つまでに時間がかかる。すなわち回頭中に第2弾は飛来しないか、慌てて撃つため命中精度が極めて低い。 # バルチック艦隊は当然旗艦である三笠を集中砲撃するが、東郷としては最新鋭で最も装甲の厚い三笠に被弾を集中させ、他艦に被害が及ばないことを狙った<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。万一三笠が大破し、自らが戦死してでも丁字の状態を完成させることを最優先とした。東郷は砲弾飛び交う中、艦橋を一歩も動かなかった。 また、前述の旅順封鎖中などの艦隊訓練により、東郷は各艦の速度、回頭の速さなどをいわゆる「クセ」を見抜いており、これが敵前大回頭を始める位置を決めるのに役立った。 常識にとらわれず、合理的に勝利を追求した結果、丁字戦法を成功させた。敵艦隊に対する十分な分析と、有効射程範囲のギリギリの所を見極めて「トーゴー・ターン」を決めた東郷の采配は、連合艦隊を勝利へと導いた。 ==== 発射速度 ==== 連合艦隊は大口径砲の門数で劣っていたため射撃精度とともに速射も重視していた。 当時英国より輸入した[[コルダイト]](硝酸エステル系無煙火薬)は発砲しても煙が少なく速射に有利であり、連合艦隊は発射速度においてバルチック艦隊を上回った。バルチック艦隊の主砲は新型戦艦以外発射速度が非常に遅く、遠距離砲戦で命中弾を期待するのは非常に難しかった。 ==== 斉射戦術 ==== 日露戦争以前の砲戦では各砲がバラバラのタイミングで発砲していた。この方法は砲が小さく射程が短い時代は有効であったが、砲が大型化し射程が伸びるにつれて、着弾が判りにくいこと、発射の衝撃で船体が揺れ照準が狂うことなどの問題が生じていた。日露戦争で日本海軍は、艦橋から射撃諸元とタイミングを伝声管で伝えて一斉射撃を行なう斉射戦術を世界にさきがけて実戦で採用し、事前の訓練の成果もあって高い命中率を記録した。一斉射撃で砲弾の雨を瞬時に敵に浴びせさせる近代戦術で、バルチック艦隊が一方的に火達磨になるのを目の前に見せられた世界の観戦武官は驚愕した。 一方バルチック艦隊では、各砲がめいめいに発砲する従来どおりの戦術(独立撃ち方)を用いた。さらに[[黒色火薬]]による真っ黒な煙によって視界が遮られ砲側観測が満足に行なえなかった。このため正確さを欠いたままの連続射撃しか行なえず低い命中率に止まった。なお、日露戦争の直後にイギリスで、斉射戦術に特化した新型戦艦[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]が開発される<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。 ==== 艦隊編成 ==== 連合艦隊は常に速力・火力が同じ2隻が1組となって敵と対峙し、2対1の優位な状態で戦えるようにしていた。連合艦隊は同種の艦をグループにまとめるように留意しており、第1艦隊は砲戦力、第2艦隊は機動力、第3艦隊は旧式艦としてはっきり運用の仕方を分けていた。このため、艦隊運動による効率的な攻撃、追撃、退避が可能になり、バルチック艦隊を逃さない徹底的な追撃戦を行えた。バルチック艦隊は速力の速い艦と遅い艦が混在した艦隊編成をとっていた<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。 === 新技術 === ==== 伊集院信管 ==== 当時の艦砲は[[徹甲弾]]で威力が小さく敵艦の装甲を貫通できないことが多かった。[[榴弾]]も[[信管]]に問題があり、敵艦に命中しても爆発しない[[不発弾]]が多かった。連合艦隊は徹甲弾による装甲の貫通よりも榴弾による上部構造の破壊を狙い、信管に[[伊集院五郎]]少将の開発した[[伊集院信管]]を採用した。この信管は鋭敏で、ロシア艦の装甲面で破裂した砲弾は[[下瀬火薬]]の特性によって火災を発生させ、上部構造を殲滅し無力化させた。 ロシアの砲弾は徹甲弾なので煙突などに当たると穴をあけてそのまま突き抜け反対側の海中に落下する。しかし日本の砲弾は瞬発式で、ロープに当たってもその場で破裂、下瀬火薬の猛烈な爆速で、何もかも粉々になぎ倒したうえ、その高温で火の海にしたのである<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。ロシア艦隊に下瀬火薬の豪雨を一方的に浴びせたことが、ワンサイドゲームの一因とされる。 ただ、伊集院信管はあまりに鋭敏なため、[[腔発|膅発]]事故の原因と疑われることもあった。「膅発」とは、連続射撃を経た砲身が赤熱することによって、発射時に砲弾が砲身内で爆発する事故で、[[第一次世界大戦]]直前に防止装置が発明されるまでは発生確率は高かった<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。日本海海戦では「三笠」と「日進」および「アリヨール」で膅発が発生した。後の連合艦隊司令長官[[山本五十六]](当時は高野姓)は少尉候補生として「日進」に乗り組んで海戦に参加したが、この膅発に巻き込まれ、左手の指2本と右足の肉塊6寸を削ぎ取られる重傷を負った。 ==== 下瀬火薬 ==== 連合艦隊は砲弾の炸薬に[[下瀬火薬]]を導入した。これは当時炸薬の主流であった黒色火薬より爆速がすさまじく速く、命中時の破壊規模は当時の火薬常識を大きく超え、ロシア艦の構造物は粉々に破壊された。戦後、ロシア艦の破壊の凄まじさから日本に謎の下瀬火薬ありと諸外国から恐れられた。さらに、下瀬火薬はその高熱によってペンキなどの可燃部全てを燃やし、粉々に破壊した甲板を火の海にした<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。生き残ったロシア水兵は「今でも信じられない、鉄の大砲が炎を上げて燃えていた」と下瀬火薬の恐怖を述懐している。 下瀬火薬は海軍技師の[[下瀬雅允]]博士がフランスの[[ピクリン酸]]を主成分とする「メリニット」火薬を分析・コピーしたものであるとされている。しかし、当時の火薬技術は国家機密であり、その詳細を日本が入手することは困難であり、下瀬博士自身は、独自開発を主張している。ヨーロッパではメリニットの高感度性と毒性を嫌って使用されなかったが、日本海軍では爆発事故の可能性には目をつむって砲弾の威力を優先した<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。下瀬博士は爆発事故で重症を負いながらも猛研究を行い、弾体の内部に[[漆]]を塗ると鉄とピクリン酸の反応を防げることを発見、これを実用化して砲弾を完成させた。しかし日本海軍には砲弾を長期間保管したときの安全性を検証する余裕がなかったため、日露戦争後に戦艦「三笠」の爆発沈没事故<ref>「三笠」爆発沈没事故の原因は不明であり、下瀬火薬原因説の他にも水兵の飲酒説など諸説がある。</ref>をはじめ何度も爆発事故を起こし、多数の死傷者を出したといわれている。 ==== 三六式無線電信機 ==== 当時、[[無線]]電信技術は[[グリエルモ・マルコーニ]]によって1894年頃に発明されたばかりだった。日本海軍はこの最新技術をいち早く採用し、1903年に[[三六式無線電信機]]を制式採用した。三六式無線電信機は、信濃丸によるバルチック艦隊発見の報告や、戦闘中の各艦の情報交換に活用され、戦況を有利に導いた。この三六式無線電信機は安中電機製作所(現[[アンリツ]])の製品であり、[[蓄電池]]は[[島津製作所]]の製品である。 ==== 宮原式汽罐 ==== 宮原式汽罐は当時世界に衝撃を与えた画期的な新汽罐。価格が当時の世界標準価格の半値で、給水、掃除が容易で、乱用に耐えられ、燃費がよく、強力な馬力で、しかも小型とまさに画期的な発明で、日本海軍の高速化をもたらした。 ==== 麦飯 ==== [[1884年]](明治17年)に、[[海軍省#医務局|海軍医務局]]副長の[[高木兼寛]]は、当時、未知の病であった[[脚気]]を白米の中に大麦を混ぜた麦飯食で鎮めることができることを発見し、[[1888年]](明治21年)に日本最初の[[医学博士]]となった。この結果、日本海軍は脚気の撲滅に成功し、日本海海戦の勝因の一つとなった。 == 参加兵力 == === 大日本帝国海軍 === * 連合艦隊([[連合艦隊司令長官]]:[[東郷平八郎]]大将、参謀長:[[加藤友三郎]]少将、先任参謀:[[秋山真之]]中佐、参謀:[[飯田久恒]]少佐、[[清河純一]]大尉) ** 第1艦隊(旗艦:[[三笠 (戦艦)|三笠]]、東郷司令長官直率) *** 第1戦隊(旗艦:[[日進 (装甲巡洋艦)|日進]]、司令官:[[三須宗太郎]]少将) **** 戦艦:三笠、[[敷島 (戦艦)|敷島]]、[[富士 (戦艦)|富士]]、[[朝日 (戦艦)|朝日]] **** 装甲巡洋艦:[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]、日進 **** 通報艦:[[龍田 (通報艦)|龍田]] *** 第3戦隊(旗艦:[[笠置 (防護巡洋艦)|笠置]]、司令官:[[出羽重遠]]中将) **** 巡洋艦:笠置、[[千歳 (防護巡洋艦)|千歳]]、[[音羽 (防護巡洋艦)|音羽]]、[[新高 (防護巡洋艦)|新高]] ** 第2艦隊(旗艦:[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]]、司令長官:[[上村彦之丞]]中将、参謀長:[[藤井較一]]大佐、先任参謀:[[佐藤鉄太郎]]中佐、参謀:[[下村延太郎]]少佐、[[山本英輔]]大尉) *** 第2戦隊(旗艦:[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]、司令官:[[島村速雄]]少将) **** 装甲巡洋艦:[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]]、[[吾妻 (装甲巡洋艦)|吾妻]]、 [[常磐 (装甲巡洋艦)|常磐]]、[[八雲 (装甲巡洋艦)|八雲]]、[[浅間 (装甲巡洋艦)|浅間]]、磐手 **** 通報艦:[[千早 (通報艦)|千早]] *** 第4戦隊(旗艦:[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]、司令官:[[瓜生外吉]]中将) **** 巡洋艦:浪速、[[高千穂 (防護巡洋艦)|高千穂]]、[[明石 (防護巡洋艦)|明石]]、[[対馬 (防護巡洋艦)|対馬]] ** 第3艦隊(旗艦:[[厳島 (巡洋艦)|厳島]]、司令長官:[[片岡七郎]]中将、参謀長:[[斎藤孝至]]大佐、参謀:[[山中柴吉]]中佐、[[百武三郎]]少佐) *** 第5戦隊(旗艦:[[橋立 (巡洋艦)|橋立]]、司令官:[[武富邦鼎]]少将) **** 巡洋艦:厳島、[[松島 (巡洋艦)|松島]]、橋立 **** 装甲海防艦:[[鎮遠 (戦艦)|鎮遠]] **** 通報艦:[[八重山 (通報艦)|八重山]] *** 第6戦隊(旗艦:[[須磨 (防護巡洋艦)|須磨]]、司令官:[[東郷正路]]少将) **** 巡洋艦:須磨、[[和泉 (防護巡洋艦)|和泉]]、[[千代田 (巡洋艦)|千代田]]、[[秋津洲 (防護巡洋艦)|秋津洲]] *** 第7戦隊(旗艦:[[扶桑 (初代)|扶桑]]、司令官:[[山田彦八]]少将、参謀:[[伊集院俊]]少佐、[[小林躋造]]大尉) **** 装甲海防艦:扶桑 **** 砲艦:[[高雄 (巡洋艦)|高雄]]、[[筑紫 (巡洋艦)|筑紫]]、[[鳥海 (砲艦)|鳥海]]、[[摩耶 (砲艦)|摩耶]]、[[宇治 (砲艦・初代)|宇治]] ** 特務艦隊(司令官:小倉鋲一郎少将) *** 仮装巡洋艦:亜米利加丸、佐渡丸、[[信濃丸]]、満州丸、八幡丸、台南丸 *** 特務艦:熊野丸、春日丸 ** 駆逐艦隊 *** 第1駆逐艦隊(司令:藤木秀四郎大佐) **** 駆逐艦:春雨、吹雪、有明、霞、暁 *** 第2駆逐艦隊(司令:矢島純吉大佐) **** 駆逐艦:朧、電、雷、曙 *** 第3駆逐艦隊(司令:吉島重太郎大佐) **** 駆逐艦:東雲、薄雲、霞、連 *** 第4駆逐艦隊(司令:[[鈴木貫太郎]]大佐) **** 駆逐艦:朝霧、村雨、白雲、朝潮 *** 第5駆逐艦隊(司令:広瀬順太郎大佐) **** 駆逐艦:不知火、業雲、夕霧、陽炎 ** 水雷艇隊 *** 第1艇隊:4艇、第9艇隊:4艇、第10艇隊:4艇、第11艇隊:4艇、第14艇隊:4艇、第15艇隊:3艇、第17艇隊:4艇、第18艇隊:4艇、第19艇隊:4艇、第20艇隊:4艇<ref name = "双葉社 日本海海戦"/> === ロシア帝国海軍 === * 第2・第3太平洋艦隊(司令長官:[[ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー]]中将) ** 第1戦艦隊(旗艦:クニャージ・スヴォーロフ、司令長官:[[ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー]]中将、参謀長:クラピエ・ド・コロング大佐) *** 戦艦:クニャージ・スヴォーロフ(艦長:イグナチウス大佐)、[[インペラートル・アレクサンドル3世_(戦艦・初代)|インペラトール・アレクサンドル3世]](艦長:ブフウオストフ大佐)、[[ボロジノ級戦艦|ボロジノ]](艦長:セレブレーンニコフ大佐)、[[オリョール_(戦艦)|アリヨール]](艦長:ユング大佐) ** 第2戦艦隊(旗艦:[[オスリャービャ_(戦艦)|オスラビヤ]]、司令長官:[[ドミトリー・フェルケルザム|フェルケルザム]]少将) *** 戦艦:オスラビヤ(艦長:ベール大佐)、[[シソイ・ヴェリーキイ_(戦艦)|シソイ・ウェリキー]](艦長:オーゼロフ大佐)、[[ナヴァリン_(戦艦)|ナワリン]](艦長:フヒチンゴフ大佐) *** 一等巡洋艦:[[アドミラール・ナヒーモフ_(装甲巡洋艦)|アドミラル・ナヒーモフ]] ** 第3戦艦隊(旗艦:[[インペラートル・ニコライ1世_(戦艦・初代)|インペラートル・ニコライ1世]]、司令長官:[[ニコライ・ネボガトフ]]少将) *** 戦艦:インペラートル・ニコライ1世(艦長:スミルノフ大佐) *** 装甲海防艦:ゼネラル・アドミラル・アブラクシン、アドミラル・セニャーウィン、[[アドミラル・ウシャコフ級海防戦艦|アドミラル・ウシャーコフ]] ** 巡洋艦隊(司令長官:エンクウィスト少将) *** 第1巡洋艦隊(旗艦:[[オレーク_(防護巡洋艦)|オレーグ]]) **** 一等巡洋艦:オレーグ、[[アヴローラ_(防護巡洋艦)|アウローラ]]、[[ドミートリイ・ドンスコイ_(装甲巡洋艦)|ドミトリー・ドンスコイ]]、[[ヴラジーミル・モノマフ_(装甲巡洋艦)|ウラジミール・モノマフ]] *** 第2巡洋艦隊(旗艦:[[スヴェトラーナ_(防護巡洋艦)|スヴェトラーナ]]) **** 二等巡洋艦:スヴェトラーナ、[[アルマース_(巡洋艦)|アルマーズ]]、[[ジェームチュク_(防護巡洋艦)|ジェムチウグ]]、[[イズムルート_(防護巡洋艦)|イズムルード]] ** 第1駆逐艦隊 *** 駆逐艦:ブルヌイ、ペドウイ、ブルスツルイ、ブラーウイ ** 第2駆逐艦隊 *** 駆逐艦:グローズヌイ、グロームキー、ボールドルイ、プレスチャーシチー、ペズゥプリョーチヌイ ** 随伴艦船 *** 仮装巡洋艦:ウラル *** 工作船:カムチャツカ *** 輸送船:アナズイリ、イルツイシ、コレーヤ、ルース、スウィーリ *** 病院船:アリヨール、コストローマ<ref name = "双葉社 日本海海戦"/> == 記念碑 == 福岡県[[福津市]]に[[日本海海戦紀念碑]]がある。 == 日本海海戦を題材とした作品 == * 映画 ** 『[[撃滅]]』(1930年、[[日活]]) ** 『[[明治天皇と日露大戦争]]』(1957年、新東宝) ** 『[[日本海大海戦]]』(1969年、東宝) ** 『[[日本海大海戦 海ゆかば]]』(1983年、東映) * 小説 ** [[司馬遼太郎]]『[[坂の上の雲]]』 ** [[吉村昭]]『海の史劇』 * 軍歌 ** 日本海海戦を題材とした同名軍歌は4つ作られた。[[日本海海戦 (軍歌)]]を参照。 == 脚注・出典 == <references /> == 参考文献 == {{参照方法}} * [[アレクセイ・ノビコフ=プリボイ|アレクセイ・シルイッチ・ノビコフ プリボイ]]著、上脇進訳『ツシマ〈上〉バルチック艦隊遠征』原書房、2004年、ISBN 4562037865 * アレクセイ・シルイッチ・ノビコフ プリボイ著、上脇進訳『ツシマ〈下〉バルチック艦隊壊滅』原書房、2004年、ISBN 4562037873 * マヌエル・ドメック・ガルシア著、津島勝二訳『日本海海戦から100年―アルゼンチン海軍観戦武官の証言』 鷹書房弓プレス、ISBN 4803404895 * 野村実『日本海海戦の真実』講談社現代新書、ISBN 4061494619 * 半藤一利、戸高一成『日本海海戦 かく勝てり』[[PHP研究所]]、ISBN 4569633374 * 木村勲『日本海海戦とメディア―秋山真之神話批判』講談社選書メチエ、ISBN 4062583623 * 別宮暖朗『「坂の上の雲」では分からない日本海海戦―なぜ日本はロシアに勝利できたか』並木書房、ISBN 4890631844 * 菊田慎典『「坂の上の雲」の真実』光人社、ISBN 4769811810 * 鈴木孝『20世紀のエンジン史―スリーブバルブと航空ディーゼルの興亡』三樹書房 ISBN 4895222837 == 関連項目 == * [[久松五勇士]] * [[イルティッシュ号投降事件]] * [[蒸気船時代の海戦戦術]] * [[万関瀬戸]] * [[東郷平八郎]] * [[秋山真之]] * [[日本海海戦紀念碑]] <!-- 福井静夫「戦艦物語」光人社 によれば、ドレッドノートの構想は日本海海戦の前に始まっていたので、コメントアウトします。 引用『英国海軍は黄海海戦の直後に、極秘裏に「設計委員会」を設け、学者を含めて国内権威者集め、造船局長を中心に、画期的な新戦艦を設計したのであった。』 実際 ドレッドノートの着工は海戦後わずか4ヶ月であり、日本海海戦の結果を見て設計したのではないことは明らかです。 === 弩級戦艦の登場 === 日本海海戦以前までは、各国海軍において標準的な海戦の戦法であった、小口径砲から中口径砲、大口径砲までの各種大砲を舷側に並べてそれぞれの砲手が腕を競ってバラバラに発砲という方法も、日本海海戦における日本海軍の同時一斉発射と観測による射程調整の繰り返しによる命中率の向上を目の当たりにした英国海軍の同乗士官による本国への報告の結果、多数の同一口径砲が同じ発砲諸元による照準で一斉同時発砲し、着弾の水柱を見ながら照準を修正してゆく『斉射』方法に変更することとになった。従来常識だった中間砲を排除して、この戦法にもっとも適した艦として、英海軍の新造戦艦[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]が作られた。この弩級戦艦(どきゅうせんかん=ドレッドノート級戦艦)の登場以降は、従来の戦艦が前弩級戦艦と呼ばれて一夜にして旧式化したほどの海軍の歴史上の大きな転換点となった。 --> [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月8日 (木) 16:19。]     

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。