李鴻章

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<div style="float:right;padding-left:15px"> [[画像:LiHungChang.jpg|李鴻章]] </div> '''李 鴻章'''(り こうしょう、''リ・ホンチャン''、'''Li Hung Chang'''、[[1823年]][[2月15日]] - [[1901年]][[11月7日]])は、[[中国]][[清]]代の[[政治家]]。[[字]]は'''少筌'''(しょうせん)。 [[日清戦争]]の講和条約である[[下関条約]]では清国の[[欽差大臣]](全権大使)となり、調印を行った。 == 来歴 == [[安徽省]][[合肥]]出身。[[1847年]]([[道光]]27年)の[[科挙|進士]]となる。[[太平天国の乱]]の際には[[団練]]を率いて太平天国軍と戦い、その後[[曽国藩]]の幕僚となり、団練を元に曽国藩の湘勇に倣って[[淮軍|淮勇]]を組織し、太平天国討伐に功績を上げた。 太平天国鎮圧後の[[捻軍]]鎮圧にも功績を上げ、[[1870年]]曽国藩の後を継ぎ[[直隷総督]]に就任した。この時に[[北洋大臣]]も兼ねたので淮軍はその後、[[北洋軍閥|北洋軍]]と呼ばれるようになった。 [[1876年]]、[[江華島事件]]に関連して、[[李氏朝鮮]]の宗属関係について日本の[[森有礼]]と協議。 その後は清の最高為政者として[[西太后]]の信任を得て清の[[洋務運動]]に尽力した。この時期には清のみならず世界でも指折りの政治家として各国から尊敬を受けた。 [[1884年]]の[[清仏戦争]]においては早々に講和をし[[ベトナム]]に対する宗主権を[[フランス]]に明け渡した。後にこれが非難された。 [[1894年]]、[[朝鮮]]に対する宗主権をめぐって清と日本の対立がより悪化した際、北洋海軍の装備では日本に勝ち目がないと考えたため開戦には反対の立場を取ったが、両国の主戦派によって戦端は開かれた。日清戦争の敗北後、講和交渉で全権を任された李鴻章は1895年3月から下関で交渉を開始した。3月24日、李鴻章が群馬県人・小山豊太郎に狙撃され、負傷するという事件が起こった(小山は3月30日、山口地裁で無期徒刑の判決を受けた)ため、日本側は列国の干渉をおそれ、まず休戦条約を調印し、4月17日に日清講和条約([[下関条約]])の調印を行った。日清戦争では清の軍隊の中で戦争に参加したのは事実上李鴻章個人の軍隊である北洋軍だけと言って良く、これが打撃を受けた事で戦後失脚した。 しかし李鴻章がいない清政府には政務を執る能力はなく、まもなく李鴻章は復権した。 [[阿片戦争]]以来の清の高官は、[[イギリス]]を仮想敵国とみなす海防派と、[[ロシア帝国]]を仮想敵国とみなす塞防派に分かれていた。 李鴻章は海防派の代表であり、復権後の李鴻章はロシアに接近し、日本に対抗しようとした。 そのためにロシアとの間に密約([[露清密約]])を結び、事実上[[満州]]をロシアに明け渡した結果になった。 [[義和団の乱|義和団事変]]の際には再び全権を任されて諸外国との交渉に当たり、[[北京議定書|辛丑条約]]を締結し、その後まもなく病死した。[[諡]]は'''文忠'''。 == 外部リンク == *[http://www.guoxue.com/shibu/24shi/qingshigao/qsgx_411.htm 列伝一百九十八 李鴻章]、[[清史稿]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%8E%E9%B4%BB%E7%AB%A0 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2008年3月1日 (土) 09:11。]
<div style="float:right;padding-left:15px"> [[画像:LiHungChang.jpg|李鴻章]] </div> '''李 鴻章'''(り こうしょう、''リ・ホンチャン''、'''Li Hung Chang'''、[[1823年]][[2月15日]] - [[1901年]][[11月7日]])は、[[中国]][[清]]代の[[政治家]]。[[字]]は'''少筌'''(しょうせん)。 [[日清戦争]]の講和条約である[[下関条約]]では清国の[[欽差大臣]](全権大使)となり、調印を行った。 == 来歴 == [[安徽省]][[合肥]]出身。[[1847年]]([[道光]]27年)の[[科挙|進士]]となる。[[太平天国の乱]]の際には[[団練]]を率いて太平天国軍と戦い、その後[[曽国藩]]の幕僚となり、団練を元に曽国藩の湘勇に倣って[[淮軍|淮勇]]を組織し、太平天国討伐に功績を上げた。 太平天国鎮圧後の[[捻軍]]鎮圧にも功績を上げ、[[1870年]]曽国藩の後を継ぎ[[直隷総督]]に就任した。この時に[[北洋大臣]]も兼ねたので淮軍はその後、[[北洋軍閥|北洋軍]]と呼ばれるようになった。 [[1876年]]、[[江華島事件]]に関連して、[[李氏朝鮮]]の宗属関係について日本の[[森有礼]]と協議。 その後は清の最高為政者として[[西太后]]の信任を得て清の[[洋務運動]]に尽力した。この時期には清のみならず世界でも指折りの政治家として各国から尊敬を受けた。 [[1884年]]の[[清仏戦争]]においては早々に講和をし[[ベトナム]]に対する宗主権を[[フランス]]に明け渡した。後にこれが非難された。 [[1894年]]、[[朝鮮]]に対する宗主権をめぐって清と日本の対立がより悪化した際、北洋海軍の装備では日本に勝ち目がないと考えたため開戦には反対の立場を取ったが、両国の主戦派によって戦端は開かれた。日清戦争の敗北後、講和交渉で全権を任された李鴻章は1895年3月から下関で交渉を開始した。3月24日、李鴻章が群馬県人・小山豊太郎に狙撃され、負傷するという事件が起こった(小山は3月30日、山口地裁で無期徒刑の判決を受けた)ため、日本側は列国の干渉をおそれ、まず休戦条約を調印し、4月17日に日清講和条約([[下関条約]])の調印を行った。日清戦争では清の軍隊の中で戦争に参加したのは事実上李鴻章個人の軍隊である北洋軍だけと言って良く、これが打撃を受けた事で戦後失脚した。 しかし李鴻章がいない清政府には政務を執る能力はなく、まもなく李鴻章は復権した。 [[阿片戦争]]以来の清の高官は、[[イギリス]]を仮想敵国とみなす海防派と、[[ロシア帝国]]を仮想敵国とみなす塞防派に分かれていた。 李鴻章は海防派の代表であり、復権後の李鴻章はロシアに接近し、日本に対抗しようとした。 そのためにロシアとの間に密約([[露清密約]])を結び、事実上[[満州]]をロシアに明け渡した結果になった。 [[義和団の乱|義和団事変]]の際には再び全権を任されて諸外国との交渉に当たり、[[北京議定書|辛丑条約]]を締結し、その後まもなく病死した。[[諡]]は'''文忠'''。 == 外部リンク == *[http://www.guoxue.com/shibu/24shi/qingshigao/qsgx_411.htm 列伝一百九十八 李鴻章]、[[清史稿]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%8E%E9%B4%BB%E7%AB%A0 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月1日 (土) 09:11。]    

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