川島芳子

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[[Image:Yoshiko Kawashima.jpg|thumb|255px|川島 芳子]] '''川島 芳子'''(かわしま よしこ、'''愛新覚羅 顕シ'''(シは王へんに于、即ち玗)、[[1907年]][[5月24日]] - [[1948年]][[3月25日]])は[[清朝]][[粛親王]]の王女。別名、'''金璧輝'''。日本人の養女となり日本で教育を受ける。清朝復辟のために日本軍に協力し、戦後[[中華民国]]政府によって「[[漢奸]]」として訴追され刑死。 == 経歴 == === 生い立ち === [[粛親王善耆]]の第十四王女として[[光緒]]33年[[4月12日_(旧暦)|旧暦4月12日]](西暦1907年5月24日)[[北京]]に生まれた。生母は粛親王の第四側妃。粛親王家は[[清朝]]太宗[[ホンタイジ]]の第一子武粛親王[[ホーゲ|豪格]]を祖とし、親王位の世襲を認められた名門であった。(通常は皇族の爵位は一代ごとに降格する) 本名愛新覚羅顕シ(王ヘンに子)、字東珍、別名金璧輝。字の由来は日本へ養女にいく際に東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いがこめられてつけられた。別名の金璧輝は兄[[金壁東]]からとったものであり、当初は壁であったが、後に本人が璧を用いるようになった。 [[辛亥革命]]後、[[川島浪速]]の養女となり日本で教育を受ける。川島浪速は[[信濃国|信州]][[松本藩|松本藩士]]の子として生まれ、外国語学校支那語科で中国語を学び、1900年の[[義和団事件]]で陸軍通訳官として従軍。日本軍の占領地域における警察機構の創設を評価され、日本軍の撤退後も清朝から雇用され中国初の近代的警察官養成学校である北京警務学堂の総監督に就任した。それが縁となり、警察行政を管轄する工巡局管理大臣(後に民政部尚書)粛親王善耆と親交を結んだ。 1911年10月に辛亥革命が勃発し、1912年2月清朝皇帝が退位し、[[袁世凱]]を[[大統領]]とする[[共和制]]国家である中華民国が設立すると、粛親王は川島浪速の手引きで北京を脱出し旅順に渡り、日本の援助を受けて清朝復辟運動を行った(1912年と1916年の二度にわたり画策された挙兵計画はいずれも日本側の方針転換により中止命令が出され失敗に終わっている。第一次・第二次満堂独立運動とよばれている)。 粛親王の第十四王女顕シは、粛親王が日本政府との交渉人として川島浪速を指定した際、川島の身分を補完し両者の密接な関係を示す目的で川島の養女となり、1915年に来日した。川島芳子と改名し、[[東京]]の豊島師範付属小学校を卒業、跡見女学校に進んだ後、川島の転居にともない[[長野県]]松本高等女学校(現在の[[長野県松本蟻ヶ崎高等学校]])に転校した。松本高女まで馬で通ったエピソードは有名である。1922年に実父粛親王が死去し、葬儀のために長期休学したが、復学が認められず松本高女を中退している。17歳で自殺未遂事件を起こし断髪、男装となる。断髪の原因は山家亨少尉との恋愛問題であるとも、養父浪速に関係を迫られたためであるともいわれている。 === 満洲国と川島芳子 === [[1927年]]20歳の時、[[旅順]]で[[蒙古]]族の将軍パプチャップの息子カンジュルジャップと結婚するが、夫の親族となじめず、2年ほどで離婚。その後[[上海]]に渡り、上海[[駐在武官]]の[[田中隆吉]]少佐と交際したことから特務工作に関わるようになり、[[上海事変]]の謀略工作に関わったといわれている。上海での活躍から、「東洋の[[マタ・ハリ]]」と呼ばれる。 [[1931年]]9月満洲事件が勃発し、11月にまず清朝最後の皇帝[[溥儀]]が関東軍の手引きで天津から満洲に連れ出された。川島芳子は残された溥儀の皇后婉容を天津から連れ出すことを軍から依頼され、婉容を天津から旅順へ護送する任務を行っている。[[1932年]]に、溥儀を[[執政]]とする[[満洲国]]が[[中国大陸]]北部に成立すると、川島芳子は[[新京]]で満洲国女官長に任命されたが、実際には就任していない。この頃芳子をモデルにした[[村松梢風]]の小説『男装の麗人』が発表され、芳子は日本軍に協力する清朝王女として世間の注目を浴びるようになる。 [[1933年]]には[[関東軍]]の支援のもとに安国軍(定国軍ともいう)が創設され、芳子が総司令に就任し、熱河作戦に従軍した。安国軍がどれほどの規模で、実際の活動はどのようなものであったかは明らかではないが、このニュースは新聞で大きくとりあげられ、芳子は「[[東洋]]の[[ジャンヌ・ダルク]]」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれた。 当時は[[ラジオ]]番組に出演し、余った時間に即興で歌を披露し、それがきっかけで[[レコード]]の依頼がくるなど、非常に人気があった。芳子が歌う「十五夜の娘」、「蒙古の唄」などのレコードが発売されている。なかには蒙古語で歌っている部分があるが、意味が通じないところもある。これは一時期蒙古人の夫と結婚して草原で暮らしていたので、その時に聞き覚えたものではないかと思われる。作詞者としては1933年に川島芳子作詞、杉山長谷夫作曲、東海林太郎唄の「キャラバンの鈴」というレコードを出している。 同年には、小説『男装の麗人』を連載していた『[[婦人公論]]』本誌に、独占手記として「僕は祖國を愛す」を掲載させ、1940年には自伝『動乱の蔭に』を出版している。また「昭和の天一坊」と騒がれた[[相場師]]・[[伊東ハンニ]]や[[右翼]]の[[笹川良一]]と交際したり、[[天津]]で[[中華料理]]屋を経営するなどしている。 世間から注目され一見華やかな存在であった芳子は、深い孤独を抱えていた。芳子は満洲国が清朝の復辟ではなく日本の傀儡国家に過ぎないことが明らかになると、日本軍([[関東軍]])の満洲国での振る舞いなどを批判するようになり、軍部からは危険人物として監視されるようになった。暗殺計画もあったという。1939年頃には療養のために福岡に滞在している。この頃から孤独感に満ちた短歌を書くようになる。それらは私的に書かれたもので長く公表されなかったが、没後50年以上を経て歌集『真実の川島芳子』として発表された。また福岡滞在時代に交流した女性が芳子との思い出をつづった『孤独の王女川島芳子』を2004年に出版している。福岡での療養後、芳子は北平(北京)に戻り、そこで終戦を迎える。 === 処刑 === [[1945年]]の[[第二次世界大戦]]([[大東亜戦争]])の日本の敗戦とともに[[北平]]で[[中国国民党]]軍に逮捕され、[[漢奸]](中国語で“国賊”、“売国奴”の意)として訴追された。[[1947年]]に死刑判決を受け、[[1948年]]3月25日に北平第一監獄で銃殺刑に処された。 日本国籍があれば漢奸罪は適用されなかったが、養父川島浪速が芳子の帰化手続きを行っていなかったため日本人とは認められず、漢奸罪が適用されてしまった。もっとも同人の判決文からは、当時の中華民国は血統主義であり、父親が中国人であれば日本国籍の有無にかかわらず中国人とみなされ、漢奸罪が適用されたものと解することもできる。同様に漢奸裁判にかけられた[[李香蘭]]こと山口淑子は日本人と認められ釈放されている。 川島芳子の遺骨は日本人僧侶古川大航の手によって信州の川島浪速のもとへ届けられた。1949年に川島浪速が死去すると、芳子の遺骨はともに松本市の正鱗寺にある川島家の墓に葬られた。その一方で、銃殺執行直後から替え玉説が報じられ、その後長く生存説がささやかれた。事態を重視した[[GHQ]]が調査を行ったが真相を究明することはできなかった。現在、[[中華人民共和国]]には芳子の娘と自称する女性がいる。 === 辞世の句 === 家あれども帰り得ず<br> 涙あれども語り得ず<br> 法あれども正しきを得ず<br> 冤あれども誰にか訴えん<br> この句は銃殺執行後の獄衣のポケットに残されていた川島芳子の辞世の句であるという。「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず」という前半の二句は芳子が生前好んで揮毫していた句であり、彼女の孤独な心情を表している。 == 家族 == 川島芳子の父[[粛親王]]善耆には5人の夫人との間に38人の子女がいた。粛親王家の子女は清朝復辟に望みをかける善耆の意向により、日本語教育を受け、多くが日本留学をしている。満蒙独立運動に父の名代として参加し、満洲事変で東北交通委員会副委員長、満洲国時代に新京特別市長、黒龍江省長、満州映画協会理事長などを歴任した[[金壁東]]は善耆の第七子である。 善耆の第十七女[[愛新覚羅顕琦]](あいしんかくら・けんき)は、自伝『清朝の王女に生れて』(1986年、中央公論)を出版している。また、善耆の長子憲章の娘で川島芳子の姪にあたる廉鋁(日本名川島廉子)の娘が母の伝記『望郷』(川島尚子 著 集英社 [[2002年]])を出版している。 現代中国の画家[[愛新覚羅連経]]は善耆の第十六子憲方の子で川島芳子の甥にあたる。『[[溥傑]]自伝』(河出書房新社、1995年)を翻訳した翻訳家[[金若静]]は善耆の第十二女顕珴の娘である。 == 記念室 == [[1998年]]川島芳子の没後50周年に、芳子が少女時代を過ごした長野県松本市の日本司法博物館内に、川島芳子の書や遺品などを展示した資料室「川島芳子記念室」が開設され、芳子の女学生時代の友人や関係者が芳子のゆかりの品などを寄贈した。記念室は毎年川島芳子が銃殺された3月25日頃の週末に「川島芳子を偲ぶ会」を開催し、長野県内外から多数の人が集っている。また、記念室は2001年に川島芳子が私的に書き残していた和歌を歌集『真実の川島芳子』として出版するなどの活動を行っている。 日本司法博物館は2002年以降松本市引き継がれ「たてもの野外博物館松本市歴史の里」と改称、2007年4月末に改装を終えてリニューアルオープンした。川島芳子記念室は歴史の里内の展示棟にある。 == 川島芳子を演じた女優 == 川島芳子の伝奇的な生涯はしばしば映画、演劇などの題材となっている。 === 日本 === * [[水谷八重子 (初代)]]:舞台『男装の麗人』(1932年) * [[入江たか子]]:映画『満蒙建国の黎明』(1932年、[[溝口健二]]監督) * [[川路龍子]]:映画『燃える上海』(1954年、[[今泉善珠]]監督、北星) * [[高倉みゆき]]:映画『戦雲アジアの女王』(1957年、[[野村浩将]]監督、[[新東宝]]) * [[松あきら]]:舞台『見果てぬ蒼海』 * [[山田邦子]]:ドラマ『さよなら李香蘭』(1989年、[[フジテレビ]]) * [[保坂知寿]]:([[劇団四季]])ミュージカル『李香蘭』 * [[山崎佳美]]:(劇団四季)ミュージカル『李香蘭』 * [[濱田めぐみ]]:(劇団四季)ミュージカル『李香蘭』 * [[椿真由美]]:(劇団[[青年座]])舞台『MANCHURIA-贋・川島芳子伝』(2000年) * [[大浦みずき]]:([[水野晴郎]]事務所)映画『シベリア超特急3』(2001年) * [[酒井悠三子]]:(あんがいおまる一座)舞台『薔薇の仮面―川島芳子―』(2003年) * [[江角マキコ]]:ドラマ『[[流転の王妃・最後の皇弟]]』(2003年、テレビ朝日) * [[紫城るい]]:([[宝塚歌劇団]])『愛しき人よ』(2004年) * [[美咲蘭]]:(オフィス蘭)舞台『王女伝説―川島芳子の生涯―』(2006年) * [[永吉雅代]]:(あんがいおまる一座)舞台『薔薇の仮面―川島芳子―』(2006年) * [[堀江真理子]](アリストパネス・カンパニー)舞台『男装の麗人伝説』(2006年) * [[菊川怜]]:ドラマ『李香蘭』(2007年、テレビ東京) *[[中路美也子]]:(グループ演劇工房)舞台『満洲國の黄金の都市―幻影の王道楽土―』(2007年、木内稔演出) === 中国・香港 === *[[張暁敏]]:映画『川島芳子』([[1989年]]、何平監督、[[中華人民共和国]]) * [[マギー・ハン]]:映画『[[ラストエンペラー]]』(1989年、[[ベルナルド・ベルトルッチ]]監督) * [[アニタ・ムイ]](梅艷芳):映画『川島芳子』([[1990年]]、方令正監督、[[香港]]) == 書籍 == * 川島芳子『動乱の蔭に』時代社 1940年 * 林杢兵衛『川島芳子獄中記』東京一陽社 1949年 * 楳本捨三『妖花川島芳子伝』秀英書房 1984年 * 上坂冬子『男装の麗人・川島芳子伝』文芸春秋 1984年 * 渡辺龍策『川島芳子その生涯 - 見果てぬ滄海』徳間書店 1985年 * 西沢教夫『上海へ渡った女たち』新人物往来社 1996年 * 川島芳子記念室編 歌集『真実の川島芳子』プラルト 2001年 * 園本琴音『孤独の王女川島芳子』智書房 2004年 == 川島芳子を題材とした作品 == === 伝記 === *『男装の麗人 (村松梢風 著、中央公論社、1933年)  *『男装の麗人 (村松友視 著、恒文社、2002年) *『満洲国妖艶・川島芳子 (李碧華 著、人民文学出版社 編、1999年、香港映画『川島芳子』のノベライズ) *『終の栖 仮の宿・川島芳子伝 (岸田理生、而立書房、2002年) === 小説 === *『乱の王女・1932愛と悲しみの魔都上海(生島治郎、集英社、1991年) *『夕日よ止まれ (胡桃沢耕史、徳間書店、1993年) *『あじあ号、吼えろ!(辻真先、徳間書店、2000年) <!--*[[機神兵団]] *[[紺碧の艦隊]]--><!--川島芳子本人とは関係ないので--> === 舞台 === *[[ミュージカル李香蘭]]([[劇団四季]]) <!--=== 漫画 ===--> <!--*[[安彦良和]]『[[虹色のトロツキー]]』潮出版社  1992年 *[[大和和紀]]・[[林真理子]]『[[虹のナターシャ]]』講談社 2002年--><!--川島芳子は脇役の一人に過ぎないので--> <!--*広江礼威『翡翠峡奇譚』小学館 2005年--><!--川島芳子本人とは関係ないので--> <!--*[[宮脇明子]]『槿花一朝の夢 - 昭和の天一坊を呼ばれた男』集英社 2007年--><!--川島芳子は脇役の一人に過ぎないので--> <!-- === ゲーム === *[[シャドウハーツ]] *[[シャドウハーツII]] *[[ダブルクロス]]・リプレイ・トワイライト 東邦の快男児([[テーブルトークRPG]]リプレイ)--> == 関連項目 == *[[笹川良一]] *[[水の江瀧子]] *[[ラストエンペラー]] *[[特務機関]] *[[本多まつ江]] == 外部リンク == *[http://news.163.com/2004w06/12596/2004w06_1088298751326.html 乱世魔女・川島芳子](中国語) *[http://www.asahi-net.or.jp/~KU3N-KYM/heiki9/sihou/sihou.html 日本司法博物館] *[http://club.it.sohu.com/r-zz0051-2340-0-3-0.html 川島芳子の死](中国語) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E8%8A%B3%E5%AD%90 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年10月29日 (月) 12:04。]    
[[Image:Yoshiko Kawashima.jpg|thumb|240px|川島 芳子]] '''川島 芳子'''(かわしま よしこ、[[1907年]][[5月24日]] - [[1948年]][[3月25日]])は[[清朝]][[粛親王]]の王女。生名は'''愛新覚羅 顕シ'''(あいしんかくら けんし)(シは王ヘンに子)、字は'''東珍'''、中国語名は'''金璧輝'''。 日本人の養女となり日本で教育を受ける。清朝復辟のために[[日本軍]]に協力し、戦後[[中華民国]]政府によって「[[漢奸]]」として訴追され[[死刑|刑死]]。 == 経歴 == === 粛親王善耆第十四王女 === [[粛親王善耆]]の第十四王女として[[光緒]]33年[[4月12日_(旧暦)|旧暦4月12日]](西暦1907年5月24日)[[北京市|北京]]に生まれた。生母は粛親王の第四側妃。粛親王家は[[清朝]]太宗[[ホンタイジ]]の第一子武粛親王[[ホーゲ|豪格]]を祖とし、親王位の世襲を認められた名門であった。(通常は皇族の爵位は一代ごとに降格する) 本名愛新覚羅顕シ(シは王ヘンに子)、字東珍、別名金璧輝。字の由来は日本へ養女にいく際に東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いがこめられてつけられた。別名の金璧輝は兄[[金壁東]]からとったものであり、当初は壁であったが、後に本人が璧を用いるようになった。 1911年10月に辛亥革命が勃発し、1912年2月清朝皇帝が退位し、[[袁世凱]]を[[大統領]]とする[[共和制]]国家である中華民国が設立すると、粛親王は[[川島浪速]](かわしまなにわ)の手引きで北京を脱出し旅順に渡り、日本の援助を受けて清朝復辟運動を行った(1912年と1916年の2度にわたり画策された挙兵計画はいずれも日本側の方針転換により中止命令が出され失敗に終わっている。第一次・第二次満堂独立運動とよばれている)。 なお川島浪速は、[[信濃国|信州]][[松本藩|松本藩士]]の子として生まれ、外国語学校支那語科で中国語を学び、1900年の[[義和団事件]]で陸軍通訳官として従軍。日本軍の占領地域における警察機構の創設を評価され、日本軍の撤退後も清朝から雇用され中国初の近代的警察官養成学校である北京警務学堂の総監督に就任した。それが縁となり、警察行政を管轄する工巡局管理大臣(後に民政部尚書)粛親王善耆と親交を結んだ。 ===「川島芳子」に=== 粛親王の第十四王女顕シは、粛親王が日本政府との交渉人として川島を指定した際、川島の身分を補完し両者の密接な関係を示す目的で川島の養女となり、[[辛亥革命]]後の1915年に来日した。「川島芳子」と改名し、[[東京]]の豊島師範付属小学校を卒業、[[跡見女学校]]に進んだ後、川島の転居にともない[[長野県]]松本高等女学校(現在の[[長野県松本蟻ヶ崎高等学校]])に転校した。松本高女まで馬で通ったエピソードは有名である。 [[1922年]]に実父粛親王が死去し、葬儀のために長期休学したが、復学が認められず松本高女を中退している。17歳で自殺未遂事件を起こし断髪、男装となる。断髪の原因は[[山家亨]]少尉との恋愛問題であるとも、養父浪速に関係を迫られたためであるともいわれている。 === 満洲国建国に協力 === [[画像:Puyi-Manchukuo.jpg|thumb|180px|right|溥儀]] [[画像:Leehsianglan.jpg|thumb|180px|right|李香蘭]] [[1927年]]20歳の時、[[旅順]]で[[蒙古]]族の将軍[[パプチャップ]]の息子[[カンジュルジャップ]]と結婚するが、夫の親族となじめず、2年ほどで離婚。その後[[上海市|上海]]に渡り、上海[[駐在武官]]の[[田中隆吉]]少佐と交際したことから特務工作に関わるようになり、[[上海事変]]の謀略工作に関わったといわれている。上海での活躍から、「東洋の[[マタ・ハリ]]」と呼ばれる。 [[1931年]]9月に関東軍により[[満洲事変]]が勃発し、11月には、清朝最後の皇帝であった[[溥儀]]が関東軍の手引きで天津から満洲に連れ出された。川島芳子は残された溥儀の皇后[[婉容]]を天津から連れ出すことを軍から依頼され、婉容を天津から旅順へ護送する任務を行っている。[[1932年]]に、溥儀を[[執政]]とする[[満洲国]]が[[中国大陸]]北部に成立すると、川島芳子は[[新京]]で満洲国女官長に任命されたが、実際には就任していない。この頃芳子をモデルにした[[村松梢風]]の小説『男装の麗人』が発表され、芳子は「日本軍に協力する清朝王女」として世間の注目を浴びるようになる。 [[1933年]]には[[関東軍]]の支援のもとに安国軍(定国軍ともいう)が創設され、芳子が総司令に就任し、熱河作戦に従軍した。安国軍がどれほどの規模で、実際の活動はどのようなものであったかは明らかではないが、このニュースは日本や満州国の[[新聞]]で大きくとりあげられ、芳子は「[[東洋]]の[[ジャンヌ・ダルク]]」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれた。 ===芸能活動=== 当時は[[ラジオ]]番組に出演し、余った時間に即興で歌を披露し、それがきっかけで[[レコード]]の依頼がくるなど、非常に人気があった。芳子が歌う「十五夜の娘」、「蒙古の唄」などのレコードが発売されている。なかには蒙古語で歌っている部分があるが、意味が通じないところもある。これは一時期蒙古人の夫と結婚して草原で暮らしていたので、その時に聞き覚えたものではないかと思われる。作詞者としては1933年に川島芳子作詞、杉山長谷夫作曲、[[東海林太郎]]唄の「キャラバンの鈴」というレコードを出している。 同年には、小説『男装の麗人』を連載していた『[[婦人公論]]』本誌に、独占手記として「僕は祖國を愛す」を掲載させ、1940年には自伝『動乱の蔭に』を出版している。なお、この頃には[[李香蘭]]などの映画スターとの親交もあった。また、「昭和の[[天一坊改行|天一坊]]」と騒がれた[[相場師]]の[[伊東ハンニ]]や[[右翼]]の[[笹川良一]]と交際したり、[[天津市|天津]]で、[[中華料理]]屋「東興楼」を経営するなどしている。 ===「危険人物」=== 世間から注目され一見華やかな存在であった芳子は、深い孤独を抱えていた。芳子は満洲国が清朝の復辟ではなく日本の傀儡国家に過ぎないことが明らかになると、日本軍([[関東軍]])の満洲国での振る舞いや[[日中戦争]]などを批判するようになり、軍部からは「危険人物」として監視されるようになった。軍による暗殺計画もあり、また本人もそのことを察知していたという証言もある。 [[1939年]]頃には療養のために[[福岡]]に滞在している。この頃から孤独感に満ちた短歌を書くようになる。それらは私的に書かれたもので長く公表されなかったが、没後50年以上を経て歌集『真実の川島芳子』として発表された。 また福岡滞在時代に交流した女性が芳子との思い出をつづった『孤独の王女川島芳子』を2004年に出版している。福岡での療養後、芳子は北平(北京)に戻り、そこで終戦を迎える。 === 処刑 === [[1945年]]8月の[[第二次世界大戦]](と日中戦争)の日本の敗戦とともに、同年10月に[[北平]]で[[中国国民党]]軍に逮捕され、[[漢奸]](中国語で“国賊”、“売国奴”の意)として訴追された。[[1947年]]に死刑判決を受け、[[1948年]]3月25日に北平第一監獄で銃殺刑に処された。 日本国籍があれば漢奸罪は適用されなかったが、養父川島浪速が芳子の帰化手続きを行っていなかったため日本人とは認められず、漢奸罪が適用されてしまった。もっとも同人の判決文からは、当時の中華民国は血統主義であり、父親が中国人であれば日本国籍の有無にかかわらず中国人とみなされ、漢奸罪が適用されたものと解することもできる。同様に漢奸裁判にかけられた李香蘭こと[[山口淑子]]は日本人と認められ釈放されている。 川島芳子の遺骨は日本人僧侶古川大航の手によって信州の川島浪速のもとへ届けられた。[[1949年]]に川島浪速が死去すると、芳子の遺骨はともに松本市の正鱗寺にある川島家の墓に葬られた。その一方で、銃殺執行直後から替え玉説が報じられ、その後長く生存説がささやかれた。事態を重視した[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が調査を行ったが真相を究明することはできなかった。現在、[[中華人民共和国]]には芳子の娘と自称する女性がいる。 === 辞世の句 === 家あれども帰り得ず<br> 涙あれども語り得ず<br> 法あれども正しきを得ず<br> 冤あれども誰にか訴えん<br> この句は銃殺執行後の獄衣のポケットに残されていた川島芳子の辞世の句であるという。「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず」という前半の二句は芳子が生前好んで揮毫していた句であり、彼女の孤独な心情を表している。 == 家族 == 川島芳子の父[[粛親王]]善耆には5人の夫人との間に38人の子女がいた。粛親王家の子女は清朝復辟に望みをかける善耆の意向により、日本語教育を受け、多くが日本留学をしている。満蒙独立運動に父の名代として参加し、満洲事変で東北交通委員会副委員長、満洲国時代に新京特別市長、黒龍江省長、満州映画協会理事長などを歴任した[[金壁東]]は善耆の第七子である。 善耆の第十七女[[愛新覚羅顕琦]](あいしんかくら・けんき)は、自伝『清朝の王女に生れて』(1986年、中央公論)を出版している。また、善耆の長子憲章の娘で川島芳子の姪にあたる廉鋁(日本名川島廉子)の娘が母の伝記『望郷』(川島尚子 著 集英社 [[2002年]])を出版している。 現代中国の画家[[愛新覚羅連経]]は善耆の第十六子憲方の子で川島芳子の甥にあたる。『[[溥傑]]自伝』(河出書房新社、1995年)を翻訳した翻訳家[[金若静]]は善耆の第十二女顕珴の娘である。 == 記念室 == [[1998年]]川島芳子の没後50周年に、芳子が少女時代を過ごした長野県松本市の日本司法博物館内に、川島芳子の書や遺品などを展示した資料室「川島芳子記念室」が開設され、芳子の女学生時代の友人や関係者が芳子のゆかりの品などを寄贈した。記念室は毎年川島芳子が銃殺された3月25日頃の週末に「川島芳子を偲ぶ会」を開催し、長野県内外から多数の人が集っている。また、記念室は2001年に川島芳子が私的に書き残していた和歌を歌集『真実の川島芳子』として出版するなどの活動を行っている。 日本司法博物館は2002年以降松本市引き継がれ「たてもの野外博物館松本市歴史の里」と改称、2007年4月末に改装を終えてリニューアルオープンした。川島芳子記念室は歴史の里内の展示棟にある。 == 書籍 == * 川島芳子『動乱の蔭に』時代社 1940年 * 林杢兵衛『川島芳子獄中記』東京一陽社 1949年 * 楳本捨三『妖花川島芳子伝』秀英書房 1984年 * 上坂冬子『男装の麗人・川島芳子伝』文芸春秋 1984年 * 渡辺龍策『川島芳子その生涯 - 見果てぬ滄海』徳間書店 1985年 * 西沢教夫『上海へ渡った女たち』新人物往来社 1996年 * 川島芳子記念室編 歌集『真実の川島芳子』プラルト 2001年 * 園本琴音『孤独の王女川島芳子』智書房 2004年 == 川島芳子を題材とした作品 == === 伝記 === *『男装の麗人』(村松梢風 著、中央公論社、1933年)  *『男装の麗人』(村松友視 著、恒文社、2002年) *『満洲国妖艶・川島芳子』(李碧華 著、人民文学出版社 編、1999年、香港映画『川島芳子』のノベライズ) *『終の栖 仮の宿・川島芳子伝』(岸田理生、而立書房、2002年) === 小説 === *『乱の王女・1932愛と悲しみの魔都上海』(生島治郎、集英社、1991年) *『夕日よ止まれ』(胡桃沢耕史、徳間書店、1993年) *『あじあ号、吼えろ!』(辻真先、徳間書店、2000年) <!--*[[機神兵団]] *[[紺碧の艦隊]]--><!--川島芳子本人とは関係ないので--> == 川島芳子(モデルとする人物含む)が登場する作品 == === 漫画 === *[[安彦良和]]『[[虹色のトロツキー]]』潮出版社  1992年 *[[大和和紀]]・[[林真理子]]『[[虹のナターシャ]]』講談社 2002年 *広江礼威『翡翠峡奇譚』小学館 2005年 *[[宮脇明子]]『槿花一朝の夢 - 昭和の天一坊を呼ばれた男』集英社 2007年 === ゲーム === *[[シャドウハーツ]] *[[シャドウハーツII]] *[[ダブルクロス]]・サプリメント『アウトランド』掲載「ウィアードエイジ」([[テーブルトークRPG]]) *[[ダブルクロス]]・リプレイ・トワイライトシリーズ([[テーブルトークRPG]]リプレイ) == 川島芳子を演じた女優 == 川島芳子の伝奇的な生涯はしばしば映画、演劇などの題材となっている。 === 日本 === ;舞台 * [[水谷八重子 (初代)]]:『男装の麗人』(1932年) * [[松あきら]]:『見果てぬ蒼海』 * [[保坂知寿]]:([[劇団四季]])『[[ミュージカル李香蘭]]』 * [[山崎佳美]]:(劇団四季)『ミュージカル李香蘭』 * [[濱田めぐみ]]:(劇団四季)『ミュージカル李香蘭』 * [[椿真由美]]:(劇団[[青年座]])『MANCHURIA-贋・川島芳子伝』(2000年) * [[酒井悠三子]]:(あんがいおまる一座)『薔薇の仮面―川島芳子―』(2003年) * [[紫城るい]]:([[宝塚歌劇団]])『愛しき人よ』(2004年) * [[美咲蘭]]:(オフィス蘭)『王女伝説―川島芳子の生涯―』(2006年) * [[永吉雅代]]:(あんがいおまる一座)『薔薇の仮面―川島芳子―』(2006年) * [[堀江真理子]](アリストパネス・カンパニー)『男装の麗人伝説』(2006年) * [[中路美也子]]:(グループ演劇工房)『満洲國の黄金の都市―幻影の王道楽土―』(2007年、木内稔演出) ;映画 * [[入江たか子]]:『満蒙建国の黎明』(1932年、[[溝口健二]]監督) * [[川路龍子]]:『燃える上海』(1954年、[[今泉善珠]]監督、北星) * [[高倉みゆき]]:『戦雲アジアの女王』(1957年、[[野村浩将]]監督、[[新東宝]]) * [[大浦みずき]]:『[[シベリア超特急#シベリア超特急3|シベリア超特急3]]』(2001年、[[水野晴郎]]監督) ;テレビドラマ * [[山田邦子]]:『[[さよなら李香蘭]]』(1989年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) * [[江角マキコ]]:『[[流転の王妃・最後の皇弟]]』(2003年、テレビ朝日) * [[菊川怜]]:『[[李香蘭 (テレビドラマ)|李香蘭]]』(2007年、テレビ東京) * [[黒木メイサ]]:『男装の麗人 川島芳子の生涯』※製作中(2008年、テレビ朝日) * [[真矢みき]]『男装の麗人 川島芳子の生涯』※製作中(2008年、テレビ朝日) ;ゲーム * [[草村ケイ]]:([[ライアーソフト]])『魔都拳侠傳マスクドシャンハイ』(2008年) === 中華人民共和国・香港 === * [[張暁敏]](チャン・シャオミン):映画『女スパイ・川島芳子』([[1989年]]、何平(ホー・ピン)監督、[[中華人民共和国]]) * [[マギー・ハン]]:映画『[[ラストエンペラー]]』(1989年、[[ベルナルド・ベルトルッチ]]監督、[[イタリア]]・[[イギリス]]・中華人民共和国) * [[アニタ・ムイ]](梅艷芳):映画『川島芳子』([[1990年]]、エディ・フォン(方令正)監督、[[香港]]) * [[黄韻詩]](ウォン・インシー):映画『ゴッドギャンブラー3』([[1991年]]、[[バリー・ウォン]](王晶)監督、香港) == 関連項目 == *[[笹川良一]] *[[水の江瀧子]] *[[ラストエンペラー]] *[[特務機関]] *[[本多まつ江]] == 外部リンク == *[http://news.163.com/2004w06/12596/2004w06_1088298751326.html 乱世魔女・川島芳子](中国語) *[http://www.asahi-net.or.jp/~KU3N-KYM/heiki9/sihou/sihou.html 日本司法博物館] *[http://club.it.sohu.com/r-zz0051-2340-0-3-0.html 川島芳子の死](中国語) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E8%8A%B3%E5%AD%90 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月15日 (水) 19:45。]    

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