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'''松本試案'''(まつもとしあん、松本案)とは、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に[[大日本帝国憲法]]の改正を指示された日本政府が提出したが拒絶された改正試案をいう。策定の中心人物たる[[松本烝治]]の姓からこう呼ばれる。
== 概要 ==
[[第二次世界大戦]]・[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の[[敗戦]]の際(1945年8月14日)に受諾を余儀なくされた[[ポツダム宣言]]によって、基本的人権の尊重の確立・民主主義復活強化の障害の除去(ポツダム宣言10項)・平和的な国民政府の樹立(ポツダム宣言12項)の履行を義務付けられたため、大日本帝国憲法の改正は避けて通れなかった。さらに、同年10月には4日に[[東久邇宮内閣]]の国務大臣[[近衛文麿]]、さらに(8日に辞任した[[東久邇宮稔彦王]]に代わり9日に総理となった)[[幣原喜重郎]]との11日の会談においてマッカーサー元帥自身による憲法改正の一般的指令が命じられた。
[[幣原喜重郎内閣]]の憲法担当[[国務大臣]][[松本烝治]]を主任として10月27日に設立された憲法問題調査委員会において、松本大臣の[[第89回帝国議会]]で発表した憲法改正の原則('''松本四原則''')と、松本委員長の1946年1月9日に示した私案('''松本私案''')を素に、1946年2月8日、'''松本試案'''と呼ばれる草案が作成され、当初これが[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に提示された。しかし、GHQは、松本試案を保守的で不満だとして、同年2月13日'''[[マッカーサー草案]]'''と呼ばれる全面改憲草案を提示してきた(なお、松本試案の内容は、[[毎日新聞]]の2月1日の報道により既に事実上公表されていたといわれるが、これは委員の一人である[[宮沢俊義]]の作成した草案であり、松本試案とは別の物であった)。改憲草案は、条文の細部まで詰めてあり、日本政府は松本試案を諦め、マッカーサー草案を下に同年3月6日「憲法改正草案要綱」を作成し、GHQの全面的な支持を取り付けた。各種の手続を経たがほぼ草案通りの内容のまま、これが同年11月3日[[日本国憲法]]として公布され、1947年5月3日より施行された。
== 内容 ==
日本政府は、当初[[大正デモクラシー]]の状態に戻せば充分だと考えており、[[天皇主権]]の原則も崩さず、[[天皇機関説]]を徹底させればよいと考えていた。ただ、[[人間宣言|1946年1月1日の詔書]](いわゆる[[人間宣言]])により天皇が「現人神」であることは否定されたものと理解されていたので(詔書の原文は天皇が神の末裔であることを否定するもの <ref>原文はGHQの意向を受け、幣原喜重郎首相が前田文相の案を元に英文で作成した。木下道雄侍従次長の『側近日誌』(1946年12月25日)によれば、「Emperorを神の裔とすることを架空とする」ものであった。</ref>)、「[[天皇]]は[[神聖]]にして侵すべからず」は改めざるを得なかったものの、「天皇は至尊にして侵すべからず」と[[不可侵]]性の理由を改めるにとどめた。その他、議会権限の拡大と大権事項の縮小、国務大臣の議会に対する責任の明確化、自由及び権利の保護の拡大と侵害に対する救済措置の整備なども定めていた。
== 松本試案と関連する憲法案 ==
=== 近衛案・佐々木案 ===
なお、この松本試案とは別に、近衛文麿・[[佐々木惣一]]ら[[内大臣府]]が主体となった憲法改正案も存在し、こちらは1945年11月下旬に天皇に内奏されている。しかし、明治憲法上の手続上の疑義が[[宮沢俊義]]らにより批判され、既に11月1日に改憲の指令は政府に対して行ったとGHQが声明を発表していたこと、同月に内大臣府が廃止されたこともあり、内大臣府による改憲作業は頓挫し、以後は政府が主導した。
=== 宮沢案 ===
毎日新聞により松本試案として誤って報道された、宮沢俊義による憲法案。委員の一人であった宮沢が委員会内部での議論を参考に私的に作成したとされる。
== 注釈 ==
<references />
== 参考文献 ==
*[[清宮四郎]]『憲法I(新版)』([[有斐閣]]法律学全集、1971年)45頁以下
*[[佐藤功]]『日本国憲法概説(全訂第四版)』(学陽書房、1991年)47頁以下
*[[野中俊彦]]・[[中村睦男]]・[[高橋和之 (憲法学者)|高橋和之]]・[[高見勝利]]『憲法I(第3版)』(有斐閣、2001年)55頁以下(高橋和之執筆部分)
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%A9%A6%E6%A1%88 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_22008年10月16日 (木) 01:21。]
{{Battlebox
|battle_name=豊島沖海戦
|campaign=日清戦争
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|caption=[[小林清親]]による[[浮世絵]]
|conflict=[[日清戦争]]
|date=[[1894年]][[7月25日]]
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'''豊島沖海戦'''(ほうとうおきかいせん)は、[[日清戦争]]の発端となった[[海戦]]。'''豊島沖の戦い'''とも言う。
== 概要 ==
[[1894年]]([[明治]]27年)7月25日、[[日本]][[艦隊]]と[[清国]]艦隊が[[朝鮮半島]]西岸の[[豊島_(朝鮮半島)|豊島]]沖で戦った海戦。[[宣戦布告]]直前に遭遇して起きた。日本艦隊が一方的に勝利した。
== 2国の艦隊 ==
=== 日本艦隊 ===
[[大日本帝国海軍|日本海軍]]第1遊撃隊(司令官 [[坪井航三]]少将、「[[吉野_(防護巡洋艦)|吉野]]」(よしの)「[[秋津洲_(防護巡洋艦)|秋津洲]]」(あきつしま)「[[浪速_(防護巡洋艦)|浪速]]」(なにわ))の3艦。
「吉野」は当時世界一の最速艦であった。
=== 清国艦隊 ===
はじめに、防護巡洋艦 「[[済遠 (巡洋艦)|済遠]]」(さいえん、Tsi yuen)、[[巡洋艦]] 「広乙」の2艦。
後に、[[砲艦]]「[[操江 (砲艦)|操江]]」(Caojiang)及び[[商船]]「高陞」の2艦。
== 海戦 ==
1894年7月25日早朝、吉野艦隊は朝鮮の北西岸豊島沖で会合する予定だった通報艦「八重山」と旧式巡洋艦「武蔵」を捜していた。二条の煙を発見し近付いてみると清国の巡洋艦「[[済遠]]」と「広乙」であった。清国艦隊もあとから陸兵を乗せてやってくる予定の清国商船「高陞」(こうしょう)とその護衛の清国軍艦「[[操江]]」の露払い役であった。2対3の巡洋艦が対峙しており、まだ互いに宣戦布告はなされていなかった。3000mに接近した時「済遠」は突如、21cm砲で発砲してきたため戦闘が始まった。一説には日本側から先に発砲したとも言われている。
数分間、互いに砲撃を交わした後の午前7時50分、非常に霧が濃く視界が悪い中、優勢な日本海軍の応戦の前に清国艦隊は逃亡を開始した。「秋津洲」は「広乙」を、「吉野」と「浪速」は大きいほうの「済遠」を追った。「広乙」は追い詰められて擱座した。
「吉野」と「浪速」は一本煙突の「済遠」を追うが、「済遠」は国旗を降ろして降伏の意を示したかと思えば突如、逃走を図ることを繰り返し、そうした追跡を繰り返していたとき、清国艦隊が合流を予定していた清国軍艦「操江」及び汽船「高陞」(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。「浪速」が新たな清国艦隊と押し問答をしているうちに「済遠」は逃走を図った。「吉野」の最高速度は23ノットで「済遠」は15ノットであったが、「済遠」は上手にジグザグコースをとって逃げ回った。「済遠」は逃げながらも2門の21cm砲で砲撃してくるが「吉野」は15cm砲で分が悪かった。「吉野」が「済遠」を2500mまで追い詰めた時、「済遠」艦長は面舵をとって浅瀬へと船を向かわせた。
「済遠」はドイツ製巡洋艦で2,300tで喫水は4.67 m、「吉野」はイギリス製の4,216tで喫水は5.18mであった。遊撃隊司令官 坪井少将は追撃中止を命令した。
「高陞号」は、戦争準備行動として[[仁川広域市|仁川]]に清国兵約1100名を輸送中であった。第1遊撃隊司令官の命により「浪速」艦長の[[東郷平八郎]][[大佐]]は「高陞号」に停船を命じて[[臨検]]を行い、清国兵が停戦命令に従わないため、「高陞号」を撃沈する。この時、英国人船員ら3人を救助し、約50人の清国兵を捕虜とした。
この海戦による日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無であった。清国側は「済遠」が大破とされているが真偽は不明、「広乙」と「高陞」も撃沈された。「操江」は「秋津洲」に鹵獲され1965年の除籍まで日本でさまざまに利用された。
== 影響 ==
* 日本国と清国の全面戦争が避け難いものとなり、7日後の8月1日に宣戦布告が日本からなされた。
* このあと英国籍の商船「高陞」を撃沈されたイギリスでは、日本に対して反感が沸き起こるが、高陞号への攻撃は国際法に沿ったものであった事が報道されて沈静化した。
== 出典 ==
艦艇発達史 木俣滋朗 ISBN4-7698-2356-8
== 関連項目 ==
* [[ジョン・ウェストレーキ]]
* [[トーマス・アースキン・ホランド]]
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月15日 (日) 12:29。]