愛新覚羅溥儀

「愛新覚羅溥儀」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

愛新覚羅溥儀」(2008/10/08 (水) 00:27:13) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

'''愛新覚羅 溥儀'''(あいしんかくら ふぎ、[[満州語|満洲語]]名:アイシンギョロ - <ref>満洲語の本名を名付けていない</ref>、[[簡体字]]:{{lang|zh|'''爱新觉罗溥仪'''}}、[[ピン音|漢語拼音]]:''&#192;ix&#299;nju&#233;lu&#243; P&#468;y&#237;''=アイシンジュエルオ・プーイー、[[1906年]][[2月7日]] - [[1967年]][[10月17日]])は、[[清|清朝]]の第12代[[皇帝]]'''宣統帝'''(せんとうてい、[[1908年]] - [[1912年]])。「'''最後の皇帝'''」として広く知られる。清朝崩壊後に[[日本]]政府および軍の支援を受け、[[満州国|満洲国]]の執政、満洲国が帝政に移行すると皇帝として即位、'''康徳帝'''([[1934年]] - [[1945年]])を名乗る。[[字]](あざな)を「浩然」あるいは「耀之」という。 廟号は'''恭宗'''([[2004年]]に与えられたが、公式ではない)。また、[[辛亥革命]]後の呼称としては、'''廃帝'''と[[中国国民党|国民党]][[政府]]から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは'''遜帝'''(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。'''末皇帝'''(末帝)と呼ばれる場合もある。 ==略歴== {{中国の歴史}} *1906年:[[愛新覚羅載ホウ|醇親王載灃]]の子として[[北京市|北京]]に生まれる *1908年:第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位 *1912年:退位し「大清皇帝」となる *1917年:[[張勲 (清末民初)|張勲]]の復辟により清朝皇帝に復位するも、10日あまりで再び退位 *1919年:[[レジナルド・ジョンストン]]を帝師として招聘 *1922年:正妻の[[婉容]]、[[側室]]の文繍と[[結婚]] *1924年:[[クーデター]]により紫禁城から退去 *1925年:[[天津市]]内張園の[[日本]][[租界]]に移転 *1931年:側室の文繍と[[離婚]] *1932年:満洲国の建国に伴い満洲国執政に就任 *1934年:満洲国皇帝(康徳帝)に即位 *1935年:初の外国訪問として日本を公式訪問 *1937年:[[関東軍]]の薦めで譚玉齢と李玉琴を側室とする *1940年:日本を再び公式訪問、最後の外国訪問となる *1945年:満洲国の崩壊に伴い皇帝を退位し、その後[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の[[捕虜]]になる、婉容死去 *1946年:[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]の証人として出廷させられる *1950年:[[中華人民共和国]]に身柄を移され政治犯収容所に収容される *1959年:模範囚として釈放され、その後北京文史資料研究委員会に勤務 *1962年:[[李淑賢]]と再婚 *1964年:[[中国共産党]]政治協商会議全国委員に選出される *1967年:[[北京市|北京]]で死去 ==経歴== ===生誕=== [[1906年]]に、清朝の第11代皇帝[[光緒帝]]の弟である[[愛新覚羅載ホウ|醇親王載灃]]と、光緒帝の従兄弟で、[[西太后]]の母方の甥の[[栄禄]]の娘である幼蘭の子として、清国(大清帝国)の[[首都]]である北京に生まれる。 ===第12代清朝皇帝=== [[Image:Xuantong.jpg|220px|thumb|清朝皇帝時代の溥儀]] [[1900年]]に発生した[[義和団の乱]]を乗り越え、当時強い権力を持っていた西太后が周囲の強硬な反対意見を押し切り自ら推薦することで、[[1908年]]12月にわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代宣統帝となった。即位式は[[紫禁城]]太和殿で行われ、その後溥儀は多くの[[宦官]]とともに[[紫禁城]]で暮らすこととなる。 溥儀が即位すると西太后は、醇親王を[[摂政|監国摂政王]]に任命して政治の実権を委ね、実質的な院政を敷いたものの、その甲斐もなく同年[[11月14日]]に光緒帝が[[崩御]]した翌日に74歳で崩御した。 なお、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、「自分の最期を悟った西太后が、当初は自らが皇帝に即位させたものの、その後は端郡王載漪の子の溥儁を大阿哥に擁立してまで廃帝に追い込もうとしたことのある光緒帝を、自分よりも長生きさせないために毒薬投与により暗殺した」とする説がある([[2007年]]に行われた調査では、光緒帝の遺髪から大量の[[砒素]]が検出され、この説を裏附けることとなった)。 ===清朝崩壊と退位=== その翌年の[[1909年]]初めに醇親王は、兄である光緒帝の[[戊戌変法]]を潰したとして憎んでいた、北洋大臣兼[[直隷総督]]で西太后の信頼が高かった[[袁世凱]]を失脚させ、さらに袁世凱を殺害しようとしたが、内部情報を得た袁世凱はかろうじて北京を逃れ[[河南省]]彰徳に蟄居することとなった。 その後袁世凱は、清国政府による民間資本鉄道の国有化とその反対運動をきっかけに起きた[[1911年]]10月の[[辛亥革命]]において、[[孫文]]の[[中国革命同盟会]]が湖北省の武昌で起こした反乱([[武昌起義]])の鎮圧を目的に、清国政府の第2代[[内閣]][[総理大臣]]と湖広総督に任命されたものの、清国政府の不利を確信した後に孫文から自らの臨時大総統就任の言質を取るや寝返り、清国政府の要路者に政権の交代をうながし清朝を崩壊に導く。 [[画像:3-10.jpg|220px|thumb|中華民国臨時大総統に就任した袁世凱(中心)]] 清朝崩壊を受けて[[1912年]]1月には孫文を臨時[[大総統]]に中華民国臨時政府が成立し、同年2月に袁世凱は孫文に代わり自らを大総統とする[[共和制]]国家の[[中華民国]]([[北京政府|北洋軍閥政府]])を設立した。これを受け溥儀は、同月に隆裕皇后と袁世凱の間で交わされた清帝退位詔書を受けて退位することとなるものの、袁世凱との間に交わされた「[[清室優待条件|清帝退位優待条件]]」に基づき「'''大清皇帝'''」の尊号を名乗ることになり、また、引き続き隆裕皇后や多くの宦官とともに紫禁城(と[[頤和園]])で生活することが許された。またこの頃、弟の[[愛新覚羅溥傑|溥傑]]と初対面を果たす。 その後、袁世凱は溥儀に代わり自らが「皇帝」となるべく奔走し、[[1915年]][[12月12日]]に帝政復活を宣言して皇帝に即位した。その後[[1916年]][[1月1日]]より年号を[[洪憲]]と定め、国号を「[[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]]」に改めた。たが、[[北洋軍閥]]や日本政府などの各方面からの反対により即位直後の同年3月に退位し、失意の中で同年6月に死去した。 ===張勲復辟事件=== 袁世凱が死去した翌年の[[1917年]]に、対[[ドイツ帝国|ドイツ]]問題で[[黎元洪]]大総統と政敵の[[段祺瑞]]の確執が激化し、同年[[5月23日]]には黎元洪大総統が段祺瑞を罷免に追い込んだものの、民国期になっても[[辮髪]]を止めないほどの保守派で、革命後も清朝に忠節を尽す[[張勲 (清末民初)|張勲]]が、この政治的空白時に乗じて王政復古によって政権を奪還しようと、中華民国の[[立憲君主制]]を目指す[[康有為]]を呼び寄せて、すでに退位していた溥儀を再び即位させて[[7月1日]]に帝政の復古を宣言。いわゆる「張勲復辟事件」に発展した。 張勲は幼少の溥儀を擁して自ら議政大臣と直隷総督兼北洋大臣となり、[[国会]]及び[[憲法]]を破棄し、共和制廃止と清朝の復辟を成し遂げるも、仲間割れから段祺瑞に敗れ[[オランダ]][[公使]]館に避難。最終的に溥儀の復辟は13日間で挫折した。その後中国大陸は[[馮玉祥]]や[[蒋介石]]、[[張作霖]]などの軍閥による勢力争いという、混沌とした状況を迎えることとなる。 ===ジョンストンとの出会い=== その後、溥儀の後見役的立場になっていた醇親王載灃と、西太后の側近であった[[李鴻章]]の息子で、清国の欽差全権[[大臣]]を務め、駐[[大英帝国|イギリス]][[特命全権大使]]でもあった李經方の勧めによって、[[1919年]]5月から[[1924年]]までの間、紫禁城内にイギリス[[拓務省]]の役人で、[[中国語]]に堪能であった[[スコットランド]]人の[[レジナルド・ジョンストン|レジナルド・フレミング・ジョンストン]]を帝師([[家庭教師]])として招聘し、近代的な[[西洋]]風の教育と[[英語]]の教育を受けた。 当初は溥儀は見ず知らずの外国人であるジョンストンを受け入れることを拒否していたものの、ジョンストンとの初対面時にその語学力と博学ぶりに感心し一転して受け入れることを決断した。その後ジョンストンより[[洋服]]や[[自転車]]、[[電話]]などの[[ヨーロッパ]]の最新の輸入品を与えられ、「洋服には似合わない」との理由で[[辮髪]]を切るなど、紫禁城内で生活をしながらも、ジョンストンがもたらしたヨーロッパ(イギリス)風の生活様式の影響を受けることとなる。 なおこの頃溥儀は[[キリスト教徒]]のジョンストンより、「'''ヘンリー'''(''Henry'')」というクリスチャン・ネームを与えられ、その後もこの名前を好んで使用した。なお溥儀はクリスチャン・ネームを持ったものの、クリスチャン・ネームを持つ多くの中国人と同じく[[キリスト教]]徒にはならなかった。 ===結婚=== その後の[[1922年]]には、満洲の上流[[貴族]]の娘に生まれた[[婉容]]を正妻に、側室として[[文繍]]と結婚し、紫禁城において盛大な結婚式を挙げる。結婚後に婉容の家庭教師として北京生まれの[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人のイザベル・イングラムが就任した。なお、結婚後婉容にはイングラムより「エリザベス(''Elizabeth'')」のクリスチャン・ネームが与えられた。 この頃溥儀はジョンストンや、清国の[[大阪]][[総領事]]や[[総理衙門]]章京、湖南布政使等を歴任した後に[[1924年]]に総理内務府大臣(教育掛)となった[[鄭孝胥]]の薦めを受けて、紫禁城内の経費削減と近代化を推し進めるとともに、宦官の汚職や紫禁城内の美術品の横領を一掃するために、中華民国政府の力を借りて約1,200名いた宦官のほとんどを一斉解雇し、女官を追放するなどの紫禁城内の近代化を図り議論を呼んだりした。しかし、溥儀自身は中華民国内の混沌とした政情の中にあって正妻と側近、残された宦官らとともに紫禁城の中で平穏な日々を過ごした。 ===紫禁城追放と日本との接近=== その後も中国の武力統一を図る軍閥同士の戦闘はますます活発化し、1924年10月には[[馮玉祥]]と[[孫岳]]が起こした[[奉直戦争|第二次奉直戦争]]に伴う[[クーデター]]([[北京政変]])が発生し、直隷派の[[曹錕]]が監禁され馮玉祥と孫岳が北京を支配することとなった。この結果、もはや過去の人物となった袁世凱との間に交わされた「清帝退位優待条件」は反故にされ、軍閥にとって利用価値のなくなった溥儀とその一族は長年住み慣れた紫禁城を追われることとなった。 当初溥儀は醇親王の王宮である北府へ一時的に身を寄せ、その後ジョンストンが総理内務府大臣の鄭孝胥と陳宝琛の意向を受けて[[上海租界]]や天津[[租界]]内のイギリス公館や[[オランダ]]公館に庇護を申し出たものの、ジョンストンの母国であるイギリス公館からは内政干渉となることを恐れ受け入れを拒否された。しかし、[[日本]]の[[芳沢謙吉]][[公使]]は即座に受け入れを表明し、すぐに北京の日本公使館の庇護を受けることになった。 翌[[1925年]]に鄭孝胥と日本の[[支那]]駐屯軍、駐天津日本国総領事館の仲介で、溥儀一行の身柄の受け入れを表明した[[日本]]政府の勧めにより[[天津市]]内張園の日本租界に移ることとなる。この事をきっかけに、[[1905年]]の[[日露戦争]]の勝利による[[ロシア]]権益の移譲以降、[[中国大陸]]への本格進出の機会を狙っていた[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]([[関東軍]])と緊密な関係を持ち始める。 その後溥儀と別れたジョンストンは天津港より[[P&O]]の汽船でイギリスに帰国した。帰国後は[[ロンドン大学]]の[[東洋]]学及び[[中国語]]教授に就任し、溥儀の家庭教師時代を綴った「[[紫禁城の黄昏]]」(原題:『''Twilight in the Forbidden City''』)を著した後、イギリスの租借領であるポート・エドワード([[威海衛]])の[[植民地]][[行政]][[長官]](弁務官)に就任したが、すでに日本と密接な関係を持っていた溥儀との再会は果たせなかった。 ===国共内戦=== [[画像:Zhang zuolin car.jpg|thumb|220px|「満洲某重大事件」により大破した張作霖の列車]] なお、この頃も中華民国国内の状況は混とんとしたままで、[[1927年]]4月には[[上海]]において「[[上海クーデター]]」が勃発し、蒋介石率いる中国国民党右派が対立する[[中国共産党]]を弾圧した。その後蒋介石は[[南京]]にて「[[南京国民政府]]」を設立し、党および中華民国政府の実権を掌握するものの、同年7月に[[国共合作]]を破棄したことで、[[ソビエト連邦]]からの支援を受けた中国共産党の残党が反発し[[国共内戦]]がはじまる。 また、溥儀を紫禁城から追放するきっかけとなった北京政変後の[[1926年]]に政権を掌握した[[張作霖]]の政権も磐石なものではなかった。張作霖は、[[孫文]]の没後にその後を継いだ[[中国国民党]]右派の[[蒋介石]]が[[1928年]]に開始した「[[北伐]]」により、からくも北京より脱出したものの、その後、[[黒龍江省]]や[[吉林省]]も含めた東三省全域(いずれもその後の満洲国一帯)を影響下に入れようとしていた張作霖を排除しようと考えた関東軍が同年6月に奉天で引き起こした「[[満州某重大事件]]」により命を落とすことになった。その後張作霖の息子の[[張学良]]は蒋介石に降伏し、その後両者は中華民国領土への野望をあらわにしてきた関東軍との対決を深めることになった。 ===文繍との離婚=== 溥儀の住んでいた天津は、この頃の国共内戦の主な戦闘地域から離れていたことや、日本やイギリス、[[フランス]]などの列強をはじめとする外国租界が多かったため両軍が諸外国に刺激を与えることを恐れたこと、さらに「満洲某重大事件」により張作霖が暗殺されて以降、急速に関東軍の支配が強まっていたこともあり、国共内戦の影響を受けることはなかった。このため溥儀はその後も天津の日本租界、さらに協昌里の静園で婉容と文繍、鄭孝胥をはじめとする少数の側近らとともに静かに暮らしていた。 しかし、正妻の婉容との確執が深まった側室の文繍と別居の末に、[[1931年]]に[[離婚]]することとなる。このことにより溥儀は中国の歴史上初の離婚歴を持つ皇帝となった。離婚後文繍は溥儀に対して[[慰謝料]]を求めて[[告訴]]した上で、溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情を[[マスコミ]]に暴露し話題を呼んだ。この事を受けて文繍は離婚後すべての位を剥奪され[[平民]]となり、[[小学校]]の[[教師]]として[[1950年]]に一生を終える。 ===満洲事変=== [[Image:IJA Infantry in Manchuria.jpg|right|220px|thumb|満洲事変で[[中華民国軍]]と戦う日本陸軍]] 1931年[[9月18日]]に、中華民国の領土内を含む[[中国大陸]]に展開する[[関東軍]]を含む日本陸軍が、中華民国の[[奉天]]郊外の柳条湖で発生した[[南満州鉄道]]の[[線路 (鉄道)|線路]]の爆破事件を、「[[張学良]]ら東北軍による破壊工作」と断定し(いわゆる「[[柳条湖事件]]」。実際には、爆破は関東軍の虎石台独立守備隊の一小隊が行ったものであり、つまり関東軍の自作自演であった)、これを口実に日本陸軍が中華民国軍との間の戦い、いわゆる「[[満州事変]]」を開始した。 すぐさま関東軍は奉天や[[長春]]、[[営口]]などの近隣都市を占領したばかりか、その後21日に、[[林銑十郎]][[中将]]の率いる[[朝鮮]]駐屯軍が独断で越境し中華民国の満洲地域一帯に侵攻した上、関東軍は軍司令官[[本庄繁]]を押し切ったばかりか、不拡大方針を進めようとした日本政府の決定を無視して、「自衛のため」と称して戦線を拡大する。その後関東軍はわずか5ヶ月の間に全満洲地域を占領したが、[[張学良]]は[[蒋介石]]率いる中華民国政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲地域から撤退し、間もなく満洲一帯は関東軍の支配下に入った。 その後関東軍は、国際世論の批判を避けるため、満洲地域に対して永続的な武力占領や[[植民地]]化ではなく、日本の影響力を残した[[傀儡政権|傀儡国家]]の樹立を目論み、親日的な軍閥による[[共和国]]の設立などを画策した。しかしこの様な形での共和国の設立は正当性に乏しく、新国家の国民のみならず[[国際連盟]]加盟国をはじめとする国際社会の支持を得にくいと判断したことから、国家に正当性を持たせるために清朝の皇帝で[[満州族|満洲民族]]出身であった溥儀を「皇帝」に擁くことを画策した。 ===満洲国建国=== [[Image:Manchukuo politician.jpg|right|220px|thumb|満洲国の初代内閣]] この様な目論みを受けて、関東軍の[[特務機関]]長であった[[土肥原賢二]]が同年[[11月2日]]に溥儀の説得にかかった。土肥原ら関東軍による「清朝の復辟」を条件に満洲国皇帝への即位を同意した溥儀は、天津の「自宅」を出て湯崗子温泉を経て[[11月13日]]に営口に到着、[[旅順]]の[[ヤマトホテル]]に留まった。なお溥儀が旅順へ向かった後、[[粛親王善耆]]第十四王女で、「東洋の[[マタ・ハリ]]」、「男装の麗人」と呼ばれ、当時関東軍の[[スパイ]]として働いていた[[川島芳子]]が、天津に残された婉容を連れ出すことを関東軍から依頼され、実際に婉容を天津から旅順へ護送する任務を行っている。 その後、遼寧(当時は奉天省)、吉林、黒竜江省の要人が関東軍との協議を開始し、[[1932年]][[2月18日]]に、後に満洲国の国務院総理となる[[張景恵]]を委員長とする東北行政委員会が[[蒋介石]]率いる[[中国国民党]]政府からの分離独立を宣言し、「'''大同'''」元年(1932年)[[3月1日]]に、[[新京]]に[[首都]]を置く'''満洲国'''が建国された。なおこの建国に至る協議に溥儀は参加しなかったばかりか、その内容さえも伝えられることはなかった。 ===「執政」就任=== [[Image:Inauguration Ceremony of Chief Executive of Manchukuo.JPG|right|220px|thumb|「執政」就任式典]] 満洲国の建国を受け溥儀は同年[[3月9日]]に満洲国の「執政」に就任した。この際に溥儀は、かつて皇帝であったこともあり、格下である「執政」への就任を嫌がり、あくまで皇帝への即位を主張するが、関東軍から「時期尚早」として撥ねつけられてしまう。なお、「執政」となった溥儀は、関東軍の日本人[[将校]]から、皇帝へ対する敬称である「[[陛下]]」ではなく、執政に対する呼び方である「[[閣下]]」と呼ばれ激怒したと伝えられている。 なお、溥儀が「執政」に就任した直後の3月に、[[国際連盟]]から[[柳条湖事件]]及び満洲事変と満洲国、および日本の調査のために派遣された[[イギリス]]の[[ヴィクター・リットン|ヴィクター・リットン卿]]率いる、いわゆる「[[リットン調査団]]」が満洲国を訪問し、5月には溥儀にも調査の一環として調査団を謁見した。 ===皇帝即位=== その後[[1934年]][[3月1日]]には[[満州国皇帝|満洲国皇帝]]の座に就き、[[康徳帝]]となる。なお、溥儀の皇帝即位に併せて正式国名が'''満洲帝国'''に改名され、元号も「''康徳''」に変更された(満洲国側によって当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更を余儀なくされた)。また、同時に紫禁城時代からの教育掛で総理内務府大臣でもあり、溥儀と日本陸軍との間を取り持った鄭孝胥が[[国務院]]総理に就任した。 [[Image:Manchukuo palace.jpg|right|220px|thumb|皇宮として建てられた同徳殿]] なお、同日に[[新京]]市内で行われた皇帝即位式の際に溥儀は、満洲国のスローガンの1つである「日、朝、滿、蒙、漢」の「五族協調」を掲げる上で、満洲族の民族色を出すことを嫌った関東軍からの強い勧めで満洲国軍の[[軍服]](大総帥服)着用で行われたが、溥儀の強い依頼により、新京市内の順天広場に置かれた特設会場にて、即位式に先立って即位を清朝の先祖に報告する儀式である「告天礼」が行われ、この際に溥儀は満洲族の民族衣装である龍袍を着用した。しかし同時に満洲帝国政府からは「これは清朝の復辟を意味しない」旨の声明が出されていた。 溥儀の皇宮は「執政」当時と同様に満洲国の首都の新京(現在の[[長春]])中心部に置かれた。当初溥儀夫妻は内廷の緝煕楼(しゅうきろう)に住んでいたが、「皇宮とするには狭く威厳が足りない」と考えた満洲国政府により、[[1938年]]に新たに[[同徳殿]](どうとくでん)が皇宮として建てられた。しかし、関東軍による盗聴を恐れて溥儀自身は一度も皇宮として利用しなかった。 === 傀儡 === [[Image:Signature of Japan-Manchukuo Protocol.JPG|right|220px|thumb|日満議定書調印]] [[Image:Chu&emperor.jpg|right|220px|thumb|工藤忠と溥儀]] 関東軍の主導によって作られた満洲国の[[憲法]]上では、皇帝は国務院[[総理]]を始めとする[[大臣]]を任命することができたが、次官以下の[[官僚]]に対しては「[[日満議定書]]」により、関東軍が日本人を満洲帝国の官吏に任命、もしくは罷免する権限を持っていたので、関東軍の同意がなければ任免することができなかった。実際に、関東軍の高級[[将校]]で「御用掛」である[[吉岡安直]]や[[工藤忠]]が常に溥儀とともに行動し、その行動や発言に対し「助言」するなど、皇帝の称号こそあるにしろ、事実上日本の(というより関東軍の)傀儡政権であった。 また、国体に関わるような重要事項の決定には、皇帝の溥儀だけでなく関東軍の認証が必要であり、また満洲国の官職の約半分が日本人で占められ、建国当初は満洲国独自の[[軍隊]]や国籍法が存在しないことなど、関東軍の影響力は大きかった。 1937年2月には、溥儀と関東軍の[[植田謙吉]]司令官の間で「念書」が交わされ、「満洲帝国皇帝に男子が居ない場合、日本の天皇の叡慮によりそれを定める」とされ<ref>満州帝国と溥儀「歴史群像シリーズ 満州帝国」[[学研]]</ref>、実際に溥儀に男子がいなかったことから、事実上溥儀の後継者は日本(関東軍)が定めることとなった。これ以降溥儀は、以前に比べて関東軍による[[暗殺]](と溥儀の暗殺による親日本的な志向を持つ皇帝への交代)を恐れるようになって行ったと言われている。 さらに、[[1940年]]7月に溥儀が2度目の訪日を行い[[伊勢神宮]]を訪れた後には、満洲帝国内に「建国新廟」が作られ、神体として[[天照大神]]が祀られ満洲帝国の国民は東方遙拝や天照大神への崇拝が強制されることとなった。 なお、満洲国建国に際しても溥儀と一緒に満洲入りし、満洲国の初代国務院総理として溥儀を支えた鄭孝胥は「我が国はいつまでも子供ではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから、溥儀の皇帝即位のわずか1年後の[[1935年]]5月に辞任に追い込まれた。また、[[1937年]]に関東軍の薦めで[[譚玉齢]]と李玉琴を側室とするが、その後関東軍に対して反抗的な行動を取った譚玉齢は[[1942年]]に死去した。なお溥儀はこの死について東京裁判において「関東軍による暗殺」と証言したが、遺族はそれを戦後否定している。 ===日本国皇室との関係=== [[Image:Aisin-Gioro Pujie and Hiro Saga.jpg|thumb|220px|溥傑と嵯峨浩]] 満洲国において日本(というより関東軍)との関係はこの様な状況ではあったものの、日満友好を促進する狙いと、満洲国並びに溥儀の威信を高めることを目的として、[[1935年]]4月に溥儀が[[昭和天皇]]の招待により日本を公式訪問する。 この様な両者の親しい関係を表すように、溥儀が初訪日した際には昭和天皇自らが[[東京駅]]まで溥儀を迎えに行くという、日本の歴史上無い異例の歓待を行なった。なお、溥儀の訪日を記念して日本政府は記念切手を4種発行したほか、訪日中は[[新聞]]や[[ラジオ]]、[[雑誌]]やニュース映画など日本中の[[マスコミ]]が溥儀の行動や発言を逐一報道し、いわゆる「[[追っかけ]]」も発生するなど、溥儀自身の人柄もあいまって日本の皇室や指導者層のみならず日本国民からも高い人気を集める。[[1940年]]6月に[[皇紀]]2600年記念行事が[[東京]]で行われた際にも、[[タイ王国]]や[[南京国民政府]](汪兆銘政府)などの日本の友好国の首脳陣同様に奉祝のために再び訪日し、満洲国から[[横浜港]]に到着した際に[[高松宮宣仁親王]]の出迎えを受けた後、再度昭和天皇と会見している。 なお、溥儀が初来日から帰国した際には「もし満洲国皇帝に不忠であれば、それは日本天皇に不忠であり、日本天皇に不忠であれば満洲皇帝に不忠となる」と満洲国政府首脳部に対して訓示を行った他、2度目の訪日の際に伊勢神宮を訪問した際には「日満一神一崇」を表明するなど、日本国の皇室との親しい関係を、自らに対して軽視する態度を持つ関東軍に対する牽制のために利用したとも評されている。なお溥儀は、1935年と1940年の2回の訪日ともに、この頃より病気が伝えられた婉容を同伴せず単独で訪日を行った。 また、[[1937年]]には、当時日本の陸軍士官学校を卒業し[[千葉県]]に住んでいた溥傑と、嵯峨[[侯爵]]家の令嬢で[[天皇家]]の親戚(先代侯爵嵯峨公勝の夫人仲子は、明治天皇生母中山慶子実弟・忠光の娘)に当たる[[嵯峨浩]]の縁談が関東軍の主導で進められ、[[1938年]][[2月6日]]に駐日満洲国[[大使館]]の発表で2人の結婚が内定し、同年[[4月3日]]に東京の[[九段会館|軍人会館]]で挙式が行われ大きな話題を呼んだ。 来日時に面会した[[貞明皇后|貞明皇太后]]は溥儀を「満州殿」と呼び、我が子のように接した。当時の溥儀は昭和天皇の兄弟分であるという気持ちが強かったとされている。 ===日中戦争と第二次世界大戦=== [[Image:General Officers of MIA-2.JPG|thumb|220px|満洲国陸軍の上層部]] 溥儀が皇帝に就任した4年後の1937年[[7月7日]]に、北京西南の[[盧溝橋]]で起きた[[盧溝橋事件]]を契機として日本軍と[[中華民国軍]]の間で[[日中戦争]]([[支那事変]])が勃発した。その後、内戦状態にあった[[中国国民党]]と[[中国共産党]]は、[[日本軍]]に対抗するための抗日民族統一戦線である[[国共合作]]([[第二次国共合作]])を構築した。 その後の[[1941年]][[12月7日]]の[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])の開戦により、日本が[[連合国]]と交戦状態に入ると、満洲帝国も日本に併せて連合国各国に対し宣戦布告をし、事実上[[枢軸国]]の1員として[[第二次世界大戦]]に参戦することとなった。しかし、日本軍とイギリス軍や[[アメリカ軍]]、中華民国軍との戦闘地域から離れていることや、満洲帝国の事実上の[[宗主国]]である日本と隣国ソビエト連邦との間に[[日ソ中立条約]]が存在することから、中華民国軍や中国共産党軍による[[ゲリラ]]攻撃がたびたび行われていたものの、戦争状態にはならず平静が続いた。 1943年には溥傑が日本陸軍[[大学]]校の教官として配属されたため、溥傑とその一家は東京に居を移すこととなった。この頃日本軍は同年頭頃まで破竹の勢いを保っていたものの、事実上1国だけでイギリスやアメリカ、中華民国や[[オーストラリア]]などの連合国と対峙していたこともあり、[[1944年]]に入ると各地で次第に敗戦の色を濃くしてゆく。なお、同年溥傑は[[学習院]]に入学した長女の慧生ら家族を東京に残し単身で新京に戻った。 [[1945年]]に入ると、満洲国内の工業地帯や軍の基地などが、イギリス領[[インド]]経由で中華民国内陸部の[[成都]][[基地]]から飛来したアメリカ軍の爆撃機などの攻撃をたびたび受けるようになってゆく。 ===満洲国解体と退位=== [[Image:Soviet tanks entering Changun.jpg|right|220px|thumb|新京に入城したソ連軍の戦車]] その後[[1945年]][[8月8日]]に、先立って行われた[[ヤルタ会議]]での[[イギリス]]やアメリカなどのほかの連合国との密約により、突如ソ連政府は[[モスクワ]]の[[佐藤尚武]]駐ソ連日本[[特命全権大使]]に対して[[1946年]][[4月26日]]まで有効だった[[日ソ中立条約]]の破棄を通告し、まもなく[[ソ連軍]]の大部隊が北西の外蒙古(現在の[[モンゴル国]])及び北東の[[沿海州]]、北の孫呉方面及び[[ハイラル]]方面の3方向からソ満国境を越えて、ソ連が国家として承認していなかった(日本の占領地とみなしていた)満洲帝国に侵攻した。 日ソ中立条約の存在に頼り[[1942年]]以降増強が中止され、主力を南方戦線にとられていた関東軍は、同年5月の[[ドイツ]]の敗北以降、対日満開戦に備えてソ満国境付近に集結していたソ連軍に対して一方的に敗走し、溥儀やその家族、満洲国の閣僚や関東軍の上層部たちは、ソ連軍の進撃が進むと[[8月10日]]に首都の新京の放棄を決定し、[[8月13日]]に[[朝鮮]]との国境に程近い[[通化県|通化省]]臨江県の大栗子に特別列車で避難していた。 しかし、事実上1国で連合国と戦っていた日本が[[8月15日]]に連合国に対して降伏したことにより、その2日後の[[8月17日]]に国務院が満洲帝国の解体を決定、[[8月18日]]未明に大栗子で満洲帝国解体を自ら宣言するとともに満洲帝国皇帝を退位した。 ===ソ連への抑留=== [[Image:Mitsubishi Ki-67-2.jpg|thumb|right|220px|日本陸軍の四式重爆撃機]] 満洲帝国皇帝を退位した溥儀は、日本政府より日本への[[亡命]]を打診されたこともあり、 [[8月19日]]朝に満洲軍の輸送機で大栗子から[[奉天]]へ向かい、奉天の飛行場で[[岐阜基地]]から[[ソウル特別市|ソウル]]、[[平壌]]経由で送られてくる[[日本陸軍]]の救援機([[四式重爆撃機]])を待機していた<ref>「溥儀幻の救出劇」[[中日新聞]][[2003年]][[8月4日]]</ref>。しかし同日昼に、日本陸軍の救援機の到着に先立ち奉天に進軍して来たソ連軍の空挺部隊に捕らえられた。その後溥儀や[[愛新覚羅溥傑|溥傑]]、[[愛新覚羅毓セン|毓嶦]]及び吉岡ら満洲帝国宮中一行は直ちにソ連領内に移送され、さらにソ連極東部の[[チタ]]と[[ハバロフスク]]の[[強制収容所]]に収監された。 なお、日本への逃亡の際に当初は平壌へ直行する予定だったのを、より早いタイミングでソ連軍の侵攻を受ける可能性が高い奉天経由に急に変更したことから、この急な変更は「用無しになり、足手まといとなった溥儀をソ連へ引き渡すために、関東軍が故意に行ったものであった」という説を唱える歴史研究家もいる。 なお婉容や嵯峨浩は溥儀や溥傑の日本への亡命に同行せず、わずかな親族や従者と共に満洲国内に取り残された。その後婉容は侵攻して来た中国共産党軍に逮捕され各地を転々連れまわされた後、[[吉林省]][[延吉]]の監獄内で[[アヘン]]中毒の禁断症状と栄養失調のために孤独の内に死亡したといわれるが、詳細な死去時期や場所は今なお不明である。 ===東京裁判=== [[Image:Soviet Union Military Officer and Puyi.JPG|thumb|right|220px|ソ連軍将校とともに東京裁判に向かう溥儀]] ソ連の強制収容所に収監された翌年の[[1946年]]に開廷した[[極東軍事裁判]](東京裁判)には、証人として連合国側から指名され、ソ連の監視下において空路東京へ護送され、同年8月16日よりソ連側の証人として出廷させられ、(中華民国政府ではなく)ソ連に有利な証言を強要された。その際、[[板垣征四郎]](当時は[[大佐]])から「[[本庄繁]]司令官の命令として満洲国における領軸になって欲しい」、という依頼があった事を証言し、「自分の立場は日本の傀儡以外何ものでもない」ことを主張した。 溥儀は法廷において興奮することが多く、「顧問の話では、板垣はもしもこの申し出を拒絶すれば、生命の危険があると脅迫した。それで、両名と顧問の1人の[[羅振玉]]は、板垣の申し出を受諾するようにと私に勧めた」、「本当の気持ちは拒絶したかった。しかし4人の顧問は受諾を勧めた。当時、日本軍の圧迫を如何なる民主国家も阻止しなかった。私だけでは抵抗出来なかった」、「私の意志は拒絶するにあったが、武力圧迫を受け、しかも一方に顧問から生命が危険だから応諾せよと勧められて、遂にやむを得ず受諾したのだ」、「日本は満洲を[[植民地]]化し、[[神道]]による[[宗教]]侵略を行おうとした」と証言した。 それ以外にも、「私の妻は日本軍に毒殺された」と興奮しながら語り、日本軍を糾弾するとともに、満洲問題に関する責任は全て日本にあると強調した。これに対して、被告側の弁護団は、反対尋問において、満洲国建国当時の[[南次郎]][[陸軍大臣|陸相]]に送られた、日満提携を認める「宣統帝新書」を証拠として提出して溥儀の証言内容の信憑性を追及した。溥儀の証言は、信憑性が低いとみなされ、判決文において引用されることはなかった。 後に認めた自叙伝『わが半生』では、「今日、あの時の証言を思い返すと、私は非常に残念に思う。私は、当時自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」と記している。ちなみに、東京裁判において、検察陣から直接尋問を受けた証人は溥儀のみだった。 === 戦犯 === その後の[[1950年]]には、ソ連と同じく[[連合国]]の1国であった中華民国ではなく、[[国共内戦]]にソ連の援助を受けて勝利した中国共産党によって前年に[[中国大陸]]に建国された[[中華人民共和国]]の[[中国共産党]]政府へ身柄を移された。 その後、裁判で裁かれる事すらないままに、第二次世界大戦当時には存在すらしていなかった同国の「戦犯」として、[[撫順]]の政治犯収容所(「戦犯管理所」と称される)に弟の溥傑や同じくソ連軍にとらえられた満洲国の[[閣僚]]や軍の上層部61人、さらに1000人を超える日本軍の[[捕虜]]らとともに収監され、「再教育(中国共産党による[[共産主義]]の[[洗脳]]教育)」を受けることとなった。その後同年10月に[[ハルビン]]の政治犯収容所に移動させられ、[[1954年]]には再び撫順の政治犯収容所に移動させられた。なお収監中の溥儀は「模範囚」と言われるような礼儀正しい言動を行っていたと伝えられている。 ===一市民へ=== [[Image:ZhouAndDeng.jpg|thumb|right|220px|周恩来(右)]] [[1959年]][[12月4日]]に、当時の[[劉少奇]][[中華人民共和国主席|国家主席]]の出した「[[戦争犯罪]]人」に対する特赦令を受け、[[12月9日]]に模範囚として特赦された。なお、溥儀とともに収容所に収監されていた溥傑も[[1960年]][[11月20日]]に釈放された。 釈放後の1960年[[1月26日]]に、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を図っていた[[周恩来]][[首相]]と[[中南海]]で会談し、釈放後の将来について話し合った結果、周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京[[植物園]]での庭師としての勤務を行うこととなった<ref>[http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200510/tebie62.htm 人民中国「溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮」]。</ref>なおその後の[[1962年]]には[[看護婦]]をしていた一般人の李淑賢と再婚したものの、育った環境があまりにも違うこともあり、その仲は円満ではなかったと言われている。 ===政治協商会議全国委員=== [[1964年]]には、政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行う傍ら、多民族国家となった中華人民共和国内において、満洲族と[[漢族]]の[[民族]]間の調和を目指す周恩来の計らいで、満洲族の代表として[[中国人民政治協商会議]]全国委員に選出された。 なお、[[毛沢東]]や多くの[[中国共産党]]幹部らと違って教育程度が高く、しかも文化程度の高い家柄の出身であった周恩来は、清朝皇帝であった溥儀に対して常に同情的だったと言われている。 ===死去=== しかしその後、[[1960年代]]半ばに発生した中国共産党内部の権力闘争に端を発する「[[文化大革命]]」の波が中華人民共和国全土を吹き荒れる中、[[癌]]の治療を「元皇帝である」との理由で受けられなかったことにより、[[1967年]]に北京の病院で死去した。 死ぬ間際には、好物である「日本の[[チキンラーメン]]を食べたい」と言っていたことが弟、[[愛新覚羅溥傑|溥傑]]の夫人である[[嵯峨浩|浩]]の伝記により伝えられている。清朝皇帝という「反革命的」な出自であったことから「文化大革命により粛清された」という説も存在しており、実際に末期症状により病院に搬送されたものの、「反革命」とのレッテルを[[紅衛兵]]たちに張られることを恐れた医師らが、積極的に溥儀の治療行為を行わなかったという証言もある。 ===死後=== 墓は北京郊外の八宝山墓地に埋葬されたが、後年、溥儀は生前「皇帝であったことを誇りに思っていた」と李淑賢夫人の証言が明らかになると、[[改革開放]]の時代の空気と相俟って、[[1995年]]に「皇帝」として改葬することになった。現在の墓所は北京郊外の易県にある、[[清朝]]の歴代皇帝の陵墓のある[[清西陵]]の近くの「華龍皇園」に新たに「献陵」という陵墓が作られた。 それに関連して[[2004年]]に「愍皇帝」の[[謚号]]と「恭宗」の[[廟号]]が贈られた。ただし、これらは公式に認められたものではなく、愛新覚羅家の遺族などの関係者から承認されているものではない。改葬に関しても愛新覚羅家の遺族からの反対も受けている。 ==家族== 正妻である[[婉容]]と側室である[[文繍]]と[[1922年]]に結婚するが、後に文繍と離婚、その後[[アヘン]]中毒になった婉容とも満洲国崩壊を受け逃亡する中生き別れになる。なお、満洲国時代に北京出身の[[譚玉齢]](他他拉氏、祥貴人)、長春出身の[[李玉琴]](福貴人)を側室として迎えたが、それぞれ死別、離婚している。 1959年に特赦された後、[[1962年]]に[[看護婦]]をしていた李淑賢([[1924年]] - [[1996年]])と再婚し、その後の生涯を沿い遂げることになる。しかし生涯で子はもうけていない。また、宮中の召使いの少年を寵愛するなど、[[同性愛]]傾向があったとも言われている。 ==自伝== 『'''我が半生'''』(原題:我的前半生、[[英語]]題:''The former half of my life'')は、唯一の[[自伝]]である。執筆は、1957年後半から1年余りをかけて、20万字の初稿を完成させた。その後内容のいくつかの部分において専門家の意見が分かれるなどし、第一稿、第二稿が作られたのち、最終的に1964年3月に正式出版された。日本でも翻訳本が出版されている。その内容は十分な[[文献批判]]が必要ではあるが、当時の状況を自ら語った第一級の資料である。また、残された日記の断片が『溥儀日記』として出版されている。 2007年、同書が中華人民共和国において大幅に加筆した完全版として出版されることとなった。極東国際軍事裁判での偽証を謝罪し、日本軍と満洲国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪を擦り付けたと後に反省したことなど、1964年版当時に削除された16万字近い部分が今回盛り込まれている。 中華人民共和国国内での報道によると、今回1964年版前の第一稿、二稿から、'''序言'''≪{{lang|zh|'''中国人的骄傲'''}}(中国人の誇り)≫、{{lang|zh|'''第六章'''《伪满十四年》的第一节≪“'''同时上演的另一台戏——摘录一个参与者的记述'''”}}(第6章「満州国14年」の第1節“もう一人を同時に演じる ― 一参加者の記述より引用する”)≫、{{lang|zh|'''第七章'''《在苏联的五年》的第四节≪“'''远东国际军事法庭'''”}}(第7章「ソ連の5年」の第4節 “極東国際軍事法廷”)≫、{{lang|zh|'''第十章'''《一切都在变》的第四节≪“'''离婚'''”}}(第10章「新しい一章」の第4節“離婚”)≫、などを含んでいる。 なお、溥儀には継承者がおらず死去した際にも遺言書もなかったため、版元の群衆出版社から北京市の西城裁判所へ、同書を「相続人のない財産」とする認定請求を提出した。 ==愛新覚羅溥儀を題材にした諸作品== *映画 **『[[悲劇の皇后 ラストエンプレス]]』(1985年、[[中華人民共和国]]・[[香港]]合作) **:溥儀の皇后[[婉容]]を主人公として、[[満州国]]時代を描いている。 **『[[ラストエンペラー]]』(1987年、[[イタリア]]・中華人民共和国・[[イギリス]]合作) **:[[ベルナルド・ベルトルッチ]]監督。1987年度の[[アカデミー賞]]で、ノミネートされた9部門([[アカデミー作品賞|作品賞]]、[[アカデミー監督賞|監督賞]]、[[アカデミー撮影賞|撮影賞]]、[[アカデミー脚色賞|脚色賞]]、[[アカデミー編集賞|編集賞]]、[[アカデミー録音賞|録音賞]]、[[アカデミー衣裳デザイン賞|衣裳デザイン賞]]、[[アカデミー美術賞|美術賞]]、[[アカデミー作曲賞|作曲賞]])全ての受賞を達成した。この映画は、幾つかの脚色された要素を含んでいる。 **『[[火龍 (中国映画)|火龍]]』(1987年 中華人民共和国・香港合作) **:収容所から出所してから病院で亡くなるまでの溥儀と再婚した李淑賢夫人との生活を描いている。 *[[テレビドラマ]] **『[[末代皇帝]]』(1988年、中華人民共和国) **:溥儀の誕生から、[[辛亥革命]]、満洲国皇帝時代を経て、[[東京裁判]]にいたるまでを描いた連続ドラマ。 **『[[流転の王妃・最後の皇弟]]』(2003年、[[日本]]、[[テレビ朝日系列]]にて放送) **:弟である[[愛新覚羅溥傑]]とその妻・[[嵯峨浩]]の視点から描かれた。 *[[宝塚歌劇]] **『[[紫禁城の落日]]』 *書籍 **『皇帝溥儀:私は日本を裏切ったか』(1952年、世界社 ISBN B000JBBCCK、絶版) **:実際に溥儀に仕え信任厚かった[[工藤忠]]による回想録、歴史的価値が高い。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} <references/> _ ==参考図書== *李淑賢『わが夫、溥儀―ラストエンペラーの妻となって』(学習社、1997)ISBN 978-4-311-60326-6 (4-311-60326-6) *『A級戦犯―戦勝国は日本をいかに裁いたか』(新人物往来社、2005年)ISBN 978-4-404-03323-9 (4-404-03323-0) *[[レジナルド・ジョンストン ]]『[[紫禁城の黄昏]]―完訳』(祥伝社、2005)ISBN 978-4-396-65032-2 (4-396-65032-9) *[[入江曜子]]『溥儀』(岩波新書、2006年)ISBN 978-4-00-431027-3 (4-00-431027-X) *[[レジナルド・ジョンストン ]]『新訳 [[紫禁城の黄昏]]』(本の風景社、2007)ISBN 978-4-939154-04-1 *太平洋戦争研究会『秘録東京裁判の100人』([[ビジネス社]]、2007年)ISBN 978-4-8284-1337-2 ==関連項目== *[[愛新覚羅氏]] *[[日中戦争]] *[[徳王]] *[[第二次世界大戦]] *[[張作霖爆殺事件]] *[[張学良]] *[[蒋介石]] *[[川島芳子]] *[[南満州鉄道|南満洲鉄道]] *[[立命館大学]] *: 現在の[[京都]]衣笠[[キャンパス]]の用地は溥儀の寄付による。当時のお金で50万円という巨額の寄付を受けた。そのうち20万円で、衣笠の6万坪の土地を購入し、校舎を建て、さらに学生向けの奨学金の基金も創設できた。 == 外部リンク == *[http://episode.kingendaikeizu.net/23.htm 系図でみる近現代 第23回] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%84%80 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月26日 (金) 12:09。]     

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。