ヴィシー政権

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'''ヴィシー政権'''('''Régime de Vichy'''、ヴィシーせいけん)は、[[第二次世界大戦]]中の合法的な[[フランス]]の政権([[1940年]] - [[1944年]])。フランス中部の町、[[ヴィシー]]に[[首都]]を置いたことから、そう呼ばれた。'''ヴィシー政府'''、'''ヴィシー・フランス'''ともいい、この政権下の親独的中立政治体制を'''ヴィシー体制'''と呼ぶ。正式国名は、'''フランス国'''(''État français'', エタ・フランセ)。 {{基礎情報 過去の国 |略名 =フランス |日本語国名 =フランス国 |公式国名 =<b lang="fr">État français</b> |建国時期 =[[1940年]] |亡国時期 =[[1945年]] |先代1 =フランス第三共和政 |先旗1 =Flag of France.svg |次代1 =フランス第四共和政 |次旗1 =Flag of France.svg |国旗画像 =Flag of France.svg |国章画像 = |標語 =Travail, famille, patrie |国歌名 =ラ・マルセイエーズ |位置画像 =LocationVichyFrance.png |公用語 =[[フランス語]] |首都 =[[ヴィシー]] |元首等肩書 =[[フランスの大統領|元首]] |元首等年代始1 =1940年 |元首等年代終1 =1944年 |元首等氏名1 =[[フィリップ・ペタン]] |首相等肩書 =[[フランスの首相|首相]] |首相等年代始1 =1940年 |首相等年代終1 =1942年 |首相等氏名1 =フィリップ・ペタン |首相等年代始2 =1942年 |首相等年代終2 =1944年 |首相等氏名2 =[[ピエール・ラヴァル ]] |面積測定時期1 = |面積値1 = |人口測定時期1 = |人口値1 = |変遷1 =成立 |変遷年月日1 =[[1940年]][[6月22日]] |変遷2 =崩壊 |変遷年月日2 =[[1944年]][[8月25日]] |通貨 =[[フランス・フラン|フラン]] |時間帯 =+1 |夏時間 =+2 }} {{フランスの歴史}} == 概要 == [[画像:VichyFlag.svg|thumb|left|200px|軍旗]] [[画像:Philippe Pétain.jpg|thumb|left|200px|首班のアンリ・フィリップ・ペタン元帥]] [[画像:Members of the Maquis in La Tresorerie.jpg|thumb|left|200px|レジスタンスのメンバー]] === 親独的中立政権 === [[1940年]]6月にフランスが、[[ドイツ]]と[[イタリア]]に対し休戦を申し入れた。[[休戦協定]]により、[[パリ]]をふくむ北部と西部をドイツに、[[マルセイユ]]を含む南部をイタリアに[[保障占領]]されたため、首都は[[パリ]]から中部の都市であるヴィシーに移転した。政府首班には、[[第一次世界大戦]]時にフランス軍の指揮を取った[[フィリップ・ペタン]]元帥が高齢の身にも関わらず就任し、副首相にはピエール・ラヴァルが就任した。海外[[植民地]]及び[[海軍]]は降伏前からのものを引き続き保有した。本国の[[陸軍]]は10万人に制限されたが、[[マダガスカル]]や[[仏領インドシナ|インドシナ]]などの植民地軍はこの制限の適用範囲外とされた。 新たに制定された憲法の内容は「全権力をペタン将軍に委任する」の1条のみという、かなりお粗末なもので、その後の政策はドイツの意図に沿うもののみが適用されたため、[[連合国]]側から「傀儡政権」とされ、連合国側の勝利、[[第四共和政]]の樹立とともにそのような評価が一般的となった。しかし、第四共和政以降、政治家や官僚として戦後フランスの政治を支えた人物の中には、[[フランソワ・ミッテラン]]をはじめ、ヴィシー政権下でそのキャリアの最初を送った者も少なくない。 === 内外の反応 === ==== コラボラシオン(対独協力) ==== 多くの[[フランス人]]は、積極的・または消極的にヴィシー政府の統治を受け入れた。一部の人々は積極的な[[コラボラシオン]](対独協力)の姿勢をとり、それ以外の多くの人々はヴィシー政府下の平穏を受け入れて沈黙を続けた。その一方で、少数ながら[[レジスタンス]]活動を始める動きもあったが、本格的なレジスタンス運動が見られるのは戦況がドイツにとって不利になり始めてからである。 ヴィシー政府下での対独協力は、政治・経済・文化面の多岐に及んだ。[[反ユダヤ主義]]が広がる中で「ユダヤ人狩り」が行われ、強制収容所への輸送も担った。ドイツ軍の占領費を支出したほか、安価にフランスの資源をドイツに提供した。親ナチス的な文化人も増加し、ヴィシー政府の統治やナチスの占領政策を支えることになった。軍事的には公式な協力はなかったものの、自発的な民兵団のなかにはナチスの武装親衛隊に組み込まれるものもあった。 ====レジスタンス==== ヴィシー政府成立後まもなくのレジスタンス運動は、限られた一部の運動でしかなかったし、その統率を欠いていた。海外に逃れた勢力においても、ロンドンのド・ゴールとアルジェのジローの間には反目がみられたし、国内のレジスタンス運動においても政治的信条をめぐり結束は実現しなかった。国内と海外の結びつきもこの段階では弱かった。こうした状況が変化するのは1943年以降となる。所謂“レジスタンス”神話は、戦後になってド・ゴール政権が自己の正統性の根拠として過大に作られたものがほとんどであるという意見もある。 ====連合国の対応と戦況==== ヴィシー政府は苛酷なドイツとの休戦協定を受け入れて対独協力体制を築き上げたが、[[主権国家]]としての体裁は一応維持することができた。「休戦監視軍」の名のもとに一定の軍事力を保有し、[[自由フランス]]側についた[[フランス領赤道アフリカ]]や[[ニューカレドニア]]などを除く大部分のアジア・アフリカに広がる広大な[[フランス植民地帝国|植民地]]はヴィシー政権に引き継がれた。(ただし[[仏領インドシナ連邦]]においては日本の[[仏印進駐]]を許した。)このため、[[イギリス]]を除く主要国はヴィシー政府を承認する態度をとった。 一方で、軍人[[シャルル・ド・ゴール]]は、フランスの休戦に同意せずイギリスに逃れ、[[ロンドン]]に亡命政権の[[自由フランス]]を樹立した。しかし、国際社会での評価は芳しくなく、国内でレジスタンス運動を展開していた一部の勢力からも否定的な評価を受けていた。(自由フランス政府は、フランス共産党・フランス社会党からも1943年までは認められていない。)[[アメリカ合衆国]]はペタン率いるヴィシー政府と外交関係を結び、ド・ゴールの亡命地であったイギリスも、こうした合衆国の外交政策に追従し総じてド・ゴールには冷淡であった。軍事面でも自由フランス軍は米英軍の作戦から除外され、戦時中の[[テヘラン会談]]・[[ヤルタ会談]]といった主要な首脳会談でもメンバーから除外された。 ヴィシー政府は合法的なフランス政府として“脱走兵”のド・ゴールを本人欠席の軍事裁判において重刑に裁いた。戦争後半になり、連合国軍が[[北アフリカ]]に上陸し、[[アルジェリア]]などのフランス植民地を占領するにおよび、ドイツは[[1942年]]11月、フランス全土を占領した。イギリス軍がフランス軍艦艇を攻撃([[メルセルケビール海戦]]、ドイツに渡さないための攻撃)したため、初期において反英気分があった。[[1940年]]9月に[[ダカール沖海戦]]、11月に[[イギリス]]、自由フランス連合軍が[[ガボン]]に侵攻、[[1941年]]7月には[[シリア]]、[[レバノン]]に侵攻、[[1942年]]5月から11月には[[マダガスカルの戦い|マダガスカル]]に侵攻した。[[トーチ作戦]]の際には対ヴィシー政権軍への配慮により自由フランス軍は作戦からはずされた。このとき、ヴィシー政府軍がほとんど抵抗せず米英軍の[[北アフリカ]]上陸を許したため、ドイツ軍は南フランスにも進駐した。その後、政変で親独性が強まると反独機運が高まった。 === 枢軸国との関係 === [[日本]]や[[満州国]]、[[イタリア]]などの[[枢軸国]]各国はヴィシー・フランスを[[国家の承認|承認]]しており、日本はヴィシー政権との協定をもとに、フランス領[[インドシナ]]に進駐([[仏印進駐]])した。その後の[[1944年]]に行われた[[連合国]]軍によるフランス解放ならびに、[[シャルル・ド・ゴール]]によるヴィシー-日本間の協定無効宣言が行われた後、[[1945年]]3月に日本軍によるインドシナ政庁をめぐる[[クーデター]]([[明号作戦]])が起きるまで、インドシナ[[植民地]]におけるフランスの主権は存続した。 == 参考文献 == * 渡辺和行『ナチ占領下のフランス <small>沈黙・抵抗・協力</small>』([[講談社]]選書メチエ、1994年) ISBN 4-06-258034-9 ==関連書籍== * ジャン・ドフラーヌ 著\大久保敏彦・松本真一郎 訳『対独協力の歴史』([[白水社]]文庫クセジュ、1990年) ISBN 4-560-05705-2 * ロバート・O・パクストン 著\渡辺和行・剣持久木 訳『ヴィシー時代のフランス <small>対独協力と国民革命 1940-1944</small>』([[柏書房]]パルマケイア叢書、2003年) ISBN 4-7601-2571-X * 長谷川公昭『ナチ占領下のパリ』([[草思社]]、1987年) ISBN 4-7942-0264-4 == 関連項目 == * [[フランスの歴史]] * [[アクション・フランセーズ]] * [[火の十字団]] * [[自由フランス]](ド・ゴールの反独的亡命政権) * [[ココ・シャネル]] * [[カサブランカ (映画)|カサブランカ]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%BC%E6%94%BF%E6%A8%A9 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月4日 (月) 19:57。]     

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