日朝関係史

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{{日本の国際関係}}  '''日朝関係史'''(にっちょうかんけいし)あるいは'''日韓関係史'''(にっかんかんけいし)では[[日本]]と[[朝鮮半島]]の両地域及びそこに存在した[[国家]]間の関係について述べる。 == 古代 == 古代には、[[朝鮮]]が[[中国]]と日本(7世紀まで[[倭国]]と呼ばれていた)を媒介する位置にあったことから、[[鉄]]や[[紙]]の生産技術・[[仏教]]・[[医学]]は中国から朝鮮を通過して日本に伝来したと言われている。[[稲作]]も朝鮮経由と言われてきたが、[[稲]]遺伝子の研究や各種遺跡からの出土品、水耕田跡の証左などから、南方の[[東南アジア]]経由にて伝来したという学説が、考古学的には主流となりつつある。<ref>[[静岡大学]]農学部[[佐藤洋一郎]]助教授やアメリカの多くのバイオ系研究機関の分析によると、日本及び朝鮮半島、[[遼東半島]]などの極東アジアに存在する稲は、温帯性ジャポニカ種及び熱帯性ジャポニカ種の大きく2種類にわけられ、その一部遺伝子を持つ種苗群の遺伝子を確認すると、中国東北部から朝鮮半島を原産とする改良種群には、当該遺伝子の存在が確認されないことが明確になっている。 また、[[炭素分析法]]による年代分析においても、日本での炭化米は紀元前4000年程度まで溯る事が確認されており、これらの証左をもって、東南アジアから南方伝来ルートが日本への稲作伝来ルートであったようである。</ref>そのため、各種歴史[[教科書]]の稲作の伝来経路も修正されつつある。 この頃の朝鮮は[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]にあった。日本(倭国)は、6世紀頃まで[[任那]]や[[百済]]との外交関係を通じて朝鮮半島と関わりをもっていた。朝鮮三国は主導権をめぐって争っていた。[[広開土王碑]]には、[[高句麗]]が日本(倭国)と交戦したとある。<!-- 明日香の高松塚、キトラ古墳からは高句麗や百済の影響を受けたと見られる壁画や遺物が発掘されている。 -->[[660年]]に中国の[[唐]]・[[新羅]]の連合軍が百済を滅ぼした。百済の遺臣とそれを救援する倭国と、唐・新羅の連合軍との間で[[663年]]に[[白村江の戦い]]が行われ、日本(倭国)は敗北する。 高句麗は唐と新羅によって滅ぼされた。唐と新羅が朝鮮半島の支配権を巡って戦い、新羅が唐の勢力を追放して朝鮮半島を統一した。倭国では九州北部に[[防人]]を配置するなど唐・新羅に対する防備を固めた。その結果、日本国内でも大きな変革が起き、[[ヤマト朝廷]]による[[律令制]]が確立し、国号も[[8世紀]]初頭に倭から日本へ改めた。9世紀末に日本から中国に対し[[留学生]]らを派遣していた[[遣唐使]]事業が途絶え、日本独自色の強い文化([[国風文化]])が形成されはじめた頃から、新羅との外交関係も薄れていった。 ただし、[[対馬]]を経由しての交易は行われていたようである。 == 中世 == 中世には[[元 (王朝)|元]]が2度にわたる日本遠征([[元寇]])を行う。[[高麗]]は日本へ元の国書を送るなど外交交渉を担当し、日本の[[鎌倉幕府]]は国書を黙殺したために戦端が開かれる。蒙古襲来においては高麗軍も[[南宋]]人とともに尖兵として送り込まれ、[[壱岐]]・対馬や[[博多]]において[[九州]]の[[御家人]]を中心とする鎌倉幕府の兵と戦った。なお日本は、元・高麗軍が暴風雨によって大きな被害を受けた際、高麗人の兵は[[モンゴル]]兵とともに殺したが、南宋の兵は[[捕虜]]として助命した。蒙古襲来に先立ち、[[1271年]]に高麗において反モンゴルを掲げて蜂起した[[三別抄]]が日本へ救援を求めたが、日本の鎌倉幕府はこれも黙殺している。 日本の[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[室町時代]]には、朝鮮の高麗から李朝においては[[倭寇]](前期倭寇)と呼ばれる[[海賊]]、海上勢力が、中国沿岸や朝鮮半島沿岸を荒らした。高麗や[[室町幕府]]は懐柔と弾圧で対策を行う。[[九州探題]]として派遣されていた[[今川貞世]](了俊)は高麗使節を迎えて交渉し、[[大内氏]]らとともに倭寇を討伐した。高麗では倭寇や紅巾賊の討伐に功績のあった[[李成桂]]らが宮中で台頭、滅亡に瀕した元王朝の要請で征明軍を率いて北上するが、途中で引き返して実権を握り、[[1393年]]に[[李氏朝鮮]](李朝)を樹立する。 李朝も室町幕府に対して倭寇の禁圧を求め、また中国の[[明]]も同様の要請をした。こうした要請を受けて、<!--対外貿易を必要とした-->室町幕府は、3代将軍の[[足利義満]]が倭寇を鎮圧した。義満は朝鮮へ使節を派遣し、制限貿易であったが[[日朝貿易]]が行われる。<!--飢饉の際に朝鮮から多くの米がもたらされたとの記録が残っている。-->李朝からも[[朝鮮通信使|通信使]]が派遣され、宗希璟『老松堂日本行録』や『海東諸国記』などの日本渡来記も書かれた。日本側からの使者には[[夷千島王遐叉]]と呼ばれる人物が同行したことがあるが、これがどういう民族なのか、あるいは偽使なのかは定かではない。 [[1419年]]、李朝の世宗は倭寇の根拠地と見なされていた対馬を攻撃する([[応永の外寇]]、己亥東征)。世宗は投降や帰化したものに対しては貿易上の特権を与えるなど懐柔策も同時に行い、倭寇の活動は一時的に収束した。[[1443年]]には[[嘉吉条約]](癸亥約定)が締結された。 李朝は[[朱子学]]を重視し、仏教を弾圧したために、高麗時代の仏教[[文化財]]が国外に多く流出することになった。特に木版印刷の『[[大蔵経]]』や鐘楼などは高値で取引されたために大量に日本に流れ込んだ。また日本との交易には[[1426年]]の三浦(釜山浦、薺捕、塩浦)を利用していたが、現地役人の締め付けが厳しく[[1510年]]には現地在住の対馬の民などにより[[三浦の乱]]が発生している。 == 近世 == 日本を統一した[[豊臣秀吉]]は[[明]]の征服を企図し、対馬の[[宗氏]]を介して朝鮮に服従と明征伐の先鋒となることを求めるが、良い回答がない為、[[1592年]]から朝鮮半島に侵攻した([[文禄・慶長の役]]、壬辰・丁酋倭乱)。緒戦で日本軍は各地の朝鮮軍を破って[[平壌]]や[[咸鏡道]]まで進撃したが、遠い戦線に明の救援や義勇軍の抵抗と交渉による補給困難や講和交渉を優先させせた為、戦線を後退させたまま戦局は膠着した。日本軍は最終的に秀吉の死去に伴い撤退した。 明・朝鮮の連合軍と日本軍の交戦、そして治安悪化による食糧再分配と生産の崩壊と民衆反乱などもあり、朝鮮の国土は疲弊した。また、この時の騒動で役所に保管されていた[[戸籍]]なども燃やされ、その結果朝鮮半島では[[白丁]]が低減し、[[両班]]を自称する者が増加したと言われている。 日本軍の諸[[大名]]は朝鮮から儒学者などと供に多くの陶工を連れ帰り、日本各地で[[陶芸]]が盛んになる。 秀吉の死後、日本では[[1600年]]に[[徳川家康]]による武家政権([[徳川幕府]])が成立した。秀吉の朝鮮侵攻に消極的で朝鮮半島に派兵していなかった徳川家康は、朝鮮との国交回復を望み、宗氏を介して使節を派遣した。こうして徳川家康と朝鮮王朝の間で国交回復の交渉が進められた。[[光海君]]は捕虜の送還や貿易交渉に応じ、[[1609年]]には[[己酉約条]]が結ばれて貿易が再開され、日本の銀と中国の生糸や絹などが流通する。 交渉を仲介した日本の[[対馬藩]]は、早期の国交回復をさせるために徳川幕府の国書やそれに対する朝鮮王朝の返答書を偽造、改竄していたが、[[1635年]]には事実が発覚し、関係者が処罰される[[柳川一件]]が起こる。柳川一件ののちに貿易は幕府が管轄した。 [[1607年]]以降、室町時代からの[[朝鮮通信使]]が将軍の代替わりごとに日本へ来訪するようになり、公式の外交関係が保たれた。だが、[[1811年]]に最後の通信使が来訪して以来、両国の公式な関係は途絶えた。 李氏朝鮮は、[[鎖国]]政策を続けており、また文禄・慶長の役からの警戒もあって、日本人は首都漢陽([[ソウル特別市|ソウル]])に入る事は出来ず、対馬が[[釜山広域市|釜山]]に[[倭館]]を構えている以外は、朝鮮との交易や情報は入手しづらい状態であった。 対馬藩は幕府から朝鮮との貿易を許され、倭館による貿易が行われた。また、[[薩摩藩]]による武力侵攻で幕藩体制に組み込まれた[[琉球]]とも通交が有ったようである。 == 近代 == 日本は[[江戸時代]]末期に[[開国]]した。[[王政復古]]により成立した日本の新政府は近代化を目指した。[[李氏朝鮮]]を影響下に置く[[清|清国]]や南下政策を取り続ける[[ロシア帝国|帝政ロシア]]に対する日本の国際政策の一環として、日本は朝鮮半島に注目した。朝鮮では[[興宣大院君|大院君]]が排外的政策を行い鎖国体制が維持されていたが、閔氏政権となると、[[1875年]]の[[江華島事件]]を経て、76年に[[日朝修好条規]]を結び朝鮮は開国し、開化政策が行われる。 [[1894年]]に、朝鮮を巡る対立から、清国と日本との間で[[日清戦争]]が勃発した。日清戦争で日本は勝利した。[[1895年]]に日本と清は[[下関条約]]を結び、朝鮮が清との冊封体制から離脱すると実質的に日本の影響下に置かれた。これに伴い[[1897年]]に[[大韓帝国]]へと国名を改めた。 ロシアは下関条約後の[[三国干渉]]や[[1900年]]の[[義和団事件]]の後も[[満州]]([[中国東北部]])の占領を続けた。ロシアは朝鮮にも影響を強め、日本と対立する。日本は[[1902年]]に[[イギリス]]と[[日英同盟]]を結び、アメリカやイギリスの支持を得て、[[1904年]]に開戦された[[日露戦争]]において勝利、[[1905年]]の[[ポーツマス条約]]において朝鮮に対する排他的指導権を獲得する。 その後、韓国皇帝は[[ハーグ平和会議]]に、日本の干渉を排除し韓国の外交権保護を要請する密使を送ったが、成功しなかった([[ハーグ密使事件]])。日本は[[1910年]]に韓国と[[日韓併合条約]]を結んで朝鮮半島を併合し([[韓国併合]])、[[1945年]]の[[第二次世界大戦]]敗北まで統治を続けた。日本は[[朝鮮総督府]]を通じて朝鮮半島全域を支配し、当初は軍事力を前面に押し出した[[武断政治|武断統治]]、次いで民生面の安定を重視した[[文化統治]]を推進した。 日本統治下において、[[創氏改名]]などの[[皇民化政策]]が行われた。この期間に日本は朝鮮半島の[[インフラストラクチャー|インフラ]]の整備と産業の振興をすすめた。これについては評価が分かれる。日本やアメリカの朝鮮史研究では、日本のインフラ整備が朝鮮の近代化の基礎となったとされる<ref>カーター・J・エッカート『帝国の申し子 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源』小谷まさ代訳、草思社、2004年、ISBN 978-4794212757。</ref>。教育制度も整備され、[[小学校]]([[国民学校]])網や[[京城帝国大学]]([[ソウル大学校]])は独立後の韓国政府に引き継がれた。初等教育では韓国語も教えられたが、高等教育に行くに従って日本の書物や文献を使用する為、日本語による教育が重視された。また、[[日本軍]]の[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]を卒業した朝鮮人士官の多くは後に[[韓国軍]]へ参加し、やがて[[朴正煕]]大統領を筆頭に韓国政界の中枢を占めた。しかし、朝鮮居住者には日本人、朝鮮人共に参政権が無く、朝鮮に多く住む朝鮮人には不利だった。一方で居住場所にかかわり無く朝鮮人には1945年まで兵役は免除されていた。農村でも日本人入植者が広い土地を占めるようになった{{要出典|脚注に示したように収奪論で語られてきた状況と異なる実態であったことが明らかにされつつあります。「日本人入植者が広い土地を占めるようになった」という確たる根拠を示すべきです。|2007年9月3日}}<ref>[[李栄薫]]らの研究によれば、韓国で定説とされてきた収奪論とはまったく違った実態であったことが明らかにされている。李栄薫は[http://kamomiya.ddo.jp/%5CSouko%5CC03%5CI_Yonfun%5CQandA.htm 韓国日報とのインタビュー]で「農民たちの未申告地をでたらめに奪ったという教科書の記述と違い、未申告地が発生しないように綿密な行政指導をしたし、土地詐欺を防止するための啓導・啓蒙を繰り返した。農民たちも、自分の土地が測量されて地籍に上がるのを見て、喜んで積極的に協調した。その結果、墳墓、雑種地を中心に0.05%位が未申告地で残った。あの時、私たちが持っていた植民地朝鮮のイメージが架空の創作物なのを悟った。」と語っている。</ref> 点で、[[植民地]]支配という性格も帯びていた。 この状況に対し、朝鮮側からは[[1919年]]に[[三・一独立運動]]が発生し、同年には[[李承晩]]による[[大韓民国臨時政府]]の設立が宣言された。朝鮮北部から[[満州]]にかけては[[金日成]]が指揮する抗日[[パルチザン]]運動が展開されたが、いずれも日本の統治を覆す力はなかった。1945年9月、金日成は[[赤軍]]([[ソビエト連邦軍|ソ連軍]])の士官として朝鮮北部の中心都市[[平壌]]に入城し、次いで降伏した日本に代わり[[アメリカ合衆国]]が朝鮮半島南部で軍事統治を開始すると李承晩や[[金九]]などの独立運動家が[[ソウル特別市|ソウル]]へ戻った。 == 大韓民国 == [[1948年]]、朝鮮半島の南部に[[大韓民国]](韓国)が建国され、[[李承晩]]が大統領に就任した。アメリカの強い影響下にあり、[[反共主義]]を掲げる点で、韓国は日本との共通性が高かったが、韓国では独立運動家出身の李承晩を筆頭に反日感情を持つ政治家が多く、実際の政策にも反映された。李承晩は[[1952年]]に自国領域周辺の公海上に[[李承晩ライン]]を設定し、日本漁船への銃撃・拿捕事件が多発した<ref>[[第一大邦丸事件]]では漁労長が殺害されている。</ref>。[[1954年]]には同ラインで韓国側に取り込んだ[[竹島 (島根県)|竹島]](韓国名:独島)に軍隊を送り込んで同島を占拠した。その後も現在に至るまで韓国の武装警察が駐在し、日本はこれを韓国による不法占拠と抗議している([[竹島問題]])。 一方、戦後の日本でも、日本統治終了後の母国に帰らず、従来の虐待・冷遇への報復行動を行う[[在日コリアン]](在日韓国人・朝鮮人)への反発は根強く、蔑視を込めて[[第三国人]]と呼ぶ例が多い状況では、韓国民との和解に力を入れる政治家が少なかった。これは相互不信を拡大させ、韓国民の反日感情は増幅したとされる。[[1950年]]には[[朝鮮戦争]]が勃発し、多くの韓国人難民が日本へ[[亡命]]した。その中には[[不法入国]]者が含まれていたとも指摘されている。両国間の険悪な関係は、[[1960年]]の李承晩失脚までは大きな改善は見られなかった。 [[1961年]]に[[5・16軍事クーデター]]で韓国大統領となった[[朴正煕]]は、旧日本軍出身で、日本の事情にも精通していた。また、北の[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)からの圧迫から国家を守るためには、日本との国交回復による経済支援の実現が不可欠と判断していた。一方、日本の[[自由民主党]]政権も、北東アジアでの反共同盟強化や第二次世界大戦における負の遺産の清算のために、韓国との国交回復を望んでいた。[[1965年]]に[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約]](日韓基本条約)が締結され、日本は韓国に有償無償5億ドルの金額を支払った(日本政府は[[賠償]]ではなく[[経済協力]]と位置づけている)。この際、日本は韓国を朝鮮半島唯一の合法政府と認めた。 この日韓国交正常化により、韓国は[[1979年]]まで続く[[朴正煕]]の軍事独裁政権下で、日本からの経済協力([[円借款]]など)も利用してや各種交通インフラ(地下鉄・高速道路等)を整備し、「[[漢江の奇跡]]」と呼ばれる工業化・経済発展を実現した。日本の商社は韓国に進出し、労働力の安い韓国は日本への重要な輸出基地となった。韓国の目覚ましい経済成長は、日本人の韓国に対し抱きがちなイメージを「貧しくたくましい人が暮らす国」から「日本と同じ近代的な工業国」へと変化をもたらし、韓国への評価を上げる結果となった。しかし国交は外交と投資に関しては正常化したものの、[[金大中事件]]や[[文世光事件]]といった外交問題に発展した事件も発生し、必ずしも両国の国民感情は良好ではなかった。交流の拡大には犯罪組織の国際化などの側面もあり、日本側では韓国から進出してきた[[統一協会]]による[[霊感商法]]批判も起こった。ただし、統一協会は[[国際勝共運動]]で自由民主党政権とつながり、日韓両国の政治協力拡大に貢献する一面も持っていた。 また、韓国出身や在日韓国人の歌手やスポーツ選手などが活躍する日本に対し、日本文化の流入阻止を理由に厳しい統制策を堅持しながら、その[[海賊版]]の流通を根絶出来ない韓国側の閉鎖性にも批判が起こった。[[1988年]]には[[ソウルオリンピック]]が行われたが、選考の決選投票で日本の[[名古屋]]を下して開催されたこの大会では韓国人観衆による日本選手への非難が止まなかった。[[1992年]]には[[韓国文化放送]] (MBC)が、李朝の末裔が[[天皇]]を狙撃する番組『[[憤怒の王国]]』を放送し、これに実際の[[明仁親王]]の天皇即位式の映像を用いた為、日本の[[外務省]]から抗議を受けた。 [[1995年]]、[[国際サッカー連盟]] (FIFA)は、日韓両国が激しく争っていた[[2002 FIFAワールドカップ|2002年開催のFIFAワールドカップ]]を両国の共催とする決定を行った。これは両国に波紋を広げ、大会の運営方式や呼称問題で両国間は深刻な対立を抱え、「事実上の分催」という指摘も上がった。これらの経緯を通じて韓国への反感を強めた日本国民の一部からは、ソウルで開催された開会式に日本への配慮がほとんど無い上、[[横浜市|横浜]]での決勝戦と閉会式の際には貴賓席着座の際に韓国大統領の[[金大中]]が後に続く天皇に進路を譲らずに自分の後ろを通らせたのは非礼という非難の声が出た<ref>ただし、それぞれの憲法で、国家[[元首]]と規定されている韓国の大統領と、国民の象徴と規定されながらも外交上は事実上の元首として扱われる日本の天皇の関係には留意する必要がある。</ref>。 ただし、圧倒的に韓国有利に働いた誤判問題などにより、インターネットを中心に「[[嫌韓]]」感情を増幅させたことも事実であるが、このワールドカップを通じ、協議を続けた両国の大会関係者の努力は、2国開催というハンディを乗り越えて大会の運営や友好ムードの創出をある程度成功させたともいわれる。これを機に、公式には長らく禁止されていた日本の文化が韓国で開放されるようになっただけでなく、日本でも韓国の映画やドラマが多く輸入され、韓国の俳優や歌手が日本で活躍するようになった。彼(女)らは[[韓流]]スターと称賛された。1970年代、その先駆者が[[演歌]]歌唱などの「日本化」で活躍の場を見いだしたのとは対照的だった。この大会期間に実施された両国民の「[[査証]](ビザ)なし相互訪問」は大会後に恒常化され、特に[[観光]]面での交流拡大に貢献した。両国の都市には英語と並んで相手国の言語による案内標識などが整備されるようになり、それまで日本側からの訪問人数が圧倒していた観光も、日本の観光地に韓国人観光客の姿が増えるなどの変化が見られるようになった。 このような経緯を経て、日韓関係は良好になったといわれるが、韓国側では総督府統治(植民地支配)への否定に根ざす[[反日]]感情、日本側では[[嫌韓]]感情が根強く残っている。[[歴史教科書問題]]や[[靖国参拝問題]]、[[竹島 (島根県)|竹島]](韓国名:独島)や[[日本海]](韓国名:東海)の呼称問題、日本の[[国連常任理事国]]立候補への反発など、[[日本とコリアの論争|日本と韓国の論争]]がいくつかある。また[[盧武鉉]]政権は植民地時代・親日派問題の清算として「[[日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法]]」及び「[[親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法]]」を制定し、反民族行為認定者の子孫の土地や財産を国が事実上没収する事を可能にし、実際に「[[親日派]]」10人の子孫が所有する約13億6000万円相当の土地を没収する(2007年8月13日 読売新聞)など適用がはじまっている([[日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法]]及び[[親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法]]を参照のこと。)それに伴い、融和姿勢を保つ日本のマスメディアへの反動として、[[インターネット]]に両国間への拒絶感情が顕在化するなどしている。それでも、流血の衝突や支配・抵抗といったかつての先鋭的な対立は徐々に影を潜め、在日韓国人を含めた両国間の協力と共存は徐々に進行している<ref>日本統治のありようを客観的事実に基づいて明らかにしていこうとする韓国人研究者も現れている。 [http://www.chosunonline.com/article/20070603000015]、[http://www.chosunonline.com/article/20070603000016]</ref>。 == 朝鮮民主主義人民共和国 == ''この項目では、南の大韓民国と対比させるため、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の略称を「朝鮮」とする。これは、Wikipediaのあらゆる参加者の見解を拘束しない。'' [[1945年]]、朝鮮半島北部を制圧した[[ソビエト連邦|ソ連]]は、従来の日本による統治システムを破壊し、[[共産主義]]による新体制の建設を進めた。朝鮮北部は旧[[満州国]]からの日本人移住者・在住者の帰国経由地ともなったが、その中で多くの生命が失われた。[[1949年]]には[[金日成]]を首相とした[[朝鮮民主主義人民共和国]]が成立したが、[[1950年]]には南の大韓民国との間で[[朝鮮戦争]]が勃発し、[[1953年]]の休戦まで首都[[平壌]]<ref>法的な首都は1972年の新憲法制定までソウル。</ref>を含む国土の広い範囲が戦場となった。朝鮮戦争中の[[1952年]]に日本は[[サンフランシスコ平和条約]]の発効で独立を回復したが、[[反共主義]]国家となった日本の自由民主党政権は朝鮮民主主義人民共和国を承認せず、マスメディアと共に「北鮮」と呼んだ。一方、[[日本社会党]]や[[総評]]など、日本の[[社会主義]]勢力や[[労働組合]]はこの国を朝鮮半島唯一の合法政権と考え、「朝鮮」と呼称して、大韓民国(韓国)をアメリカの軍事支配下にある「南朝鮮」(南鮮)とした。 朝鮮民主主義人民共和国の成立は日本国内の政治状況にも影響を与えた。第二次世界大戦後に再建された[[日本共産党]]には多くの朝鮮人活動家がいたが、やがて分離し、朝鮮への帰還か日本国内での[[在日朝鮮人]]運動の展開を選択した。その中で、[[在日本朝鮮人総聯合会]](朝鮮総聯、朝鮮総連)が成立した。朝鮮総連による強力な指導により、在日朝鮮人は民族差別解消・生活状況改善などをめざした闘争を全国各地で展開したが、その姿勢が暴力的・強圧的とする日本人からの反発も強く、在日朝鮮人社会は日本の中で隔絶性が高い集団となった。韓国での混乱や圧政は日本でも報じられていたため、朝鮮半島南部の出身者でも朝鮮総連に参加する者が多かった。なお、金日成に率いられた朝鮮の指導政党、[[朝鮮労働党]]はやがて日本共産党の議会重視・平和革命路線を批判し、関係を断絶したため、朝鮮労働党の交流相手は日本社会党が中心となった。 [[1959年]]、在日朝鮮人の[[在日朝鮮人の帰還事業|帰還事業]]が開始された。これは[[日本赤十字社]]が所管した、第二次世界大戦や朝鮮戦争の混乱で帰国出来なかった人々を朝鮮民主主義人民共和国へ送ろうという事業で、日本政府も積極的に推進した。数十万人の在日朝鮮人が海を渡ったとされるが、「地上の楽園」と自己宣伝していた朝鮮側の経済状況は厳しく、日本での貧困や差別からの解放を願ったとされる帰国者は一層困難な状況に追い込まれた<ref>ただし、1960年代後半からの高度経済成長まで、南の大韓民国は北の朝鮮民主主義人民共和国よりもさらに貧しく、国家経済の規模も劣っていた事を理解する必要がある。</ref>。さらに、独裁色を強める金日成政権は、日本からの帰国者の多くを「潜在的[[スパイ]]」などと見なして警戒し、その多くを処刑、あるいは[[強制収容所]]での長期拘禁に処したとされるが、定かではない。いずれにせよ、厳しい情報統制をかいくぐって漏れてくる現地の状況を知った在日朝鮮人の間では帰国への情熱が徐々に退き、高度経済成長に伴って日本での生活状況が改善されていった事もあって、帰還事業は1960年代半ばに終了した。ただし、帰国者の再来日は実現せず、日本国籍を持ったまま家族と共に渡航した配偶者([[日本人妻]])や子どもの問題が発生した。 [[1965年]]には日韓基本条約が締結され、日本はようやく大韓民国との国交を締結した。この中で日本政府は大韓民国を朝鮮半島唯一の合法政府としたため、朝鮮民主主義人民共和国との国交締結を求める朝鮮総連や日本社会党などの強い抵抗を受けたが、[[佐藤栄作]]政権は国会での強行採決でこれを押し切った。この条約により日本は大韓民国の国籍を認めたため、在日朝鮮人の中には朝鮮籍からの切り替えを行う者が表れた。また、これを機に大韓民国は「韓国」という表記が一般に定着し<ref>日本社会党や日本共産党でも、1980年代末に韓国の民主化で現地との交流を開始したのを受けて、「南朝鮮」から「韓国」への表記へと切り替えた。</ref>、朝鮮民主主義共和国は「北朝鮮」と表記される例が増えた。 [[1970年]]、[[日本航空]]の航空機が乗っ取られる[[よど号事件]]が発生した。犯人は日本国内での革命運動に行き詰まり、国外に新たな根拠地を求めた[[田宮高麿]]などの[[新左翼]]に属する[[共産主義者同盟赤軍派]]グループで、朝鮮民主主義人民共和国は彼らの亡命を受け入れる一方、機体や乗員の日本返還に応じた。田宮達の思想や行動方針は朝鮮側とは一致せず、いわば「招かれざる客」だったが、やがて田宮らは平壌郊外に小グループを形成し、北朝鮮の意を受けた対日宣伝・工作活動に従事した。 [[1972年]]、[[東西冷戦]]が[[デタント]]期に入り、南北共同宣言により大韓民国との対立がある程度緩和され、日本が[[中華人民共和国]]との国交を回復する中、日朝関係も徐々に[[貿易]]額を拡大した。日本の工業製品が徐々に朝鮮側に入り、朝鮮産の安価な[[マツタケ]]や海産物が日本へ輸出された。在日朝鮮人の集団帰国事業は、[[万景峰号]]による祖国・親族訪問へと変化して続いたが、朝鮮帰国者の再訪日は認められず、旧態然とした[[プロパガンダ]]が唱えられた。 また、この頃から韓国の経済力が朝鮮を逆転し、大きく引き離していく事になる。これに危機感を持った朝鮮側は対南工作に日本人を拉致して自らの工作員に置き換え、韓国に入国させる事を計画した。[[1977年]]、後に日朝両国政府が事実認定を行う最初の[[日本人拉致事件]]が発生した。同年[[11月15日]]には、[[新潟市]]で13歳の[[横田めぐみ]]が拉致され、後にこの問題のシンボル的存在として取り上げられるようになったが、[[1983年]]まで続く一連の事件が明らかになるのにはさらなる年数を要した<ref>なお、この拉致事件を追及する[[特定失踪者問題調査会]]によれば、この事件の被害者になった可能性がある「特定失踪者」は1948年から2004年まで存在し、特に拉致の疑いが濃い事例に限っても1960年から1991年にわたっている。</ref>。この事件には、よど号事件の犯人グループ、及びその妻達が関与したともされ、日本の[[検察庁]]から起訴されている。 1980年代に日朝間の大きな懸案事項になったのは、拉致問題ではなく、[[第十八富士山丸事件]]だった。[[1983年]][[11月1日]]、日朝間を航行中だった日本の[[貨物船]]、第十八富士山丸が船内に[[朝鮮人民軍]]兵士の[[閔洪九]]が潜んでいるのを発見した。閔洪九は日本で拘束されたが、日朝間には国交が無く、さらに閔が[[亡命]]申請をしたため、日本は彼の国内滞在を認めて釈放した<ref>その後、閔は韓国国籍と日本への特別在留許可を得たが、刑事事件によりしばしば逮捕され、2004年に拘置中[[自殺]]した。</ref>。一方、[[11月11日]]に再び北朝鮮へ入港した第十八富士山丸は乗員が拘束された。[[紅粉勇]]船長と[[栗浦好雄]]機関長には朝鮮国民を拉致したスパイ容疑で教化労働15年の判決を下され、船体は没収された。日本の国民世論は日本人船員の釈放を求めたが、外交関係が無い両国間では交渉の糸口すら見つけるのが困難だった。この第十八富士山丸事件は、前月に起こった[[ラングーン事件]]、つまり第三国[[ビルマ]]の閣僚も巻き込んだ韓国大統領[[全斗煥]]暗殺未遂爆破テロ事件が朝鮮工作員の犯行と発表された直後の事件だった。この重複で日本の対朝鮮警戒感は再び高まり、日本の対朝鮮輸出額は減少した<ref>三菱総合経済研究所レポート、2005年3月14日付 [http://www.mri.co.jp/REPORT/ECONOMY/2005/dc05031400.pdf]</ref>。さらに、[[1987年]]の[[大韓航空機爆破事件]]も日朝関係を冷え込ませた。テロ実行犯として[[バーレーン]]で拘束され、服毒自殺を図ったのは日本人を名乗る「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」だったが、生き残った蜂谷真由美は韓国に送致され、自らが朝鮮工作員の[[金賢姫]]であることを自白した。さらに、その高度な日本人化教育は[[李恩恵]]という日本人女性から受けたと述べたため、謎に包まれた彼女の出自を含め、日本側の対朝不信は増幅した。 <!--以後、順次執筆--> == 注釈 == <references /> == 関連項目 == *[[日韓問題]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%9D%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月24日 (日) 06:18。]     

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