大正

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{{日本の歴史|Kanto-daishinsai.jpg|150px|画像説明=関東大震災}} '''大正'''(たいしょう)とは、[[日本]]の[[元号]]の一つ。[[明治]]の後、[[昭和]]の前。[[大正天皇]]の在位期間である[[1912年]][[7月30日]]から[[1926年]][[12月25日]]までの期間を指す。 ==改元== *明治45年(1912年)7月30日 - [[大正天皇]]即位の為、改元の詔書を公布、即日施行した。 *大正15年(1926年)12月25日 - [[昭和天皇]]即位の為、昭和に改元、同日は昭和元年12月25日となった。 ==出典== 「大正」の由来は『[[易経]]』の「'''大'''享以'''正'''天之道也」(大いに享を正すをもって天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。 ==大正年間の概要 == [[画像:Emperor Taishō.jpg|160px|thumb|大正天皇]] [[画像:Tokyo station marunouchi old.jpg|thumb|300px|竣工当時の[[東京駅]]。[[1914年]](大正3年)に完成した。]] 本時代は後世から振り返った時、[[大正デモクラシー]]に基づいた安定期として見られる事が多い。しかし、同時代的には、近代日本の象徴であった[[明治天皇]]の崩御、そして病弱であった[[大正天皇]]の即位、という不安感を拭きれない状況から始まったのである。また、大正期を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、[[スラム]]の形成、民衆騒擾の発生、[[労働争議]]の激化など社会的な矛盾が深まっていった。 大正年間には、2度に及ぶ[[護憲運動]](憲政擁護運動)が起こり、明治以来の[[藩閥]]支配体制が揺らいで、[[政党]]勢力が進出した。それは大正デモクラシーと呼ばれ、[[尾崎行雄]]・[[犬養毅]]らがその指導層となった。大正デモクラシー時代は、大正7年の[[米騒動]]の前と後で分けられることが多いが、米騒動後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相[[原敬]]が内閣を組織した。しかし、原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。[[普通選挙|普選運動]]が活発化し、[[平塚雷鳥]]や[[市川房枝]]らの[[婦人参政権|婦人参政権運動]]も活発となった。大正14年には、[[普通選挙法]]が成立したが、同時に[[治安維持法]]が制定された。言論界も活況を呈し、[[天皇制]]と[[民主主義]]を折衷しようとした[[吉野作造]]の民本主義や[[美濃部達吉]]の[[天皇機関説]]などが現れた。大正12年に[[関東大震災]]が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、[[山本権兵衛]]内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、[[護憲三派]]内閣として[[加藤高明]]内閣が成立した。大正末期には、[[ヴェルサイユ条約|ベルサイユ]]・[[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン体制]]に順応的な[[幣原外交]](加藤内閣)が展開され、[[中国]]への内政不干渉、[[ソビエト連邦|ソ連]]と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。 == 護憲運動と政治 == 明治末期にかけては[[軍部]]や[[元老]][[山県有朋]]の下で[[藩閥政治]]が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の[[桂太郎]]と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、[[桂園時代]]とも呼ばれていた。明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣[[上原勇作]]<!---脱線 (俳優の[[加山雄三]]の曽祖父)--->が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、[[陸軍]]は後任陸相を出さなかったため[[軍部大臣現役武官制]]によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。 その後、桂太郎が[[議会]]での交代のルールを無視して[[宮中]][[侍従長]]から3度目の首相に返り咲こうとした。この桂の返り咲きに対して、都市部の[[知識階級]]を中心にその反発は強まった。そして[[尾崎行雄]]・[[犬養毅]]らによる憲政擁護運動(護憲運動]])が起こり、[[新聞]]の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、ついには僅か数ヶ月で倒閣となった(第一次護憲運動、[[大正政変]])。 このため[[山本権兵衛]](第1次)に組閣の命が下った。[[立憲政友会]]の援助を受け、原敬内相の下、安定した政権運営を行った。軍部大臣現役武官制を緩和するなど、政党寄りの姿勢を示したが、[[シーメンス事件]]をきっかけに再び世論の反発を受け、最終的には貴族院との関係悪化から倒れた。 次いで元老[[井上馨]]の後押しにより、庶民的で大衆に人気のあった[[大隈重信]]が組閣した。[[1914年]]に勃発した[[第一次世界大戦]]では、[[加藤高明]]外相が中国に二十一か条の要求を提出した([[対華21ヶ条要求]])。 大隈内閣退陣後には、二大政党制を目指し、[[1913年]]に桂が死の直前に結成した[[立憲同志会]]が他党を取り込むかたちで[[憲政会]]へと拡大した。 これとほぼ同時に組閣した[[寺内正毅]]内閣が成立した。1917年の[[ロシア革命]]で[[ソビエト連邦|ソ連]]が成立したが、日本は革命政権の転覆のためシベリアに出兵した。折から、大戦景気によるインフレと[[シベリア出兵]]をきっかけとして国内では米価が暴騰し、[[富山県]]から[[米騒動]]が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣した。 代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として[[政友会]]の[[原敬]]が首相となり、[[1918年]]本格的政党内閣として原敬内閣が成立する。しかし、[[1921年]]に原が東京駅頭で一青年に暗殺された。 続いて政友会総裁となった[[高橋是清]]が首相となったが、政友会の調整能力に欠き、高橋内閣倒閣後は非政党内閣が続いた。 その後、関東大震災や[[虎ノ門事件]]の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って[[清浦奎吾]]が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会・[[革新倶楽部]]・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした[[政友本党]]に対抗した。[[護憲三派]](憲政会、政友会、革新倶楽部)は選挙で勝利し、[[護憲三派内閣]]として[[加藤高明]]内閣が成立した([[1924年]]、第二次大正政変)。 加藤高明内閣は[[1925年]](大正14年)、[[普通選挙法]]を成立させ、ついに身分や財産によらず成人男子すべてに[[選挙権]]を与える[[普通選挙]]が実現することになる。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に[[治安維持法]]を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかし、これによって[[政党]]政治が定着するようになった。この後、昭和7年に犬養毅内閣が[[五・一五事件]]で倒れるまで、[[政党政治]]が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉した。[[1932年]]の五・一五事件まで、政党内閣時代が続き([[憲政の常道]])、政治は、[[官僚]]や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。 ==第一次世界大戦と景気== [[1914年]]には[[第一次世界大戦]]が勃発した。日本は直接的戦闘地域は殆どなかったにもかかわらず元老の[[井上馨]]はその機会を「天佑」と言い、[[日英同盟]]を理由に参戦し戦勝国の一員となった。 発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時[[恐慌]]寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり[[日本]]と[[アメリカ合衆国|米国]]両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で[[造船業]]・[[繊維業]]・[[製鉄業]]が飛躍的に発展し、後進産業であった[[化学工業]]も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「[[成金]]」が出現する。また、政府財政も[[日露戦争]]以来続いた財政難を克服する事に成功する。 だが、[[1918年]]に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生して景気が悪化した。更に戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「[[金解禁]]」)の時期を逸したために、[[日本銀行]]に大量の[[金]]が滞留して[[金本位制]]による通貨調整の機能を失って、政府・日銀ともに景気対策が後手後手に回った。更に[[関東大震災]]による[[京浜工業地帯]]の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、[[震災手形]]とその[[不良債権]]化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに[[昭和金融恐慌]]・[[世界恐慌]]を迎える事になる。 == 震災復興 == [[1923年]](大正12年)には[[関東大震災]]が生じた。この未曾有の大災害に[[東京]]は大きな損害を受けるが、震災後、[[山本権兵衛]]内閣が成立し、その内務相となった[[後藤新平]]が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行い[[インフラストラクチャー|インフラ]]が整備され、大変革を遂げた。また[[ラジオ]]放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画された[[パリ]]や[[ロンドン]]を参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の[[首都高速]]の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた[[亀戸事件]]などが起こったことや、震災直後の緊急対策であった筈の震災手形の処理を遅らせて不良債権化させた結果として金融恐慌を招いた事は歴史の負の側面であろう。 == 大正文化 == 大正時代前後に都市を背景にした大衆文化が成立した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。 東京においては、震災の影響が総じて少なかった丸の内、大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「'''副都心'''」へと成長させた。それより先大阪では、おびただしい私鉄網が完成し、なかんずく[[阪急阪神ホールディングス|阪神急行電鉄]]の巧みな経営術により、[[大阪平野]]に広大な[[ベッドタウン|住宅衛星都市群]]が出現した。[[東京大学|東京帝大]]の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、「サラリーマン」が大衆の主人公となった。明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「'''百貨店'''」に変身を遂げ、銀座はデパート街へと変貌した。 明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが大正15年、その前年出発した「[[東京六大学野球]]」が愈々隆盛をきわめるようなる。「[[朝日新聞|'''大阪朝日新聞''']]」、「[[毎日新聞|'''大阪毎日新聞''']]」が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した'''[[読売新聞]]'''も成長を果たして、今日「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。大正14年3月には、東京、大阪、名古屋で'''ラジオ放送'''が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになる。震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「'''自動車'''」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」の登場もあって、旅客か貨物であるかを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「'''カフェ'''」「'''レストラン'''」が成長、飲食店のあり方に変革をもたらした。又、コロッケなどの登場によりそれまで洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。明治時代まで庶民に縁のなかった「欧米式'''美容室'''」、「'''ダンスホール'''」が都市では珍しい存在ではなくなり、男性の'''洋装'''が当たり前になったのもこの時代である。一方、地方(特に農漁村)ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は拡大していった。 文学界には、[[芥川龍之介]]や[[白樺派]]の[[ヒューマニズム|人道主義]](ヒューマニズム)が台頭した。 このころまでに近代[[日本語]]が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、[[芥川龍之介]]、[[有島武郎]]・[[武者小路実篤]]・[[志賀直哉]]ら[[白樺派]]、[[中里介山]]の『[[大菩薩峠 (小説)|大菩薩峠]]』や『[[文藝春秋 (出版社)|文藝春秋]]』の経営にも当った[[菊池寛]]などの文芸作品が登場した。同時期の大正10年には、[[小牧近江]]らによって雑誌『[[種蒔く人]]』が創刊され、昭和初期にかけて[[プロレタリア文学]]運動に発展した。また大正13年には、演劇で[[小山内薫]]が[[築地小劇場]]を創立し、[[新劇]]を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。 == 社会問題 == この当時、社会事業をめぐる議論が盛んとなり、米騒動後には政府・地方で[[社会局]]および[[方面委員制度]]の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。 また大正八年には、第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による[[民力涵養運動]]が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。 こうして大正時代において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。 ==略年表== *[[1913年]](大正2年) [[大正政変]] *[[1914年]](大正3年) [[シーメンス事件]]、[[第一次世界大戦]]勃発 *[[1917年]](大正6年) [[ロシア革命]] *[[1918年]](大正7年) [[シベリア出兵]]、[[米騒動]] *[[1919年]](大正8年) [[パリ講和会議]]、選挙法改正 *[[1920年]](大正9年) [[国際連盟]]設立 *[[1921年]](大正10年) [[原敬]]首相[[東京駅]]で暗殺 *[[1923年]](大正12年) [[関東大震災]] *[[1925年]](大正14年) [[治安維持法]]制定、普通選挙法 == 西暦との対照表 == {| border=1 cellspacing=0 style="text-align:center" |- style="font-weight:bold;background-color:#CCCCCC;color:#000000" |大正||元年||2年||3年||4年||5年||6年||7年||8年||9年||10年 |- style="background-color:#FFFFFF;" |西暦||[[1912年]]||[[1913年]]||[[1914年]]||[[1915年]]||[[1916年]]||[[1917年]]||[[1918年]]||[[1919年]]||[[1920年]]||[[1921年]] |- style="background-color:#FFFFFF;" |[[干支]]||[[壬子]]||[[癸丑]]||[[甲寅]]||[[乙卯]]||[[丙辰]]||[[丁巳]]||[[戊午]]||[[己未]]||[[庚申]]||[[辛酉]] |} {| border=1 cellspacing=0 style="text-align:center" |- style="font-weight:bold;background-color:#CCCCCC;color:#000000" |大正||11年||12年||13年||14年||15年 |- style="background-color:#FFFFFF;" |西暦||[[1922年]]||[[1923年]]||[[1924年]]||[[1925年]]||[[1926年]] |- style="background-color:#FFFFFF;" |干支||[[壬戌]]||[[癸亥]]||[[甲子]]||[[乙丑]]||[[丙寅]] |} ==その他== 明治天皇が崩御して、新元号をスクープしたのが[[朝日新聞]]の[[緒方竹虎]]である。彼は記者時代の新元号スクープにより出世し、同社編集長、更に後には政治家へと栄転する。 ==大正を名乗る企業・団体・人物== *[[大正製薬]] *[[大正大学]] *大正火災海上保険(後に三井火災海上保険。現[[三井住友海上火災保険]]) *[[大阪市]][[大正区]] *[[日本大正村]] *[[大正九年]](ミュージシャン) *[http://www.taishoyakuhin.co.jp/ 大正薬品工業] *[http://www.taisho-yakka.com/ 大正薬化工業] *[[家具の大正堂]](ルームズ大正堂) *[[大正銀行]] ==関連項目== *[[大正デモクラシー]] *[[大正ロマン]](大正浪漫) *[[阪神間モダニズム]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%AD%A3 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月13日 (木) 12:21。]    

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