北伐

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'''北伐'''(ほくばつ)とは、[[中国の歴史]]上[[北]]に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こすことを言う。 == 概要 == [[中国]]は地理上の条件から南北に分裂しやすく、しかも北には[[漢民族]]の文化的故郷とも言うべき[[黄河]]があり、南は経済的に北を圧する力を持っていた。故に北に割拠した国は南を征服する事を望み、南に割拠した国は自分達の故郷を取り戻す事を望んだ。中国の歴史上、北伐と名乗る[[戦争]]は歴代にある。 == 蜀の北伐 == [[三国時代 (中国)|三国時代]]、[[蜀漢]]の[[諸葛亮]]自ら軍を率いて出兵した[[魏 (三国)|魏]]侵攻が5度行われた。 これは、初代[[皇帝]]・[[劉備]]の[[後漢|漢]]王朝復興の遺志に基づくものであったが、当時の蜀の国力及び軍事力からすれば、かなり無理なものがあった。ゆえに諸葛亮の北伐は、魏への侵攻を目的としたものではなく、拠点となる漢中の防御などあくまで蜀への侵攻を未然に防ぐ防衛戦としての役割が強いという説もある。 [[228年]]春の第一次北伐は、最初の内こそ上手く行っていたものの、諸葛亮の指示に背いた先鋒の[[馬謖]]が[[張コウ|張郃]]に撃破され、その後蜀軍は撤退([[街亭の戦い]])。 [[228年]]冬の第二次北伐は、攻めあぐねてるうちに食糧不足により撤退した。撤退時に追撃してきた[[王双]]を討ち取っている([[陳倉の戦い]])。 [[229年]]春の第三次北伐は、[[陳式]]が武都・陰平を攻め、諸葛亮が魏の[[郭淮]]を防ぎ、武都・陰平の両郡を平定した。 [[231年]]春2月から始まった第四次北伐は、同年夏6月に食料不足により撤退する。撤退時に追撃してきた[[張コウ|張郃]]を討ち取っている。 そして[[234年]]春2月から始まった第五次北伐は[[屯田]]を行い長期戦に持ち込むが、同年秋8月に諸葛亮は陣中で病没した([[五丈原の戦い]])。 第四次北伐と五次北伐の間に益州南部で反乱が起こっている。蜀の学者で『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の著者の[[陳寿]]の学問の師である[[譙周]]によれば、益州南部は反乱が多く統治の難しさから従来は税が課されていなかったが、諸葛亮が益州南部の反乱を制圧したのち益州南部に租税を課した。この事を考えれば反乱が起こったのは必然とも言えるだろう。 諸葛亮の死後、北伐は一時期中止されて国力の回復が図られる。諸葛亮の後継者であった[[蒋エン|蒋琬]]もその遺志を継いで北伐を計画したが、実現を見ぬまま病死した。その後、[[姜維]]が軍権を握ると、再び北伐が大々的に行われることとなった。しかし、度重なる北伐と[[宦官]]の[[黄皓]]を重用した[[劉禅]]の悪政により、蜀の国力は急激に弱体化し、滅亡への道をひた走りに走ることとなった。 なお、魏と蜀の位置関係だけを考えると「北伐」という言葉は成り立つものの、蜀と魏の中心地域との間には[[秦嶺山脈]]が遮るために、実際の侵攻経路は一旦魏の西側に回ってから東に向かって侵攻する「東進」経路が取られていた。これが補給路を長くして北伐を困難にした要因の1つであるとも言われている。 == 明による統一 == [[元 (王朝)|元]]末、[[湖北]]・[[淮南]]・[[江南]]を統一した[[朱元璋]]は、[[1368年]]1月に[[南京市|南京]]で即位し、[[国号]]を[[大明|明]]とした。 朱元璋はさらに、[[徐達]]を[[河南]]・[[河北]]へと向かわせた。元の内紛もあり、徐達は[[ココ・テムル]]率いる元軍を破った。同年8月に、[[トゴン・テムル]]は[[大都]]を放棄した。 [[モンゴル高原]]・[[甘粛]]へと逃れた残存勢力とは、ココ・テムルの子[[アユルシリダラ]]が[[1378年]]に死ぬまで、戦争が続いた。 == 太平天国の北伐 == * [[北伐 (太平天国)]]を参照。 == 国民党による北伐 == [[Image:Chiang1926.jpg|thumb|180px|北伐に望む蒋介石]] [[Image:Chinese civil war map 02.jpg|300px|thumb|北伐後の中華民国の情勢。藍色の部分は蒋介石率いる南京国民政府の支配が強い領域。ピンクの部分は地方の軍閥の支配が強い領域。[[満州]]は[[張学良]]の支配地域、[[山西省]]は[[閻錫山]]の支配地域、[[陝西省]]・[[寧夏回族自治区|寧夏]]等の北西部は[[馮玉祥]]の支配地域、[[広東省]]・[[広西壮族自治区|広西]]等の南部は[[李宗仁]]の支配地域]] [[辛亥革命]]後の[[軍閥]]割拠状態になった[[中国]]において、[[孫文]]や[[蒋介石]]指導の国民党による全国統一を目指して戦われた北京政府や各地軍閥との戦争。特に[[1926年]]から[[1928年]]のものを指すことが多い。 [[1921年]]5月、[[広東]]地方の軍閥[[陳炯明]]の勢力を基盤として[[広東護法政府]]非常大総統に就任した孫文は、中国の統一をめざして北伐を図った。しかし、大規模な軍事行動は、広東地方への経済的負担を強いるものであり、広東の安定を最優先に考える陳炯明の反乱を招き失敗する。 [[1923年]]2月、広東を回復した孫文は第3次[[広東軍政府]]を組織すると、急速に[[ソビエト連邦|ソ連]]との関係を深め、その助言をうけ[[中国共産党]]との合作、革命軍の中核を担う人材を養成する[[黄埔軍官学校]]を設立するなどして軍閥に依存しない自身の勢力強化につとめ、[[1924年]][[9月18日]]に「[[北伐宣言]]」を発表し[[北京政府]]に対抗した。しかし、同年[[10月23日]]、北京政府内で全国統一をかかげた[[馮玉祥]]が政変([[首都革命]]、北京政変)を起こし孫文に北上を要請、これに応えた孫文が[[北京市|北京]]に入るなど平和的統一の機運が高まり北伐は立ち消えになる。この平和的統一の流れは[[1925年]][[3月12日]]に孫文が北京で客死すると頓挫した。 孫文亡き後の国民党は広東に[[国民政府]]を組織する。この中で[[中山艦事件]]を契機に、急速に台頭してきた蒋介石が中心となり、1926年[[7月1日]]、国民政府は「北伐宣言」を発表、北伐が開始された('''第1次北伐''')。北伐軍は、統一を望む輿論を背景に北京政府や各地軍閥を圧倒、翌[[1927年]]には[[南京市|南京]]、[[上海市|上海]]を占領した。 しかし、中国国民党内部で中国共産党が勢力を拡大したこともあり、[[4月12日]]蒋介石は、党内の中国共産党員の粛清を行った([[上海クーデター]])。その後、上海クーデターから中国国民党の武漢と南京分立([[寧漢分裂]])、武漢国民政府の中国共産党と決別及び南京国民政府との合流、[[広州張黄事変]]に至るまでの間は中国国民党内の混乱によって北伐は一時停滞をみせた。 蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、[[1928年]][[4月8日]]に北伐を再開した('''第2次北伐''')。日本(首相[[田中義一]])は、中国にある既得権益及び治安の維持のため、[[山東省]]に軍を派遣し([[山東出兵]])、居留民の保護にあたった。この時、済南に入った北伐軍との間で武力衝突が発生した([[済南事件]])。その後、[[北洋軍閥]]の[[閻錫山]]、馮玉祥らを傘下に加え進撃した。そして、[[6月4日]][[奉天派]]の首領である[[張作霖]]が北京を撤退した後、[[6月15日]]に[[北京市|北京]]を占領した(その後、[[張作霖爆殺事件]]が起こった)。父のあとを継いだ[[張学良]]が[[12月29日]]に降伏したこと([[易幟]])をもって、北伐は完了し一応の全国統一を果たしたのであった。 しかしこの「北伐」完成は、地方の軍閥勢力を残存させたままでの極めて妥協的な「中国統一」であったため、[[1929年]]3~6月には[[蒋桂戦争]]が、[[1930年]]5~11月には[[中原大戦]]が勃発する等絶え間ない戦乱が続いた。また、これに中国の共産化を狙うソ連ー中国共産党の工作や、大陸における既得権益を防衛したい英国や日本等の思惑、中国市場の主役の座を獲得したい米国の謀略が加わり、国内政治は常に安定しなかった。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8C%97%E4%BC%90 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月10日 (金) 17:24。]    
'''北伐'''(ほくばつ)とは、[[中国の歴史]]上[[北]]に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こすことを言う。 == 概要 == [[中国]]は地理上の条件から南北に分裂しやすく、しかも北には[[漢民族]]の文化的故郷とも言うべき[[黄河]]があり、南は経済的に北を圧する力を持っていた。故に北に割拠した国は南を征服する事を望み、南に割拠した国は自分達の故郷を取り戻す事を望んだ。中国の歴史上、北伐と名乗る[[戦争]]は歴代にある。 == 蜀の北伐 == [[三国時代 (中国)|三国時代]]、[[蜀漢]]の[[諸葛亮]]自ら軍を率いて出兵した[[魏 (三国)|魏]]侵攻が5度行われた。 これは、初代[[皇帝]]・[[劉備]]の[[後漢|漢]]王朝復興の遺志に基づくものであったが、当時の蜀の国力及び軍事力からすれば、かなり無理なものがあった。ゆえに諸葛亮の北伐は、魏への侵攻を目的としたものではなく、拠点となる漢中の防御などあくまで蜀への侵攻を未然に防ぐ防衛戦としての役割が強いという説もある。 [[228年]]春の第一次北伐は、最初の内こそ上手く行っていたものの、諸葛亮の指示に背いた先鋒の[[馬謖]]が[[張コウ|張郃]]に撃破され、その後蜀軍は撤退([[街亭の戦い]])。 [[228年]]冬の第二次北伐は、攻めあぐねてるうちに食糧不足により撤退した。撤退時に追撃してきた[[王双]]を討ち取っている([[陳倉の戦い]])。 [[229年]]春の第三次北伐は、[[陳式]]が武都・陰平を攻め、諸葛亮が魏の[[郭淮]]を防ぎ、武都・陰平の両郡を平定した。 [[231年]]春2月から始まった第四次北伐は、同年夏6月に食料不足により撤退する。撤退時に追撃してきた[[張コウ|張郃]]を討ち取っている。 そして[[234年]]春2月から始まった第五次北伐は[[屯田]]を行い長期戦に持ち込むが、同年秋8月に諸葛亮は陣中で病没した([[五丈原の戦い]])。 第四次北伐と五次北伐の間に益州南部で反乱が起こっている。蜀の学者で『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の著者の[[陳寿]]の学問の師である[[譙周]]によれば、益州南部は反乱が多く統治の難しさから従来は税が課されていなかったが、諸葛亮が益州南部の反乱を制圧したのち益州南部に租税を課した。この事を考えれば反乱が起こったのは必然とも言えるだろう。 諸葛亮の死後、北伐は一時期中止されて国力の回復が図られる。諸葛亮の後継者であった[[蒋エン|蒋琬]]もその遺志を継いで北伐を計画したが、実現を見ぬまま病死した。その後、[[姜維]]が軍権を握ると、再び北伐が大々的に行われることとなった。しかし、度重なる北伐と[[宦官]]の[[黄皓]]を重用した[[劉禅]]の悪政により、蜀の国力は急激に弱体化し、滅亡への道をひた走りに走ることとなった。 なお、魏と蜀の位置関係だけを考えると「北伐」という言葉は成り立つものの、蜀と魏の中心地域との間には[[秦嶺山脈]]が遮るために、実際の侵攻経路は一旦魏の西側に回ってから東に向かって侵攻する「東進」経路が取られていた。これが補給路を長くして北伐を困難にした要因の1つであるとも言われている。 == 明による統一 == [[元 (王朝)|元]]末、[[湖北]]・[[淮南]]・[[江南]]を統一した[[朱元璋]]は、[[1368年]]1月に[[南京市|南京]]で即位し、[[国号]]を[[大明|明]]とした。 朱元璋はさらに、[[徐達]]を[[河南]]・[[河北]]へと向かわせた。元の内紛もあり、徐達は[[ココ・テムル]]率いる元軍を破った。同年8月に、[[トゴン・テムル]]は[[大都]]を放棄した。 [[モンゴル高原]]・[[甘粛]]へと逃れた残存勢力とは、ココ・テムルの子[[アユルシリダラ]]が[[1378年]]に死ぬまで、戦争が続いた。 == 太平天国の北伐 == * [[北伐 (太平天国)]]を参照。 == 国民党による北伐 == [[Image:Chiang1926.jpg|thumb|180px|北伐に望む蒋介石]] [[Image:Chinese civil war map 02.jpg|300px|thumb|北伐後の中華民国の情勢。藍色の部分は蒋介石率いる南京国民政府の支配が強い領域。ピンクの部分は地方の軍閥の支配が強い領域。[[満州]]は[[張学良]]の[[奉天派]]支配地域、[[山西省]]は[[閻錫山]]の[[山西派]]支配地域、[[陝西省]]・[[寧夏回族自治区|寧夏]]等の北西部は[[馮玉祥]]の[[西北派]]支配地域、[[広東省]]・[[広西チワン族自治区|広西]]等の南部は[[李宗仁]]の[[新広西派]]支配地域、[[雲南省]]は[[竜雲]]の[[雲南派]]支配地域]] [[辛亥革命]]後の[[軍閥]]割拠状態になった[[中国]]において、[[孫文]]や[[蒋介石]]指導の国民党による全国統一を目指して戦われた北京政府や各地軍閥との戦争。特に[[1926年]]から[[1928年]]のものを指すことが多い。 [[1921年]]5月、[[広東]]地方の軍閥[[陳炯明]]の勢力を基盤として[[広東護法政府]]非常大総統に就任した孫文は、中国の統一をめざして北伐を図った。しかし、大規模な軍事行動は、広東地方への経済的負担を強いるものであり、広東の安定を最優先に考える陳炯明の反乱を招き失敗する。 [[1923年]]2月、広東を回復した孫文は第3次[[広東軍政府]]を組織すると、急速に[[ソビエト連邦|ソ連]]との関係を深め、その助言をうけ[[中国共産党]]との合作、革命軍の中核を担う人材を養成する[[黄埔軍官学校]]を設立するなどして軍閥に依存しない自身の勢力強化につとめ、[[1924年]][[9月18日]]に「[[北伐宣言]]」を発表し[[北京政府]]に対抗した。しかし、同年[[10月23日]]、北京政府内で全国統一をかかげた[[馮玉祥]]が政変([[首都革命]]、北京政変)を起こし孫文に北上を要請、これに応えた孫文が[[北京市|北京]]に入るなど平和的統一の機運が高まり北伐は立ち消えになる。この平和的統一の流れは[[1925年]][[3月12日]]に孫文が北京で客死すると頓挫した。 孫文亡き後の国民党は広東に[[国民政府]]を組織する。この中で[[中山艦事件]]を契機に、急速に台頭してきた蒋介石が中心となり、1926年[[7月1日]]、国民政府は「北伐宣言」を発表、北伐が開始された('''第1次北伐''')。北伐軍は、統一を望む輿論を背景に北京政府や各地軍閥を圧倒、翌[[1927年]]には[[南京市|南京]]、[[上海市|上海]]を占領した。 しかし、中国国民党内部で中国共産党が勢力を拡大したこともあり、[[4月12日]]蒋介石は、党内の中国共産党員の粛清を行った([[上海クーデター]])。その後、上海クーデターから中国国民党の武漢と南京分立([[寧漢分裂]])、武漢国民政府の中国共産党と決別及び南京国民政府との合流、[[広州張黄事変]]に至るまでの間は中国国民党内の混乱によって北伐は一時停滞をみせた。 蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、[[1928年]][[4月8日]]に北伐を再開した('''第2次北伐''')。日本(首相[[田中義一]])は、中国にある既得権益及び治安の維持のため、[[山東省]]に軍を派遣し([[山東出兵]])、居留民の保護にあたった。この時、済南に入った北伐軍との間で武力衝突が発生した([[済南事件]])。その後、[[北洋軍閥]]の[[閻錫山]]、馮玉祥らを傘下に加え進撃した。そして、[[6月4日]][[奉天派]]の首領である[[張作霖]]が北京を撤退した後、[[6月15日]]に[[北京市|北京]]を占領した(その後、[[張作霖爆殺事件]]が起こった)。父のあとを継いだ[[張学良]]が[[12月29日]]に降伏したこと([[易幟]])をもって、北伐は完了し一応の全国統一を果たしたのであった。 しかしこの「北伐」完成は、地方の軍閥勢力を残存させたままでの極めて妥協的な「中国統一」であったため、[[1929年]]3~6月には[[蒋桂戦争]]が、[[1930年]]5~11月には[[中原大戦]]が勃発する等絶え間ない戦乱が続いた。また、これに中国の共産化を狙うソ連ー中国共産党の工作や、大陸における既得権益を防衛したい英国や日本等の思惑、中国市場の主役の座を獲得したい米国の謀略が加わり、国内政治は常に安定しなかった。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8C%97%E4%BC%90 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月23日 (火) 17:47。]    

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