西安事件

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[[Image:Zhang Xueliang and Chiang Kai-shek.jpg|thumb|300px|right|張学良と蒋介石]] '''西安事件'''('''せいあんじけん、西安事変 -じへん'''ともいう)は[[中華民国暦|民国]]25年([[1936年]])[[12月12日]]に[[西安]]で起きた、[[張学良]]・[[楊虎城]]らによる[[蒋介石]]監禁事件。 ==概要== 1936年10月、[[国民政府]]主席蒋介石は、[[紅軍]]([[中国共産党|共産党]]軍)の根拠地に対する総攻撃を命じた。この攻撃に参加していた張学良は、父である[[張作霖]]が殺害されたことから抗日的気運が高く、共産党の内戦の停止、一致抗日の主張に対してシンパシーを感じており、紅軍に対する攻撃が消極的となっていた。蒋介石は消極的な張学良を督戦するため、12月4日に西安に行った。西安に来た蒋介石に対し、張学良は内戦を停止するように説いたが、蒋介石にこれを拒絶された。このことを切っ掛けに、蒋介石を監禁し、以下の8項目の要求を全国に流した。 ===8項目の要求=== #南京政府の改組、諸党派共同の救国 #内戦の停止 #抗日七君子の釈放 #政治犯の釈放 #民衆愛国運動の解禁 #人民の政治的自由の保証 #孫文遺嘱の遵守 #救国会議の即時開催 ===国共合作=== 国民政府は、当初、張学良を討伐するために西安に対し爆撃を開始し、事態は緊迫したものとなった。しかし、12月7日に共産党の[[周恩来]]、秦邦憲、[[葉剣英]]が西安に入り、国民政府側の蒋介石、[[宋子文]]、[[宋美齢]]との間に前8項目に関する合意ができて蒋介石は解放され、国共対立は収拾された。翌1937年に[[日中戦争]]が勃発した後に第二次[[国共合作]]が成立するが、このことは西安事件を土台としたものであった。 蒋介石監禁の報を受けた中国共産党は、蒋介石殺害計画を検討したが、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の鶴の一声で立ち消えとなった。これは[[陳立夫]]のスターリンへの働きかけもあったし、蒋介石と和睦することで、共産党勢力を温存し、国民党と手を組んで抗日戦を継続する事が、日本を中国に釘付けにして対ソ戦を回避させるスターリンの思惑が働いたという。 なお、事件の首謀者である張学良は、事件を起こした責任をとるとして、自ら進んで国民政府の軍法会議にかけられることになった。 後年、蒋介石は数々のインタビュー内において、西安事件に関して一切発言しようとはしなかった。 ==関連項目== *[[蒋介石]] *[[宋美齢]] *[[毛沢東]] *[[中国国民党]] *[[中華民国の歴史]] *[[中国共産党]] *[[日中戦争]] *[[国共合作]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月12日 (土) 19:06。]     
[[Image:Zhang Xueliang and Chiang Kai-shek.jpg|thumb|300px|right|張学良と蒋介石]] '''西安事件'''(せいあんじけん、'''西安事変''' -じへん、ともいう)は[[中華民国暦|民国]]25年([[1936年]])[[12月12日]]に[[西安]]で起きた、[[張学良]]・[[楊虎城]]らによる[[蒋介石]]監禁事件。 ==概要== 1936年10月、[[国民政府]]主席蒋介石は、[[紅軍]]([[中国共産党|共産党]]軍)の根拠地に対する総攻撃を命じた。この攻撃に参加していた張学良は、父である[[張作霖]]が殺害されたことから抗日的気運が高く、共産党の内戦の停止、一致抗日の主張に対してシンパシーを感じており、紅軍に対する攻撃が消極的となっていた。蒋介石は消極的な張学良を督戦するため、12月4日に西安に行った。西安に来た蒋介石に対し、張学良は内戦を停止するように説いたが、蒋介石にこれを拒絶された。このことを切っ掛けに、蒋介石を監禁し、以下の8項目の要求を全国に流した。 ===8項目の要求=== #南京政府の改組、諸党派共同の救国 #内戦の停止 #抗日七君子の釈放 #政治犯の釈放 #民衆愛国運動の解禁 #人民の政治的自由の保証 #孫文遺嘱の遵守 #救国会議の即時開催 ===国共合作=== 国民政府は、当初、張学良を討伐するために西安に対し爆撃を開始し、事態は緊迫したものとなった。しかし、12月7日に共産党の[[周恩来]]、秦邦憲、[[葉剣英]]が西安に入り、国民政府側の蒋介石、[[宋子文]]、[[宋美齢]]との間に前8項目に関する合意ができて蒋介石は解放され、国共対立は収拾された。翌1937年に[[日中戦争]]が勃発した後に第二次[[国共合作]]が成立するが、このことは西安事件を土台としたものであった。 蒋介石監禁の報を受けた中国共産党は、蒋介石殺害計画を検討したが、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の鶴の一声で立ち消えとなった。これは[[陳立夫]]のスターリンへの働きかけもあったし、蒋介石と和睦することで、共産党勢力を温存し、国民党と手を組んで抗日戦を継続する事が、日本を中国に釘付けにして対ソ戦を回避させるスターリンの思惑が働いたという。 なお、事件の首謀者である張学良は、事件を起こした責任をとるとして、自ら進んで国民政府の軍法会議にかけられることになった。 後年、蒋介石は数々のインタビュー内において、西安事件に関して一切発言しようとはしなかった。 ==関連項目== *[[蒋介石]] *[[宋美齢]] *[[毛沢東]] *[[中国国民党]] *[[中華民国の歴史]] *[[中国共産党]] *[[日中戦争]] *[[国共合作]] *[[八・一宣言]] *[[蘆溝橋事件]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月3日 (水) 16:14。]     

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