住友財閥

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[[画像:SMBC Osaka head office.jpg|thumb|350px|  旧住友本社 設計:[[長谷部竹腰建築事務所]]]] '''住友財閥'''(すみともざいばつ)は、日本の三大[[財閥]]の1つ。 == 世界最古の財閥 == 住友財閥は、[[ロスチャイルド家|ロスチャイルド]]財閥を超える世界最古の財閥と言われており、その歴史は400年以上前にさかのぼる。住友は、製造業を主業として、その隣接部門への多業種化と垂直的統合によって発展した。また、[[三井財閥|三井]]と並んで日本の最も古い独占企業体であるが、ただ異なる点は、三井は原則として'''商い'''と'''高利貸'''でその活動を始め、その事業を継続してきたのに対して、住友は基本的に'''鉱工業活動'''に携わってきたことである。 == 始祖・家祖・業祖の3人がいる財閥のルーツ == 世界財閥家系のなかでも、最も古い歴史を持つ[[住友家]]だが、住友家の先祖は[[平家]]一門といわれ、[[桓武天皇]]の曾孫・高望王の二十二代目に'''備中守忠重'''が現れ、「住友姓」を称し、[[足利氏|室町将軍]]に仕えたとされている。いわば、この武家である'''住友忠重'''が「'''始祖'''」ということになるのだが、住友家には、'''家祖'''と'''業祖'''と2つの創業者が存在する。 '''家祖'''といわれるのは、忠重から数えて八世にあたる[[住友政友]]で、この人が武士から[[僧侶]]となり、そののち[[還俗]]して京都で書籍と薬を商う「富士屋」を開き、商家・住友家を興した。'''業祖'''といわれるのは、'''政友'''の姉婿にあたる[[蘇我理右衛門]]で、この人は'''南蛮吹き'''といわれる銅精練の技術を開発し、[[天正]]十八年([[1590年]])京都に銅吹所を設けた。のちにこの銅吹所が住友家の家業となったので理右衛門を'''業祖'''と崇めた。政友には一男一女があり、一男・'''政以'''は父の商売「富士屋」を継ぎ、一女は政友の姉婿にあたる理右衛門の長男・'''理兵衛友以'''を養子に迎え、ここで「'''家祖'''」と「'''業祖'''」が結合する。しかも理右衛門の妻は政友の姉であるという密接な関係だったが、この代でさらに両家の血が結合したことから、住友二代目は'''友以'''が継いだ。 以後、住友家は代々「[[泉屋]]」の商号で銅銀商を営むことになる。(現在の[[三井住友銀行]]事務センター([[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]島之内1丁目)が「[[大坂銅吹所|住友銅吹き所]]跡」である。) == 江戸時代 == '''住友二代目友以'''は先見の明があり、商売を大きくするには京都では狭すぎると寛永元年に、商業の中心になりつつあった大坂へ出張所を出し、[[寛永]]7年には本式に大坂淡路町一丁目に移った。ちょうど徳川時代に入るころで、[[銅]]は当時一大輸出品であり、住友の'''銅精錬業'''は大いに栄えた。これが'''住友財閥'''の起源である。そして銅貿易に関与するようになり、その関係から糸、反物、砂糖、薬種等の輸入品を大坂・京都方面で売り捌くなど商業にも手をのばした。そして得た利益で'''[[両替商]]'''を開業するようになった。 住友二代目のあとを継いだ友以の五男・'''友信'''は'''[[住友吉左衛門]]'''と名乗り、秋田の[[阿仁銅山]]、備中の[[吉岡銅山]]などの経営に乗り出し幕府御用の銅山師となって日本一の銅鉱業者へと発展させる。一方で友以の末子の'''友貞'''は前述の'''両替商'''を大坂と江戸で開始している。これが[[寛文]]2年([[1662年]])のころで[[住友家]]は江戸時代前期において鉱業と金融業を握る[[コンツェルン]]を確立し、[[慶応]]初期には住友は、'''日本の四大資産家'''の1つにあげられていた。ちなみに[[三井家]]が江戸に進出し「[[越後屋]]呉服店」を開いたのは[[延宝]]元年([[1673年]])で住友家より10年遅れてのことである。 幕府御用達となった友信以来、住友家当主は代々'''吉左衛門'''を名乗ることになるが、なんといっても住友財閥の大躍進の基となったのは、二代目吉左衛門友芳が[[元禄]]4年([[1691年]])に開発した[[愛媛県]]の[[別子銅山]]によってである。この別子銅山は[[昭和]]48年([[1973年]])に閉山されるまで、282年間にわたり銅を産出し続け、総産出量は銅地金として75万トンにおよび、住友のドル箱となった。その功績を称えた住友家では、この'''友芳'''を「'''中興の祖'''」としている。 == 明治時代 == '''友以・友信・友芳'''の三代を通じて江戸期の住友家は興隆期を迎えるが、やがて[[明治維新]]を迎えるとき、一大危機に遭遇する。新政府幕府のすべての決定と特権を廃止した新政府の法令によって、土地所有権と有用鉱物の採掘権は切り離された。[[慶応]]4年1月の[[薩摩藩]]による大坂[[鰻谷]]の銅蔵閉鎖、同年2月の[[土佐藩]]による[[別子銅山]]の差し押さえの異常事態となり住友は鉱山および銅蔵にたいする統制力を失った。銅山は幕府の財産であったために、銅蔵の莫大な銅備蓄は差し押さえられた。その対応を一歩誤れば、住友の経営は行き詰まることが必死であった。住友家の番頭[[広瀬宰平]]がその難局を乗り切り、住友の大阪本店における経営の実権は老分'''鷹原源兵衛'''、支配人'''今沢卯兵衛'''から広瀬の手に移り、広瀬は翌年の明治2年1月、「諸事更新」の方針を打ち出した。 広瀬のこうした企業者活動の基調には、ひとつは家業経営の再建や、その近代化を意図するところがあったが、それと同時に、国益志向性の強い経営理念がみられた。広瀬は別子銅山の関連事業を中心として経営の多角化を進めた。神戸における'''銅売捌出張所'''(明治4年)大阪富島町での'''並合業'''(倉庫業と金融業との兼営)の開始(明治6年~7年の頃)、別子銅山の飯米確保のため'''大阪島屋新田・恩貴島新田の経営'''(明治11年)、'''京都・滋賀での製糸工場'''の設立(明治13年・20年)'''大阪製銅'''の設立(明治14年)、'''関西貿易社'''の創設(同年)、'''大阪商船'''の設立(明治17年)、神戸での'''再製茶業'''の開始(明治21年)、'''福岡県の庄司炭坑・忠隈炭坑の買収'''(明治26年・27年)などが相次いで実施された。こうした多角事的事業経営を支えたのは、いうまでもなく別子銅山の経営であった。 === 住友家法 === 明治15年1月、[[住友家]]では、伝統的家業経営から近代企業経営へと大きく転換していく中で、当時住友家総理人であった[[広瀬宰平]]は、'''第十二代家長住友友親'''の命を受けて、'''「住友家法」'''を制定した。これは本店重任局の[[田辺貞吉]]を中心として編集事業が進められていたもので、'''全編十九款一九六カ条'''から成る詳細な規定となっていた。<ref>http://www.sumitomo.gr.jp/history/word/index07.html 住友グループ広報委員会:住友家法・営業の要旨 </ref> この家法では住友の伝統精神が明示されるとともに、明治維新の大きな転換期に対処するための組織や方法が具体的に記載されている。 === 営業要旨 === 明治24年10月、それまでの家法は「'''住友家憲'''」(全十四ヵ条から成る)と「'''住友家法'''」(第一編十七章・第二編六章から成る)とに分けられ、家憲では家長の職責が規定され、また家法においては事業運営の方法が法制化された。 これによって、「'''三井の番頭政治'''」「'''三菱の独裁政治'''」に対して住友の「'''法治主義'''」という特色が出来上がった。また「'''営業要旨'''」として家法の冒頭に二つの条文に分けて掲げられている。 * 第1条 我営業ハ信用ヲ重ジ、確実ヲ旨トシ、以テ 一家ノ鞏固隆盛ヲ期ス * 第2条 我営業ハ時勢ノ変遷、理財ノ得失ヲ計リ、弛張興廃スルコトアルベシト雖モ、苟モ 浮利ニ趨リ、軽進スベカラズ == 歴代総理事 == 明治以降の住友の経営は、広瀬をはじめとする大番頭(総理事)にまかされ、以後[[伊庭貞剛]](第2代総理事)、[[鈴木馬左也]](第3代総理事)といった名総理事に恵まれ、[[銀行]]、[[倉庫]]、[[保険]]など多方面に進出した。 その一方で[[住友家]]当主は、持ち株会社住友合名、住友本社の代表となり、「'''君臨すれども統治せず'''」といった経営分離の方式を貫き、次第に経営の中心からは身を引いて財閥統合のための象徴的存在へと変わっていった。 * [[1877年]](明治10年) [[広瀬宰平]]が住友家総理人となる。 * [[1894年]](明治27年) 広瀬宰平が総理人を退任。伊庭貞剛が住友の諸事業を主宰。 * [[1900年]](明治33年) [[伊庭貞剛]]が第2代住友本店総理事に就任。 * [[1904年]](明治37年) [[鈴木馬左也]]が第3代住友本店総理事に就任。 * [[1909年]](明治42年) 住友本店を住友総本店と改称。 * [[1921年]](大正10年) 住友総本店を住友合資会社に改組。 * [[1922年]](大正11年) [[中田錦吉]]が第4代住友合資会社総理事に就任。 * [[1925年]](大正14年) [[湯川寛吉]]が第5代住友合資会社総理事に就任。 * [[1930年]](昭和5年) [[小倉正恒]]が第6代住友合資会社総理事に就任。 * [[1937年]](昭和12年) 住友合資会社を株式会社住友本社に改組。 * [[1941年]](昭和16年) [[古田俊之助]]が第7代住友本社総理事に就任。 * [[1946年]](昭和21年) 古田俊之助が住友本社総理事を退任。 == 財閥解体 == 終戦時に住友本社が投資していた会社は'''120社'''におよび、これらの会社の公称資本金総額は'''100億円'''にのぼる規模であった。もっとも住友本社の持株比率が10%を超えるもの(いわゆる直系、準直系、特殊関係会社)に限定すれば、内外地合わせ'''29社'''であった。 しかし住友財閥の最大の特色は、第一に'''重化学工業中心'''であったこと、第二に'''商業部門をもたない'''ことにあった。資本投下が'''金属工業'''・'''機械工業'''・'''化学工業'''・'''鉱業'''などに集中しており、繊維工業や商業部門への投資は皆無であった。住友本社の重化学工業部門の払込資本金比率は'''87%'''におよび、圧倒的重化学工業財閥の実勢力をしめしていた。そして重工業財閥として、直系の生産会社はすべて軍需会社の指定を受けていたのである。住友にとって敗戦は幕末維新期以来の危機であった。軍需工場として膨張しきっていたうえに、主力工場は空襲で壊滅的打撃を受け、しかも荒廃と混乱のなかで、民需転換は容易に望めなかったからである。 住友では、日本の敗戦が決定的になると、本社事務所の疎開先である京都衣笠の別邸に本社の課長以上の者を集め、戦後対策の検討はじめた。そこでの中心議題は、戦後復興、事業転換方策、人材離散を防ぐ方策などであった。9月になって、これらの問題や財閥解体などに対処するために次の'''五原則'''を定めた。 * 拡張しきった各方面の事業の収拾をはかるとともに、人材の離散を防ぎ、それぞれにできるかぎり仕事を与える。そのための新事業を企画する。 * 海外引揚者とその家族の援護を十分にする。 * 住友本社と住友各社の債権者にできるかぎり誠実に対処する。 * 住友の全事業をできるだけ滅ぼさずに転換し、将来民族と国家の繁栄につながるようにする。 * 極力累を住友家に及ぼさない。 ついで、9月10日と11日の2日にわたって、各社幹部50名をまじえて「'''事業転換方策懇談会'''」を開いた。本社側から戦後の一般情勢と本社解体の方針について説明、各社から復興のための方策と事業転換について報告がなされ、本社企画課が準備した新規事業計画案には、'''商事'''・'''製塩'''・'''水産'''・'''セメント'''・'''出版'''などの事業があがったが、'''商事会社設立'''のほかに種々の難点があった。このようにして住友では、商事会社の設立、化学工業の肥料生産への転化、金属工業の車輌工業への転化などの準備が進められた。 ちなみに、[[住友金属工業|住友金属]]の場合は、全国18工場のうち大阪の車輌工場と尼崎のパイプ工場だけを残して、16工場を閉鎖、10万人の従業員を5千人に減らすという徹底した合理化をともなうものであった。これは[[日向方齊|日向方斉]](当時企画課長)の住金再建案として知られており、実際にそのとおりに断行された。 10月初旬以来、住友と総司令部および中央諸官庁との折衝が頻繁となり、10月5日、北沢常務理事と大島監事が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に出頭して[[クレーマー大佐]]に会い、住友本社が単なる持株会社でなく現業部門をもつこと、[[住友家]]当主は日常の仕事に関与せず総理事が実権を掌握していること、住友家は政治に関係していなかったことなどを説明、当時戦犯のうわさのあった当主の立場を釈明した。 10月18日、クレーマー大佐は自ら大阪にきて、住友本社で古田総理事と会談した。この席上クレーマー大佐の質問は、当主'''住友吉左衛門'''の事業責任にも及んだが、古田は敢然と無関係無責任であると答えた。そして翌19日、住友本社理事会は自発的解体、すなわち本社の解体と傘下企業に対する統轄の廃止を決定し、家長の決裁を得た。 住友が三井や三菱とくらべて解体に順応的にあった理由としては、監事の[[大島堅造]]が[[大内兵衛]]、[[田村幸策]]の両氏とともにGHQの非公式顧問であって、情報が得やすかったことのほかに、[[安田財閥]]の自発的解体が後押しとなった。こうして住友では、早くも10月24日に本社・連系会社の全主管者を招集して次のように内示した。 * 住友本社を解散する * 住友本社の現業部門については農林業・鉱業部門は住友鉱業へ移管する。 * 代表取締役[[住友吉左衛門]]、同[[古田俊之助]]以下住友本社の取締役・監査役は全員辞任する。 * 上にともない住友系各社はそれぞれ自主独立の会社として事業の経営にあたる。 * 住友系各社の社名中「住友」の名称はこれを避けることとし、遂次社名を変更する。 このようにして11月4日に日本政府から「'''持株会社の解体に関する覚書'''」が提示され、これを承認する形で総司令部からこの件に関する覚書が発せられた。これによって持株会社整理委員会を通じて[[財閥解体]]を実施するという具体的な方向が決定した。 しかし、同委員会の発足が遅れたので、住友では法律上の解散に先立って事実上の解散を行うことを決め、21年1月21日の臨時株主総会で役員の更迭をおこない、解体処理にあたる役員だけを残して、古田総理事以下主要役員は一斉に辞任した。ここに住友本社の傘下企業に対する統轄は完全に消滅し(法律上は2年後)住友の歴史は一応ここで断絶することになった。 == 現在(財閥解体後~現在) == [[財閥解体]]後の1949年、住友各社の協力関係を維持するため、住友直系12社の社長によって構成される[[白水会]]が設立された。結成当初、白水会は秘密会であったが、昭和20年代後半にはその存在を明らかにする。「'''結束の住友'''」と言われるように[[住友グループ]]は戦後の混乱期に、[[三井財閥|三井]]、[[三菱財閥|三菱]]の他財閥にさきがけいち早く社長会による集団指導体制を確立し、連帯意識の統一に成功した。 現在は、グループの中核・[[住友銀行]]が[[三井グループ]]の中核銀行([[さくら銀行]])と合併して[[三井住友銀行]]が誕生したことに伴い[[金融]]面では'''[[三井住友フィナンシャルグループ]]'''が誕生し、他業種でも住友系と[[三井財閥|三井系]]の企業の合併や業務提携が相次いだ。 もっとも、旧住友財閥系の企業からなる住友グループ全体の売上高は約60兆円に達し、これは日本の[[国内総生産|GDP]]の約10%を占める規模である。また、[[住友不動産]]は、[[住友家]]の不動産資産を譲り受けてスタートしたことから、住友の本流を受け継いでおり、旧住友本社の資産を[[住友商事]]が引き継いでいる。 == かつて、旧財閥系列の系譜をくんでいた主要企業 == * [[ヤマハ]](旧:日本楽器製造→日本楽器(ヤマハ)) * [[関西電力]] ** [[山陽電気鉄道]]([[阪神電気鉄道]]翼下) ** [[ダイビル]](旧:大阪建物、[[商船三井|商船三井(旧大阪商船→大阪商船三井船舶)]]系列) * [[NEOMAX]](旧:住友特殊金属)→ 現親会社の[[日立金属]]への吸収合併により解散(現在の日立金属株式会社 NEOMAXカンパニーである) * [[小倉興産]]([[アドバンテッジ パートナーズ|アドバンテッジ・パートナーズ]]傘下を経て[[アパマンショップホールディングス|アパマンショップグループ]]へ) * 昭和精機工業([[ヤンマー|旧ヤンマーディーゼル]]系→[[アーク (会社)|アーク]]系) * [[川崎重工業]](戦時中に[[商船三井|旧山下汽船]]と合わせて発行済み株式の25%前後を取得していた。これが後の”川崎(グループ)の住友アレルギー”と言われる原因となった) ==脚注== <references /> == 参考文献 == * 「住友財閥」作道洋太郎著 ニュートンプレス 1979年 * 「財閥の経営史」安岡重明著 日本経済新聞社 1978年 * 「財閥解体」梅津和郎著 教育社 1978年 * 「近代大阪の展開と人物誌」宮本又次著 文献出版 1986年 * 「住友-発展の史的研究」エム・ヴェスキャーギナ著 青木書店 1990年 * 「住友軍団パワーの秘密」邦光史郎著 東急エージェンシー出版事業部 1987年 == 関連項目 == * [[住友グループ]] * [[住友家]] * [[住友村]] * [[白水会]] * [[住友家評議員会]] * [[別子銅山]] * [[住友別子鉱山鉄道]] * [[四阪島]] == 外部リンク == * [http://www.sumitomo.gr.jp/ 住友グループ広報委員会] * [http://www.sumitomo.or.jp/ 住友財団](理事長・住友吉左衛門) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E8%B2%A1%E9%96%A5 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月11日 (木) 10:07。]     

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