李氏朝鮮

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{| cellpadding=2px cellspacing=0px bgcolor="#efefef" style="float:right; border:1px solid; margin:4px" |- !style="background:#ACE1AF;text-align:center;border-bottom:1px solid" colspan=2|李氏朝鮮/李朝 |- !style="border-bottom:1px solid" colspan=2| [[朝鮮語]]表記 |- | align=right style="border-top:1px solid"| [[ハングル]]: | width="200" style="border-top:1px solid"| <span lang="ko">조선(왕조)시대</span> |- | align=right style="border-top:1px solid"| 朝鮮の[[漢字]]: | width="200" style="border-top:1px solid"| 朝鮮(王朝)/李朝(封建)時代 |- | align=right style="border-top:1px solid"| [[片仮名]]転写: | width="200" style="border-top:1px solid"| チョソン(ワンジョ)/リジョ(ボンゴン)シデ |- | align=right style="border-top:1px solid"| [[ラテン文字]]転写: | width="200" style="border-top:1px solid"| Joseon/Chosŏn Wangjo |- !style="border-bottom:1px solid; border-top:1px solid" colspan=2 | [[中国語]]表記 |- | align=right style="border-top:1px solid"| [[繁体字]]: | width="200" style="border-top:1px solid"| 李氏朝鮮/李朝 |- | align=right style="border-top:1px solid"| [[簡体字]]: | style="border-top:1px solid"| 李氏朝<font lang="zh">鲜</font>/李朝 |- | align=right style="border-top:1px solid"| [[ピンイン]]: | style="border-top:1px solid"| lǐshì cháoxiǎn/lǐcháo |- !style="border-bottom:1px solid; border-top:1px solid" colspan=2 | [[英語]]表記 |- | align=right style="border-top:1px solid"| [[アルファベット]]: | width="200" style="border-top:1px solid"| Joseon Dynasty |- |} '''李氏朝鮮'''(りしちょうせん、[[1392年]] - [[1910年]])は、[[朝鮮半島]]の最後の[[王朝]]。'''李朝'''(りちょう)とも言う(李王朝の意)。[[高麗]]の次の王朝。 現在の[[大韓民国]](だいかんみんこく)では、李氏朝鮮が統治していた時代を「'''朝鮮時代'''」(ちょうせんじだい)、李氏朝鮮の王室を「'''朝鮮王朝'''」(ちょうせんおうちょう)と言う。 1392年に高麗の武将[[李成桂]](太祖)が[[恭譲王]]を廃して、自ら高麗王に就いたことで成立した。李成桂は翌[[1393年]]に[[中国]]の[[明]]から「'''権知朝鮮国事'''」(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられ、[[国号]]を'''朝鮮'''と改める。明から正式に朝鮮国王として[[冊封]]を受けたのは[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の治世の[[1401年]]であった。 [[日清戦争]]で[[日本]]が勝利したことにより、日本と[[清|清国]]との間で結ばれた[[下関条約]]は朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と独立をもたらした。これにより朝鮮は[[1897年]]に国号を'''[[大韓帝国]]'''(だいかんていこく、通称・'''韓国''')、[[君主]]の号を[[皇帝]]と改めた。しかし、これ以後日本の強い影響下に置かれることとなり、韓国の主権は次第に日本に接収されてゆく。そして1910年8月の[[日韓併合条約]]調印によって日本に[[韓国併合|併合]]され、ここに李氏朝鮮は消滅した。 == 国名 == {{朝鮮の歴史}} 正式の国号は'''朝鮮國'''(ちょうせんこく)。 高麗王位を簒奪して高麗王と称した太祖李成桂は、即位するとすぐに[[権知高麗国事]]と称して[[明]]に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。 明より、王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、新王朝の国名に「朝鮮」と「和寧」の2案を挙げ、明がこれに応えて李成桂を「権知朝鮮国事」に封じたことにより朝鮮を国号とした。ちなみに和寧と言うのは李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかったとの意見が多い。 朝鮮半島には[[衛氏朝鮮]]などの[[朝鮮]]を国号に持つ王朝がかつて存在したので、日本ではそれらと区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつある<ref>文部科学省は[[2002年]]の教科書検定において「李氏朝鮮」という呼称について「表記が不適切」という意見をつけた。意見をつけた理由を、日本における学術研究の成果を反映したため説明し、特に朝鮮史学界での呼び方にならったことを強調した。日本経済新聞2002年4月10日朝刊。[[朝鮮#脚注]]参照。</ref>。 [[大韓民国|韓国]]では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は[[植民地史観]]に基づくものとされるため、国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた時代は「'''朝鮮時代'''」、李氏朝鮮の王室は「'''朝鮮王朝'''」と呼ぶ。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は[[古朝鮮]]と呼び区別している。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。[[朝鮮民主主義人民共和国]]では歴史教育の場で封建統治者を批判する時に限ってのみ「李氏朝鮮封建統治輩」「李朝封建国家」という言葉を使用している。 [[1897年]]、清の冊封体制からの離脱・独立の後に国号を'''[[大韓帝国]]'''と改称した。その略称は'''韓国'''である。 == 歴史 == 李氏朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から[[端宗 (朝鮮王)|端宗]]までの王道政治の時代([[1393年]] - [[1455年]])、[[世祖 (朝鮮王)|世祖]]の王権纂奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代([[1455年]] - [[1567年]])、[[士林派]]による朋党政治([[1567年]] - [[1804年]])、安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政治([[1804年]] - [[1910年]])の区分に分けられる。 一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが[[明]]の朝貢国であった時代([[1393年]] - [[1637年]])と、[[清]]の朝貢国であった時代([[1637年]] - [[1894年]])、清と欧米の列強および日本が朝鮮に対する影響力をめぐって対立した末期(19世紀後半 - [[1910年]])という3つの時代区分に大きく分けられる。 第1の区分の末期には、[[文禄・慶長の役]](韓国名[[倭乱]])と胡乱([[後金]](のちの清)による侵攻)と言う大きな戦争が朝鮮半島内で発生しており、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、清の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え([[小中華思想]])や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想([[事大主義]])や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する[[中華思想]]などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮[[朱子学]]の発達が進んだ。その後は[[儒教]]内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。 [[画像:Coree.jpg|thumb|250px|[[ジョルジュ・ビゴー]]による当時の風刺画(1887年)</br>日本、中国、ロシアが互いに釣って捕らえようとしている魚が朝鮮を示している]] 19世紀末期になると、欧米列強や[[大日本帝国|日本]]、清などの介入が起こる。結局1894年の日清戦争で日本と清が戦って日本が勝ち、清との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下におかれ、朝鮮は第3の区分に入った。 しかしこの時代は、国内的にはロシアと日本の対立に巻き込まれ、それに派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥っていった。親日路線をとる派は、親[[ロシア帝国|ロシア]]派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも親日派や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。[[日露戦争]]で日本勝利後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の[[李完用]]などは日本が韓国を[[保護国]]化・併合する方針を採り、[[一進会]]は「韓日合邦」を主張した。[[日露戦争]]後の[[第二次日韓協約]]で日本は韓国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。[[1910年]]に日本と韓国は[[日韓併合条約]]を結び、ここに韓国は消滅した。 李氏朝鮮時代の特徴は500年の長きにわたって続いた[[儒教]]道徳に基づく統治である。これは一面では身分制度を強固なものとし、誤った差別意識を助長したり、現実に沿わない外交、内政を支配者に行わせる原因となった。その一方で儒教は高麗末期の腐敗仏教を打破し、また王朝後期には革新思想が生まれてきたように知識人が政治や社会の変革を考える要因ともなった。儒教の影響力がかなりの程度減じた現在の韓国、北朝鮮でも、このような儒教の二面性は形を変えつつ存続しているとされている。文化的には[[高麗青磁]]を受け継いだ[[李朝白磁]]があり、前代の華麗さに対して優美さを基調としたものと評価されている。儒教道徳を曲解した支配者からの差別も非常に根強かったが、白磁は李朝を通じて優れた職人達の手を通じ堅実な発展をみせ、日本の陶磁器にも大きな影響を与えた。 === 建国と混乱 - 太祖から端宗まで === [[13世紀]]以来、[[元 (王朝)|元]]の属国となっていた[[高麗]]は、元の衰退に乗じて独立を図るが、[[北元]]と[[明]]の南北対立や[[倭寇]]の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。 [[1388年]]、高麗の武将、李成桂は明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ[[鴨緑江]]に布陣したが、突如軍を翻して[[クーデター]]を起こし、高麗の首都[[開城]](開京)を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。 遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王([[王ウ (高麗王)|{{lang|ko|禑王}}]]({{lang|ko|禑}}は示禺))に対してその不当性を主張し、これを廃して[[王昌 (高麗王)|昌王]]を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、[[事大主義]]だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。 こうして、高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使い、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。だが、昌王の即位に対しては李成桂の同志でライバルでもあった曺敏修との間で対立があり、李成桂は昌王を廃位し、[[1389年]]に最後の王恭譲王を即位させた。その際、先々代と先代の{{lang|ko|禑王}}と昌王は殺された。このとき既に、家臣の中には李成桂を王位に就けようという動きが有ったが、李成桂はこの時は辞退している。だが、やがて李成桂を王にしようとの勢力は次第に大きくなり、この勢力に押されて、[[1392年]]に恭譲王を廃位し、自らが高麗王になった。王位から追い出された高麗王家の王一族は、都を追い出され、2年後の[[1394年]]に李成桂の命令でことごとく処刑されている。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、その難を逃れようと多くの者は改姓をしたと言われている。全氏や玉氏、田氏などは姓を変えて難を逃れた王氏の一族であると言われていた。 高麗王として即位し、王制などもそのままであったが即位後、明へ[[権知高麗国事]]と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。明より、王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王の{{lang|ko|禑王}}、昌王を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の[[1393年]]2月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を権知朝鮮国事(朝鮮王代理)に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えていたものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は、李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位して王朝交代したことを快く思わなかった。それゆえ李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、権知朝鮮国事のみが認められた。 '''朝鮮'''に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また[[ソウル特別市|漢陽]](今のソウル)への遷都を進めた。崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策をとり、儒教の新興と共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。 李成桂は、新王朝の基盤を固めようとしたが、意外なところから挫折することになる。李成桂は自分の八男である李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。[[1398年]]に起きた[[第一次王子の乱]]により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男の李芳遠(後の[[太宗 (朝鮮王)|太宗]])により殺されてしまう。このとき李成桂は病床にあり、そのショックで次男の李芳果に譲位してしまう。これが第2代[[定宗 (朝鮮王)|定宗]]である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから[[1400年]]には四男の李芳幹により[[第二次王子の乱]]が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。 一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代太宗として即位する。太宗は、内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を取った。また、李氏朝鮮の[[科挙]]制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備されていくのもこの時代である。 明に対しては徹底的な親明政策を取り、[[1401年]]には明から正式に朝鮮王の地位に冊封されることになる。また、[[倭寇]]対策に対しても積極的な政策を取ることになる。太宗は、[[1418年]]に世宗に王位を譲り上王になったが、軍権はそのまま維持し、[[1419年]]の[[応永の外寇]]の指示にも当たっている。 次代の[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]、いわゆる世宗大王の時代が、李氏朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で[[1422年]]まで太宗が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず政治制度を王の一極集中型から[[議政府]]を中心にした官僚主導の政治に切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在の[[ハングル]]の元になる[[訓民正音]]の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に[[貨幣]]経済の浸透がすすんでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、[[1437年]]には[[豆満江]]以南の[[女真]]地域を侵攻し制圧、六鎮を設置して支配した。その後も、女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。 第6代の[[端宗 (朝鮮王)|端宗]](第5代[[文宗 (朝鮮王)|文宗]]の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決済する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、度々宮廷闘争などが頻発する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君はたくみに勢力を拡大し、[[1455年]]に端宗から王位を強制的に剥奪し、自らが王位に就く。これが[[世祖 (朝鮮王)|世祖]]である。 === 勲旧派と士林派の対立と士禍 - 世祖から明宗まで === 世祖が王位につくと反対勢力を排除し、王権を自らの元に集約する。軍政や官制の大幅な改正を行い、軍権を強めると共に[[職田法]]を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発する様になる。世祖は逆にこの反乱を鎮圧し、中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策をとり外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。また批判勢力を弾圧し、自らに服従する功臣達を優遇した。これらの世祖に優遇された功臣達は後に[[勲旧派]]と呼ばれる様になる。また、[[儒者]]の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。 世祖が亡くなった後は、幼い王や[[夭折]]する王が続いたため、国政は安定しなくなった。また、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断していたが、[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の時代になると[[士林派]]勢力を取り入れるようになり、これに脅威を感じた勲旧派や外戚と士林派勢力の対立を産むことになる。成宗の在位は[[1469年]]から[[1494年]]までの25年と長く、政治的には一応の安定を見た。しかし成宗が亡くなり[[燕山君]]が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、[[1567年]]まで続くことになる。 燕山君は、口うるさい士林勢力を鬱陶しく思っており、それと勲旧勢力による諫言などもあり、それが、[[1498年]]の最初の[[士禍]]、'''[[戊午士禍]]'''と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・金宗直を始め多数の士林派が王宮から追放された。その後も[[1504年]]の'''[[甲子士禍]]'''で士林勢力の大量殺戮を行い、この勢力を殺ぐ事につとめていた。だが[[1506年]]、朴元宗らのクーデターにより、燕山君は廃位、そして追放された。 次代[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中で、朝鮮居住の対馬の民などによる[[三浦の乱]]が、[[1510年]]に起きている。中宗は、最初士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった[[趙光祖]]の改革があまりに性急であるため中宗は却って不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、[[1519年]]に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ('''己卯士禍''')、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。[[明宗 (朝鮮王)|明宗]]が即位した年の[[1545年]]には'''乙巳士禍'''が起きている。 この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を四大士禍と呼ぶ。 === 朋党政治の始まり - 宣祖から光海君まで === [[1567年]]の宣祖の即位により、士林勢力が最終的に勝利を収め士林派が中心となって政治を行う時代が始まる。しかし、士林勢力は[[1575年]]には[[西人]]と[[東人]]と呼ばれる2つの勢力に分裂し、主導権争いを続けるようになった。この時代に見られる派閥に別れて論争を繰り広げる政治体制の事を[[朋党政治]]と呼ぶ。しかし、党派の分裂は再度の政局混乱を呼び、各王はその安定を求めて様々な施策を試みなければならなくなった。 東西に別れた士林派はお互いを牽制していたが、[[李珥]](李栗谷)がこの対立を抑えている間は両党派とも目立った動きは起こさなかった。[[1584年]]に李珥が亡くなると両党派ともに政治の主導権を抑える為に活発な動きに出る。当初は東人有利に進んでいたが、朝廷をほとんど掌握しかけたところで、[[鄭汝立]]の謀反事件が起こり、西人が主導権を握るようになる。しかし[[1591年]]に世子冊立の問題で西人が失脚すると東人が勢いを盛り返し、以後30年に渡って政権を掌握した。しかし東人は、西人勢力の処罰の件で、死刑などを主張した強行派の[[李山海]]を中心とした[[北人]]と穏健派の[[禹性伝]]を中心にした[[南人]]の2つの派閥に分裂してしまう。 一方その頃、日本を統一した[[豊臣秀吉]]は更なる勢力拡大の野望を持っており、大陸への進出のために、秀吉は[[1589年]]、対馬を通じて、日本に服属し明征討の為の先鋒となり道を貸して欲しいと外交を取り始めた。朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため[[1590年]]3月、[[西人]]の黄允吉を正使、[[東人]]の金誠一を副使とし、通信使を送ることにした。この使節が日本に滞在している間に、朝鮮内の勢力は西人優勢から東人優勢に変化しており、そのことがその後の判断に影響を与えてしまう。[[1591年]]3月に通信使が帰朝すると正使・黄允吉は、「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告したのに対し、副使・金誠一は正反対の「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。相反する報告を受け取った為、西人・東人ともに自派の意見を擁護し論戦になったが、このとき既に東人が朝廷を掌握していたことと王自身が戦争を心理的に忌避していたことなどから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、一切の防衛準備を放棄し、またそれに準じる行為も禁止した。しかし[[1592年]]になり、朝鮮の倭館に居た日本人が次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、防衛準備を始めるが、時既に遅しであった。 [[1592年]][[4月13日 (旧暦)|4月13日]]、[[文禄の役]]が発生した。体制の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ね、豊臣軍に国土を制圧された。豊臣軍は開戦半月で首都[[ソウル特別市|漢城]]を攻略し、数ヶ月で朝鮮の[[咸鏡道]]北辺まで進出した。当時腐敗が進んでいた朝鮮政府は有効な手立てを打てず治安悪化により全土で国土は疲弊した。それに対して危機感と、日本への反感を持った義勇兵が民衆より立ちあがり、抵抗を開始した。また明の援軍が進出すると日本軍は交渉解決へ移行して戦線が膠着し、翌年、日本と明は和議交渉の過程で朝鮮南部の沿岸へ一旦兵を引き上げた。しかし、和議は失敗に終わり、[[1597年]][[1月15日 (旧暦)|1月15日]]、日本は再び朝鮮半島へ侵攻する([[慶長の役]])が、2回目の侵攻では全羅道と忠清道への掃討作戦を行い、明軍が漢城を放棄しないと見ると越冬と恒久占領の為に休戦期の3倍ほどの地域へ布陣した。翌年から本土で指揮を執っていた秀吉の健康が損なわれて消極的になり、泥沼状態になった戦争は秀吉の死去によってようやく終結し、日本軍は引き上げた。 しかし、この7年に及ぶ戦乱により、腐敗が進んでいた朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、また経済的にも破綻寸前の状態に陥った。そのため朝鮮王朝は増収案として「納栗策」を提案した。これは、穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策である。賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば[[両班]]になれることとなった。この制度によって李氏朝鮮の身分制度は大きく流動し、その構成比率は大幅に変化した。古い体制は崩れ新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新された。政治には再び活気が蘇った 一方、この戦争に[[明]]は多大な出費を余儀なくされ、国力の弱体化をもたらした。これは周辺異民族への明の抑えが効かなくなると言う事でもあり、[[女真|女真族]]の勢力伸張をもたらし、後の胡乱や明滅亡の遠因になった。 また、多大な被害をもたらした戦争は終わり、政権の腐敗なども改善があったものの朝鮮王朝の中では政争は止むことは無かった。その中でも特に問題になっていたのが宣祖の世子(跡継ぎ)問題である。世子問題は文禄の役直前の[[1591年]]から激しくなっていたが、戦争の最中も続いていた。長男の[[臨海君]]は世子にふさわしくないと言う理由で排除され、[[光海君]]を世子とすることに決まったが、[[1594年]]に明から世子冊封の要請を拒絶されたため、再び世子問題は中に浮いたままになった。[[1606年]]、正妃の仁穆王后が永昌大君を産むとまた世子問題が再発し、光海君派と永昌大君派に別れての派閥争いが起こった。北人の中の小北と呼ばれる一派は、永昌大君派は正妃の嫡子であるからこれが正統であるとし、いま一方の大北は、光海君を世子として擁立するよう働きかけた。[[1608年]]、宣祖が重病に陥ると周囲はあわただしくなり、後継王を決めないまま宣祖が亡くなった為、現実的な選択肢として光海君が王位につくことになった。 光海君は、即位すると破綻した財政再建と現実的な外交施策を展開し、また党争の終結に力を入れようとしていた。しかし党争終結の為に王権を強化するには大規模な粛清を行わざるをえなかった。その範囲が反対派閥、兄弟にまで及んだ[[1615年]]まで続く粛清によって、大北派と光海君は一応の政権の安定を確保する事になる。一方で弱体化した明とそれに乗じて伸張してきた[[後金]](清)の間に挟まれ、二極外交を展開することになる。一方、既に[[江戸時代]]に移行していた日本とは[[1609年]]に和約し、日本との外交関係の修復にも力を入れた([[朝鮮通信使]])。また、民政では[[大同法]]を導入するなどの改革を行った。しかし、光海君の性急な財政再建策や粛清は民衆や大北以外の西人や他の派閥、他の王族や二極外交に反対する保守的事大主義者などの恨みを買うことになり、[[1623年]]、クーデターによって廃位に追い込まれる。 [[1623年]][[2月12日 (旧暦)|2月12日]]、光海君の甥にあたる綾陽君と西人を中心とした勢力によって、光海君は宮廷を追放され廃位に追い込まれた。西人勢力は大北勢力を宮廷から追放し、綾陽君を擁立し、[[仁祖]]として即位させた。この事件を[[仁祖反正]]と言う。 === 清への従属と換局・蕩平策 - 仁祖から正祖まで === 仁祖と西人派はクーデターの後、大北派の粛清を行い、これによって北人の勢力は小北派の一部を除いてほぼ消滅する。そして、西人を主とし南人を副とする党派体制を確立することで政局の安定を試みた、一方外交政策は、明と後金の二極外交から、親明背金の親明外交を展開した。しかし、この政策が逆に裏目に出てしまう。 仁祖即位後、すぐの[[1624年]]には、{{lang|ko|李适}}による反乱事件、{{lang|ko|李适}}の乱が起こっている。この反乱は、仁祖が一時期漢城から避難するほどのものであり、北方の正規軍を乱の平定のために投入しなければならなかった。この後仁祖は国防対策を見直し、北方と沿岸地域の防衛力を強化し、[[1628年]]に漂着した[[オランダ]]人ペルテブレより、[[大砲]]を導入するなど軍事力強化の施策を行った。 しかし、軍事力強化の施策を行い始めた矢先に、二極外交を破棄された後金は、まず[[1627年]]、3万の兵力で朝鮮に侵入した([[丁卯胡乱]])。朝鮮側は、破竹の勢いを続ける後金軍を相手に敗北を重ね、仁祖は一時[[江華島]]へ避難することになった。その後、朝鮮側の反撃により戦局が膠着し始めると、打開の策を持たない朝鮮側と補給に難を抱えていた後金側は結局講和を行う事になった。だが後金の提示した条件に対し、主戦派の斥和論と講和派の主和論を巡って論争が繰り広げられた。既に後金と戦う余力が無い朝鮮側は、結局講和を呑むことになり、後金を兄、朝鮮を弟とする条件を呑む代わりに朝鮮は明には敵対しない事を条件に講和した(丁卯約条)。講和が成立すると、一旦金軍は撤収する。 [[1636年]]、後金は[[清]]と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた。この時は斥和論が伸張しており、朝鮮がこの条件を拒むと、同年、清は太宗([[ホンタイジ]])自ら12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した([[丙子胡乱]])。朝鮮側は[[南漢山城]]に籠城したものの、城内の食料は50日分ほどしかなく、その中で主戦派と主和派に別れての論戦が繰り広げられていた。しかし、江華島が攻め落とされたと言う報告が届くと45日で降伏し、清軍との間で和議が行われた。この和議の内容は清に服従すること、明との断交、朝鮮王子を人質として送ること、莫大な賠償金を支払うなど11項目に及ぶ屈辱的内容であり、三田渡で仁祖はホンタイジに対し[[三跪九叩頭の礼]](三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をし、清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった([[大清皇帝功徳碑|三田渡碑]])。この清に対する服属関係は[[日清戦争]]の[[下関条約]]が締結され、朝鮮が清王朝を中心とした冊封体制から離脱する[[1895年]]まで続くことになる。 三田渡の屈辱により仁祖は逆に「反清親明」路線を強く出し、滅亡寸前の明へ一層事大していった。政治・経済・外交とも混乱の極みの時代ではあったが、この時代には、宋時烈・宋浚吉などの学者を輩出し、朝鮮朱子学である[[性理学]]の大きな発展が見られた。しかしこれらの朱子学は逆に党争をかき立て、政治を混乱に巻き込んでいってしまった。 一方経済政策では、経済が破綻したため崩壊しかけていた貨幣経済の立て直しを図る事になる。貨幣の材料である銅を日本に依存していた為、慶長の役以降はまともな貨幣が造れない状態が続いていたが、仁祖は、貨幣としての価値を失った「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を流通させ、貨幣経済の流通を促そうとした。しかし、後の2つの胡乱などで思うように進まなかった。再び充分な量の貨幣が流通し出すのは[[1678年]]の[[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]の時代に入ってからになる。 次代の[[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]の時代に入ると反清論はさらに高まり、[[北伐]]論が持ち上がり、軍備の増強が進められた。しかし、征清の機会は訪れないまま北伐は沙汰止みに終わった。この時期、[[ロシア]]が満州北部の黒竜江まで勢力を広げており、清の要請に応じ、征伐のための援軍を派遣している。 清の中国での覇権が確立した第18代[[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]の時代に入ると、社会的には平穏な時代が続く。しかし発達した朝鮮朱子学が禍となり、西人と南人により礼論と呼ばれる朝廷儀礼に関する論争を原因とする政争が政局の混乱をもたらした。その中でも服喪期間に対する論争で、西人派が勝利し、南人派は勢力を殺がれた。顕宗は終わり無きこの論争を止めさせるため、[[1666年]]に服喪期間に関する取り決めを行い、これ以上論争を起こした場合は厳罰に処すと取り決めた。だが[[1674年]]に孝宗妃の仁宣王后が亡くなると再び服喪期間の論争が巻き起こり、今度は逆に西人派が失脚し南人派が朝廷を掌握する様になる。 次代、粛宗の時代に入ると党派政争はさらに激しくなり、その対策として粛宗は礼論を逆手にとり、わざと政権交代を繰り返す換局政治を行う事で、党派勢力の弱体化と王権の拡大を試みた。[[1680年]]の庚申換局で西人に権力を掌握させると、[[1689年]]には、己巳換局で今度は南人の手に政権が移った。[[1694年]]の甲戌換局で再度西人に権力が移るという具合であった。その後西人は[[老論]]と[[少論]]に分裂することになる。その間に粛宗は、胡乱以来続いていた民政の安定を図り大同法の適用を拡大し、社会の安定に力を入れた。また常平通宝の鋳造・流通を行うなど経済政策にも力を入れた。また、この時代には清との間での領土問題や日本との間に[[鬱陵島]]とその周辺の島々をめぐる帰属問題が起きた。[[江戸幕府]]は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。猶現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張しているため争点となっている。 [[1720年]]に粛宗が亡くなると再び党争は激化し、老論と少論の間での政争は絶え間なく続いた。[[景宗 (朝鮮王)|景宗]]が即位すると、主力勢力であった老論が権力争いに敗れ、少論が政局を握った。政権を奪った少論派は[[1721年]]から[[1722年]]に渡って、老論の粛清を行った(辛壬士禍〈壬寅の獄〉)。 景宗は短命で亡くなり、[[1724年]]に第21代王として即位した[[英祖 (朝鮮王)|英祖]]は熾烈な党争を抑えるために、蕩平政治を行う事になる。党争を抑える為に、要職に付く者を各党派からバランス良く登用する事で、政争を抑え、王権を強くするという政策である。蕩平策は始め老論、少論を中心に人材登用していたが、[[1728年]]には朝廷から追放された少論、南人派による[[李麟佐の乱]]が起きるとそれを逆手にとり、南人、小北にもその適用を拡大し、これら4党派を均等に登用する事で政治のバランスを取ろうと試みた。各党派は自己の党勢の拡大のため、様々な策を弄してこれに対抗したが、英祖は逆に蕩平策を強化し、同党派同士の婚姻の禁止、蕩平科の設置など、更に蕩平策を強化していった。これらの政策によって王権は強化され、政治は安定を見ることになる。 その裏で各派は、世子問題などを利用して主導権を握ろうとの計略を何度も実行していた。その代表的な事件が[[荘献世子事件]]である。[[1762年]]英祖が、健康上の理由で[[荘献世子]]に公務の代理を務めさせようとすると、南人・少論・小北の勢力は荘献世子側に付き、老論の勢力はこれに反発する継妃の貞純王后などを巻き込み、英祖との離間策を試みた。この策は上手くはまり、荘献世子は精神を病んでしまい異常行動を取るようになった。それに怒った英祖は自決を命じ、最終的に荘献世子は庶民に落とされ、米びつに閉じこめられ餓死させられる。事件後、荘献世子には思悼と言う諱号が送られた。この事件を深く悔やんだ英祖は蕩平策をさらに強めるが、朝廷内の党派はさらに分裂を生じ、荘献世子の死は正統であるとする老論を中心とした[[僻派]](時流に逆らう派閥という意味)とその死に同情し、不当とする南人を中心とした[[時派]]に別れ、それぞれの党派がどちらかに属すなど、党派の分裂はさらに混乱を極めた。 なお、この時代の[[1763年]]には日本へ赴いた朝鮮通信使が[[サツマイモ]]を持ち帰っており、飢饉時の食糧対策として取り入れられた。 英祖の晩年になると、水面下で行われていた党争は再び表面に現れて来る。英祖の治世期間は52年と非常に長く、次代の[[正祖]]の時代に入ると新たな局面を迎える。謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、[[1776年]]、王位につくと反対勢力の排除を始め、自らの側近で朝廷内を固めた。その代表格が[[洪国栄]]であり、洪国栄が実際の政務を取り仕切っていた。この時代を洪国栄の勢道政治の時代と呼ぶ。しかし[[1780年]]王妃毒殺未遂事件が発覚すると洪国栄は追放され、正祖による文化政治が行われる。基本的には英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった。英祖晩年に劇的に構成が変化した党派、僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた。正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正統とする僻派勢力よりも父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。しかし、僻派と時派による政治的党争は続いたままであった。 この頃に中国を経由して[[カトリック教会|カトリック]]が流入してきており、そのカトリックの儀式が[[儒教]]の儀式と相反する事から、このことが党争の争点となってくる。僻派はカトリック葬礼などの儀式は儒教の礼儀に反するものだと攻撃し、攻西派を形成した。一方、時派勢力はカトリックを黙認したり、受容するなどの動きを見せ信西派の勢力を形成した。この問題は朝廷でも問題になってきており、[[1791年]]に最初のカトリック弾圧事件(辛亥邪獄)が起きた。この事により、攻西派の僻派は徐々に勢いを取り戻してくる。[[1795年]]に中国人神父の密入国事件が起きると、更に僻派は勢いを増し、蕩平政治は崩壊する。信西派の多い南人勢力はほとんど追放されてしまい、老論僻派のみが朝廷に残っているという状態であった。 この時代は英祖の50年以上にわたる文化政治と清からの西洋文明の流入も相俟って、文化的発展を見た時代でもあった。しかし党争の激しい朋党政治は行き詰まりを見せ、既に崩壊寸前であった。朝鮮は大きな岐路に立っていた。 === 安東金氏の勢道政治 - 純祖から哲宗まで === [[1800年]]、[[純祖]]は10歳で即位したため、英祖の継妃であった貞純王后が代わりに執政を行った。貞純王后は蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優先する政策を採った。そのために蕩平支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用して僻派政権を樹立させる。一方で、[[1801年]]、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した(辛酉邪獄)。この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。カトリックへの弾圧はこの後も[[1815年]]、[[1827年]]、[[1838年]]など、断続的に行われた。 [[1802年]]、[[金祖淳]]の娘が王妃になる。[[1804年]]、14歳になった純祖による親政が始まった。金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で貞純王后の士禍から逃れることが出来た。[[1805年]]貞純王后が亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行うようになり、貞純王后によって登用された僻派の要人を大量追放する。その一方で、王の政治を補佐するとの名目で、自分の[[本貫]]である安東金氏の一族から大量に人材を登用する。このことで士林派による政治は終焉を迎え、金祖淳を筆頭にした安東金氏が政治を壟断する[[勢道政治]]の時代が始まる。 安東金氏による政治の専横が始まると、官職から追放された[[両班]]があぶれ、また政治綱紀が乱れ汚職・収奪などの横行が頻繁に起こるようになり、農民反乱が頻発するようになる。そのなかでも大きな反乱が、[[1811年]]に起きた[[洪景来の乱]]である。これは農民だけでなく、西北地方への地域差別に対する反発や没落両班、新興地主などを巻き込んだ大規模な反乱となったが、ほどなく勢いを失い、[[1812年]]に鎮圧されている。 安東金氏は次代、わずか7歳で即位して22歳で崩御した[[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]、次々代王[[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]にも王后を送り込み、外戚として権勢を振るった。勢道政治は、哲宗の時代に絶頂を迎え、59年にわたって李氏朝鮮の政治を牛耳っていた。 一方、[[1845年]]には[[イギリス]]の軍艦が[[済州島]]付近の海域に侵入。[[1846年]]には、[[フランス]]海軍によるカトリック弾圧に対する抗議など、西洋列強の干渉が始まる。 後半は、[[李氏朝鮮-2]]参照   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 12:15。]    

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