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'''京城帝国大学'''(けいじょうていこくだいがく)は、[[1924年]]に[[日本統治下の朝鮮]]の[[京畿道 (日本統治時代)|京畿道]][[京城府]](現:[[ソウル特別市]])に設立された、[[大日本帝国]]内で6番目の[[帝国大学]]であり、朝鮮においては唯一の[[旧制大学]]であった。[[大学の略称]]は'''城大'''(じょうだい)。
[[Image:Keijo Imperial University.JPG|200px|thumb|京城帝国大学正門]]
== 歴史 ==
=== 前史 ===
朝鮮では[[1895年]]の[[甲午改革]]により、近代教育制度が始まったが1906年までに11年たっても全国で小学校が40にも満たないというのが実情であった。初代統監として着任した[[伊藤博文]]は大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、日本は朝鮮半島にて学校建設事業を最優先してすすめた。その結果、[[1940年]]代には1000を超える各種学校が朝鮮半島にできることとなった。このような経緯の中で[[1919年]]の[[三・一独立運動]]、日本内地における[[大正デモクラシー]]の影響もあり、[[朝鮮総督府]]は武断政治から文化政治(内地延長主義)に政策転換し([[台湾]]でもこの頃同様な政策転換があった→[[日本統治時代 (台湾)#内地延長主義時期(1915年-1937年)]])、1920年頃からは、朝鮮民族系の団体が私立の「朝鮮民立大学」設立の動きを見せ、また、在朝鮮[[アメリカ合衆国|アメリカ]]系[[宣教師]]団体が[[旧制専門学校|専門学校]]の大学昇格の動きを見せることもあった。
[[1918年]]、日本([[内地]])での[[高等学校令]]改正に直接的な影響を受けて、臨時教育調査委員会が設置され、その答申に基く「第二次朝鮮教育令」により、朝鮮でも法的に大学設立が可能となった。これにより、民族系と宣教師系の動きを抑えて、朝鮮総督府管轄下で大学設置が進められた。
*[[1918年]] [[大正デモクラシー]]
*[[1919年]] [[三・一独立運動]]
*[[1920年]]12月 臨時教育調査委員会(総督府令第68号)が設置。
*[[1922年]]2月 「第二次朝鮮教育令」(勅令第19号)が公布。
*[[1923年]]11月 大学創設準備委員会を組織
=== 大学沿革 ===
1924年に<!--大学本部と-->[[大学予科|予科]]を設置し、1926年に[[法文学部]]・[[医学部]]の各学部が設置されて大学レベルの教育体制が整った。所在地は、鍾路区大学路(旧:京城府東崇町。予科は清涼里)。
教授陣は[[東京大学|東京帝国大学]]卒を中心としており、他の帝国大学の設立期と似ている。[[1937年]]で、[[日本人]]学生と[[朝鮮民族|朝鮮人]]学生の比率は70.2%と29.8%、 [[1942年]]で、60.4%と39.6%。
1929年から大規模な[[水力発電所]]が[[鴨緑江]]とその支流に造られ、1930年代の朝鮮は工業化が急速に進んだこと、また、1930年代初頭の[[満州事変]]と[[満州国]]設立により、資源が豊富な[[中国東北部]]での工業化が見込まれたことなどから、高度な技術を持つ人材の需要が高まり、その供給源として1941年には[[理工学部]]が設置された。
*[[1924年]]5月 [[朝鮮総督府]]所管の[[帝国大学]]として設立。大学予科(修業年限2年)を設置。
*[[1926年]]5月 [[法文学部]]・[[医学部]]設置。
**法文学部は憲法・行政法/民法・民事訴訟法/刑法・刑事訴訟法/経済学/政治学・政治史/羅馬法/哲学・哲学史/支那哲学/倫理学/心理学/宗教学・宗教史/美学・美術史/教育学/社会学/国史学/朝鮮史学/東洋史学/国語学・国文学/朝鮮語学・朝鮮文学/支那語学・支那文学/外国語学・外国文学の各講座を設置。
**医学部は解剖学・生理学・医化学・薬物学・病理学・微生物学の各講座を設置。
*[[1934年]] 予科の修業年限を3年に延長。
*[[1938年]] 理工学部の予科生が入学。
*[[1941年]] [[理工学部]]設置。
*1941年10月 授業年限の短縮令。[[太平洋戦争]]開戦で短縮期間は延長。
*[[1942年]]5月 高地療養研究所を附置。
*[[1945年]]6月 大陸資源科学研究所を附置。
=== 戦後 ===
[[終戦]]により、教職員や学生の半数以上を占める日本人学生は日本に[[引き揚げ]]、[[アメリカ軍]]政下で京城帝国大学は閉鎖された。しかし、閉鎖後2ヶ月で、城大の固定資産を受け継いでソウル大学校が開学した。
ソウル大学校の公式表明ではその建学を1946年としており、京城帝国大学との連続性を認めてはいない<ref>参考:ウィキペディア韓国語版({{lang|ko|[[:ko:경성제국대학]]}})によれば、京城帝国大学はソウル大学校の母体であると説明されている。</ref>。ただし、農科大学(現:農業生命科学大学)の場合は水原高等農林学校(農林専門学校)が前身であり、さらに同校は[[大韓帝国]]期における農商工部の農林学校まで遡るため、部局史レベルでは日本統治時代の記述もなされている。
*194x年、'''京城大学'''と改称
*[[1946年]][[8月22日]] [[アメリカ軍|米軍]]法令102号によって閉鎖。
*1946年[[10月15日]] ソウル・[[水原市|水原]]に立地していた9つの専門学校を統合して[[ソウル大学校]]となった。
== 歴代総長 ==
#[[有吉忠一]](事務取扱;[[1924年]]5月-[[1924年]]7月)
#下岡忠治(同上;[[1924年]]7月-[[1925年]]11月)
#[[湯浅倉平]](同上;[[1925年]]12月-[[1926年]]4月)
#[[服部宇之吉]](兼任;[[1926年]]4月-[[1927年]]7月)
#松浦鎮次郎([[1927年]]7月-[[1929年]]10月)
#[[志賀潔]]([[1929年]]10月-[[1931年]]10月)
#[[山田三良]]([[1931年]]10月-[[1936年]]1月)
#速水滉([[1936年]]1月-[[1940年]]7月)
#篠田治策([[1940年]]7月-[[1944年]]3月)
#山家信次([[1944年]]3月-[[1945年]]8月?)
== 主な教員 ==
*[[安倍能成]] - 哲学
*[[宮本和吉]] - 哲学・フッサール研究
*[[高橋亨]] - 儒教史・朝鮮仏教史
*[[阿部吉雄]] - 儒教史・李退渓研究
*[[田保橋潔]] - 国史学・政治史
*[[藤塚鄰]] - 東洋史
*[[鳥山喜一]] - 東洋史・渤海史
*[[小田省吾]] - 朝鮮史・李朝史
*[[藤田亮策]] - 考古学
*[[今西龍]] - 朝鮮古代史
*[[末松保和]] - 朝鮮古代史・任那史
*[[高木市之助]] - 国文学
*[[麻生幾次]] - 国文学・万葉集研究
*[[佐藤清]] - 英文学・英詩研究
*[[辛島驍]] - 支那文学・戯曲研究
*[[小倉進平]] - 言語学・朝鮮語学史
*[[時枝誠記]] - 言語学
*[[河野六郎]] - 言語学・文字論
*[[赤松智城]] - 宗教学・朝鮮巫俗研究
*[[秋葉隆]] - 社会学・家族学
*[[尾高朝雄]] - 法哲学
*[[清宮四郎]] - 法学・憲法学
*[[船田享二]] - 羅馬法
*[[泉哲]] - 植民地政策学
*[[三宅鹿之助]] - 経済学・マルクス経済史
*[[鈴木武雄]] - 経済学
*[[四方博]] - 経済史
*[[奥平武彦]] - 政治外交史
*[[高井俊夫]] - 小児科学
*[[宇野利雄]] - 数学
*[[黒田幹一]] - (予科)独語
*[[津田栄]] - (予科)化学・数学
*[[R.H.ブライス]] - (予科)英語・ラテン語
==出身者==
*[[金鍾烈]] - 政治家
*[[金会漢]] - 法学者
*[[閔復基]] - 大韓民国大法院長
*[[成楽緖]] - 制憲議員、忠南大総長
*[[申鉉碻]] - 政治家、[[国務総理 (大韓民国)|大韓民国国務総理]]
*[[兪鎮午]] - 小説家、法学・憲法学者、普成専門学校教授、高麗大教授、憲法起草委員、国会議員、韓日国交正常化交渉韓国側代表
*[[李康国]] - 政治家
*[[李大源]] - 画家
*[[李道栄]] - 政治家、企業人
*[[李林学]] - 数学者
*[[李在鶴]] - 政治家
*[[李周衡]] - 政治家
*[[李恒寧]] - 法学者、弘益大総長
*[[李孝石]] - 小説家
*[[柳洪烈]] - 歴史学、ソウル大学教授
*[[金錫亨]] - 歴史学、[[金日成総合大学]]教授
*[[田鳳徳]] - 弁護士
*[[崔丙柱]] - 政治家
*[[洪璡基]] - 判事
*[[洪翼杓]] - 政治家
*[[林学洙]] - 詩人、[[金日成総合大学]]教授
*[[崔載瑞]] - 詩人、英文学者
*[[申奭鎬]] - 韓国史、[[朝鮮史編修会]]修史官、高麗大教授、[[国史編纂委員会]]委員長
*[[金聖七]] - 史学科(選科)卒
*[[森田芳夫]] - 朝鮮史研究、外務事務官、誠信女子大教授、『[[朝鮮終戦の記録]]』著者
*[[田川孝三]] - 李朝史研究、[[朝鮮史編修会]]修史官、[[東洋文庫]]、[[東京大学]]助教授、『[[李朝貢納制の研究]]』著者
*[[泉靖一]] - [[文化人類学]]、[[東京大学]][[東洋文化研究所]]教授
*[[前田利一]] - 外交官、韓国大使、[[日韓文化交流基金]]理事長
*[[黒田嘉一郎]] - [[徳島大学]]医学部教授、同・医学部長、[[徳島文理大学]]学長
*[[橋本正之]] - 元[[山口県]][[知事]](1960~76)、朝鮮総督府官僚出身
== 脚注・出典・関連文献 ==
{{脚注ヘルプ}}
<div class="references-small"><references/></div>
*[http://www.nuedu-db.on.arena.ne.jp/pdf/040/40-r-002.pdf 植民地朝鮮の高等工業教育に関する一考察](李吉魯 [[日本大学]]文理学部人文科学研究所)
*[[泉靖一]] 「旧植民地帝国大学考」 『[[中央公論]]』[[1970年]]7月号、所収
*阿部洋 「日本統治下朝鮮の高等教育 ─京城帝国大学と民立大学設立運動をめぐって─」 『[[思想]]』[[1971年]]7月号、所収
*京城帝国大学同窓会 『紺碧遙かに ─京城帝国大学創立五十周年記念誌─』 [[1974年]]
*馬越徹 『韓国近代大学の成立と展開 ─大学モデルの伝播研究─』 名古屋大学出版会、[[1995年]] ISBN 4815802513
**第四章「日本型植民地大学としての京城帝国大学」・第五章「米軍統治下の高等教育」。
*稲葉継雄 『旧韓国~朝鮮の「内地人」教育』 九州大学出版会、[[2005年]] ISBN 4873788846
**第14章「京城帝国大学予科」。
*石川健治 「コスモス ─京城学派公法学の光芒─」 酒井哲哉(編) 『「帝国」編成の系譜』(岩波講座「「帝国」日本の学知」第1巻) [[岩波書店]]、[[2006年]]、所収
*「朝鮮年鑑」
== 関連項目 ==
*[[帝国大学]]
*[[京城高等商業学校]]
*[[ソウル大学校]]
*[[旧外地の高等教育機関]]
== 外部リンク ==
*[http://www.geocities.jp/qsay55/KJ.html 華麗なる旧制高校巡礼 - 旧制京城帝国大学予科]
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%BA%AC%E5%9F%8E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月5日 (土) 02:27。]
'''京城帝国大学'''(けいじょうていこくだいがく)は、[[1924年]]に[[日本統治下の朝鮮]]の[[京畿道 (日本統治時代)|京畿道]][[京城府]](現:[[ソウル特別市]])に設立された、6番目の[[帝国大学]](但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督府)であり、朝鮮においては唯一の[[旧制大学]]であった。[[大学の略称]]は'''城大'''(じょうだい)。
[[Image:Keijo Imperial University.JPG|200px|thumb|京城帝国大学正門]]
== 歴史 ==
=== 前史 ===
[[李氏朝鮮]]では、[[1895年]]の[[甲午改革]]により近代教育制度が始まった。[[日露戦争]]後の[[1905年]]、[[ポーツマス条約]]と[[第二次日韓協約]]により、[[大韓帝国]]([[1897年]]~)は日本の[[保護国]]となった。初代統監として着任した[[伊藤博文]]は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた<ref>金ワンソプ『親日派の弁明』p104</ref>。
そのため[[1906年]]には[[韓国統監府]]より[[普通学校]]令が公布され、5~6年制であった小学校を4年制に改編し、教育が進められた。日本の支配や普通学校に反発し、[[愛国啓蒙運動]]を起こして私立学校を設立し、[[朝鮮語|韓国語]]で[[ハングル]]の習得や民族の歴史などの教育を行った者もいた。対して日本は[[1908年]]に私立学校令を公布し、統一した教育の実施を狙った。
[[1910年]]の[[韓国併合]]後、[[朝鮮総督府]]は朝鮮人を対象とする第一次「朝鮮教育令」を公布([[1911年]])して[[普通教育]]を進めた。李氏朝鮮時代には一般人(特に女子)を教育する機関はなく、7割程度の朝鮮人が読み書きができず、また朝鮮では漢字が重視されハングルは軽視され教育されることはなかったため<ref>姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』(朝日文庫)</ref>、ハングルを必修科目とした日本の教育により、朝鮮民衆にハングルが広まったとも言われる<ref>崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』([[祥伝社]])</ref>。しかし、当初は朝鮮人年少者は未就学であり、就学した朝鮮人も、多くは民族系の私立学校や[[書堂]]に通学し、日本系の普通学校での朝鮮人は日本人の3%程度だった。総督府はこのような事実に対し、[[1911年]]に改正私立学校規則を公布、[[1918年]]に書堂規則を公布し、より教育の統一性を図った。初等学校への就学率は併合時代の最末期で男子が6割、女子が4割程度まで上昇した。
1918年、日本([[内地]])での[[高等学校令]]改正に直接的な影響を受けて、[[1920年]]に臨時教育調査委員会が設置され、その答申に基く「第二次朝鮮教育令」([[1922年]])により、朝鮮でも法的に大学設立が可能となった。この動きには、日本内地における[[大正デモクラシー]](1918年~)や、[[1919年]]の[[三・一独立運動]]の発生の影響があるとされる。
朝鮮総督府の武断政治から文化政治への政策転換は「内地延長主義」と呼ばれるが、朝鮮での教育に関しては「内鮮共学」と呼ばれる([[台湾]]でもこの頃同様な政策転換があった→[[日本統治時代 (台湾)#内地延長主義時期(1915年-1937年)]])。他方、「内鮮共学」対抗し、三・一独立運動以降の1920年頃からは、民族系の団体が私立の「朝鮮民立大学」設立の動きを見せ、また、在朝鮮[[アメリカ合衆国|アメリカ]]系[[宣教師]]団体が[[旧制専門学校|専門学校]]の大学昇格の動きもあった。このような中、朝鮮総督府管轄下で大学設置が進められた。
*[[1918年]] [[大正デモクラシー]]
*[[1919年]] [[三・一独立運動]]
*[[1920年]]12月 臨時教育調査委員会(総督府令第68号)が設置。
*[[1922年]]2月 「第二次朝鮮教育令」(勅令第19号)が公布。「内鮮共学」の方針を採用。
*[[1923年]]11月 大学創設準備委員会を組織
=== 大学沿革 ===
[[1924年]]に<!--大学本部と-->[[大学予科|予科]]を設置し、[[1926年]]に[[法文学部]]・[[医学部]]の各学部が設置されて大学レベルの教育体制が整った。所在地は、鍾路区大学路(旧:京城府東崇町。予科は清涼里)。
[[1929年]]から大規模な[[水力発電所]]が[[鴨緑江]]とその支流に造られ、1930年代の朝鮮は工業化が急速に進んだこと、また、[[1931年]]の[[満州事変]]と[[1932年]]の[[満州国]]設立により、資源が豊富な[[満州]]での工業化が見込まれたことなどから、高度な技術を持つ人材の需要が高まり、その供給源として[[1941年]]には[[理工学部]]が設置された。
城大の教授陣は[[東京大学|東京帝国大学]]卒を中心としており、他の帝国大学の設立期と似ている。日本語で[[専門教育]]の講義がなされる城大では、入学者は予め日本語での[[普通教育]]が必要であり、[[日中戦争]]開戦([[1937年]])後には「第三次朝鮮教育令」が公布([[1938年]])され、「内鮮教育の一元化」が唱えられた([[皇民化政策]])。しかし、[[1942年]]の朝鮮人の[[就学率]]は55%、日本語普及率は20%に留まり、城大でも[[1937年]]の[[日本人]]学生と[[朝鮮民族|朝鮮人]]学生の比率が70.2%と29.8%、 [[1942年]]のそれが60.4%と39.6%と、朝鮮人学生が過半を占めるに至らなかった。
*[[1924年]]5月 [[朝鮮総督府]]所管の[[帝国大学]]として設立。大学予科(修業年限2年)を設置。
*[[1926年]]5月 [[法文学部]]・[[医学部]]設置。
**法文学部は憲法・行政法/民法・民事訴訟法/刑法・刑事訴訟法/経済学/政治学・政治史/羅馬法/哲学・哲学史/支那哲学/倫理学/心理学/宗教学・宗教史/美学・美術史/教育学/社会学/国史学/朝鮮史学/東洋史学/国語学・国文学/朝鮮語学・朝鮮文学/支那語学・支那文学/外国語学・外国文学の各講座を設置。
**医学部は解剖学・生理学・医化学・薬物学・病理学・微生物学の各講座を設置。
*[[1934年]] 予科の修業年限を3年に延長。
*[[1938年]] 理工学部の予科生が入学。
*[[1941年]] [[理工学部]]設置。
*1941年10月 授業年限の短縮令。[[太平洋戦争]]開戦で短縮期間は延長。
*[[1942年]]5月 高地療養研究所を附置。
*[[1945年]]6月 大陸資源科学研究所を附置。
=== 戦後 ===
[[終戦]]により、教職員や学生の半数以上を占める日本人学生は日本に[[引き揚げ]]、[[アメリカ軍]]政下で京城帝国大学は閉鎖された。しかし、閉鎖後2ヶ月で、城大の固定資産を受け継いでソウル大学校が開学した。
ソウル大学校の公式表明ではその建学を1946年としており、京城帝国大学との連続性を認めてはいない。ただし、農科大学(現:農業生命科学大学)の場合は水原高等農林学校(農林専門学校)が前身であり、さらに同校は[[大韓帝国]]期における農商工部の農林学校まで遡るため、部局史レベルでは日本統治時代の記述もなされている。
*1946年、'''京城大学'''と改称
*[[1946年]][[8月22日]] [[アメリカ軍|米軍]]法令102号によって閉鎖。
*1946年[[10月15日]] ソウル・[[水原市|水原]]に立地していた9つの専門学校を統合して[[ソウル大学校]]となった。
== 歴代総長 ==
#[[有吉忠一]](事務取扱;[[1924年]]5月-[[1924年]]7月)
#下岡忠治(同上;[[1924年]]7月-[[1925年]]11月)
#[[湯浅倉平]](同上;[[1925年]]12月-[[1926年]]4月)
#[[服部宇之吉]](兼任;[[1926年]]4月-[[1927年]]7月)
#松浦鎮次郎([[1927年]]7月-[[1929年]]10月)
#[[志賀潔]]([[1929年]]10月-[[1931年]]10月)
#[[山田三良]]([[1931年]]10月-[[1936年]]1月)
#速水滉([[1936年]]1月-[[1940年]]7月)
#篠田治策([[1940年]]7月-[[1944年]]3月)
#山家信次([[1944年]]3月-[[1945年]]8月?)
== 主な教員 ==
*[[安倍能成]] - 哲学
*宮本和吉 - 哲学・フッサール研究
*[[高橋亨]] - 儒教史・朝鮮仏教史
*[[阿部吉雄]] - 儒教史・李退渓研究
*田保橋潔 - 国史学・政治史
*藤塚鄰 - 東洋史
*鳥山喜一 - 東洋史・渤海史
*小田省吾 - 朝鮮史・李朝史
*[[藤田亮策]] - 考古学
*今西龍 - 朝鮮古代史
*[[末松保和]] - 朝鮮古代史・任那史
*[[高木市之助]] - 国文学
*麻生幾次 - 国文学・万葉集研究
*[[佐藤清]] - 英文学・英詩研究
*辛島驍 - 支那文学・戯曲研究
*[[小倉進平]] - 言語学・朝鮮語学史
*[[時枝誠記]] - 言語学
*[[河野六郎]] - 言語学・文字論
*赤松智城 - 宗教学・朝鮮巫俗研究
*[[秋葉隆]] - 社会学・家族学
*[[尾高朝雄]] - 法哲学
*[[清宮四郎]] - 法学・憲法学
*[[船田享二]] - 羅馬法
*泉哲 - 植民地政策学
*三宅鹿之助 - 経済学・マルクス経済史
*鈴木武雄 - 経済学
*四方博 - 経済史
*[[奥平武彦]] - 政治外交史
*高井俊夫 - 小児科学
*[[宇野利雄]] - 数学
*黒田幹一 - (予科)独語
*津田栄 - (予科)化学・数学
*[[桜井義之]] - 朝鮮経済研究所研究員
*R.H.ブライス - (予科)英語・ラテン語
==出身者==
*金鍾烈 - 政治家
*金会漢 - 法学者
*閔復基 - 大韓民国大法院長
*成楽緖 - 制憲議員、忠南大総長
*[[申鉉碻]] - 政治家、[[国務総理 (大韓民国)|大韓民国国務総理]]
*[[兪鎮午]] - 小説家、法学・憲法学者、普成専門学校教授、高麗大教授、憲法起草委員、国会議員、韓日国交正常化交渉韓国側代表
*李康国 - 政治家
*[[李大源 (画家)|李大源]] - 画家
*李道栄 - 政治家、企業人
*李林学 - 数学者
*李在鶴 - 政治家
*李周衡 - 政治家
*李恒寧 - 法学者、弘益大総長
*[[李孝石]] - 小説家
*柳洪烈 - 歴史学、ソウル大学教授
*金錫亨 - 歴史学、[[金日成総合大学]]教授
*田鳳徳 - 弁護士
*崔丙柱 - 政治家
*洪璡基 - 判事
*洪翼杓 - 政治家
*林学洙 - 詩人、[[金日成総合大学]]教授
*崔載瑞 - 詩人、英文学者
*申奭鎬 - 韓国史、[[朝鮮史編修会]]修史官、高麗大教授、[[国史編纂委員会]]委員長
*金聖七 - 史学科(選科)卒
*森田芳夫 - 朝鮮史研究、外務事務官、誠信女子大教授、『[[朝鮮終戦の記録]]』著者
*田川孝三 - 李朝史研究、[[朝鮮史編修会]]修史官、[[東洋文庫]]、[[東京大学]]助教授、『[[李朝貢納制の研究]]』著者
*[[泉靖一]] - [[文化人類学]]、[[東京大学]][[東洋文化研究所]]教授
*前田利一 - 外交官、韓国大使、[[日韓文化交流基金]]理事長
*[[黒田嘉一郎]] - [[徳島大学]]医学部教授、同・医学部長、[[徳島文理大学]]学長
*[[橋本正之]] - 元[[山口県]][[知事]](1960~76)、朝鮮総督府官僚出身
*坪井幸生 - 咸鏡北道警視(外事警察課長)、忠清北道事務官(警察部長)、九州管区警察局長、[[大分県]]副知事
== 脚注・出典・関連文献 ==
{{脚注ヘルプ}}
<div class="references-small"><references/></div>
*[http://www.nuedu-db.on.arena.ne.jp/pdf/040/40-r-002.pdf 植民地朝鮮の高等工業教育に関する一考察](李吉魯 [[日本大学]]文理学部人文科学研究所)
*[[泉靖一]] 「旧植民地帝国大学考」 『[[中央公論]]』[[1970年]]7月号、所収
*阿部洋 「日本統治下朝鮮の高等教育 ─京城帝国大学と民立大学設立運動をめぐって─」 『[[思想]]』[[1971年]]7月号、所収
*京城帝国大学同窓会 『紺碧遙かに ─京城帝国大学創立五十周年記念誌─』 [[1974年]]
*馬越徹 『韓国近代大学の成立と展開 ─大学モデルの伝播研究─』 名古屋大学出版会、[[1995年]] ISBN 4815802513
**第四章「日本型植民地大学としての京城帝国大学」・第五章「米軍統治下の高等教育」。
*稲葉継雄 『旧韓国~朝鮮の「内地人」教育』 九州大学出版会、[[2005年]] ISBN 4873788846
**第14章「京城帝国大学予科」。
*石川健治 「コスモス ─京城学派公法学の光芒─」 酒井哲哉(編) 『「帝国」編成の系譜』(岩波講座「「帝国」日本の学知」第1巻) [[岩波書店]]、[[2006年]]、所収
*「朝鮮年鑑」
== 関連項目 ==
*[[帝国大学]]
*[[京城高等商業学校]]
*[[ソウル大学校]]
*[[旧外地の高等教育機関]]
== 外部リンク ==
*[http://www.geocities.jp/qsay55/KJ.html 華麗なる旧制高校巡礼 - 旧制京城帝国大学予科]
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%BA%AC%E5%9F%8E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年12月28日 (日) 05:24。]