何応欽

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'''何応欽'''(かおうきん、[[1890年]][[4月2日]] - [[1987年]][[9月21日]])は[[中華民国]]の[[軍人]]。字は敬之。 [[貴州省]]興義に生まれる。 貴州陸軍小学・武昌陸軍中学を卒業した後、[[1908年]]、日本に留学し[[陸軍士官学校]]に22期生として入学。同期に[[牟田口廉也]]、[[鈴木貞一]]、[[相沢三郎]]がいる。ちなみに[[蒋介石]]は前年に[[陸軍士官学校]]に21期生として入学している。[[1909年]]、[[中国同盟会]]に加盟。[[1916年]]に帰国し、貴州第一師歩兵第四団団長・貴州陸軍混成旅旅長などを務めた。 [[1924年]]、[[孫文]]の[[広東軍政府]]に参加。軍校教練部主任・大本営軍事参謀。国民革命軍第一軍軍長に任命される。[[1926年]]、[[北伐]]参加。国民革命軍東路総指揮・参謀長など歴任。「蒋介石の片腕」と評される存在になる。[[1927年]]に[[南京国民政府]]が成立すると、第一路軍総指揮、翌年には総司令部参謀長となった。[[1933年]]に[[北京市|北平]]に赴任し、[[中国国民党|国民党]]軍事委員会北平分会会長に任ぜられ[[塘沽協定]]、[[1935年]]には[[梅津・何応欽協定]]を結ぶ。[[日中戦争]]時は、第四戦区司令長官・軍政部長・参謀総長等を務めた。 [[1945年]]、支那派遣軍総司令官[[岡村寧次]]が降伏文書に調印し、中国代表の何応欽に呈示。その後は国防部長・行政院院長を務めるが、[[1949年]]、[[国共内戦]]に敗れ蒋介石らとともに台湾へ脱出。渡台後は、[[総統府戦略顧問委員会]]主任委員・[[台湾紅十字総会]]会長・[[中日文経協会]]会長等を歴任した。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%BD%95%E5%BF%9C%E6%AC%BD 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月12日 (月) 23:33。]        

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