西郷隆盛-2

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前半は[[西郷隆盛]]参照 == 参議 == === 大政改革と廃藩置県 === 明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・[[池上四郎 (薩摩藩士)|池上四郎]]らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事[[毛利広封]]に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士・[[集議院]]徴士[[横山安武]]([[森有礼]]の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して<ref>『[[丁丑公論]]』に詳しい</ref>、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した<ref>『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五</ref>。12月、危機感を抱いた政府から勅使[[岩倉具視]]・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。 明治4年([[1871年]])1月3日、西郷と大久保は池上を伴い「政府改革案」を以て上京するため鹿児島を出帆した。8日、西郷・大久保らは木戸を訪問して会談した。16日、西郷・大久保・木戸・池上らは三田尻を出航して土佐に向かった。17日、西郷一行は土佐に到着し、藩知事[[山内豊範]]・[[板垣退助]]と会談した。22日、西郷・大久保・木戸・板垣・池上らは神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。東京に着いた一行は2月8日に会談し、[[御親兵]]の創設を決めた。この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で青年[[東郷平八郎]]に会い、勉強するように励ました<ref>『西南記伝』引東郷平八郎実話</ref>。 2月13日に鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵を徴し、[[御親兵]]に編成する旨の命令が出されたので、西郷は忠義を奉じ、[[常備隊]]4大隊約5000名を率いて上京し、4月21日に東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。この御親兵以外にも東山道[[鎮台]](石巻)と西海道[[鎮台]](小倉)を設置し、これらの武力を背景に、6月25日から内閣人員の入れ替えを始めた。このときに西郷は再び正三位に叙せられた。7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。これより新官制・内閣人事・[[廃藩置県]]等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論し、朝議を経て、14日、天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を出した。また、この間に新官制の決定や内閣人事も順次行い、7月29日頃には以下のような顔ぶれになった<ref>『西南記伝』</ref>(ただし、外務卿岩倉の右大臣兼任だけは10月中旬にずれ込んだ)。 {| width="80%" | valign="top" | * 太政大臣([[三条実美]]) * 右大臣兼外務卿(岩倉具視) * 参議(西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、[[大隈重信]]) * 大蔵卿(大久保利通) * 文部卿([[大木喬任]]) * 兵部大輔(山縣有朋) | valign="top" | * 大蔵大輔([[井上馨]]) * 文部大輔(江藤新平) * 工部大輔(後藤象二郎) * 司法大輔([[佐々木高行]]) * 宮内大輔([[万里小路博房]]) * 外務大輔([[寺島宗則]]) |} この経緯については、各藩主に[[御親兵]]として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、[[廃藩置県]]をいきなり断行するなど言わば騙し討ちに近い形であった。 === 留守政府 === 明治4年(1871年)11月12日、三条・西郷らに留守内閣([[留守政府]])をまかせ、特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允・大久保利通・[[伊藤博文]]・[[山口尚芳]]ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞村田新八もいた)。西郷らは明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、5年(1872年)2月には兵部省を廃止して[[陸軍省]]・[[海軍省]]を置き、3月には御親兵を廃止して[[近衛兵]]を置いた。5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行した。鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかり、7月29日、[[陸軍]][[元帥]]兼[[参議]]に任命された。このときに[[山城屋事件]]で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟西郷従道を近衛副都督から解任した。明治6年5月に[[徴兵令]]が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、西郷は[[陸軍大将]]兼参議となった。 なお、明治4年(1871年)11月の岩倉使節出発から明治6年(1873年)9月の岩倉帰国までの間に西郷主導留守内閣が施行した主な政策は以下の通りである。 * 府県の統廃合(3府72県) * 陸軍省・海軍省の設置 * [[学制]]の制定 * [[国立銀行条例]]公布 * 太陽暦の採用 * 徴兵令の布告 * [[キリスト教]]禁制の[[高札]]の撤廃 * [[地租改正]]条例の布告 === 明治六年政変 === 対[[朝鮮]](当時は[[李氏朝鮮]])問題は、明治元年(1868年)に李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことに端を発しているが、この国書受け取りと朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、西郷・板垣退助・[[副島種臣]]らは、調査のために、明治5年(1872年)8月15日に池上四郎・[[武市正幹]]・[[彭城中平]]を清国・ロシア・朝鮮探偵として満洲に派遣し(鹿児島県史料・忠義公史料』第7巻)、27日に[[北村重頼]]・河村洋与・[[別府晋介]](景長)を花房外務大丞随員(実際は変装しての探偵)として釜山に派遣した<ref>[[国立公文書館]]、文献参照</ref>。 明治6年([[1873年]])の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記[[森山茂]]が釜山から帰って、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔[[上野景範]]が内閣に議案として提出したことに始まる。この議案は6月12日から7参議により審議された。 議案は当初、板垣が武力による修好条約締結([[征韓論]])を主張したのに対し、西郷は武力を不可として、自分が旧例の服装で全権大使になる(遣韓大使論)と主張して対立した。しかし、数度に及ぶ説得で、方法・人選で反対していた板垣と外務卿の副島が8月初めに西郷案に同意した。西郷派遣については、16日に三条の同意を得て、17日の閣議で決定された。しかし、三条が天皇に報告したとき、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨があったので、発表は岩倉帰国まで待つことになった。 以上の時点までは、西郷・板垣・副島らは大使派遣の方向で事態は進行するものと考えていた。ところが、9月、岩倉が帰国すると、先に外遊から帰国していた木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が表面化してきた。大久保らが参議に加わった9月14日の閣議では大使派遣問題は議決できず、15日の再議で西郷派遣に決定した。しかし、これに反対する木戸・大久保・大隈・大木らの参議が辞表を提出し、右大臣岩倉も辞意を表明する事態に至った。これを憂慮した三条は18日夜、急病になり、岩倉が太政大臣代行になった。そこで、西郷・板垣・副島・江藤らは岩倉邸を訪ねて、閣議決定の上奏裁可を求めたが、岩倉は了承しなかった。 9月23日、西郷が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、すでに宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。翌24日に天皇が岩倉の意見を入れ、西郷派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。このとき、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されなかった(岩倉・木戸・大久保らは、これらを許可しないことによって、西郷ら遣韓派をいずれ政府に復帰させる意図があることを示したのであろう)。 翌25日になると、板垣・副島・後藤・江藤らの参議も辞職した。この一連の辞職に同調して、征韓論・遣韓大使派の[[林有造]]・[[桐野利秋]]・篠原国幹・[[淵辺群平]]・別府晋介・[[河野主一郎]]・[[辺見十郎太]]をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した([[明治六年政変]])。 このとき、西郷の推挙で兵部大輔大村益次郎の後任に補されながら、能力不足と自覚して、先に下野していた[[前原一誠]]は「宜シク西郷ノ職ヲ復シテ薩長調和ノ実ヲ計ルベシ、然ラザレバ、賢ヲ失フノ議起コラント」<ref>「前原一誠年譜」</ref>という内容の書簡を太政大臣三条実美に送り、明治政府の前途を憂えた。 == 下野 - 西南戦争 == === 私学校 === 下野した西郷は、明治6年11月10日、鹿児島に帰着し、以来、大半を武村の自宅で過ごした。猟に行き、山川の[[鰻温泉]]で休養していた明治7年([[1874年]])3月1日、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し、翌日、指宿まで見送った(江藤は土佐で捕まった)。これ以前の2月に閣議で[[台湾征討]]が決定した。この征討には木戸が反対して参議を辞めたが、西郷も反対していた。しかし、4月、台湾征討軍の都督三弟西郷従道の要請を入れ、やむなく鹿児島から徴募して、兵約800名を長崎に送った。 西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治6年末以来、鹿児島県下は無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者に溢れる状態になった(この状態が私学校創設後も続いたことは『西南役前後の思出の記』に詳しい)。そこで、これを指導し、統御しなければ、壮年・若者の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、[[県令#2:日本の県令|県令]]大山綱良の協力を得て、明治7年6月頃に旧厩跡に[[私学校]]がつくられた(『大山県令と私学校』。この論文では建設が始まったのは12月頃としていて、説得力がある)。私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。この他に、明治8年([[1875年]])4月には西郷と大山県令との交渉で確保した荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する吉野開墾社(旧[[陸軍教導団]]生徒を収容)もつくられた。 明治8年から明治9年([[1876年]])にかけての西郷は自宅でくつろぐか、遊猟と温泉休養に行っていることが多い。西郷の影響下にある私学校が整備されて、私学校党が県下最大の勢力となると、県令大山綱良もこの力を借りることなしには県政が潤滑に運営できなくなり、私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、明治8年11月、明治9年4月には西郷に依頼して区長や副区長を推薦して貰った。このようにして別府・辺見・河野・小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになると、政府は以前にもまして、鹿児島県は私学校党の支配下に半ば独立状態にあると見なすようになった。 === 西南戦争前夜 === 明治9年3月に[[廃刀令]]が出、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは、徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した。10月24日の熊本県士族の神風連の乱、27日の福岡県士族の秋月の乱、28日の萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきたものであった。11月、西郷は日当山温泉でこれら決起の報を聞き、 * 前原一誠らの行動を愉快なものとして受け止めている。 * 今帰ったら若者たちが逸るかもしれないので、まだこの温泉に止まっている。 * 今まで一切自分がどう行動するかを見せなかったが、起つと決したら、天下の人々を驚かすようなことをするつもりである。 などを記した書簡を桂久武に出し、「起つと決する」時期を待っていることを知らせた。この「起つと決する」が国内での決起を意味するのか、西郷がこの時期に一番気にかけていた対ロシア問題での決起を意味していたのかは判然としない。 一方、政府は、鹿児島県士族の反乱がおきるのではと警戒し、年末から1月にかけて、 * 鹿児島県下の火薬庫(弾薬庫ともいう)から火薬・弾薬を順次船で運びださせる。 * 大警視[[川路利良]]らが24名の巡査を、県下の情報探索・私学校の瓦解工作・西郷と私学校を離間させるなどの目的で、帰郷の名目のもと鹿児島に派遣する。 などの処置をした。 これに対し、私学党は、すでに陸海軍省設置の際に武器や火薬・弾薬の所管が陸海軍に移っていて、陸海軍がそれを運び出す権利を持っていたにもかかわらず、本来、これらは旧藩士の醵出金で購入したり、つくったりしたものであるから、鹿児島県士族がいざというときに使用するものであるという意識を強く持っていた<ref>『[[薩南血涙史]]』</ref>。また、多数の巡査が一斉に帰郷していることは不審であり、その目的を知る必要があると考えていた。なお、まだこの時点では、川路利良が[[中原尚雄]]に、瓦解・離間ができないときは西郷を「シサツ」せよ、と命じていたことは知られていなかった(山縣有朋は私学校党が「視察」を「刺殺」と誤解したのだと言っている。明治5年の池上らの満洲の偵察を公文書で「満洲視察」と表現していることから見ると、この当時の官僚用語としての「視察」には「偵察」の意もあった)。 === 挙兵 === {{see also|西南戦争}} 明治10年(1877年)1月20日頃、西郷は、この時期に私学校生徒が火薬庫を襲うなどとは夢にも思わず、大隅半島の小根占で狩猟をしていた。一方、政府は鹿児島県士族の反乱を間近しと見て、1月28日に山縣有朋が熊本[[鎮台]]に電報で警戒命令を出した。29日、従来は危険なために公示したうえで標識を付けて白昼運び出していたのに、陸軍の草牟田火薬庫の火薬・弾薬が夜中に公示も標識もなしに運び出され、赤龍丸に移された。これに触発されて私学校生徒が、同火薬庫を襲った。 [[画像:SaigoWithOfficers.jpg|left|thumb|300px|[[ル・モンド]](Illustré)の速報記事に描かれたその姿<ref>写実性はなく想像によって描かれたものと考えられる。</ref>(1877年)]] 2月1日、小根占にいた西郷のもとに四弟小兵衞が私学校幹部らの使者として来て、谷口登太が[[中原尚雄]]から西郷刺殺のために帰県したと聞き込んだこと、私学校生徒による火薬庫襲撃がおきたことなどを話した。これを聞いて西郷が鹿児島へ帰ると、身辺警護に駆けつける人数が時とともに増え続けた。3日に中原が捕らえられ、4日に拷問によって自供すると(8日に口供書に拇印を押させられる。口供書は『薩南血涙史』に掲載)、6日に私学校本校で大評議が開かれ、政府問罪のために大軍を率いて上京することに決したので、翌7日に県令大山綱良に上京の決意を告げた。このようにして騒然となっていた9日、[[川村純義]]が高雄丸で西郷に面会に来たので、会おうとしたが、会えなかった。同日、巡査たちとは別に、大久保が派遣した野村綱が県庁に自首した(野村の口供書は『薩南血涙史』に掲載)。西郷は、その自白内容から、大久保も刺殺に同意していると考えるようになったらしい。 募兵、新兵教練が終わった13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、四番大隊指揮長に桐野利秋、五番大隊指揮長に池上四郎が選任され、桐野が総司令を兼ねることになった。淵辺群平は本営附護衛隊長となり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。別府は加治木で別に2大隊を組織してその指揮長になった(のちにこの2大隊を六番・七番大隊としたが、人員も正規大隊の半分ほどで、装備も劣っていた)。翌14日、私学校本校横の練兵場(旧厩跡にあった私学校横の旧牧場。『翔ぶが如く』など、伊敷練兵場としているものが多いが、誤りである。『西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について』)で西郷による正規大隊の閲兵式が行われた。15日、薩軍の一番大隊が鹿児島から先発し(西南戦争開始)、17日、西郷も鹿児島を出発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。 === 熊本の戦い === 2月20日、別府晋介の大隊が川尻に到着。熊本鎮台偵察隊と衝突し、これを追って熊本へ進出した。21日、相次いで到着した薩軍の大隊は順次、熊本[[鎮台]]を包囲して戦った。22日、早朝から熊本城を総攻撃した。昼過ぎ、西郷が世継宮に到着した。政府軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻、伊東隊の岩切正九郎が[[乃木希典]]率いる第14連隊の軍旗を分捕った。一方、総攻撃した[[熊本城]]は堅城で、この日の状況から簡単には陥ちないと見なされた。夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議でもめているうちに、政府軍の正規旅団は本格的に南下し始めた。この軍議では一旦は篠原らの全軍攻城策に決したが、のちの再軍議で熊本城を長囲し、一部は小倉を電撃すべしと決し、翌23日に池上四郎が数箇小隊を率いて出発したが、南下してきた政府軍と田原・高瀬・植木などで衝突し、電撃作戦は失敗した。 これより、南下政府軍、また上陸してくると予想される政府軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山弥一郎に海岸線を抑えさせ、篠原国幹(六箇小隊)は田原に、村田・別府(五箇小隊)は木留に、桐野(三箇小隊)は山鹿に分かれ、政府軍を挟撃して高瀬を占領することにした。しかし、いずれも勝敗があり、戦線が膠着した。 3月1日から始まった田原をめぐる戦い([[田原坂]]・吉次など)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死した。このような犠牲を払ってまで守っていた田原坂であったが、20日に、兵の交替の隙を衝かれ、政府軍に奪われた。この戦いに敗れた原因は多々あるが、主なものでは、砲・小銃が旧式で、しかも不足、火薬・弾丸・砲弾の圧倒的な不足、食料などの輜重の不足があげられる。これらは西南戦争を通じて薩軍が持っていた弱点でもある。こうして田原方面から引き上げ、その後部線を保守している間に、上陸した政府背面軍に敗れた永山が御船で自焚・自刃し、4月8日には池上が安政橋口の戦いで敗れて、政府背面軍と鎮台の連絡を許すと、薩軍は腹背に敵を受ける形になった。そこで、この窮地を脱するために、14日、熊本城の包囲を解いて木山に退却した。この間、本営は本荘から3月16日に二本木、4月13日に木山、4月21日に矢部浜町と移され、西郷もほぼそれとともに移動したが、戦闘を直接に指揮しているわけでもないので、薩摩・[[大隅国|大隅]]・[[日向国|日向]]の三州に蜷踞することを決めた4月15日の軍議に出席していたこと以外、目立った動向の記録はない。 薩軍は浜町で大隊を中隊に編制し直し、隊名を一新したのち、椎葉越えして、新たな根拠地と定めた人吉へ移動した。4月27日、一日遅れで桐野利秋が江代に着くと、翌28日に軍議が開かれ、各隊の部署を定め、日を追って順次、各地に配備した。これ以来、人吉に本営を設け、ここを中心に政府軍と対峙していたが、衆寡敵せず、徐々に政府軍に押され、人吉も危なくなった。そこで本営を宮崎に移すことにした。西郷は池上四郎に護衛され、5月31日、桐野利秋が新たな根拠地としていた軍務所(もと宮崎支庁舎)に着いた。ここが新たな本営となった。この軍務所では、桐野の指示で、薩軍の財政を立て直すための大量の[[軍票]]([[西郷札]])がつくられた。 === 宮崎の戦い === 人吉に残った村田新八は、6月17日、小林に拠り、振武隊、破竹隊、行進隊、佐土原隊の約1000名を指揮し、1ヶ月近く政府軍と[[川内川]]を挟んで小戦を繰り返した。7月10日、政府軍が加久藤・飯野に全面攻撃を加えてきたので、支えようとしたが支えきれず、高原麓・野尻方面へ退却した。小林も11日に政府軍の手に落ちた。17日と21の両日、[[掘与八郎]]が延岡方面にいた薩兵約1000名を率いて高原麓を奪い返すために政府軍と激戦をしたが、これも勝てず、庄内、谷頭へ退却した。 24日、村田は都城で政府軍六箇旅団と激戦をしたが、兵力の差は如何ともしがたく、これも大敗して、宮崎へ退いた(都城の戦い)。 31日、桐野・村田らは諸軍を指揮して宮崎で戦ったが、再び敗れ、薩軍は広瀬・佐土原へ退いた(宮崎の戦い)。8月1日、薩軍が佐土原で敗れたので、政府軍は宮崎を占領した。宮崎から退却した西郷は、2日、延岡大貫村に着き、ここに9日まで滞在した。2日に高鍋が陥落し、3日から美々津の戦いが始まった。このとき、桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡にいて諸軍を指揮したが、4日、5日ともに敗れた。6日、西郷は教書を出し、薩軍を勉励した。7日、池上の指示で火薬製作所・病院を熊田に移し、ここを本営とした。西郷は10日から本小路・無鹿・長井村笹首と移動し、14日に長井村可愛に到着し、以後、ここに滞在した(『大西郷突囲戦史』)。その間の12日、参軍山縣有朋は政府軍の延岡攻撃を部署した。同日、桐野利秋・村田新八・池上四郎は長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗れたので、延岡を総退却し、和田峠に依った。 8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍に対し、西南戦争最後の大戦を挑んだ。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野・村田・池上・別府ら諸将を随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。16日、西郷は解軍の令を出し、書類・陸軍大将の軍服を焼いた。この後、負傷者や諸隊の降伏が相次いだ。残兵とともに、三田井まで脱出してから今後の方針を定めると決し、17日夜10時、長井村を発し、可愛嶽(えのたけ)に登り、包囲網からの突破を試みた。突囲軍は精鋭300~500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田、後軍は[[中島健彦]]・[[貴島清]]が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷隆盛を護衛した(『大西郷突囲戦史』に依る。「鎮西戦闘鄙言」では村田と池上が中軍を指揮し、西郷と桐野が中軍で総指揮をとったとする)。突囲が成功した後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること10余日、鹿児島へ帰った。 === 城山決戦 === 9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り、[[城山 (鹿児島市)|城山]]を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制し、6日には城山包囲態勢を完成させた。19日、[[山野田一輔]]・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって参軍川村純義のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は城山決死の檄を出した。23日、西郷は、山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍山縣からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さなかった。 9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷・桐野・桂久武・村田・池上・別府・辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。まず国分寿介(『西南記伝』では[[小倉壮九郎]])が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼した。遙拝が終わり、[[切腹]]の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫び[[介錯]]した。[[享年]]51(満49歳没)。 西郷の首はとられるのを恐れ、折田正助邸門前に埋められた(折田邸門前説が最も有力。ただ異説が多く、『西南記伝』には9説あげている)。西郷の死を見届けると、残余の将士は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死した。 午前9時、城山の戦いが終わると大雨が降った。雨後、浄光明寺跡で参軍山縣・旅団長ら立ち会いのもとで検屍が行われた。西郷の遺体は毛布に包まれたのち、木櫃に入れられ、浄光明寺跡に埋葬された(現在の南洲神社の鳥居附近)。このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられた。木標の姓名は県令[[岩村通俊]]が記した(『西南戦争と県令岩村通俊』)。明治12年(1879年)、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。また、西郷の首も戦闘終了後に発見され、総指揮を執った山縣有朋の検分ののちに手厚く葬られた <ref>首発見時の様子とその前後のいきさつについては、例えば[[今村均]]著『私記・一軍人六十年の哀歓』(芙蓉書房)に詳しく記されている。西郷の首を発見した一人が、今村の岳父である[[千田登文]]であった</ref>。 == 死後 == === 追贈 === 明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇されたが、黒田清隆らの努力や[[明治天皇]]直々の働きがあって明治22年(1889年)2月11日、[[大日本帝国憲法]]発布に伴う大赦で赦され、[[正三位]]を追贈された。明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである。 === 墓所と祭祀 === 墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。また西郷隆盛を祀る[[南洲神社]]が、鹿児島県鹿児島市を始め、[[山形県]][[酒田市]]、[[宮崎県]][[都城市]]、鹿児島県[[和泊町]]の[[沖永良部島]]にある。 {| |[[画像:南洲墓地 全景.jpg|thumb|200px|none|南洲墓地 入口正面]] |[[画像:南洲墓地 西郷.jpg|thumb|200px|none|南洲墓地 西郷の墓石]] |} == 思想 == === 影響を与えた人々と思想 === * 島津斉彬 *: 西郷は[[水戸学派]]や[[国学]]の皇国史観に止まってはおらず、開国して富国強兵をし、日・清・韓の三国同盟をするという島津斉彬の持論の影響で、東アジアと欧米諸国の対置という形の世界観を持っていた。列強の内、特にロシアとイギリスに対し強い警戒観を持っていた。 *: 当時の清国が列強の侵略下にあり、朝鮮がその清の冊封国であるという現状を踏まえて、まず三国が完全に独立を果たす、次いで三国の同盟を目指すという形で将来の東アジア像を描いていた。そしてそこに、維新に成功し、列強の侵略を一応は防いだ日本の経験が活かせるとしていた。 *: しかし、この世界観・史観には、後の[[石原莞爾]]の[[大東亜共栄圏|大東亜共栄圏論]]ほどの強い日本のリーダーシップ論は無かった。これは西郷の思想が儒学を一方の柱にしていたことと無縁ではないだろう。 * 勝海舟 * [[福沢諭吉]] * 坂本龍馬 *: 龍馬の西郷評「西郷という男はどれだけ大きいかわからぬ。釣鐘の様な奴で、小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく響く。こちら次第に応ずる。得たいの知れない大人物さ」。 * [[藤田東湖]] *: 「先生と話していると清水を浴びたような心に少しも曇りない心になってしまい帰る道さえ忘れてしまった。」と西郷自身洩らしていた。西郷の著書に名前が出てくるほど最も影響を与えた人物の一人である。 * [[橋本左内]] === 朱子学 === * [[朱熹]]『[[近思録]]』 *: 西郷はお由羅騒動(高崎崩れ)の後に朱子『近思録』を読み、その影響を強く受けた。[[朱子学]]では、自己と世界には共通する原理(理)があるので、自己を修養して理を会得すれば、人の世界を治めることができるということになっている。西郷の思想は武士の道徳と朱子学を二本柱にしてできていて、この朱子学の根本理論を終世、信じていた。 *: 特に[[大義名分]]論は西郷の行動の規範になったもので、日本古来の文化・伝統(天皇も含む)・道徳を大義とし、これを[[帝国主義]]諸国の侵略から守り、育てることが、その実践であると考えていた。 *: これは[[水戸学派]]や国学が日本とそれ以外との対置と捉える世界観・史観([[皇国史観]]。朱子学の華と夷を対置する世界観・史観を日本風に改めたもの)を基にしている。 * [[佐藤一斎]]『[[言志四録]]』(言志録) *: 西郷が手写した「言志録」が残っており<ref>『西郷南洲遺訓 附 手抄言志録及遺文』[[山田済斎]]編、[[岩波書店]]〈岩波文庫〉、1939年、ISBN 4-00-331011-X / 〈ワイド版岩波文庫〉、2006年1月、ISBN 4-00-007265-X に収録された「手抄[[言志録]]」を参照。</ref>、西南戦争のときにもこの書を座右の書として持ち歩いていたことからみると、最も影響を受けた書であると考えられる。 === 陽明学 === 西郷は短期間とはいえ、[[伊藤茂右衛門]]から陽明学を学んでいる。陽明学は[[知行合一]]を理念としているので、知識を世人の役立つようにしようとする点では、この学の影響を受けたかもしれない。しかし、西郷の行動は、その大半が大義名分にもとづく行動であるという面から見れば、その積極的な行動は朱子学から導き出されたものであるとも言え、どのくらい影響を受けたは判然としない。 * [[春日潜庵]] *: 西郷は幕末に潜庵とつきあいがあり、明治4年(1871年)に村田新八を潜庵の元に派遣し、対策12ヶ条を得て、それを持って大政改革のために上京している。また明治になってから四弟小兵衛を潜庵の元に留学させてもいる。これらから西郷が陽明学者の潜庵を高く評価していたことは分かるが、思想としてどの部分を学んだかはよく分からない。 * [[川口雪篷]] *: [[沖永良部島]]に遠島されたときに西郷と知遇を得た[[書家]]であり、西郷没後に遺族の扶養に勤めた人物である。[[頭山満]]の回想では、西南戦争後の明治12年(1879年)当時に西郷家を訪れた折に、応対した雪篷から西郷が愛読し手書きの書き込みがある、幕末の陽明学者[[大塩平八郎]]の書『[[洗心洞剳記]]』を見せられ、西郷がいかに大塩を慕っていたかを知らされたとある。 === 自身の思想 === ; 敬天愛人 : 「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」<ref>『[[南洲翁遺訓]]』より。[[近代デジタルライブラリー]]所蔵の『[http://kindai.ndl.go.jp/BIBibDetail.php?tpl_search_kind=1&tpl_keyword=&tpl_s_title=&tpl_s_title_mode=BI&tpl_s_title_oper=AND&tpl_s_author=&tpl_s_author_mode=BI&tpl_s_author_oper=AND&tpl_s_published_place=&tpl_s_published_place_mode=ZI&tpl_s_published_place_oper=AND&tpl_s_publisher=&tpl_s_publisher_mode=ZI&tpl_s_publisher_oper=AND&tpl_s_nengou=AD&tpl_s_published_year_from=&tpl_s_published_year_to=&tpl_s_ndc=&tpl_s_ndc_mode=ZI&tpl_s_heading=&tpl_s_heading_mode=ZI&tpl_s_heading_oper=AND&tpl_s_toc=&tpl_s_toc_oper=AND&tpl_item_oper=AND&tpl_sort_key=TITLE&tpl_sort_order=ASC&tpl_list_num=20&tpl_wish_page_no=1&tpl_select_row_no=1&tpl_hit_num=1&tpl_wid=WBPL110&tpl_end_of_data=&tpl_s_jp_num=40001990 言志録講話]』に収録された「[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40001990&VOL_NUM=00000&KOMA=133&ITYPE=0 西郷南洲翁遺訓]」を参照。</ref> == 家族・親族 == === 系譜 === 隆盛は[[菊池氏]]が出自であることを知っていたが、菊池氏のどの家から分かれたかわからないので、藩の記録所にある九郎兵衛以下のみを自分の系譜としている。九郎兵衛より前は西郷家の出自とされる増水[[西郷氏]]の系譜に繋いでつくった系譜である(香春建一説による)。[[家紋]]は抱き菊の葉に菊。 藤原鎌足─不比等─房前─(11代)─道隆─隆家─政則─菊池則隆(肥後熊本菊池郡)─西郷政隆―隆基―隆季―隆房―基宗―基哉―隆邑―基時―隆任―隆吉=隆政―隆連―隆政―隆圀―武治―隆朝―太郎政隆(肥後熊本菊池郡増水城)―隆従―隆永―武国―政隆―隆盛―隆定―隆武―隆純―九郎兵衛昌隆(島津氏に仕える)=吉兵衛宜慶─覚左衛門─吉左衛門─竜右衛門隆充─吉兵衛隆盛─'''吉之助隆永'''─寅太郎―隆輝=吉之助(寅太郎三男)―吉太郎 === 家族 === 西郷には三度の結婚経験がある。 1度目は嘉永5年(1852年)28歳のとき両親にすすめられて[[伊集院兼寛]]の姉すが([[伊集院須賀|須賀]])と結婚した。しかしながら藩主の代わりに江戸におもむくなど隆盛は不在が多く、彼女は実家に帰り別れた。 2度目は奄美大島の龍郷村で6石扶持一軒家で自炊していた際、島の名家であった龍家の佐栄志の娘・愛加那(あいがな、意味は愛子)と結婚。35歳の安政7年(1860年)[[1月2日 (旧暦)]]に菊次郎(後の[[京都市]]市長)・文久2年(1862年)にお菊(のち菊子、大山巌の弟と結婚)の二人の子供をもうけた。この子供たちは[[庶子]]として扱われた。文久元年(1861年)末に、鹿児島に帰る際、島妻は鹿児島へ連れ出せない規則があったので別れた。愛加那は明治35年死去。[[陶芸]]家の西郷隆文は、菊次郎の四男・隆泰の子。 3度目の妻は慶応元年(1865年)岩山八郎太の23歳の娘、糸子で、39歳のときに結婚。寅太郎[http://www.city.narashino.chiba.jp/siyakusyo/kyouiku/horyo/ja/link1-02.html]([[侯爵]])・午次郎・酉三の3人の子供をもうけ、先の妻、愛加那の二人の子菊次郎、お菊を引き取った。[[第2次佐藤内閣第2次改造内閣]]の[[法務大臣]][[西郷吉之助]]は寅太郎の子。ちなみに、寅太郎は[[武豊]]・[[武幸四郎]]の[[曾祖父]]の兄弟である[[園田実徳]]の娘・ノブと結婚しているため、彼らは遠縁に当たる。<ref>[http://episode.kingendaikeizu.net/37.htm 系図で見る近現代 第37回]。 </ref> == 持病 == * 肥満 *: [[高島鞆之助]]の言では西郷は大島潜居の頃から肥満になったとしているが、おそらく沖永良部島流罪当時は痩せこけて死にそうになっていたというから、沖永良部在島後半期に座敷牢にいて運動不足から肥満し始めたというのが真相だろう。 *: 鹿児島は[[養豚#東アジアの伝統的な養豚|養豚]]の盛んな地であり、西郷は脂身のついた[[豚肉]]が大好物だったので、それが肥満に拍車をかけたと推測される。また、甘い物も好物であった。明治6年(1873年)の征韓論当時は肥満を治そうとしてドイツ人医師[[テオドール・ホフマン|ホフマン]]の治療を受けていた。 *: 治療方法は2種用いられていた。一つは[[ひまし油|蓖麻子油]](ひましゆ)を[[下剤]]として飲む方法であり、もう一つは運動をする方法であった。後者については『池上四郎家蔵雑記』([[市来四郎]]『石室秘稿』所収、[[国立国会図書館]]蔵)中の池上四郎宛[[彭城中平]]書簡にこの治療期間中に西郷先生が肥満の治療のために狩猟に出かけて留守だと書いている。 * [[フィラリア]] *: 西郷隆盛は、流刑先の沖永良部島で、風土病のバンクロフト糸状虫という[[寄生虫]]に感染したとされ、この感染の後遺症である[[象皮症]]を患っていた。これによって[[陰嚢]]が人の頭大に腫れ上がっていた。そのため晩年は[[馬]]に乗ることができず、もっぱら駕篭を利用していた。 *: 西南戦争後の、首の無い西郷の死体を本人のものと特定させたのは、この巨大な陰嚢である<ref>『西南役側面史』</ref>。ただし、比較的近年に至るまでバンクロフト糸状虫によるフィラリア感染症は九州南部を中心に日本各地に見られ、疫学的には必ずしも感染地を沖永良部島には特定できない。明治44年(1911年)の段階の陸軍入隊者の感染検査で、鹿児島県九州本島部分出身者の感染率は4%を超えていたし、北は青森県まで感染者が確認されている<ref>『ハエ・蚊とその駆除』</ref>。 後半は[[西郷隆盛-3]]参照 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月23日 (水) 11:18。]     

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