兒玉源太郎

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{{Infobox 軍人 |name= 兒玉源太郎 |lived=[[1852年]][[4月14日]]&ndash; [[1906年]][[7月23日]] |placeofbirth=[[周防国]]都濃郡[[徳山村 (山口県)|徳山村]]<br/>(現・山口県[[周南市]]) |placeofdeath=[[東京都]] |image=[[Image:Gentaro Kodama 2.jpg|250px]] |caption= 陸軍大将兒玉源太郎 |nickname= |allegiance=[[大日本帝国]] |serviceyears=[[1881年]]-[[1907年]] |rank=[[陸軍大将]] |commands=[[大日本帝国陸軍]] |unit= |battles= [[戊辰戦争]]<br/>[[神風連の乱]]<br/>[[西南戦争]]<br/>[[日清戦争]]<br/>[[日露戦争]] |awards=[[功一級]] |family= |laterwork= |portrayedby= |enteredservice= |currentlyresides= }} '''兒玉 源太郎'''('''こだま げんたろう''', [[嘉永]]5年閏[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]([[1852年]][[4月14日]]) - [[明治]]39年([[1906年]])[[7月23日]])は、[[日本]]の[[武士]]、[[陸軍]][[軍人]]。[[陸軍大将]][[勲一等]][[功一級]][[子爵]](なお、現在では通常'''児玉 源太郎'''の表記の方が多い。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体)。 長男は[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]で[[国務大臣]]などを歴任してきた[[児玉秀雄]]、三男[[児玉友雄]]は[[陸軍中将]]、九男の[[児玉九一]]は内務官僚で[[厚生省|厚生]][[次官]]、曾孫の[[児玉進]]は[[映画監督]]・[[テレビ映画]]監督。 [[東郷平八郎]]、[[乃木希典]]らと共に[[日露戦争]]の英雄として有名である。日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍という日本側にとって圧倒的不利を覆し、日本を勝利に導いた戦略家の1人とて有名である。 兒玉は国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てることの出来る広い視野の持ち主であった。性格的には情に脆く家庭を大事にし友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。また、彼は己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続けたと思われる(後述)。 == 経歴 == *1852年 - [[周防国]]都濃郡[[徳山藩|徳山村]](現・[[山口県]][[周南市]])に[[徳山藩]]士 [[兒玉半九郎]]の長男として生まれる。父とは5歳で死別する。 *[[1870年]] - [[軍曹]]として陸軍入り *[[1880年]] - [[歩兵]]第二[[連隊長]] *[[1889年]] - [[陸軍少将]] *[[1895年]] - [[男爵]] *[[1898年]] - [[台湾総督]] *[[1900年]] - [[陸軍大臣]] *[[1903年]] - [[内務大臣]]・[[文部大臣]] *[[1904年]] - [[陸軍大将]]、[[参謀本部]]次長 *1906年 - [[子爵]]      [[参謀本部 (日本) |参謀総長]]在任中に[[脳溢血]]で死去、史上初の[[金鵄勲章]]功一級を[[明治天皇]]より下賜。他に陸軍[[次官]]なども歴任。 *[[1907年]] - 日露戦争における兒玉の功績により、長男秀雄が[[伯爵]]に陞爵される。 長州藩の支藩「[[徳山藩]]」の中級武士(百石)の家に生まれた。父親は早世し、家督を継いだ姉婿に養育された。だが源太郎が13歳のときこの義兄は佐幕派のテロにより惨殺され、家禄を失った一家は困窮した。 [[熊本鎮台]]准参謀時の明治9年(1876年)には[[神風連の乱]]鎮圧、同鎮台参謀副長([[少佐]])時の明治10年(1877年)には[[西南戦争]]・[[熊本城]]籠城戦に参加。鎮台司令長官の[[谷干城]]少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験が後の日露戦争に生かされる事となる。ちなみに、この時東京から現地へ真っ先に送られた電報「児玉少佐ハ無事ナリヤ」は、当時24歳の一少佐にかける期待がどれほどのものであったかを物語る逸話として有名。 [[台湾総督]]時代には、[[日清戦争]]終了後の防疫事務で才能を見いだした[[後藤新平]]を総督府民政長官に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。後藤は[[台湾人]]を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して弾圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。二人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。 日露戦争開戦前には内務大臣を勤めていたが、 明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた参謀次長の[[田村怡与造]]が死去し、[[大山巌]]参謀総長から特に請われて降格人事でありながら田村の後任を引き受ける。日本陸軍が解体する昭和20年([[1945年]])まで、降格人事を了承した人物は兒玉源太郎ただ一人である。 [[日露戦争]]時には[[満州軍_(日本軍)|満州軍]]総参謀長を務める。[[旅順攻囲戦]]においては、満州軍総司令官大山巌の承認を得て[[第3軍_(日本軍)|第三軍]]司令官[[乃木希典]]大将の[[指揮権]]に介入し、作戦を成功に導いたとされる。しかし、旅順陥落直前に督戦に訪れたことは事実であるが、兒玉大将の指揮権介入を事実として証明する[[一次資料]]は存在せず、また、このエピソードが広く知られるきっかけとなった[[司馬遼太郎]]の[[小説]]『[[坂の上の雲]]』以前に、そのような経緯を記した信頼に足る記録も見出せない事から、司馬の創作であるとする意見がある。 一般に知られている説によれば、1904年12月5日、兒玉は乃木が攻めあぐねていた[[203高地]]に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという奇抜な作戦を取ったとされる。そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、半日で陥落させた。さらに203高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家の助言<ref>専門家の指摘は以下のとおりである。<br />重厚な装甲が施された艦からの報復射撃がされた場合、無防備の観測点及び榴弾砲陣地は一方的に損害を受ける恐れがある。従って、それ相応の防御陣地を構築してから射撃を行う必要がある。 これに対して兒玉は、反撃の機会を与えず砲弾を撃ち込み続ければ、反攻能力を失わせることが可能であると考え、これを実行した。結果的には、すでに[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]でほとんど無力化していた敵艦からの効果的な反撃は一切無かった。</ref>を無視して203高地越えに旅順湾内のロシア旅順艦隊に28センチ砲で砲撃を加え、敵艦は旅順湾街に降り注ぐ砲弾を少なくするため次々と自沈し壊滅した。これによりバルチック艦隊は単独で日本の連合艦隊と戦わざるを得なくなり、旅順攻囲戦の目的は達成された。旅順要塞のロシア軍は203高地陥落を境に弱体化し、この1ヶ月後に降服する。 兒玉は日露戦争勝利のために心血を注ぎ込んだともいわれ、戦争終結8ヶ月後、[[脳溢血]]で急逝した(暗殺説あり)。 享年55歳。 == エピソード == *日本軍の参謀育成の為、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校の[[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル|メッケル]]から才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本にコダマ将軍が居る限り心配は要らない。コダマは必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。兒玉の能力を語るエピソードである。 *晩年、[[浅草]]の[[凌雲閣]](通称十二階)で開催された日露戦争展で、小柄な兒玉を[[ナポレオン]]に準えて語り合う二人の陸軍将校の傍に歩き寄り「兒玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが兒玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむと言うというお茶目な面もあった。 *乃木と兒玉は旧知の間柄であった。[[千葉県]]佐倉東京[[鎮台]]第二[[連隊]]長時代、演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を兒玉の部隊が[[奇襲]]によって大いに破った時、部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという。「気転」は乃木の名「希典」の音読み、「野狐」は「ノギ(乃木)ツネ」。「七分小玉」は小さな[[花火]]のことで、身長の低かった兒玉が「一寸に満たないほど小さい兒玉」と自分自身をもじったものであるとされる。 *兒玉は乃木の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、兒玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという。兒玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。 *[[神奈川県]][[藤沢市]][[江ノ島]]および[[山口県]][[周南市]]にある[[兒玉神社]]は、彼を祀ったもの。 <!--[[菅直人]]元[[民主党 (1996-)|民主党]]代表の長男・[[菅源太郎|源太郎]]は、彼にちなんで名付けられた。--> == 陸軍幼年学校との関連 == 上記の華々しいばかりの戦績に加え戦後すぐ急逝したため、日露戦争後に軍備拡張・軍国主義化していく日本と距離をおかれた印象があり、一般的な評価は現代においても好意的である。しかし近年発刊された「陸軍幼年学校体制の研究」(吉川弘文館)等によれば、兒玉が明治25年に執筆・報告した「欧州巡回報告書」が[[陸軍幼年学校]]と深く関わりをもつことが指摘されている。それによると、彼は[[ドイツ]]における軍人教育が[[ドイツ皇帝|皇帝]]への絶対的な臣従を旨としていることに感銘を受け、日本においてもそれを推進すべきであると主張していたと述べている。 == 系譜 == *'''児玉氏'''[[家紋]]は二文字に三つ星。 <pre> 源太郎━━┳秀雄=忠康━━┳健      ┣貞雄     ┣進      ┣友雄     ┣実      ┣常雄 ┗博      ┣国雄      ├ヌイ      ┣ヨシ      ┣仲子      ┣八郎      ┣九一      ┣モト      ┗ツル </pre> ==脚注== <references /> ==参考文献== *「史論 児玉源太郎―明治日本を背負った男」中村謙司 [[光人社]] ISBN 9784769813149 *「知将児玉源太郎―ある名補佐役の生涯」生出寿 [[光人社]] ISBN 9784769803171 *「天辺の椅子―日露戦争と児玉源太郎」古川薫 [[文芸春秋]] ISBN 9784167357115 *「日露戦争・あの人の『その後』」日本博学倶楽部 [[PHP研究所|PHP文庫]] ISBN 9784569661698 == 関連項目 == *[[児玉氏]] ==外部リンク== *[http://www.chukyo-u.ac.jp/reserch/irss/taiwan/ 中京大学 社会科学研究所 台湾研究部会] *[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/77.html?c=7 児玉源太郎肖像] *[http://www.ndl.go.jp/portrait/contents/index.html 近代日本人の肖像]([[国立国会図書館]]) *[http://kingendaikeizu.net/huzitatuguharu.htm 近現代・系図ワールド] *[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/a_kodama.html 児玉氏系譜] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%85%92%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月21日 (金) 06:05。]    
{{Infobox 軍人 |name= 兒玉源太郎 |lived=[[1852年]][[4月14日]]&ndash; [[1906年]][[7月23日]] |placeofbirth=[[周防国]]都濃郡[[徳山村 (山口県)|徳山村]]<br/>(現・山口県[[周南市]]) |placeofdeath=[[東京都]] |image=[[Image:Gentaro Kodama 2.jpg|250px]] |caption= 陸軍大将兒玉源太郎 |nickname= |allegiance=[[大日本帝国]] |serviceyears=[[1881年]]-[[1907年]] |rank=[[陸軍大将]] |commands=[[大日本帝国陸軍]] |unit= |battles= [[戊辰戦争]]<br/>[[神風連の乱]]<br/>[[西南戦争]]<br/>[[日清戦争]]<br/>[[日露戦争]] |awards=[[功一級]] |family= |laterwork= |portrayedby= |enteredservice= |currentlyresides= }} '''兒玉 源太郎'''('''こだま げんたろう''', [[嘉永]]5年閏[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]([[1852年]][[4月14日]]) - [[明治]]39年([[1906年]])[[7月23日]])は、[[日本]]の[[武士]]、[[陸軍]][[軍人]]。[[陸軍大将]][[勲一等]][[功一級]][[子爵]](なお、現在では通常'''児玉 源太郎'''の表記の方が多い。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体)。 長男は[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]で[[国務大臣]]などを歴任してきた[[児玉秀雄]]、三男[[児玉友雄]]は[[陸軍中将]]、九男の[[児玉九一]]は内務官僚で[[厚生省|厚生]][[次官]]、曾孫の[[児玉進]]は[[映画監督]]・[[テレビ映画]]監督。 [[東郷平八郎]]、[[乃木希典]]らと共に[[日露戦争]]の英雄として有名である。日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍という日本側にとって圧倒的不利を覆し、日本を勝利に導いた戦略家の1人とて有名である。 兒玉は国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てることの出来る広い視野の持ち主であった。性格的には情に脆く家庭を大事にし友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。また、彼は己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続けたと思われる(後述)。 == 経歴 == *1852年 - [[周防国]]都濃郡[[徳山藩|徳山村]](現・[[山口県]][[周南市]])に[[徳山藩]]士 [[兒玉半九郎]]の長男として生まれる。父とは5歳で死別する。 *[[1870年]] - [[軍曹]]として陸軍入り *[[1880年]] - [[歩兵]]第二[[連隊長]] *[[1889年]] - [[陸軍少将]] *[[1895年]] - [[男爵]] *[[1898年]] - [[台湾総督]] *[[1900年]] - [[陸軍大臣]] *[[1903年]] - [[内務大臣]]・[[文部大臣]] *[[1904年]] - [[陸軍大将]]、[[参謀本部]]次長 *1906年 - [[子爵]]      [[参謀本部 (日本) |参謀総長]]在任中に[[脳溢血]]で死去、史上初の[[金鵄勲章]]功一級を[[明治天皇]]より下賜。他に陸軍[[次官]]なども歴任。 *[[1907年]] - 日露戦争における兒玉の功績により、長男秀雄が[[伯爵]]に陞爵される。 長州藩の支藩「[[徳山藩]]」の中級武士(百石)の家に生まれた。父親は早世し、家督を継いだ姉婿に養育された。だが源太郎が13歳のときこの義兄は佐幕派のテロにより惨殺され、家禄を失った一家は困窮した。 [[熊本鎮台]]准参謀時の明治9年(1876年)には[[神風連の乱]]鎮圧、同鎮台参謀副長([[少佐]])時の明治10年(1877年)には[[西南戦争]]・[[熊本城]]籠城戦に参加。鎮台司令長官の[[谷干城]]少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験が後の日露戦争に生かされる事となる。ちなみに、この時東京から現地へ真っ先に送られた電報「児玉少佐ハ無事ナリヤ」は、当時24歳の一少佐にかける期待がどれほどのものであったかを物語る逸話として有名。 [[台湾総督]]時代には、[[日清戦争]]終了後の防疫事務で才能を見いだした[[後藤新平]]を総督府民政長官に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。後藤は[[台湾人]]を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して弾圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。二人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。 日露戦争開戦前には内務大臣を勤めていたが、 明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた参謀次長の[[田村怡与造]]が死去し、[[大山巌]]参謀総長から特に請われて降格人事でありながら田村の後任を引き受ける。日本陸軍が解体する昭和20年([[1945年]])まで、降格人事を了承した人物は兒玉源太郎ただ一人である。 [[日露戦争]]時には[[満州軍_(日本軍)|満州軍]]総参謀長を務める。[[旅順攻囲戦]]においては、満州軍総司令官大山巌の承認を得て[[第3軍_(日本軍)|第三軍]]司令官[[乃木希典]]大将の[[指揮権]]に介入し、作戦を成功に導いたとされる。しかし、旅順陥落直前に督戦に訪れたことは事実であるが、兒玉大将の指揮権介入を事実として証明する[[一次資料]]は存在せず、また、このエピソードが広く知られるきっかけとなった[[司馬遼太郎]]の[[小説]]『[[坂の上の雲]]』以前に、そのような経緯を記した信頼に足る記録も見出せない事から、司馬の創作であるとする意見がある。 一般に知られている説によれば、1904年12月5日、兒玉は乃木が攻めあぐねていた[[203高地]]に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという奇抜な作戦を取ったとされる。そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、半日で陥落させた。さらに203高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家の助言<ref>専門家の指摘は以下のとおりである。<br />重厚な装甲が施された艦からの報復射撃がされた場合、無防備の観測点及び榴弾砲陣地は一方的に損害を受ける恐れがある。従って、それ相応の防御陣地を構築してから射撃を行う必要がある。 これに対して兒玉は、反撃の機会を与えず砲弾を撃ち込み続ければ、反攻能力を失わせることが可能であると考え、これを実行した。結果的には、すでに[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]でほとんど無力化していた敵艦からの効果的な反撃は一切無かった。</ref>を無視して203高地越えに旅順湾内のロシア旅順艦隊に28センチ砲で砲撃を加え、敵艦は旅順湾街に降り注ぐ砲弾を少なくするため次々と自沈し壊滅した。これによりバルチック艦隊は単独で日本の連合艦隊と戦わざるを得なくなり、旅順攻囲戦の目的は達成された。旅順要塞のロシア軍は203高地陥落を境に弱体化し、この1ヶ月後に降服する。 兒玉は日露戦争勝利のために心血を注ぎ込んだともいわれ、戦争終結8ヶ月後、[[脳溢血]]で急逝した(暗殺説あり)。 享年55歳。 == エピソード == *日本軍の参謀育成の為、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校の[[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル|メッケル]]から才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本にコダマ将軍が居る限り心配は要らない。コダマは必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。兒玉の能力を語るエピソードである。 *晩年、[[浅草]]の[[凌雲閣]](通称十二階)で開催された日露戦争展で、小柄な兒玉を[[ナポレオン]]に準えて語り合う二人の陸軍将校の傍に歩き寄り「兒玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが兒玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむと言うというお茶目な面もあった。 *乃木と兒玉は旧知の間柄であった。[[千葉県]]佐倉東京[[鎮台]]第二[[連隊]]長時代、演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を兒玉の部隊が[[奇襲]]によって大いに破った時、部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという。「気転」は乃木の名「希典」の音読み、「野狐」は「ノギ(乃木)ツネ」。「七分小玉」は小さな[[花火]]のことで、身長の低かった兒玉が「一寸に満たないほど小さい兒玉」と自分自身をもじったものであるとされる。 *兒玉は乃木の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、兒玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという。兒玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。 *[[神奈川県]][[藤沢市]][[江ノ島]]および[[山口県]][[周南市]]にある[[兒玉神社]]は、彼を祀ったもの。 <!--[[菅直人]]元[[民主党 (1996-)|民主党]]代表の長男・[[菅源太郎|源太郎]]は、彼にちなんで名付けられた。--> == 陸軍幼年学校との関連 == 上記の華々しいばかりの戦績に加え戦後すぐ急逝したため、日露戦争後に軍備拡張・軍国主義化していく日本と距離をおかれた印象があり、一般的な評価は現代においても好意的である。しかし近年発刊された「陸軍幼年学校体制の研究」(吉川弘文館)等によれば、兒玉が明治25年に執筆・報告した「欧州巡回報告書」が[[陸軍幼年学校]]と深く関わりをもつことが指摘されている。それによると、彼は[[ドイツ]]における軍人教育が[[ドイツ皇帝|皇帝]]への絶対的な臣従を旨としていることに感銘を受け、日本においてもそれを推進すべきであると主張していたと述べている。 == 系譜 == *'''児玉氏'''[[家紋]]は二文字に三つ星。 <pre> 源太郎━━┳秀雄=忠康━━┳健      ┣貞雄     ┣進      ┣友雄     ┣実      ┣常雄 ┗博      ┣国雄      ├ヌイ      ┣ヨシ      ┣仲子      ┣八郎      ┣九一      ┣モト      ┗ツル </pre> ==脚注== <references /> ==参考文献== *「史論 児玉源太郎―明治日本を背負った男」中村謙司 [[光人社]] ISBN 9784769813149 *「知将児玉源太郎―ある名補佐役の生涯」生出寿 [[光人社]] ISBN 9784769803171 *「天辺の椅子―日露戦争と児玉源太郎」古川薫 [[文芸春秋]] ISBN 9784167357115 *「日露戦争・あの人の『その後』」日本博学倶楽部 [[PHP研究所|PHP文庫]] ISBN 9784569661698 == 関連項目 == *[[児玉氏]] ==外部リンク== *[http://www.chukyo-u.ac.jp/reserch/irss/taiwan/ 中京大学 社会科学研究所 台湾研究部会] *[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/77.html?c=7 児玉源太郎肖像] *[http://www.ndl.go.jp/portrait/contents/index.html 近代日本人の肖像]([[国立国会図書館]]) *[http://kingendaikeizu.net/huzitatuguharu.htm 近現代・系図ワールド] *[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/a_kodama.html 児玉氏系譜] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%85%92%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月21日 (金) 06:05。]    

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