板東俘虜収容所

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[[画像:Flag of the Republic of China 1912-1928.svg|280px|thumb|right|建国時の国旗]] [[画像:Flag of the Republic of China.svg|280px|thumb|right|南京国民政府成立時に制定された新国旗]] '''中華民国の歴史'''('''ちゅうかみんこくのれきし''')は、[[1912年]]に[[中国]]で建国された[[アジア]]最初の共和制[[国家]]である中華民国の歴史を記述する。なお、本稿では中華民国が[[中国大陸]]を支配していた[[1949年]]までの歴史を記述する。それ以降の中華民国の歴史については[[台湾の歴史]]と[[国民政府]]を、現在の中華民国政府自体については[[中華民国]]を参照のこと。 ==概要== 中華民国は、[[1926年]]以降の[[中国国民党]]による[[北伐]]の前後で、[[北京政府]]期と[[南京国民政府]]期に大別される。建国初期の[[袁世凱]]による統治期を除いて、中華民国の代表政府が同時期に2つ存在する時期もあるなど各地の[[軍閥]]がそれぞれ「中国を統治する国家」を主張していた時期もあるが、[[日本]]や[[イギリス]]、[[フランス]]や[[アメリカ]]などのいわゆる「列強」をはじめとする国際社会(その中には世界最初の[[社会主義]][[国家]]である[[ソビエト連邦]]も含まれる)では「中国を統治する国家」と認識されている。 [[第二次世界大戦]]後の[[1949年]]に[[中華民国軍]]は、[[ソビエト連邦]]の支援を受ける[[中国共産党]]の[[中国人民解放軍|共産党軍]]との[[国共内戦|内戦]]に敗北し、同年4月に首都の[[南京]]を制圧された事で崩壊状態に陥った。その後、中国共産党を率いる[[毛沢東]]は同年10月に「中国を統治する国家」として「[[中華人民共和国]]」の建国を宣言する。 しかし、[[蒋介石]]を中心とする中国国民党右派は、崩壊状態にあった中央政府を1949年12月に[[台湾島]]へ避難させる事に成功し、翌年に「中国を統治する国家」としての[[国民政府]]を再構築した。なお、内戦によって中華民国の全関係者が台湾島へ避難したわけでは無く、共産党軍の捕虜になったり、蒋介石と袂を分かって共産党と行動をすることを決意したものがいた他、[[香港]]や[[アメリカ]]などの国外へ避難したりする者もいた。 ==北京政府期(1912年~1928年)== [[Image:Chinese republic forever.jpg|thumb|220px|right|中華民国成立を祝うポスター<BR>左に[[袁世凱]]・右に[[孫文]]]] [[画像:Zhonghuaminguodedi1cineige.jpg|thumb|220px|right|1912年の中華民国内閣初組閣時の記念写真<br>後列左より 農林総長[[宋教仁]]・交通総長[[施肇基]]・陸軍総長[[段祺瑞]]・司法総長[[王寵恵]]・翰長[[魏宸祖]]<br>前列左より 教育総長[[蔡元培]]・商工総長代理[[王正廷]]・海軍総長[[劉冠雄]]・外務部総長代理[[胡惟徳]]・総理[[唐紹儀]]]] ===成立=== [[北京政府]]とは、[[1912年]]から[[1928年]]まで[[北京]]に存在した中華民国の正統な政府である。北洋軍閥政府ともいう。 中華民国は、[[1911年]]の[[武昌起義]]にはじまる[[辛亥革命]]において、[[1912年]]1月1日、南京において成立した(なお、国号については[[黄遵憲]]の「華夏」、[[劉師培]]の「大夏」、[[梁啓超]]の「中国」の他に「[[支那]]」や「大中華帝国」という提案もあったが、最終的には[[章炳麟]]の「'''中華民国'''」が採用された)。 しかし、この時点では、北京に[[清]]朝が存続しており、「中国を代表する」政府が南北に並存する状況にあった。しかし、同年2月12日に清朝の皇帝、宣統帝である[[愛新覚羅溥儀]]が退位することによって、中華民国政府が中国を代表することになった。 ===孫文と袁世凱=== 南京に成立した臨時政府では、国家元首に当たる[[中華民国大総統|臨時大総統]]は[[孫文]]であった。だが、孫文は当時国内で最も軍事力を有し、また清朝の全権を握っていた[[袁世凱]]と交渉し、南北分裂状態であった中国を臨時政府によって統一させるため、宣統帝の退位、[[臨時約法]]の遵守といった条件とひきかえに臨時大総統職を彼に譲った。しかし、袁世凱は臨時大総統就任後、責任内閣制の導入を図る国民党(中国同盟会を改組したもの。現在の中国国民党とは異なる)の[[宋教仁]]を暗殺したほか、統治の拠点を自らの軍事基盤である[[北京]]において専制体制を強化した。こうした袁の専制への反発から、1913年7月には江西の[[李烈鈞]]らが中心となって[[第二革命]]が勃発した。しかし、反袁勢力の結集に失敗して鎮圧され、袁は正式に大総統へ就任した。 [[第一次世界大戦]]の最中である[[1915年]]に日本から出された[[対華二十一か条要求]](中国に於ける日本の利権を絶対的に保証する内容)を批准し、更には自らが皇帝となることを前提に帝政復活を宣言して国号を「[[中華帝国]]」に改めた。これにたいして国内外からは非難の声が殺到し、雲南の[[唐継堯]]らが倒袁運動を展開(第三革命)したほか、袁の権力基盤である[[北洋軍閥]]の諸将からも反発もうけた。このため袁は翌1916年に帝政復活取消を宣言せざるをえなくなり権威を失墜させ、そのまま同年6月に病死した。 ===中国国民党の設立=== 袁世凱の死後、[[中華民国]]には中国全土を完全に統治する「統一政府」が存在しない状態が生まれた(1916年‐1928年)。そのため、[[軍閥]]が群雄割拠する内乱状態となり、同時に[[日本]]や[[フランス]]、[[アメリカ]]などの列強諸国による中国の半植民地化も進行したのである。しかし同時に、この時期には日本から出された対華二十一か条廃棄を挙国的に要求する[[五四運動]]([[1919年]])が起きたほか、[[陳独秀]]などが主導した[[新文化運動]]が広範な人々の支持をうけるなど中国近代化を象徴する出来事が起こっている。このような中、孫文は1919年に[[中国国民党]]を創建し、1921年には後の[[国民政府]]の基となる革命政府を広州で樹立した。 [[Image:Chiang Kai-shek 1926.jpg|right|thumb|220px|[[蒋介石]]]] また、孫文は成立したばかりの[[ソビエト連邦]]([[1917年]]建国)と接触し、その後の1924年には[[中国共産党]]党員([[1921年]]創党)がその党籍を保持したままで国民党への入党を認めるという、いわゆる第一次[[国共合作]]をおこなっている。孫文は1925年に死去したが、1926年になると[[蒋介石]]が孫文亡きあとの国民党の主導権を握り、[[広州]]を起点に[[北伐]]を開始、その過程で軍閥なども糾合していくことによって中国の統一がすすめられた。 [[1927年]]に、蒋介石率いる国民革命軍が[[南京]]を占領するが、[[ソビエト連邦]]の[[コミンテルン]]と、その指揮下にある[[中国共産党]]の指令、扇動による日本、[[イギリス]]、[[イタリア]]、フランス、アメリカの列強諸国の[[領事館]]を襲撃する[[南京事件]]が起こる。この事件により蒋介石は共産勢力を敵視するようになり、1927年 4月国共合作を解消すると、[[上海]]、武漢などの各地方で国民党内部から共産党を掃討する運動、いわゆる[[上海クーデター]]を起こした。この際、北伐は一時停滞、国民政府は蒋介石の南京国民政府(1927年4月18日)と、これに反対する[[汪兆銘]]等の「武漢国民政府」に分裂する。 [[Image:Zhang_zuolin_car.jpg|right|thumb|220px|関東軍に爆破された張作霖の専用車]] しかし、劣勢な武漢国民政府は数カ月後の1927年8月19日には南京国民政府に合流することになり、結果、南京国民政府を主導する蒋介石の権力はより一層強固なものとなった。1928年4月8日に、北伐が再開される。北伐におされ、北京から撤退した北方軍閥の[[張作霖]]が、6月4日に日本軍([[関東軍]])によって爆殺された([[張作霖爆殺事件]])のち、6月9日国民党軍の北京入城によって北伐完了が宣布され、同年10月10日、蒋介石は訓政の実施を発布し南京を首都とする国民政府が正式に成立した。さらに同年12月29日には東北の[[張学良]]が易幟をおこない国民政府に帰順する。ここにおいて、中華民国は各地の軍閥や共産党勢力といった反抗勢力を抱えつつも、南京国民政府によって一応の全国統一をみたのである。 ==南京国民政府期(1928年~1949年)== ===南京国民政府と汪兆銘政権=== 南京国民政府とは、[[1928年]]から[[1949年]]まで[[南京]]に存在した中華民国の正統な政府である。なお、[[日中戦争]]下の[[大日本帝国]]では、[[1940年]]成立の[[汪兆銘政権]]を「南京国民政府」と呼称し、中華民国の正統な政府として承認する一方、[[重慶]]へ撤退した従前の南京国民政府を一地方政府とみなして「重慶政府」と呼称していたが、ここでは「重慶政府」も南京国民政府として解説する。 ===第二次国共合作=== 国家主席就任後、[[蒋介石]]は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。しかしその頃、ソビエト連邦の支援の下、[[毛沢東]]が指揮する[[中国共産党]]は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には[[江西省]]に「[[中華ソビエト共和国|中華ソビエト共和国臨時政府]]」を樹立するまでに勢力を拡大していた。蒋は[[1930年]]12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開、1934年10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込んだ。しかし、蒋は毛沢東の[[長征]]までは防ぐことが出来ず、その後も[[国共内戦]]は継続されていった。 [[Image:Zhang Xueliang and Chiang Kai-shek.jpg|thumb|220px|right|蒋介石(左)と張学良(右)]] 同時期、[[日本]]の[[関東軍]]が[[満州事変]]を契機として[[満州]]を掌握し、かつて[[清朝]]最後の皇帝であった宣統帝を執政に推戴する[[満州国]]を建国した(いわゆる、[[十五年戦争]]の始まり)。これを受けて、南京国民政府の統治区域でも全国的に一致抗日を要求する世論が高まったが、蒋は日本との国力の差を考慮した上で国内の統一による国力増強を最優先目標とし、また[[反共主義]]の立場から、抗日政策より中国共産党との戦いの方を優先・強化していった。そのような中、父である[[張作霖]]を関東軍に殺された満州の軍閥・[[張学良]]は、共産党の取締りに対する協力を求めて[[西安]]を訪問した蒋を軍隊の動員によって西安に抑留し、国民党と共産党の再合作を要求した([[西安事件]])。蒋は最終的にこれを受諾し、西安を訪問した共産党代表・[[周恩来]]との会談を通じてこれを公式に宣伝した後に共産党軍を「国民党所属[[八路軍|第八路軍]]」として国民政府軍に組み入れた(第二次国共合作)。 ===日中戦争=== [[画像:Shanghai-20km north.jpg|right|thumb|220px|上海市北部を行軍する日本軍]] 1937年の[[盧溝橋事件]]を契機として、南京国民政府は日本との全面戦争状態に入った([[日中戦争]])。しかし、兵力の差から国民政府軍は各地で敗北を重ね、同年末にはに首都・[[南京]]を日本軍に制圧された。[[蒋介石]]は首都を[[重慶]]へ移転させて徹底抗戦の意思を示す一方、共産党との抗日連合戦線やアメリカやイギリスなどからの支援を通じて全面的な抗日戦争を行った。なお、12月には[[南京大虐殺|南京事件]]が発生している。 戦争開始翌年の1938年には日中間の大規模な戦闘が減ってきた為に、日本軍は国民党の反蒋介石派であった[[汪兆銘]]を首班とした[[汪兆銘政権|新たな国民政府]](汪兆銘政権)を樹立した。だが、[[日本軍]]が住民からの徴発、徴用を強行した為に庶民間には反日機運が広まり、国民政府と共産党もそれを利用してゲリラ戦を展開することで日本軍を次第に包囲していった。しかし一方の抗日連合戦線側も、ソビエト連邦の支援を受けた共産党が抗日戦争と同時に延安を中心として支配領域を広げる動きも見せていた事から、国民政府と共産党との間でも幾度か戦闘が行なわれていた。 その為に1938年以降の中国では、日本率いる汪兆銘政権、アメリカとイギリスが支援する国民政府、ソ連支援の共産党との間で三つ巴の戦闘が事実上行なわれていた。だが、日本への対抗を目的として国民政府を支援していたアメリカとイギリスは共産党との対立姿勢を鮮明にしていた国民政府に対して不信感を抱くこととなり、後に再燃した[[国共内戦]]時の国民政府への支援に影響することとなった。 ===日本の敗戦=== [[Image:Cairo conference.jpg|220px|thumb|[[カイロ会談]]における蒋介石と[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]、[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]](1943年)]] [[画像:1945 liberation of Hong Kong at Cenotaph.jpg|right|thumb|220px|日本軍撤退後の香港(1945年)中華民国の[[中華民国の国旗|青天白日滿地紅旗]]とイギリスの[[ユニオンジャック]]が確認できる]] その後日本は[[1941年]]12月にイギリスとアメリカとも開戦し、[[第二次世界大戦]]に突入することになる。国民政府は大戦中にアメリカとイギリスだけでなく、ソ連からの支援も受けつつ日本と対峙し、蒋介石が[[カイロ会談]]などに参加した他、蒋介石夫人の[[宋美齢]]が援助を募るためにアメリカ連邦議会で演説するなど、国民政府は主要な[[連合国]]の構成国として位置づけられた。その後1945年8月に日本と満州国は連合国に対して降伏し、中国における日中間の戦闘も終結した。 国民政府は連合国の主要メンバー、つまり戦勝国の一員として[[極東軍事裁判]]などの戦後処理に当たったほか、また、第二次大戦終了後には満州国や汪兆銘政権が崩壊した上に、カイロ会談や[[ポツダム宣言]]での内容を受けて中国全土が再び国民政府の統治下に入った他、日本だけでなく[[ヨーロッパ]]諸国も租界の返還や[[不平等条約]]の改正(1943年)をするなどした為、[[アヘン戦争]]以来続いていた中国の半植民地状況は一応の終わりを見せた。更には、日本が降伏の際に放棄した台湾島一帯も統治地域に編入し、中華民国の版図は拡大した。 ===国共内戦=== しかし、終戦直後から[[蒋介石]]率いる国民政府と共産党は戦後の中華民国政府のあり方を巡って見解の違いを露わにするようになり、1945年[[11月2日]]の共産党軍による大攻勢を発端として、各地で両者による武力衝突が始まった。アメリカの停戦調停にもかかわらず、1946年には[[国共内戦]]が再開した。内戦の再開直後、国民政府はアメリカから受けた軍事支援を基に共産党に対して攻勢を強めていた。しかし、その一方で[[中華民国軍|国民政府軍]]は、ソ連の[[スパイ]]の活動などによって共産党[[シンパ]]が増加していたアメリカ政府が軍事的支援を停止したことも相まって、ソ連からの大規模な軍事援助を受けた共産党軍の反攻が始まると各地で大規模な敗北を喫するようになった。この間に、国民政府は中華民国憲法を制定(1947年)し、憲法に基づいて蒋介石を総統(国家元首)とする憲政政府を成立(1948年)させることで自己の正当性を示そうとした。 しかし、中華民国政府軍の敗走は止まらず、国民党の内戦敗北は決定的となった。その為に、蒋介石は[[1949年]]1月に総統職を辞し、[[李宗仁]]が代行総統に就任して共産党との和平交渉に当たったが、同年[[4月23日]]に首都・南京が共産党軍([[中国人民解放軍]])に奪われ、南京国民政府は事実上崩壊状態に陥った。これに伴い、共産党は南京国民政府が崩壊・消滅したと判断し、同年10月に[[中華人民共和国]]の建国を宣言した。 なお、後にアメリカ政府内では、「誰が中国を失ったのか」という言葉を合言葉に、国民政府軍への援助停止を決めた政府内の共産シンパを非難する声が強まり、後にこれが大規模な[[赤狩り]]旋風に繋がることとなった。 ===台湾島への遷都=== しかし、南京国民政府が崩壊状態に陥った際に[[蒋介石]]が崩壊しつつある政府を指導した為、南京国民政府は[[広州]]、[[重慶]]、[[成都]]を経た上で、アメリカ政府内右派から支援を受け、中央政府機構を台湾島に移転することに成功した。その後、蒋介石は崩壊状態にある政府を再組織し、翌[[1950年]]1月に[[中華民国総統|総統]]職に復職することで、[[台湾国民政府]]としての活動を本格的に開始した。その為に[[中華民国軍|国民政府軍]]と[[中国人民解放軍]]との戦闘は[[1955年]]まで行なわれ、その後も[[福建省]]沿岸の[[金門島]]において両軍が幾度か砲撃戦を行なっている。 == 中華民国と台湾島 (1945年~現在)== {{main|台湾の歴史}} ===中華民国への編入=== [[Image:Chiang Kai-shek 1946.jpg|thumb|right|220px|台湾島を訪れた[[蒋介石]]と[[宋美齢]](1946年)]] 台湾島を含む一帯は[[漢民族]]が多数居住している地域で、1895年以降は[[日本]]の[[台湾総督府]]の統治下にあった。[[1945年]]に日本の[[連合国]]への降伏によって[[第二次世界大戦]]が終結すると、蒋介石率いる南京国民政府は[[カイロ会談]]における取り決めを根拠として台湾島一帯を中華民国の領土に編入した。国民政府軍は[[日本軍]]の武装解除のために台湾島を含む一帯に上陸し、同年10月に日本軍の降伏式典、台湾の「[[台湾光復|光復]]」(日本からの解放)を祝う式典を挙行し、台湾を統治する機関として台湾行政公署を設置した。 ===二・二八事件=== 行政公所の要職を新来の[[外省人]]が独占した事、および公所・政府軍の腐敗が激しかった事は、それまで台湾にいた[[本省人]]([[台湾人]])の反発を招き、[[1947年]][[2月28日]]に本省人の民衆が蜂起する[[二・二八事件]]が起きた。これに対して行政公所・政府軍は徹底的な弾圧をもって臨み、事件後も台湾人の抵抗意識を奪う為に知識階層・[[親日派]]・[[共産主義]]者を中心に数万人を処刑したと推定されている。国民党政権は政治・経済・教育・マスコミなどの独占を進め、同年中に[[台湾省]]が発足した。1949年に蒋介石が[[国共内戦]]で敗れた兵隊、崩壊状態にあった南京国民政府を引き連れて台湾に移住してきた後は、台湾省の形式は残しつつ、事実上は蒋介石の[[台湾国民政府]]が台湾を直接統治を行うようになった。 ===領有権の根拠と「台湾独立」=== なお、南京国民政府はカイロ会談における取り決めを台湾を領有の根拠としたが、カイロ会談の取り決めはあくまでも[[連合国]]の「立場表明」あるいはプレスリリースに過ぎず、国際法的に有効な「条約」とはいえず、日本の敗戦に伴う台湾の放棄とその後の台湾の帰属に関する国際的な法的根拠にはならないとする解釈がある。また[[1951年]]に[[日本]]が連合国諸国と締結した[[日本国との平和条約]]([[サンフランシスコ講和条約]])では日本の「台湾・澎湖諸島における権利、権利名義と要求の放棄」(第2条第2項)が、[[日華平和条約]]においては「台湾における日本の領土権の放棄」(第2条)が明記されたにとどまる。 このため、現在の台湾島を含む一帯は中華民国が実効統治しているものの、国際法的には「主権移転対象国(帰属国家)が不明確な状態にある」とも解釈することが可能」(つまり、「台湾に以前から居住していた台湾人に主権移転する」とも解釈することが可能)で、これを根拠として「台湾の国際的地位は未定である」とする「台湾の地位未定論」が[[台湾独立]]派を中心に唱えられており、中華民国内の[[泛緑連盟]](台湾独立派)と[[泛藍連盟]](反独立派)との間で論争が生じる源となっている。 == 民族問題 == 中華民国を成立させた[[孫文]]を始めとする[[漢民族]]主体の革命勢力(共和主義勢力)は、[[清国]]の遺領全体を領域とする「中国」の枠組みで中華民国を構想し、1912年樹立の中華民国臨時政府(共和政権)を「中国」の「中央政府」として位置づけていた。しかし、1642年以来中央チベットを統治していた[[チベット]]の[[ガンデンポタン|ダライ・ラマ政権]]、清末に[[モンゴル]]各地の諸侯が活仏を首班として組織した[[ジェプツンタンパ政権]]は、『[[文殊皇帝]]が退陣したからには、これに臣属していたチベット、モンゴル、[[中国]]等の諸国はそれぞれ対等の別個の国家となる』という立場を取って中華民国への服属を拒否し、それぞれ外部勢力の支援を仰いで独立国としての地位の確立を目指した。(詳細は[[チベット]],[[モンゴル]]を参照) 中華民国の歴代政府は、チベットやモンゴルに対し、清朝以来の位置づけを継承、[[理藩院]]に相当する機関として、[[北京政府]]は[[蒙蔵院]]、[[南京国民政府]]は[[蒙蔵委員会]]を[[1929年]]に設置してこれらの地域を統治下に組み込む為の工作を行なってきた。また、当時の列強諸国も「[[清]]国の継承国家」として中華民国の政府が清国の遺領全体を代表することを承認した。だが、幾度か行なわれた軍事行動もチベット、モンゴルの両民族政権を屈服させるには至らず、それどころか[[1933年]]、1942-49年には[[新疆]]省が置かれている[[東トルキスタン]]においても独立共和国の樹立運動が発生するにいたった。 その後、中華民国・[[南京国民政府]]は[[第二次世界大戦]]中の[[1945年]]6月に行なわれた[[ソビエト連邦|ソ連]]との外交交渉において、『ソ連が[[日本]]撤退後の[[満州]]を[[中国共産党]]に渡さず、かつ[[新疆]]の独立運動を鼓舞しないことを条件に、国民投票による外蒙古の独立を大戦後の認める』と主張し、[[モンゴル人民共和国]]に関しては[[1946年]]1月に独立を承認した。([[台湾国民政府]]は[[1953年]]に独立承認を取り消している。詳細は[[中華民国の政治#中華民国の対モンゴル(外蒙古)政策|中華民国におけるモンゴル(外蒙古)の扱い]]を参照のこと)また、チベット、東トルキスタン(第二次[[東トルキスタン共和国]])についても、南京国民政府が[[1949年]]に崩壊状態に陥って台湾へと避難した為、中華民国の統治下に組み込まれることはおこらなかった。 ==中華民国の紀年法== 中華民国では、建国年である[[1912年]]を元年とする[[中華民国暦]](民国[[紀元]])を[[西暦]]と併用しており、今なお使用され続けている(「中華人民共和国」では使用されていない)なお偶然ではあるが、中華民国暦は[[日本]]の[[大正]]および[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[主体暦]]と元年が一致している。 ==関連リンク== *[[中国の歴史]] *[[中華民国の政治]] *[[台湾国民政府]] ==外部リンク== *[http://www.mtac.gov.tw/flash-2.htm 蒙蔵委員会]([[中国語]]、[[英語]]) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月5日 (土) 08:27。]    
'''板東俘虜収容所'''(ばんどうふりょしゅうしょうじょ)は、[[第一次世界大戦]]期、[[徳島県]][[鳴門市]]大麻町(当時、板野郡板東町)に開かれた俘虜収容所。ドイツの[[租借地]]であった[[青島]]で、日本軍隊の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、約1000名を1917([[大正]]6)年から1920(同9)年まで収容した。1917年に建てられ、約2年10ヶ月間使用された。 ==概要== 1917年に丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、合計約1000名の捕虜が収容された。収容所長は[[松江豊寿]][[陸軍中佐]](1917年以後同[[大佐]])。松江は捕虜らの自主活動を奨励した。今日に至るまで日本で最も有名な俘虜収容所であり、捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行ったとして知られている。板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促したとも評価されている。板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後20年余りの日独関係の友好化に寄与した。 板東俘虜収容所は、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生成工場も有し、農園では野菜を栽培。また捕虜の多くが志願兵となった元民間人で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。彼らは自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露した。また、建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている(現在では保存のため通行は不可)。文化活動も盛んで、同収容所内のオーケストラは高い評価を受けた。今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]の [[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所である。このエピソードは[[バルトの楽園|「バルトの楽園」]]として2006年映画化された。 板東俘虜収容所跡地は現在「ドイツ村公園」となっており、当時の収容所の基礎(煉瓦製)や給水塔跡、敷地内にあった二つの池や所内で死去した俘虜の慰霊碑が残されている。また近傍には元俘虜たちから寄贈された資料を中心に展示した「[[鳴門市ドイツ館]]」があり、当時の板東俘虜収容所での捕虜の生活や地元の人々との交流の様子を知ることができる。最近になって倉庫や牛舎になっている当時の建物が発見された。 ==第一次世界大戦期のドイツ人俘虜収容所== ===捕虜収容の経緯=== 1914年、第一次世界大戦で日本軍はドイツの極東根拠地・中国の青島(チンタオ)を攻略した結果、約4700人のドイツ兵が戦争捕虜となった。ドイツ側降伏後すぐに東京では政府により対策委員会が設置され、当時の[[陸軍省]]内部に、保護供与国と赤十字との関係交渉を担当する“俘虜情報局”を開設。捕虜たちは貨物船で同年の11月中に日本に輸送され、北海道を除く全国各地の都市に点在する収容所に振り分けられた。 日本側にとって、ドイツ側の降伏は予想以上に早いものであった。そのため想定以上の人数を収容する必要が生じ、当初は捕虜受け入れの態勢が不十分で、捕虜たちは仮設収容所に収められた。それらは劣悪な環境が多く、食料供給も乏しく、略奪や逃亡者も発生。将校クラスの者たちも特別待遇を受けることはなかった。新しい俘虜収容所の準備が整い次第、彼らは段階的に仮設収容所から輸送されていった。 ===捕虜の処遇と方針=== 陸軍省は、1904/05年にロシア人捕虜に関する規定を決め、捕虜に対する人道的な扱いを定めた。これは1899年の[[ハーグ陸戦条約]]の捕虜規定が適用された最初の例。捕虜及び傷者の扱いは、赤十字国際委員会により人道的であると認められた。しかし一方では地域の駐屯軍の下にいる収容所の指揮官にその処遇の最終的なあり方は依存していたため、収容所側の日本人の態度とドイツ人捕虜内の世論は場所によって様々に異なっていた。しかし同時期の他国の捕虜の扱いと比較しても、日本は収容総数がそれ程多くなかったこともあり、総じて日本側の待遇は十分耐えうるもので、関係機関の指導により環境の改善もなされた。 捕虜の脱走未遂発生のため、1915年以降は戦争俘虜に関する規定が厳格化。また現行の戦時国際法に反し、日本は脱走者に規則上のみならず刑法上でも処罰を課す方針をとったために、再捕捉された捕虜が有罪判決を受けることもあった。脱走計画の黙認、幇助も処罰の対象だったため、収容所の職員たちもまた管理体制を厳しくした。 ====俘虜収容所の生活環境==== :宿舎はたいてい学校、寺院、労働者寮、災害時用の質素な住居、退去後の兵舎で構成されていた。トイレの不足や害虫・ネズミの発生、日本人向けの住居構造ゆえの窮屈さ、寒さ、などが問題点として報告された。将校は単独で別個の家に収容され、一般兵より好待遇を受けた。 ====金銭==== :戦時中、日本にいたドイツ人民間人らは、経済活動は禁じられていたものの、生活の自由は保障されていた。彼らは捕虜となったドイツ人らに援助委員会を介しての物品、金銭援助を行い、本や楽器のための寄付活動も組織した。 :捕虜たちは階級差はあるものの、日本兵と同様に給料を受領。更には周辺地での労働や、親類、以前の勤務先からの振込みなどを通じてお金を調達した。1917年までドイツ政府は将校に月給とクリスマスボーナスも支給していた。 :収容所内には日本人が経営する売店もあり、彼らは自由に買い物ができた。また収容所を出入りする商人からも同様に買い物ができ、アルコール類も生活必需品と同様に入手可能だった。 :板東俘虜収容所内にはレストランも完備されていた。 ====連絡手段==== :手紙や小包は没収、破棄されることもあった。郵便物の発着送は[[検閲]]官の管理下にあったが、手続きは大変煩雑であった。発送を許可されたものはわずかで、規則を順守する形で送られるか、もしくは郵送手段が全て禁止されていた。使用言語が日本語・ドイツ語以外のもの(ハンガリー語など)は郵送は認められなかった。 ====医療==== :医学的処置は不十分だったと言わざるをえないが、病気や怪我などの身体的苦痛と並んで、多くの入院患者は無為な日々と、閉所恐怖症によって引き起こされた精神障害に悩まされた。これは俗にいう“[[有刺鉄線病]]”であったといわれている。1918年の秋には世界中で[[スペイン風邪]]が猛威をふるい、収容所内でも多くの感染者が出た。 ====文化活動==== :演劇団、人形劇団、オーケストラ、スポーツチームなどが結成された。彼ら捕虜の多くが、もともと民間人の志願兵であったため、技術を生かして様々な自治活動を行った。彼らは収容所内の自治活動に参加。菜園管理や動物の飼育、厨房やパン屋も経営していた。また、捕虜らにむけた授業や講演会が多数行われ、東アジア文化コースと題して日本語や中国語の授業も行われた。 :収容所内に設けられた印刷所では、その他にも、“Die Baracke”(ディ・バラッケ)と呼ばれる瓦版の刊行、語学教科書やガイドブック、実用書などが発行された。また全国各地の収容所内や外部施設で、俘虜作品展覧会も行われた。 :音楽に通じた捕虜の何人かは、収容所内外で地元民へ西洋楽器のレッスンを行った。収容所外では徳島市の[[立木写真館]](写真家[[立木義浩]]の実家で、[[連続テレビ小説|NHK朝の連続テレビ小説]]「[[なっちゃんの写真館]]」のモデル)で開催された。 ===海外視察団の巡察と報告内容=== 1916年3月には駐日アメリカ大使は同国の外交官Summer Wallesを派遣し、捕虜らの処遇の調査目的で収容所の視察を実施。詳しい協議が随所で行われた結果、捕虜たちの訴えの多くは正当なものだが、日本側も環境改善に尽力したという結論がだされた。多くの事例に関して、窮屈で不衛生な宿泊環境に関する不満は説得力があり、一部では争点は給食、医療処置、散歩の不足などにも及んだが、状況は収容所によって様々であった。彼は詳細な報告書を作成し、それを元にアメリカ大使が東京であらゆる問題点に関して日本側の代表と協議を重ねた。Wallesは、同年12月に行った二度目の収容所視察ツアーで、ほぼ全ての収容所に関して環境が改善したことを確認している。1917年2月には、アメリカはドイツとの外交関係を解消し、同国の日本でのドイツとオーストリア・ハンガリー帝国の保護供与国としての任務も終了。スイスがドイツの、スペインがオーストリア・ハンガリー帝国の、新たな保護供与国となった。 ===ドイツ人捕虜のその後=== 1919年12月末より翌20年1月末にかけて、[[ヴェルサイユ条約]]の締結により、捕虜の本国送還が行われた。約170人が日本に残り、収容所で培った技術で生計をたて、肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営んだ。現在よく知られている[[ユーハイム]]や[[ローマイヤ]]などは日本に残留したドイツ兵によって創立されたものである。約150人は青島や他の中国の都市に、そして約230人はインドネシアに移住。 一方本国ドイツに帰国した者たちは、荒廃し貧困にあえぐ戦後の状況の中、“青島から帰還した英雄”と歓迎された。収容所の中で“極東文化”に興味を持った者が後にドイツで日本学者、中国学者となる事例もあり、日本語や中国語の教科書が出版されドイツで普及するなど、収容所の影響は学問分野にもみられる。 ==関連項目== *[[板東収容所切手]] *[[鳴門市ドイツ館|ドイツ館]] *[[日本における検閲]] ==参考== Gerhard Krebs,"Die etwas andere Kriegsgefangenschaft.Die Kaempfer von Tsingtau in japanischen Lagern 1914-1920" in: Rudiger Overmanns, ed., In der Hand des Feindes: Kriegsgefangenschaft von der Antike bis zum Zweiten Weltkrieg. Koeln: Boehlau, 1999. ==外部リンク== * [http://homepage3.nifty.com/akagaki/indexb.html チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会] * [http://www.city.naruto.tokushima.jp/germanhouse/ 鳴門市ドイツ館] * [http://www.bart-movie.jp/ 「バルトの楽園」公式HP] * [http://www.niji.or.jp/home/akagaki/index0 丸亀ドイツ兵俘虜研究会] * [http://bando.dijtokyo.org/ 在東京ドイツ日本研究所の板東俘虜収容所に関するオンライン史料館]     [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%BF%E6%9D%B1%E4%BF%98%E8%99%9C%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2008年6月5日 (木) 15:12。]    

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