八幡製鐵所

「八幡製鐵所」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

八幡製鐵所」(2008/12/19 (金) 23:40:28) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

[[画像:Yahata.jpg|thumb|250px|東田第一高炉跡 「1901」は操業開始の1901年を指す]] '''八幡製鐵所'''(やわたせいてつしょ)は、[[福岡県]][[北九州市]][[戸畑区]]・[[八幡東区]]にある[[製鉄所]]である。日本初の近代製鉄所で、現在は[[新日本製鐵]]が運営する。戸畑地区と八幡地区に分かれており、かつての本事務所に相当する総合センターは戸畑地区の正門前、北九州市戸畑区飛幡町1-1に立地する。 読みは「やわた」であるが、現在では何故「やわた」と読むのかはっきりと分からないため、「やはたせいてつしょ」と読む人がほとんどである(後述参照)。 == 概要 == * 敷地面積 1614万m² * 従業員数 約2900人 * [[年間粗鋼生産量]]は約369万トン === 生産品 === * [[鋼板]] * [[ブリキ]] * [[レール]] * [[形鋼]] * [[鋼管]] === 専用鉄道 === 八幡製鐵所は八幡地区と戸畑地区を結ぶために約6kmの[[専用鉄道]]([[八幡製鐵鉱滓鉄道くろがね線]])を所有している。 === 名称 === 八幡製鐵所は「やわた」と読み、所在地の八幡は「やはた」と読む。国が地名を読み違えたのが原因といわれる。他には、日本建国神話のなかでスサノオ命と戦った八俣遠呂知の八俣が八幡の起源であるとの庶民の噂を聞いたときから「やはた」→「やわた」と音をあらためたという意見もある。 == 沿革 == === 官営製鐵所時代 === [[Image:Governmental Yawata Iron & Steel Works.JPG|thumb|200px|官営八幡製鉄所]] [[明治政府]]の[[殖産興業]]のスローガンの元、[[1895年]]の製鉄事業調査会設置、翌[[1896年]][[3月30日]]の製鐵所官制発布、そして[[1891年]]の本格的な建設開始をえて、[[1901年]][[2月5日]]に東田第一[[高炉]]で火入れが行われ、同年[[11月18日]]には東京から多数の来賓を迎えて作業開始式が祝われた。建設費は[[日清戦争]]で得た賠償金で賄われている。八幡村(現北九州市八幡東区)が選ばれたのは、軍事防衛上や原材料入手の利便性などが挙げられている。当時は、単に'''製鐵所'''と呼んでいた。 当時の日本には近代的な製鉄事業に必要な知識経験がないため、最新技術を採用するという方針により、ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ(GHH)社に計画を依頼し、高い給料で多数のドイツ人技師を雇用して、操業が開始された。しかし、当初はコークス炉がなく、使用した鉄鉱石の性質も欧州とは異なるため、[[銑鉄]]の生産が予定の半分程度にとどまり、計画した操業成績をあげることができなかった。それに伴い赤字が膨れ上がり、遂に[[1902年]]7月に操業を停止する事態となった。そこで、政府は調査委員会を設置し、その検討をもとに、コークス炉を建設し、原料も精選する方針が立てられた。 その後、[[1904年]]2月に[[日露戦争]]が勃発し、鉄の需要が急激に増えた。政府は、コークス炉の完成を受けて製鐵所の操業再開を決め、4月6日に第2次火入れが行われたが、わずか17日間で操業停止に追い込まれた。そこで、[[東京大学|東京帝国大学]]工学部教授を退任して民間の技術指導に当たっていた[[野呂景義]]に、原因調査が依頼された。炉内をより高温に保つため、高炉の形状を改め、操業方法も改善するという野呂の提案を受け、高炉が改造され、[[7月23日]]に第3次火入れが行われた。この改良は成功し、その後は順調に操業を進めて、多くの銑鉄を得ることができた。そして、翌年の[[2月25日]]には、以前から建設が進められていた東田第二高炉に火入れが行われ、銑鉄の生産量がほぼ2倍になった。 戦争が終わると今度は民間から鉄の需要が増え、技術革新、重工業の発展に伴う需要増加に応えるため、第一期拡張工事([[1906年]]~[[1910年]])、第二期拡張工事([[1911年]]~[[1915年]])、そして[[第一次世界大戦]]で大幅に増えた鉄鋼需要に応え、第三期拡張工事([[1917年]])、[[1927年]]には年間銑鉄生産量年100万トン計画が立案され、海に築く製鉄所の先駆けとなった洞岡高炉群の建設決定([[1938年]]完成)と、次々と拡張してゆき、国内の大半の需要を八幡製鐵所が賄うようになった。 当初は農商務省管轄だったが、中央省庁再編によって[[1925年]]に[[商工省]]管轄となり、それは1934年の日本製鐵発足まで続いた。 === 日本製鐵八幡製鐵所時代 === 第一次世界大戦後の不況により、製鉄企業の合理化が推し進められ、[[1934年]][[1月29日]]に日本製鐵株式會社法により、官営製鐵所・九州製鋼株式會社・輪西製鐵株式會社・釜石鉱山株式會社・富士製鋼株式會社・三菱製鐵株式會社・東洋製鐵株式會社の官民合同で[[日本製鐵]]株式會社を設立した。この時官営製鐵所の名称が'''八幡製鐵所'''へと変更された。一連の出来事は[[製鉄大合同]]と呼ばれ、国内のシェアのほとんどを日本製鐵が占めることとなった。 日本製鐵になっても拡張は止まらず、[[1936年]]の珪素鋼板工場作業開始、[[1938年]]日本最初の1000トン高炉である洞岡第三高炉火入れ、初の[[日鉄式コークス炉]]である洞岡第五コークス炉作業開始と、日本製鐵の中心となっていた。 [[第二次世界大戦]]中は、[[1941年]]の航空機用鋼増産や翌年の重要事業所認定など日本鉄鋼業界の中心であったため連合軍の爆撃目標となり執拗な爆撃を繰り返されたが製鉄所は溶鉱炉の火を守り通した。しかし終戦まぎわの[[1945年]]には燃料不足によって二つの高炉が稼動停止する事態となった。 戦後は原燃料の不足や国内情勢の混乱などにより日本の鉄鋼業界は壊滅状態であったが、[[1946年]]に八幡製鐵所での集中生産が開始された。[[1949年]]に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の要請の元、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の第一線技術者が八幡製鉄所に派遣された。日本からもアメリカへの技術調査団を派遣し、その後の鉄鋼業界の発展に一役買った。 === 八幡製鐵八幡製鐵所時代 === [[1950年]]4月に「[[過度経済力集中排除法]]」により日本製鐵は八幡製鐵株式會社・[[富士製鐵]]株式會社・[[日鐵汽船]]株式會社・[[播磨耐火煉瓦]]株式會社に解体され、八幡製鐵所は八幡製鐵が所有することとなった。 1950年から[[1956年]]までの第一次合理化計画で、[[世界銀行]]の援助を受けながら、世界最大の50トン転炉建設など工場の近代化に努めた。また、海外企業との技術提携や[[合弁事業|合弁]]製鉄所建設など積極的な国際化を進めた。 [[1958年]]には戸畑製造所が発足、翌年東洋一の高炉が完成するなど、以後八幡地区から戸畑地区への移行が進んでいく。 === 新日本製鐵八幡製鐵所時代 === [[1970年]][[3月31日]]に八幡製鐵と富士製鐵株式會社が合併し、新日本製鐵株式會社が発足する。合併理由は過当競争の是正や国際競争力を強化するためとされる。およそ20年前の日本製鐵解体から再び合併する形となり、さらにあまりにも大規模な企業になることから大きな議論を巻き起こした。合併後は、「八幡マスタープラン」と呼ばれる目標を作り、八幡地区から戸畑地区への鉄源集約や最新機器を取りそろえた工場へと変貌していった。 [[1972年]]には東田第一高炉が休止された。その後も[[1990年]]に本事務所を八幡地区(枝光)から戸畑地区(飛幡町)へ新築移転するなど、さらに戸畑地区への集約が進んだ。 === 年表 === * [[1886年]]([[明治]]29年)[[3月28日]] - 帝国議会第九議会が製鉄所の創立を決定 * [[1887年]](明治30年)[[2月6日]] - 製鉄所を八幡村に設置すると決定 * 1887年(明治30年)[[6月1日]] - 八幡村に'''官営製鐵所'''を開庁 * [[1901年]](明治34年)[[2月5日]] - 東田第一高炉火入れ。 * 1901年(明治34年)[[11月18日]] - 作業開始式。 * [[1902年]](明治35年)7月 - 東田第一高炉・転炉休止。 * [[1904年]](明治37年)[[4月6日]] - 東田第一高炉第二次火入れ。17日間で休止。 * 1904年(明治37年)[[7月23日]] - 東田第一高炉第三次火入れ。 * [[1905年]](明治38年)[[2月25日]] - 東田第二高炉火入れ。 * [[1913年]]([[大正]]2年) - [[セメント]]製造開始。 * [[1917年]](大正6年)[[9月30日]] - 九州製鋼株式会社設立。 * 1917年(大正6年)[[11月1日]] - 東洋製鐵株式会社設立。 * [[1919年]](大正8年)[[5月12日]] - 東洋製鐵の溶鉱炉火入れ。 * [[1921年]](大正10年)[[4月16日]] - 東洋製鐵の工場を借入れ、戸畑作業所とする。 * [[1928年]]([[昭和]]3年)[[11月7日]] - 九州製鋼の工場を借入れ、西八幡工場とする。 * [[1930年]](昭和5年)2月 - 専用鉄道(炭滓線)運転開始。 * [[1934年]](昭和9年)[[1月29日]] - 官営製鐵所、九州製鋼などが合同し、[[日本製鐵]]株式會社発足。'''日本製鐵八幡製鐵所'''となる。 * 1934年(昭和9年)[[2月1日]] - 日本製鐵営業開始。 * 1934年(昭和9年)[[3月28日]] - 日本製鐵が東洋製鐵を合併。 * [[1938年]](昭和13年) - 洞岡第三高炉火入れ。洞岡第五コークス炉作業開始。 * [[1941年]](昭和16年) - 製造年表示が神武皇紀になる(1943年まで)。 * [[1945年]](昭和20年) - 燃料不足により操業休止。 * [[1946年]](昭和21年) - 操業再開。 * [[1950年]](昭和25年)[[4月1日]] - 日本製鐵解体、八幡製鐵が発足。'''八幡製鐵八幡製鐵所'''となる。 * [[1956年]](昭和31年)[[10月1日]] - 化工・セメント製造部門が八幡化学工業(現・[[新日鐵化学]])として独立。 * [[1958年]](昭和33年) - 戸畑製造所発足。 * [[1959年]](昭和34年) - 戸畑第一高炉火入れ。 * [[1962年]](昭和37年) - 戸畑第三高炉火入れ。 * [[1970年]](昭和45年)[[3月31日]] - 八幡製鐵と富士製鐵が合併し、新日本製鐵発足。'''新日本製鐵八幡製鐵所'''となる。 * [[1971年]](昭和46年) - 八幡製造所・戸畑製造所を統合・廃止。 * [[1972年]](昭和47年) - 東田高炉廃止。 * [[1974年]](昭和49年) - 戸畑第四高炉火入れ。洞岡第四高炉休止。 * [[1988年]](昭和63年) - 高炉一基体制(戸畑第一高炉)に変更。 * [[1993年]]([[平成]]5年) - 総合無災害8,729万時間を達成(鉄鋼業界世界新記録)。 * [[1998年]](平成10年) - 戸畑第一高炉休止、戸畑第四高炉再火入れ。 * [[2003年]](平成15年)10月1日 - [[ステンレス鋼]]部門を[[新日鐵住金ステンレス]]八幡製造所として分離。 * [[2004年]](平成16年)4月 - 第五コークス炉炭槽から出火、炭槽375㎡を全焼、死傷者なし。 * [[2008年]](平成20年)7月29日 - 構内の第五コークス炉付近から出火。死傷者こそ出なかったものの、大規模な火災事故となった。 == 八幡地区遊休地の整備 == 戸畑地区への集約により八幡地区では広大な土地が遊休地となったが、その有効活用として1990年にはテーマパーク「[[スペースワールド]]」が開園したのをはじめ、北九州市により「東田総合開発区画事業」と呼ばれる再開発事業が進められ、1994年には旧事務所跡に北九州八幡ロイヤルホテルが開業したほか、1999年には製鐵所用地の横を迂回していた[[鹿児島本線]]を移設し距離短縮とカーブ解消が図られた。同時に[[スペースワールド駅]]も開業している。 東田第一高炉は保存され、周辺は[[2001年]]の[[北九州博覧祭2001]]開催時に溶鉱炉を見学可能にするため整備され、一時話題になった。現在では高炉のほか転炉、専用鉄道で使用していた電気機関車・銑鉄輸送用貨車([[トーピードカー]])などが保存展示されている。 高炉周辺の地区には[[北九州市立いのちのたび博物館|市立いのちのたび博物館]]や[[イオン八幡東ショッピングセンター]]・[[北九州イノベーションギャラリー]]・[[ベスト電器]]八幡東本店などが建設されている。 ==行事== *[[起業祭]] - 製鉄創業を記念し、11月3日ころ[[大谷球場]]で行われる祭り。[[スピナ]]など関連企業や北九州市も協賛。 == 関連項目 == * [[近代化遺産]] * [[スペースワールド]] * [[起業祭]] * [[スピナ]] * [[八幡製鉄事件]] == 外部リンク == * [http://www.yawata.nsc.co.jp 八幡製鐵所] * [http://de.wikipedia.org/wiki/Gutehoffnungsh%C3%BCtte グーテホフヌンクスヒュッテ社](ドイツ語) == 参考文献 == * [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html 新聞記事文庫 切抜帳一覧](神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ) ** [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/vlist/tetul.html 製鉄業(大分類:工業及鉱業)] * [http://village.infoweb.ne.jp/~manita/economist.htm 戦後経済発展における政策形成とエコノミストの役割]([http://village.infoweb.ne.jp/~manita/index.htm 間仁田研究室]) * 飯田賢一『日本鉄鋼技術史論』三一書房 * [[佐木隆三]]『宿老・田中熊吉伝』文藝春秋 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%85%AB%E5%B9%A1%E8%A3%BD%E9%90%B5%E6%89%80 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月27日 (木) 17:11。]     

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。