天皇-2

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これ以前の内容は[[天皇]]参照 == 天皇の歴史 == 天皇は日本の歴史において重要な権威を有していたが、実際に君主として統治権を行使していた期間は、天皇が存在していた期間と比べ極端に短く、ほとんどが天皇以外の[[貴族]]や[[武家]]、[[官僚]]などによって統治権は行使されている。とりわけ[[鎌倉幕府]]成立以後は武家の棟梁の一族が代々世襲で[[征夷大将軍]]に就任し、少なくとも基本的に内政や外交では日本の最高権力者として君臨してきた。しかし、天皇の地位がそれらの権力者によって廃されたことはなく、時の権力者も形式上はその権威を尊重し、それを背景に地位についていたことが多い。例えば全国に支配権を敷いていた武家政権の君主である征夷大将軍への就任も形式上は天皇の宣下によって行われることになっており、その権力者は天皇の権威を利用し、その政敵を[[朝敵]](天皇の敵)などに指定させ、その統治権を正当化することが多かった。ただし、外交において[[有事]]が発生した際、その権力者たちも朝廷に相談を持ちかけているため、幕府などの武家政権が内外とも全面的に統治権を行使する認識があったかどうかは考慮が必要である([[元寇]]や[[黒船来航]]等)。時にとりわけ大きな力をもった権力者が天皇という地位を廃止、あるいは[[簒奪]]を画策したことがあるとされているが、現在までに成功した例はないとされている。 === 神代と天皇の発祥 === [[天皇家]]の系図は、『[[古事記]]』・『[[日本書紀]]』を初めとする史書に基づいて作られ、その起源は紀元前660年に即位した[[神武天皇]]、さらにはその始祖である[[クニノトコタチ]]などの神々に始まるとされている。しかし、日本書紀は[[天武天皇]]の勅命により編纂されたものであり、[[歴史学]]的に証明の難しい[[神話]]・[[伝説]]などを多く含んでいる。そのため、天皇家の祖先にまつわる伝承や事績、および初期の天皇の実在については、歴史学的にはその実在性を疑問視されることが多い。 特に[[欠史八代]]の天皇については、古代[[中国]]の[[革命]]思想([[讖緯説]])に則って天皇家の歴史を水増したのではないかと指摘する否定説が戦後学会では主流である(実在説もある)。 歴史学的に証明できる天皇家の起源は、[[大和王権|ヤマト王権]]の支配者・[[ヤマト大王|治天下大王]](大王)が統治していた[[古墳時代]]あたりまでである。[[3世紀]]中葉以降に見られる[[前方後円墳]]の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、このときに成立した王朝が天皇家の祖先だとする説や、[[弥生時代]]の近畿地方にあった場合の[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]の系統を天皇家の祖先とする説、天皇家祖先の王朝は[[4世紀]]に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。 === 古代の天皇 === ==== 倭の五王 ==== {{main|倭の五王}} 中国の史書における倭王の最古の記述は、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[宋 (南朝)|劉宋]]王朝に朝貢した「[[倭]]」の王たちである。中国の史書『[[宋書]]』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、[[5世紀]]に冊封された'''倭の五王'''(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王は、[[仁徳天皇]]・[[履中天皇]]から[[雄略天皇]]までの天皇に比定されており(比定には諸説ある)、天皇家の祖先をこれら五王に求める説が有力である。 これら五王は、[[朝貢]]の見返りに、中国王朝から「'''倭国王'''」に封じられており、対外的にはこの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、[[熊本県]]と[[埼玉県]]の[[古墳]]から出土した[[鉄剣・鉄刀銘文]]に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風[[諡]]号とする)、「治[[天下]]大王」または「[[ヤマト大王|大王]]」が用いられていたことが判る。 『宋書』には、次のような倭王・武の[[上表文]]<ref>「自昔祖禰躬環甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿 累葉朝宗不愆于歳 臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫 而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已 毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不 臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲練甲治兵申父兄之志 義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧 若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無替前功 竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節」</ref>が引用されている。 <blockquote><small> 「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。<br /> わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。<br /> ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。<br /> わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。<br /> もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います。」<ref>井上光貞 『日本の歴史〈1〉神話から歴史へ』 中央公論新社, 2005年, ISBN 978-4122045477</ref><br /> </small></blockquote> この頃までの代々の天皇の出自や系統については、記紀の記述通りの「[[万世一系]]」ではなく、[[倭国]]内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったのではないかという説もある。例えば、雄略天皇の子の[[清寧天皇]]には後嗣がなく、履中天皇の孫である[[仁賢天皇]]・[[顕宗天皇]]が王位を継いだとされているが、実際は王位[[簒奪]]ではなかったかとの説もある。 また、仁賢の子の[[武烈天皇]]も跡継ぎがなく、[[応神天皇]]5世の孫とされる[[継体天皇]]が王位に就いているが、これにより仁徳以降の血統が途絶えていることから、王朝交代があったとする説もある。 しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が、後代に「[[万世一系]]」史観の立場で書かれた『日本書紀』などに限られているため、前述の各説には異論もある。当時は、一つの血統が倭国王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で倭国王位が継承されたとする考え(連合王権説)も見られる。 ==== 以降 ==== 不安定な基盤にのっていた王統が確立したのが継体の子である[[欽明天皇]]の頃([[6世紀]]中期)だと言われている。欽明以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、[[7世紀]]初頭には冠位制度の導入など、天皇家を中心とした政府が形成され始めることとなった。 また、この時期、[[隋]]の[[煬帝]]に対して「天子」と自称した<ref>「日出處天子致書日没處天子無恙云云」 -- 『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國</ref>と『[[隋書]]』に見える。このことから、天皇の称号の成立をこの7世紀初頭に求める意見もある。 === 大化の改新から院政まで === [[大化の改新]]等で7世紀中期から中国([[唐]])の法令体系である[[律令]]を導入することにより、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは豪族らの反発により一気に進展はしなかったが、最終的には、[[天武天皇]]及びその後継者によって完結することとなった。特に天武帝は、自らの実力で皇位についたことを背景として、絶対的な権力を行使していった。この天武が事実上の初代天皇、すなわち天武が天皇の称号を創始したとする説が有力となっている。天皇号の開始時期は、前述の7世紀初頭とこの天武期とに説が分かれ、激しい議論がくり広げられている。なお、天皇号が成立する以前の王号は、倭国王・倭王(外国向け)および治天下大王(国内向け)だったと考えられている。 [[律令制]]下で天皇は[[太政官]]組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。しかし、平安初期の[[9世紀]]中後期ごろから、[[藤原北家]]が天皇の行為を代理・代行する[[摂政]]・[[関白]]に就任するようになった。特に[[858年]]([[天安 (日本)|天安]]2年)に即位した[[清和天皇]]はわずか9歳で、史上初めての幼帝であった。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を[[摂関政治]]という。摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことに伴って政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家([[摂関家]])が天皇家の統治権を請け負うことが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇家の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。この頃、[[関東]]では[[桓武天皇]]五代の皇胤[[平将門]]が[[平氏]]一門の内紛を抑え、近隣の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて蜂起して自ら新皇(新天皇)と名乗り、朝廷の任命した[[国司]]を追い払って関東7カ国と[[伊豆国|伊豆]]に自分の国司を任命した。新国家の樹立とも言えるが、3か月で平定された。 平安後期の[[後三条天皇]]は、摂関家が握っていた統治権を天皇家へ取り戻すため、[[記録荘園券契所]]の設置など、さまざまな政策を展開していった。後三条は天皇譲位後も[[上皇]]として政治の運用にあたることを企図していたが、その実現の前に没した。後三条の子の[[白河天皇]]は後三条の遺志を継ぎ、上皇(院)として政務に当たるようになった。この[[院政]]の展開により、[[藤原氏]]の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、自身の政庁である[[院庁]]を置き、[[治天の君]](事実上の国王)として君臨したが、それは父権に基づくもので、外祖父として権力を握った摂関政治よりも一層強固なものであった。治天の君は、自己の軍事力として[[北面武士]]を保持し、[[平氏]]や[[源氏]]などの[[武士]]を登用したが、このことが結果的に[[平氏]]政権の誕生や[[源氏]]による[[鎌倉幕府]]の登場をもたらすこととなる。鎌倉時代には院の軍事力強化を目的とした[[西面武士]]を設置した。院政はこの後、[[江戸時代]]まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から[[鎌倉時代]]末の[[後宇多天皇|後宇多上皇]]までの約250年間と見られている。 === 中世 === [[中世]]の国家体制については、一般的には天皇・[[公家]]の後退と[[武家]]の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。[[荘園]]制の普及にもかかわらず律令体制下の公領([[国衙]]領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。 しかし[[承久の乱]](1221年)以降の天皇の権威の失墜は著しく、[[元寇|モンゴル襲来]]に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。天皇家でも、[[大覚寺統]]と[[持明院統]]に分裂した。鎌倉幕府の崩壊後、一時[[建武の新政|天皇親政]]が行われた。しかしその後の内乱を通じて[[南北朝時代 (日本)|南北両朝]]が並立し、[[足利将軍家|足利]]方の[[北朝_(日本)|北朝]]が[[南朝_(日本)|南朝]]を吸収することで収拾された。 この頃は天皇の権威の低下が著しく、室町幕府三代将軍[[足利義満]]は、自分の子[[足利義嗣|義嗣]]を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府四代将軍[[足利義持|義持]]がこれを固辞している(義満が自分より義嗣をかわいがっていたため、父を快く思わなかったためといわれている)ので、その真相については未だ定かではない。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期には[[京都]]での天皇や公家の窮乏は著しく、[[烏帽子]]を逆さまにして物乞いをしたり、共同浴場に出向いたりする公家も生じるようになったが、有力[[戦国大名]]や[[織田信長|織田]]政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後まで制度として継続することになる。 === 近世 === [[江戸時代]]においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また[[禁中並公家諸法度]]により、その言動も幕府から厳しく制限された。庶民の尊敬の対象は[[大名]]や[[征夷大将軍]](上様、将軍様)に向けられ、天皇や公家は庶民とは間接的に縁のある存在(天子様)として敬意が払われる程度であったとも考えられている。しかしながら公家は実権は失っていたものの[[茶道]]・[[俳諧]]等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は[[改元]]にあたって[[元号]]を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名の[[官位]]も、儀礼上全て天皇から任命されるものであり、権威の源泉として重要な意味を持つ存在であった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。江戸時代後期には[[光格天皇]]が父親の閑院宮典仁(すけひと)[[親王]]に[[太上天皇]]の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の[[松平定信]]と衝突する[[尊号一件]]と呼ばれる事件が発生した。 しかし[[18世紀]]後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする[[大政委任論]]が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。そうした運動が幕末の[[尊皇攘夷運動]]へと繋がった。 === 明治維新 === [[幕藩体制]]が揺ぎ始めると、[[江戸幕府]]も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。[[マシュー・ペリー|ペリー]]来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、[[朝廷]]に報告を行った。このことは前例にないことであった。このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、[[公武合体]]により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、[[薩摩]]・[[長州]]を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して[[大政奉還]]を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は[[鳥羽伏見の戦い|鳥羽・伏見]]で官軍と衝突し、内戦となった。その過程で[[北海道]][[函館]]では、[[榎本武揚]]らによって一時[[共和制]]が宣言される(「[[蝦夷共和国]]」)。「蝦夷共和国」は[[選挙]]によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。 この[[戊辰戦争]]を通じて倒幕に成功した[[大久保利通]]らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の[[太政官]]制度によって運営した。しかし[[征韓論]]政変によって[[参議]]から下野した[[板垣退助]]らが[[自由民権運動]]を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は[[大日本帝国憲法]]を発布し、議会と内閣制度を発足させた。これにより皇室制度は、[[プロイセン]]式の[[立憲君主制]]を採ったが、大日本帝国憲法と同時に制定された[[皇室典範]]は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、皇室制度は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。こうした皇室制度は、国民から隔絶した絶対的な権力を有する[[天皇制絶対主義]]であると規定する学者も少なくない。<!--しかし、近年では[[マルクス]]の影響をはなれ、[[戦前]]の天皇が絶対君主ではなく、単なる'''専制君主'''と位置付けられることもある。←絶対君主と専制君主との相違が不明瞭--> ※「天皇制」とは本来[[コミンテルン]]の用語であり、それに該当する歴史的用語は「皇室制度」である。{{要出典}} === 明治以降 === [[画像:Meiji Emperor.jpg|thumb|200px|明治天皇]] 明治31年([[1898年]])には、第一次[[大隈重信]]内閣の[[文部大臣]][[尾崎行雄]]が、ある教育会の席上で藩閥勢力の[[拝金主義]]を攻撃した演説に「日本で[[共和制]]が実施されれば、[[三井]]・[[三菱]]は大統領となるだろう」とあったため問題となり、皇室制度の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた([[共和演説事件]])。その背景には反大隈勢力の[[桂太郎]]派の画策があったと言われるが、後任の文相には[[犬養毅]]が任命された。明治44年([[1911年]])には[[大逆事件]]が生じ、時の政権から[[社会主義]]者弾圧の口実に使用され、[[明治天皇]]を暗殺しようとしたとして[[幸徳秋水]]ら12人が死刑に処された。この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。[[徳富蘆花]]は、「[[謀反]]論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、[[石川啄木]]は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、[[永井荷風]]はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。その後は、政府の方針に対する世論の批判をかわす目的で天皇の存在は利用され、天皇を批判する言論は[[不敬罪]]として厳重に罰せられたこともあって、天皇批判は影を潜め、「冬の時代」とも称されるようなった。 その後、2度にわたる[[憲政擁護運動]]を経て、[[大正デモクラシー]]と言われるように言論界も活況を呈するようになる。[[大正デモクラシー]]の時期には、[[天皇制|皇室制度]]を[[自由主義]]的に解釈する[[吉野作造]]の[[民本主義]]なども現れた。しかし、大正14年([[1925年]])には[[普通選挙法]]と同時に[[治安維持法]]が公布され、[[国体]]の変革を否定する言論や運動が禁止された。昭和10年([[1935年]])、[[美濃部達吉]]はそれまで学会で主流だった[[天皇機関説]]を主張したことで貴族院で排撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在は大きく利用されることとなった。 [[世界恐慌]]の後、[[五・一五事件]]、[[二・二六事件]]を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を大きく利用する。[[大日本帝国憲法|明治憲法]]において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、政府の方針を無視し[[満州事変]]等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え[[軍部大臣現役武官制]]や[[統帥権]]干犯問題、[[国体明徴宣言]]を通じて勢力を強めていく。この頃には、[[津田左右吉]]らの日本古代史学者が、[[神話]]は歴史事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。その権威が頂点に達したのは[[太平洋戦争]]時であり、昭和13年([[1938年]])の[[国家総動員法]]が発令された頃より、軍部により'''現人神'''(あらひとがみ)と神格化され、天皇を中心とした戦時国家体制が作られた([[皇国史観]]を参照)。この時代には、[[ドイツ]]の[[ナチス]]政権や[[イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ|戦闘者ファッショ]]政権といった[[ファシズム]]体制が成立し、[[日独伊三国同盟]]が結ばれたことから、この時期の日本の皇室制度は[[天皇制ファシズム]]とも呼ばれている。 === 第二次世界大戦終結後 === [[Image:Macarthur hirohito.jpg|thumb|300px|right|昭和天皇(右)と[[マッカーサー]]の会見で([[1945年]][[9月27日]])。この写真を掲載した各新聞は内務省より発禁処分を受けたが、GHQの命で解除された。]][[第二次世界大戦]]の終戦後、[[連合国]](UN)の間では、[[軍国主義]]の一因として[[天皇]]を処罰し、[[天皇制|皇室制度]]を廃止すべきだという意見が強かったが、日本政府がその維持を強く唱えたこともあり、[[ダグラス・マッカーサー]][[元帥]]、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ/SCAP) は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤としても皇室制度は存続させるべきだという方向性を取った。[[昭和天皇の戦争責任]]についても追及すべきとの意見が強くあったが、アメリカの外交的策略により、占領当局は追及しないこととした。当時、民間には、天皇をめぐる各種の意見が生じたが、戦前、皇国史観のために被害を受けた[[津田左右吉]]なども天皇自体の存在は否定しないと言明した。その外、天皇の廃位を唱える見解や[[昭和天皇]]の退位と皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする説も、[[南原繁]]・[[佐々木惣一]]・[[中曽根康弘]]らが唱えたが、一部に止まった。昭和天皇自身は退位の意向を示したが、かえって戦争責任を認めることになるとして周囲から強い反対があり、撤回した。 この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「[[御真影]]」等と呼ばれていた天皇が、しかも肩の力を抜いた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。さらには、[[人間宣言|1946年1月1日の詔書]]を発表し、このなかで“天皇は現人神ではなく人間である”といういわゆる「[[人間宣言]]」もなされた。しかしこの宣言は、戦前戦中に「[[修身]]」の教科書などで国民が意識していた“日本国民は優秀な民族であり、世界の支配者たるべき立場にある”という概念を否定する文脈にあること、詔書の冒頭において「[[五箇条の御誓文]]」を掲げていることに見られるように、かならずしも従来の天皇のありかたそのものを否定するものでは無かったとする説もあった<ref>[[大原康男]]「天皇の人間宣言とは何か」1986年10月、雑誌「諸君」</ref>。しかし、木下道雄侍従次長の『側近日誌』の公開によって、天皇が「現人神」(あらひとがみ)であることを否定するものであったことが明白になり、そのような主張をする学者はいなくなった。 昭和天皇は人間宣言をした後、日本全国各地への巡幸をはじめたが、多大な犠牲者を出した[[沖縄戦|地上戦]]が行われ当時日本と切り離され連合軍の直接統治下におかれた[[沖縄]]は、対象とされなかった。この「[[巡幸]]」は各地で歓迎をもって迎えられたが、1947年にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(国旗の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。なお、この巡幸の目的には、新たな象徴天皇崇敬の国民の意識形成があったともいわれる。沖縄行幸は昭和天皇の悲願であったようであり、晩年の病に際しそのことに触れられている。[[昭和天皇#.E8.A1.8C.E5.B9.B8| 昭和天皇#行幸]]に詳しい。 == 天皇と海外の国々 == [[昭和天皇]]の[[大葬の礼]]の際には、世界の163か国の[[国家元首]]や首脳と17の[[国際機関]]の関係者が参列に訪れた。[[インド]]は3日間、[[ブータン]]では一か月間[[喪]]に服した(日本は2日間)。また、[[明仁親王]]の天皇即位の際にも世界各国の国家元首が多く参列に訪れた。 [[アメリカ合衆国|米国]]の[[ジェラルド・R・フォード|フォード大統領]]は、昭和天皇の前に立った時には足が震えたというエピソード([[竹村健一]]著より)もある。 一方、昭和天皇は、[[第二次世界大戦]]での敵国関係にあった[[オランダ]]・[[イギリス]]等からは、憎悪の目でみられる事もある。昭和天皇がオランダに訪問した際に、一部の人々から抗議活動として[[火炎瓶]]等を投げつけられる事があった。 [[タイ王国|タイ]]、ブータンの[[王室]]とは交友が深い。 == 天皇と課題 == === 皇位継承権論争 === {{Main|皇位継承問題 (平成)}} 1965年の[[秋篠宮文仁親王]]の誕生から2006年の[[悠仁親王]]の誕生まで男性皇族が誕生していなかったため、皇位を継ぐべき男系男子が不足しており、皇室典範に定める皇位継承者が存在しなくなり、皇統が断絶する可能性が出てきた。そのため、[[皇室典範]]を改正し、女子や女系の者にも皇位継承権を与えるか、[[旧皇族]]を皇籍に復帰させるなどして男系継承を維持するかの論争が起きている。 === 国体論争 === 大日本帝国憲法では、天皇は統治権の総攬者とされていたのに対し、日本国憲法では日本国・日本国民統合の象徴とされ、かつ[[国民主権]]原理を採用したため、日本国憲法の制定により日本の[[国体]]が変わったか否かについて起きた論争。特に[[尾高・宮沢論争]]と[[佐々木・和辻論争]]が有名。 === 国家元首としての天皇と憲法改正に関して === 自民党憲法改正試案、民主党鳩山氏憲法改正試案、民主党小沢氏憲法改正試案、6省庁を主務官庁とする中曽根元総理属する財団法人世界平和研究所憲法改正試案が、国家元首を天皇にすべしと提言している。議案提出権を有しない衆議院憲法調査会、及び議案提出権を有しない参議院憲法調査会では天皇の地位に関して現在も議論中であり、結論は出ていない。また両院憲法調査会で、そもそも天皇制を廃止すべきとの意見は出なかった。読売新聞憲法改正試案では天皇制は現状維持と述べている。 ==脚注・参照== {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[天皇の一覧]] 歴代天皇の一覧。 * [[皇室の系図一覧]] 歴代天皇の他、天皇家を祖とする主な人物を一覧にした系図。 {| |valign="top"| * [[皇族]] * [[天皇制]] * [[皇位継承]] * [[皇居]] * [[神道]] - [[宮中祭祀]] |valign="top"| * [[天皇陵]] * [[三種の神器]] * [[太上天皇]] - [[治天の君]] * [[ヤマト大王]] |valign="top"| * [[御料車]] * [[皇室用客車]] * [[天皇杯]] * [[天皇賞]] * [[天皇海山群]] |} == 外部リンク == * [http://www.kunaicho.go.jp/ 宮内庁ホームページ] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A9%E7%9A%87 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月3日 (月) 12:01。]     

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