連合国軍最高司令官総司令部

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[[Image:GHQ building circa 1950.JPG|thumb|300px|1950年頃のGHQビル]] '''連合国軍最高司令官総司令部'''(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、'''聯合国軍最高司令官総司令部''')とは、[[第二次世界大戦]]終結に際して[[ポツダム宣言]]の執行のために[[日本]]を占領し、間接統治を行なった[[連合国軍]]の日本における司令本部である。[[日本]]では「'''GHQ'''」という通称が用いられた。連合国軍総数は20万人、うち12万人が[[横浜市]]に上陸した。 == 名称 == 英語の"General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers"の日本語訳。「総司令部/ 聯合国軍最高司令官」が正式名称となるが、この記事名のほか、「軍」という語を使わずに'''連合国最高司令官総司令部'''、これを略して'''連合国総司令部'''としたり、軍を含めて'''連合国軍最高司令部'''<ref>日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)、教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件(昭和二十年十月三十日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)等で使用されている。</ref> 、又は'''連合国軍総司令部'''とする場合もある。また、"General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers"の略語である'''GHQ/SCAP'''(ジー・エイチ・キュー・スキャップ)が用いられることもある。なお、日本では一般に、'''SCAP'''を省き'''GHQ'''(ジー・エイチ・キュー)と呼ぶことが多いが、GHQは単に総司令部(General Headquarters)を意味するので、日本以外でGHQと言った場合、必ずしも「連合国軍最高司令官総司令部」を意味するわけではない。 == 基本情報 == [[Image:Macarthur hirohito.jpg|thumb|300px|right|[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]を訪問した[[昭和天皇]](1945年[[9月27日]]撮影した3枚のうち9月29日に公開された1枚)]] 日本が[[ポツダム宣言]]を受諾した[[1945年]]([[昭和]]20年)9月から[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]の[[日本国との平和条約]]発効までおよそ6年9ヶ月の間、日本占領に当たる連合国軍([[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[中華民国]]、[[ソビエト連邦]]、[[カナダ]]など各国軍から最大43万人)を統括し、日本の間接統治権を与えられた。最高司令官は連合国の構成国の1国であるアメリカ[[陸軍]]の[[ダグラス・マッカーサー]]元帥。[[1951年]](昭和26年)[[4月16日]]より同国の[[マシュー・リッジウェイ]]中将(就任直後に大将に昇進)。 連合国軍最高司令官総司令部の統治は、日本の政治機構をそのまま利用し、日本政府に指示・命令する間接統治であった。連合国軍の命令の多くは1945年(昭和20年)[[9月20日]]の勅令「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」に基づいていわゆる[[ポツダム命令]](ポツダム勅令。新憲法施行後はポツダム政令)などの形で公布・施行され、日本政府にとっては絶対的・超法規的な性格をもっていた。[[1946年]](昭和21年)2月には政策決定の最高機関として各国代表による[[極東委員会]]が、4月には最高司令官の諮問機関として[[対日理事会]]が設置されたが、実質は最大の占領軍を派遣し、また最高司令官を出していたアメリカによる間接統治という性格は変わらなかった。 日本はまず[[軍隊|軍事機構]]と[[国家警察]]を解体され、続いて政治の[[民主化]]と[[政教分離]]、[[財閥解体]]、[[農地解放]]を行い、国家を完全に改造した。この間、日本の内政は連合国軍の影響下に置かれながらも日本政府が担ったものの、[[外交権]]は無かった。「敗戦国を戦勝国が完全に支配下に置き、統治を行うことは近代国家の時代に入ってからはなかったことである」とマッカーサーは述懐している。 == 機構 == [[Image:Daiichi.jpg|thumb|right|300px|接収された[[第一生命保険|第一生命]]ビル。現「第一生命館」。(手前は皇居の外堀。後ろの高層部分は後に増築したもの。現在は外壁も含めほとんど改築され、マッカーサー執務室も再現である。)]] 総司令部本部は接収した[[第一生命保険|第一生命]]相互ビルに置かれた。[[皇居]]を見下ろす形で堀沿いに建てられた第一生命ビルに本部を置くことは、連合国軍が[[天皇]]のさらに上に君臨するという政治的意図が込められている(実際にはその立地上、連合国軍による本社ビル接収を免れないことを承知していた第一生命が、総司令部に利用されれば丁寧に使われ、将来の接収解除後にも建物をそのまま利用できるという目論見から、積極的に総司令部として利用して欲しいと差し出したという記録がある)。実は[[東京大学]](本郷キャンパス)が司令部として接収されかけたが、時の[[内田祥三]][[総長]]が抵抗してやめさせた(「文藝春秋」より)。 なお、当時の日本政府及び日本の報道機関は連合国軍を「'''進駐軍'''(しんちゅうぐん)」と呼ばせられ、占領に対する否定的なイメージの払拭に努めさせられた <ref>[[プレスコード]]によるダブルスピーク。連合国軍将兵の犯罪についても“大男”などと報じざるを得なかった。</ref>。 連合国軍とはいっても、その多くの職員は[[アメリカ軍|アメリカ合衆国軍]]人と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の民間人で構成されていた。連合国軍最高司令官総司令部は、軍事部門である'''参謀部'''と専門部局である'''幕僚部'''から組織された。 ; 参謀部 # 第1部(G1 人事担当) # 第2部(G2 情報担当)[[プレスコード]]の実施を担当 # 第3部(G3 作戦担当) # 第4部(G4 後方担当) :※特に[[諜報]]・[[保安]]・[[検閲]]を任務とする第2部(G2)が大きな発言権をもっていた。占領中に起きた数々の怪事件は、G2とその下にあったいくつもの[[特務機関]]([[キャノン機関]]など)が関与したとも囁かれている。 ; 幕僚部 # [[民政局]](GS:Government Section 政治行政) # [[経済科学局]](ESS:Economic & Scientific Section [[財閥解体]]など) # [[民間情報教育局]](CIE:Civil Information & Educational Section [[教育改革]]など) # [[天然資源局]](NRS:Natural Resources Section [[農地改革]]など) :※特に民政局(GS)が「非軍事化・民主化」政策の主導権をもっていたが、GSには[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]政権下で[[ニューディール政策]]に携わっていた者が多数配属されており、日本の機構改造のために活動した。上記は中枢部分で、[[1946年]]1月段階では11部局、最終的には14部局まで拡大している。また、GSとG2が日本の運営を巡って対立。GSが[[片山内閣|片山]]・[[芦田内閣|芦田]]両内閣を、G2が[[吉田内閣]]を支えており、政権交代や[[昭和電工事件]]の要因にはGSとG2の闘争があったとも言われる。 == 政策 == 総司令部の最大の目標は、世界の脅威となる[[日本]]の[[軍事]]力を解体することであり、[[軍国主義]]を廃した民主的な[[国家]]を作ることにあった。マッカーサーはこれを『上からの[[革命]]』と称した。また、マッカーサーは後に、当初は日本を[[工業国]]から[[農業国|農業小国]]に転換し、アメリカの市場とするつもりだったと述べている{{要出典}}。 === 戦争犯罪人の逮捕 === 連合国軍は占領直後から、日本の戦争指導者の検挙に取り掛かかり、[[東條英機]]元首相を含む数十名を逮捕した。彼等はいわゆるA級戦犯として[[極東国際軍事法廷]](東京裁判)により国際法に違反した事後法による裁判により判決を言い渡され、東條以下7名を絞首刑による処刑、多数を禁固刑などに処した。平和条約により日本はその判決を受諾(ただし裁判自体は受諾していない)した。 === 公職追放 === [[軍人]]ほか、戦時中に軍に協力的であったと認定された[[政治家]]、[[思想家]]など個人20万人がこれを理由に職を解かれて[[公職追放]]され、思想面での統制が行われた。また、戦争犯罪人や[[大政翼賛会]]に関与していたと見なされた者は、政府機関の職に就くことを禁止された。戦意高揚映画を製作した[[東宝]]など、映画界にもこれは及んだ。 === 情報統制 === 総司令部が政策として最初に行ったことは[[検閲]]である。[[1945年]]([[昭和]]20年)9月に発した「[[プレスコード]]」によって、軍国主義的なもの、戦前・戦中の日本を肯定するもの、連合国軍の行為を批判するもの、[[原子爆弾]]や無差別[[空襲]]の被害について知らせるものなどについて、[[ラジオ]]・[[新聞]]・[[雑誌]]他、一般市民発行の本に至るまで厳しく取り締まり<ref>これら[[検閲]]物は、GHQで文官として任に当たっていたプランゲ博士によってその後米国メリーランド大学へ移管され、[[プランゲ文庫]]として公開されている。</ref>、情報を統制した。プレスコード通達直前には「言論及び新聞の自由に関する覚書」([[SCAPIN]]-16)を発し、言論の自由の制限は最小限度に止める、GHQ及び連合国批判にならずまた世界の平和愛好的なるものは奨励とされたが、これに違反したとして[[朝日新聞社]]は二日間の業務停止命令を受けた。 <!-- GHQ/SCAP一般命令第4号は「民間情報教育局の設置」であり「戦争への罪悪感に関するプログラム」ではありません。 :<small>※[[江藤淳]]は、[[1945年]][[10月2日]]付のGHQ/SCAP一般命令第四号「戦争への罪悪感に関するプログラム」([[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]]―厭戦工作)によって、新聞とニュース番組を通じて日本軍の戦時中の非道を繰り返し報道させ、国民の戦意を全く喪失させると共に、国民の贖罪意識を増幅させることに成功した主張{{要出典}}--><!--文献情報--><!--している。戦前・戦中の「事後検閲」{{要出典}}--><!--日本のこと?日本なら、新聞紙法による新聞・雑誌は事後検閲、出版法による雑誌・単行本は事前検閲。(雑誌は上記二種あり。)--><!--に対しこちらは「事前検閲」である。この命令の裏づけは、江藤が発掘したと主張{{要出典}}する物のみであり、命令書原本が現在に至るまで確認されていない為、計画が実在したかについては疑問がある。詳細は該当項を参照。</small> --> === 非軍事化 === 『国民主権』、『基本的人権の尊重』という[[民主主義]]の基本をそなえると共に、『戦争放棄』をうたった[[憲法]]([[日本国憲法]])を製作し、日本政府に与えた(日本の戦争放棄は[[幣原喜重郎]]首相も考えていたと、マッカーサーは記録している。また、[[幣原喜重郎]]首相は自らの著である『幣原喜重郎―外交五十年』のなかで、戦争放棄や軍事力の解体を考えていた事を明らかにしている。また、[[天皇]]・[[皇室]]の神聖性の除去、[[国家神道]]の廃止、軍国主義教育の廃止を行い、[[明治]]からの社会[[思想]]を解体した。 その矛先は、映画界にまで及び、戦闘心を煽るとして、見当はずれな[[チャンバラ]]映画の禁止が行われ、時代劇スターが仕事を失うという珍事をもたらした。 === 民主化 === 民主国家にするための国民の改造として、「婦人参政権」「[[労働組合]]法の制定」「[[教育]]制度改革」「圧政的な法制度の撤廃」「[[経済]]の民主化」の5大改革指令を発し、日本政府に実行させた。[[労働組合]]はすぐに解禁され、[[男女同権]]論に基づく[[婦人参政権]]は直後の[[衆議院]]選挙から実行された。圧政的といわれた[[治安維持法]]と[[特別高等警察]]は廃止され、戦時中にこれら罪状で逮捕・服役していた政治犯を釈放した。 経済界においては、経済民主化のため、[[三井]]・[[安田]]・[[住友]]・[[三菱]]の4大[[財閥]]を解体した('''[[財閥解体]]''')。さらに、[[地方自治法]]が制定され、[[都道府県知事]]は選挙によって選出されるようにしたことで、中央集権から緩い地方分権へと移行させた。[[警察]]も、それまでの国家警察から、[[地方自治体]]の影響下に置かれた地方警察へ組み替えられた。一方で民主主義に不可欠とされる、[[言論の自由]]は弾圧していた。 === 農政 === [[農地改革]]によって大[[地主]]から強制的に土地を買い上げて[[小作人]]に分配した。これは、大地主に経済的に隷属する状況から小作人を解放し、民主主義を根付かせることに寄与した一方、自作農となった農民を[[保守]]化させる結果となり、農村は保守勢力の牙城となった{{要出典}}。また、北海道を除いて大規模農業事業を難しくさせ、農業の国際競争力は戦前と比べても極度に低下し{{要出典}}、以後の[[食料自給率]]低下に拍車をかけ現在に至っている。なお、全ての小作地が農地改革の対象になったわけではなく、実態には地域によりばらつきがあった。 === 教育改革 === 教育方針は連合国側で矯正させ、[[教育基本法]]を制定させて、6・3・3・4の学校制度を新設し、複線教育と[[全体主義]]の根本とされた[[教育勅語]]は廃止させた。教育使節団が2次に亘って来日し、これらの事業を完成させた。([[アメリカ教育使節団報告書]])。[[中学校|新制中学校]]による[[義務教育]]の延長など、[[教育]]の[[民主化]]に寄与する反面、[[旧制高等学校]]の廃止などが国力の漸減を意図したものだと指摘されてもいる{{誰}}。 === 非共産化と再軍備 === 国内経済の疲弊から[[社会主義]]が流行し、[[労働運動]]は非常に盛り上がったが、アメリカやイギリスなどの民主主義国とソビエト連邦との対立、いわゆる[[冷戦]]が激しさを増すと、[[共産党]]の勢力拡大が恐れられた為、対日政策の方針転換が行われて、[[日本列島]]を『反共の防波堤』にする計画が進み、[[共産主義]]者の追放([[レッドパージ]])を極秘裏に行った。同時に[[軍国主義]]・超[[国家主義]]者などの[[公職追放]]を解除することで、ある程度の[[右派]]勢力を回復し、左傾化した世論のバランスを取ろうとした。いわゆる「[[逆コース]]」である。 また、工業の早期回復による経済的自立が求められた。[[朝鮮戦争]]勃発によって連合国軍の一部が[[朝鮮半島]]に移ると、日本国内の軍事的空白を埋める為、[[警察予備隊]]の創設と[[海上保安庁]]の強化を実施して、日本の再軍備を行った。これらによって、日本との早期講和を行い、主権回復させて自力で防衛させることとなり、[[日本国との平和条約]]および[[日米安全保障条約]]の発効に至った。 GHQ/SCAPによるこれらの政策は、後に良くも悪くも論じられるが、日本が主権回復した後も、日本の国家の形態や日本人の精神・思想に多大な影響を及ぼし続けていると考えられている。 === 「慰安所」の設置 === 終戦直後の[[8月18日]]に、内務省は全国の警察に対して慰安所の設置を指令し、[[8月20日]]には[[近衛文麿]]国務相が[[特殊慰安施設協会]](RAA)の設置を決めた。このような日本政府による「良家の子女を守るため」という大義名分を基に日本各地に慰安所が設置された。多数のアメリカ兵が利用したが、アメリカ兵による性犯罪も多発し、犯罪防止の効果は不明である。 <!-- 一方で、当時、東京都民生局長だった[[磯村英一]]は著書の中で「GHQのほぼ最初の命令はレクレーションセンター(アメリカ兵専用の慰安所)の設置だった。日本人慰安婦(通称[[パンパン]])を集めて直に作れと命令された」と述べている{{要出典}}。 当時の警察の記録によれば、横浜や横須賀だけでも被害届が出されたものでも1日平均30〜40件のアメリカ兵による強姦事件があったとされている{{要出典}}。当時の新聞には「恵比須顔にご用心」といった記事が掲載され、「道を歩いていてアメリカ兵とすれ違う時に下手に愛想笑いをすると、路地裏に連れ込まれて強姦される」と注意を促していた{{要出典}}。 更に「処女狩り」と称して白昼堂々市街地の一区画を武装したアメリカ兵が封鎖し、その中で未婚の女性(当時はほぼ100%処女だった)を集団強姦したり、ジープに分乗して病院に乗り付け、看護婦や入院患者を次々と強姦するといった悪質なケースもあった{{要出典}}。強姦されている最中にショック死したり、強姦された後に自殺する女性が数多くいた{{要出典}}。 更に磯村は慰安所の事実がアメリカで報道され、アメリカの女性団体の抗議を受けた後は慰安所の運営を秘密裏に行うよう命令されたと証言している{{要出典}}。 --> === 対日講和 === 日本政府は終戦によって軍人や強硬派政治家・官僚が失脚し、[[吉田茂]](外務大臣、後首相)など[[国際協調派]]が主導権を握った。吉田らは健全な戦後復興のために、高額賠償金の支払いや領土分割を回避する「寛大な講和」を勝ち取ることを考え、日本政府が「よき敗者」として振舞うことに注力し、非軍事民主国家建設によって国際的な評価を得るべく、連合国軍の政策はほぼ忠実に実行した。また、[[イタリア]]などの枢軸諸国が早期講和によって賠償や領土割譲を要求されたことから、講和を急ぐことは「寛大」を勝ち得ないと判断し、占領期間を引き延ばしながら、連合国に対して日本が有利になる時期を見計らった。 一方、[[冷戦]]の激化により、日本との講和も[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イギリス]]など[[自由主義陣営]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]などの[[社会主義陣営]]の間で、主導権をめぐる駆け引きの対象となり、同時に[[非武装]]を国是とした日本の[[防衛]]をどうするかが大きな課題となった。米国内では、[[アメリカ国防総省|国防省]]は日本への軍の継続駐留を企図して、[[アメリカ国務省|国務省]]主導の講和計画に反対した。日本政府は米国に対し、米軍の継続駐留・将来の日本の再武装を確認する取り決めを行い、見返りに米国の[[信託統治]](後の分離独立を企図)下にある[[沖縄県|沖縄]]・[[奄美群島|奄美]]・[[小笠原諸島|小笠原]]に対する日本の潜在的主権を認め、「賠償請求権の放棄」「領土保全」「日本防衛の日米協力」を柱とした米国主導による「対日講和7原則」が決定した。 [[1951年]](昭和26年)の講和会議には[[イギリス|英]][[フランス|仏]][[オランダ|蘭]]の要求によって、各国の旧[[植民地]]も参加した一方、[[内戦]]で立場が微妙な「中国」(中華民国)と「朝鮮」([[大韓民国]]或いは[[朝鮮民主主義人民共和国]])は招かれず、ソ連は米国主導・中国(中華人民共和国)不参加に不満を持ち、講和阻止の活動を行った。また、旧植民地の[[東南アジア]]数カ国は、独立後の財源を確保するべく、「日本による侵略の被害者」を訴えて、賠償権放棄に反対したため、日本は2国間交渉によって賠償に応じ、国際社会に謙虚さをアピールした。 これらの結果、[[日本国との平和条約|講和条約]]には会議参加52カ国の内、調印式典をボイコットしたソ連など3国を除く49カ国が調印し、対日国交回復した。条約により、日本は[[朝鮮半島]]の独立を承認、[[台湾]]・[[澎湖諸島]]の放棄、[[樺太]]・[[千島列島]]の放棄、沖縄・奄美・小笠原・[[南洋諸島]]のアメリカによる[[信託統治]]の承認、[[東京裁判]]の結果の承認を行った。同時に[[日米安全保障条約]]に調印してアメリカ軍の国内駐留を承認し、台湾島に拠点を移した中華民国の[[中国国民党]]政府を承認する日華条約を締結することで反共の姿勢を打ち出し、正式に西側陣営に組み込まれた。 主権回復した日本は、[[国際連合]]に加盟する為、[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソ連]]との国交回復を[[1956年]](昭和31年)11月に実現させ、ソ連の承認を受けて同年[[12月18日]]に[[国際連合]]に加盟、[[国際社会]]へ復帰した。その後は軍事的な対米従属の下で経済的繁栄を目指し、[[1970年代]]には主要[[先進国]]の一つとなった。同じく占領され、同時期に経済的繁栄を手にした[[西ドイツ]]の主権回復は[[1955年]]、ソ連との和解は[[1970年]]、国連加盟は[[1973年]]であり、また講和会議は行われていない。 === 日本語のローマ字化(断念) === {{See also|ローマ字論}} 日本の教育状況と日本語に対する無知と偏見から、若い将校の発案で「[[日本語]]は文字が多いために覚えるのが難しく[[識字率]]が上がりにくい」とし、日本語を[[ローマ字]]表記にしようとした。しかし、老若男女を対象とした全国試験調査の結果、日本人の識字率が90パーセントを超えるという結果が出た{{要出典|date=2008年11月}}。世界的に見ても、これは例を見ないレベルであり{{要出典|date=2008年11月}}、日本語のローマ字化は撤回された。 == 年表 == ;[[1945年]](昭和20年) * [[8月15日]] [[終戦]]。[[昭和天皇]]による国民に向けての[[玉音放送]]。[[鈴木貫太郎]]内閣総辞職。 * [[8月17日]] [[東久邇宮内閣|東久邇宮稔彦王内閣]]成立。 * [[8月28日]] テンチ[[アメリカ陸軍]]大佐以下150名が[[横浜市|横浜]]に初上陸し、連合国軍本部を設置。 * [[9月2日]] 日本政府が[[戦艦]][[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]で[[降伏文書]]調印。GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る。 * [[9月8日]] 連合国軍、[[東京都|東京]]を占領する。以後、都内の建物600箇所以上を接収。 * [[9月10日]] 「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」発令。政府に代わり連合国軍が[[検閲]]を始める。 * [[9月15日]] 東京・日比谷の[[第一生命保険|第一生命]]相互ビル(現、DNタワー21、第一・農中ビル)を接収。 * [[9月16日]] 連合国軍本部が横浜から第一生命相互ビルに移転。 * [[9月17日]] マッカーサー、東京の本部に入る。 * [[9月19日]] [[言論統制]]のための[[プレスコード]]が出される。 * [[9月27日]] [[昭和天皇]]、マッカーサーを訪問。 * [[10月2日]] 連合国軍最高司令官総本部(GHQ/SCAP)設置。一般命令第四号「[[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]]」を発するが、日本側には知らせず(命令の存否について議論あり)。 * [[10月4日]] 自由の指令(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」、「政治警察廃止に関する覚書」)発令。 * [[10月9日]] 東久邇宮稔彦王内閣[[総辞職]]し、[[幣原内閣]]が成立。 * [[10月11日]] 女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示。 * [[10月15日]] [[治安維持法]]の廃止。国内の日本軍、[[武装解除]]を完了。 * [[11月18日]] [[皇族]][[資産凍結]]の指令。 * [[12月6日]] [[近衛文麿]]や[[木戸幸一]]など民間人9人の逮捕を命令。 * [[12月7日]] いわゆる[[農地解放]]指令(農地の小作人への分配)。 * [[12月9日]] [[農地改革]]を指示。 * [[12月15日]] [[神道指令]]を指示([[政教分離]])。外部リンク[http://www.succ.soka.ac.jp/~tnakano/lib/shintoshirei.html 国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件] ;[[1946年]](昭和21年) * [[1月4日]] [[軍人]]・[[戦争犯罪人|戦犯]]・[[軍国主義者]]及び同傾向政治家などの[[公職追放]]を指示。 * [[2月3日]] マッカーサー、[[民政局]]長[[コートニー・ホイットニー]]に自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる。 * [[2月13日]] ホイットニー局長、新憲法モデル文章を[[吉田茂]]らに見せる。 * [[3月6日]] 日本政府、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇、主権在民)を公表。  * [[5月3日]] [[極東国際軍事裁判]](東京裁判)開廷。 * [[11月3日]] [[日本国憲法]]公布。 * [[12月18日]] ワシントンの[[極東委員会]]、日本の労働運動16原則を決定(占領目的を阻害する労働運動の禁止)。 ; [[1947年]](昭和22年) * [[1月31日]] マッカーサー、[[二・一ゼネスト]]中止命令。伊井、NHKでスト中止を発表(後に占領政策違反で逮捕)。 * [[5月]] 総司令部内に賠償局を設置。 * [[5月]] GHQ、日本政府に対し「[[帝国]]」の語の使用を禁じる。 * [[5月3日]] [[日本国憲法]]施行。 * [[7月11日]] マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、[[対日講和会議]]の開催を提案。 * [[7月22日]] ソ連が米国提案の対日講和会議に反対。 ; [[1948年]](昭和23年) * [[11月12日]] [[東京裁判]]が[[A級戦犯]]25人に[[有罪]]判決。うち[[板垣征四郎]]、[[木村兵太郎]]、[[土肥原賢二]]、[[東條英機]]、[[広田弘毅]]、[[武藤章]]、[[松井石根]]に[[死刑]][[判決]]。 * [[11月30日]] 政令201を受け[[国家公務員法]]改正。公務員の団体行動権を否定([[労働基本権#日本の公務員の労働基本権]])。 * [[12月8日]] 民政局次長[[チャールズ・ケーディス]]大佐が対日政策転換を阻止するため帰国(昭電事件の余波から逃れる為と噂される)。 * [[12月18日]] GHQ/SCAP、対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換する)。 * [[12月23日]] [[東条英機]]ら旧指導者7人に死刑執行。 ; [[1949年]](昭和24年) * [[3月1日]] GHQ/SCAP経済顧問[[ジョゼフ・ドッジ]]、超均衡予算、補助金全廃、[[復興金融金庫]]の貸出禁止など、収支[[均衡予算]]の編成を指示([[ドッジ・ライン]])。 * [[9月15日]] シャウプ税制使節団、[[税制]]の抜本的改編を発表。(詳細は[[シャウプ勧告]]を参照) * [[10月4日]] [[プレスコード]]撤廃。 * [[11月1日]] 米国務省、「対日講和条約について検討中」と声明。講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「[[単独講和]]論」と東側を含めた「[[全面講和]]論」が対立(世論調査では全面講和が優位)。 ; [[1950年]](昭和25年) * [[6月6日]] マッカーサー、[[日本共産党]]中央委員24名を[[公職追放]]。 * [[6月25日]] [[朝鮮戦争]]勃発(- [[1953年]])。[[アメリカ合衆国軍|在日占領軍]]が[[大韓民国]]を支援するため出動し、日本が前線基地となる。 * [[7月8日]] マッカーサー、[[吉田茂|吉田首相]]に警察力強化([[警察予備隊]]7万5000名の創設と[[海上保安庁]]8000名増員)を求める書簡を送る。 * [[7月24日]] GHQ/SCAP、[[日本共産党]]幹部逮捕と[[日本新聞協会]]代表に共産党員の追放を勧告([[レッドパージ]])。 * [[8月10日]] 警察予備隊令を公布。[[総理府]]の機関として、[[警察予備隊]]が置かれる。 * [[8月27日]] 第2次アメリカ教育使節団来日。 * [[9月14日]] 米[[トルーマン大統領]]、[[対日講和]]と[[日米安全保障条約]]締結交渉の開始を指令。 * [[11月24日]] 米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記。 ; [[1951年]](昭和26年) * [[1月]] マッカーサー、日本政府に再軍備の必要性を説く。 * [[4月11日]] マッカーサー、朝鮮戦争で[[中国東北部]]空爆を巡りトルーマン大統領と対立し更迭される。 * [[4月16日]] マッカーサー、アメリカへ帰国。[[マシュー・リッジウェイ]]中将が第二代最高司令官に就任(就任後に大将へ昇進)。 * [[9月8日]] [[サンフランシスコ]]講和会議で[[日本国との平和条約]]を調印。続いて[[日米安全保障条約]]に調印。ソ連は不参加。 ; [[1952年]](昭和27年) * [[2月28日]] [[日米行政協定]]締結。 * [[4月28日]] [[日本国との平和条約]]が発効、日本の[[主権]]回復。GHQ/SCAPの占領が終わる。 == 脚注 == <references/> == 参考文献 == * 天川晃 監修、荒敬 編集・解説『GHQトップ・シ-クレット文書集成』([[柏書房]]、1993年〜1996年) : 第I期 ISBN 4-7601-1028-3、第I期インデックス ISBN 4-7601-1125-5、第II期 ISBN 4-7601-1197-2、第II期インデックス ISBN 4-7601-1370-3 * 荒敬・内海愛子・林博史 編『<small>国立国会図書館所蔵</small> GHQ/SCAP文書目録』(蒼天社出版、2005年) ISBN 4-901916-12-2 * 竹前栄治・中村隆英 監修、天川晃ほか 編『[http://www.nihontosho.co.jp/ghq/ghq_mokuji.html GHQ日本占領史]』全55巻・別巻1(日本図書センター、1996〜2000年) * 竹前栄治『戦後労働改革 GHQ労働政策史』(東京大学出版会、1982年) ISBN 4-13-051020-7 * [[櫻井よしこ]]『<small>GHQ作成の情報操作書</small> 「眞相箱」の呪縛を解く』([[小学館]]文庫、2002年) ISBN 4-09-402886-2 * 甲斐 弦『GHQ検閲官』(葦書房、1995年) ISBN 4-7512-0604-4 * 占領史研究会 編著『GHQに没収された本 総目録』(サワズ出版、2005年) ISBN 4-87902-023-0 == 関連項目 == {{Commonscat|General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers}} * [[連合国軍占領期の日本]] * [[極東国際軍事裁判]] * [[占領行政]] * [[憲法改正]] * [[日本国憲法]] * [[労働組合]] * [[連合軍専用列車]] * [[アメリカ教育使節団報告書]] * [[冷戦]] * [[白洲次郎]] * [[マッカーサー・ライン]] * [[天皇制廃止論]] * [[プレスコード]] * [[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]] * ([[イラク戦争]]における)[[連合国暫定当局]] * [[極東委員会]] * [[赤線]] * [[日本における検閲]] == 外部リンク == * 国立国会図書館・テーマ別調べ方案内:[http://www.ndl.go.jp/jp/data/theme/constitutional/occupation/scap.html 連合国最高司令官総司令部] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%80%A3%E5%90%88%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98%E7%B7%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月11日 (火) 16:58。]     

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