義和団の乱

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{{Battlebox| battle_name=義和団の乱 |campaign= |colour_scheme=background:#cccccc |image=[[Image:CaptureTianjin.jpg|300px|天津の戦い]] |caption=|conflict=[[義和団の乱]] |date=[[1900年]][[6月20日]] - [[1901年]][[9月7日]] |place=[[中国]][[華北]]、[[満洲]](のちの[[中国東北部]])地方 |result=八ヶ国連合軍の勝利 |combatant1=[[Image:Flag of Japan.svg|22px]] [[大日本帝国|日本]]<br> [[Image: Flag of Russia.svg|22px]] [[ロシア帝国|ロシア]]<br> [[Image:Flag of the United Kingdom.svg|22px]] [[イギリス]]<br> [[Image:Flag of France.svg|22px]] [[フランス]]<br> [[Image: US flag 45 stars.svg|22px]] [[アメリカ合衆国|アメリカ]]<br> [[Image:Flag_of_the_German_Empire.svg|22px]] [[ドイツ帝国|ドイツ]]<br> [[Image:Flag of Italy.svg|22px]] [[イタリア王国|イタリア]]<br> [[Image:Flag_of_Austria-Hungary_1869-1918.svg|22px]] [[オーストリア・ハンガリー二重帝国]]| |combatant2=[[Image:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|20px]] [[清朝]]<br> [[義和団]]| |commander1=E.シーモア<BR>A.ガスリー<BR>A.ヴァルターゼー| |commander2=聶士成<BR>董福祥<BR>義和団の各首領| |strength1= 最大71,920人| |strength2= 200,000人以上| |casualties1=死傷者 757、この他宣教師や中国人クリスチャン多数 |casualties2=死傷者 数え切れないほど多数 |}} [[Image:Boxer1900.jpg|thumb|right|義和団のメンバー]] '''義和団の乱'''(ぎわだんのらん)は、[[中国]][[清]]朝末期の動乱である。当初は[[義和団]]を称する[[秘密結社]]による排外運動であったが、[[1900年]]に[[西太后]]がこの反乱を支持して欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。だが、宣戦布告後2ヶ月も経たないうちに欧米列強国軍は首都[[北京市|北京]]及び[[紫禁城]]を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。この乱の後、西洋的方法を視野に入れた政治改革の必要を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた[[戊戌の変法]]を手本としたいわゆる[[光緒新政]]を開始した。 なお、本稿では「義和団の乱」で統一するが、'''義和団事件'''・'''義和団事変'''・'''北清事変'''(ほくしんじへん)との呼び方もある。また中国では戦争が起こった年の[[干支]]から'''庚子事変'''(こうしじへん)ともいう。 == 義和団の乱の背景 == === 清末におけるキリスト教の布教活動 === 中国に[[キリスト教]]が伝来したのはかなり古いが、慣習・慣行の違い等から多くの信者を獲得することなく清末にいたった。しかしこうした事態に変化をもたらしたのが、相次ぐ西欧列強との戦争とその後の[[不平等条約]]締結である。それまで布教活動は条約港に限り認められていたが、[[アロー号戦争]](第二次アヘン戦争)後結ばれた[[天津条約]]では、清朝内陸への布教を認める条項(内地布教権)が挿入されており、以後多くの外国人宣教師が内地へと入っていった。この結果、キリスト教は次第に信者を獲得していく。 === 仇教事件の発生 === 外国人宣教師たちは、宗教的信念と戦勝国に属しているという傲岸さが入り交じった姿勢で中国社会に臨み、その慣行を無視することが多く、しばしば地域の官僚・[[郷紳]]と衝突した。そしてさらに事態を複雑にしたのは、'''ライス・クリスチャン'''(キリスト教会の飯を食う者)の存在である。飢饉などの天災により寄る辺をなくした民衆などは宣教師の慈善活動に救いを見出し、家族ぐるみ・村ぐるみで帰依することもあった。また当時中国の内部対立の結果社会的弱者となった人々も庇護を求めて入信し、[[キリスト教徒|クリスチャン]]の勢力拡大に寄与した。たとえば南方では、現地人と[[客家]]がしばしば対立して[[土客械闘]]という争いを起こしていたが、地方官は客家を弾圧することが多く、救いを求めて客家が一斉にキリスト教に入信するようなことがあった。さらに最近の研究では、後に述べるように義和団の母胎となったと言われてきた[[白蓮教]]徒も、官憲の弾圧から逃れるために、その一部がキリスト教に入信していたことも分かってきた。対立の構図は決して単純なものでは無かったのである。 外国人宣教師やその信者たちと、郷紳や一般民衆との確執・事件を[[仇教事件]](史料では「教案」と表記される)という。具体的には信者と一般民衆との土地境界線争いに宣教師が介入したり、教会建設への反感からくる確執といった民事事件などから発展したものが多い。1860年代から、史料には「教案」の文字が見られはじめ、1890年代になると主に[[長江]]流域で多発するようになる。事件の発生は、列強への反感を次第に募らせていった。何故なら、布教活動や宣教師のみならず、同じ中国人であるはずの信者も不平等条約によって強固に守られ、時には軍事力による威嚇を用いることさえあったため、おおむね事件は教会側に有利に妥結することが多かったからである。地方官の裁定に不満な民衆は、教会や神父たち、信者を襲い、暴力的に解決しようとすることが多かった。[[太平天国]]平定の功労者であった[[曾国藩]]ですら、もし外国人の方に非があったとしても、公文書に記載し事を大きくしてはならないと述べたという。民衆の間には外国人は官僚より三等上という認識が広がっていった。 こうした対立に、異文化遭遇の際に起こりがちな迷信・風説の流布が拍車をかけた。当時、宣教師たちは道路に溢れていた孤児たちを保護し、孤児院に入院させていたが、それは子供の肝臓を摘出し、薬の材料にするためだといった類のものである。 仇教事件の頻発は、一般民衆の中に、西欧及びキリスト教への反感を醸成し、外国人に平身低頭せざるを得ない官僚・郷紳への失望感を拡大させたといえる。 === 義和団の台頭-山東省の状況- === [[Image:Boxerspamphlet.png|right|thumb|義和団の檄文]] 乱の主体となった[[義和団]]は[[山東省]]に発生した。[[19世紀]]末、山東省では[[ドイツ帝国|ドイツ]]の進出が目立つようになり、それに伴い仇教事件が頻発するようになった。ドイツは、山東省を国家権益の観点のみならず、[[孔子]]の生地である[[曲阜]]がありキリスト教布教の観点からも特に重視していた。そして山東省における熱烈な布教活動はその反動として民衆の排外的な感情を呼び起こし、時を追うごとに高まっていったのである。 義和団は、 [[太平天国]]における[[拝上帝会]]のようにその起源を単一のものに特定できない。そのためもあって白蓮教的な拳法に由来するという説と、団練という地方官公認の自警団に求める説とがある。以下は日本及び中国で比較的支持されている説に基づく。 山東には元々'''[[大刀会]]'''という武術組織があった。この会は初め盗賊を捕まえて役所に突き出すなど郷土防衛や治安維持を担った自警団的性格をもっていた。やがて[[カトリック教会|カトリック信者]]と一般民衆との土地争いに介入。[[1897年]]にカトリック側を襲撃し、教会の破壊や神父の殺害を決行した([[曹州教案]])。こうした動きに対してのドイツの抗議をうけた清朝が弾圧し、一旦鳴りを潜めるようになる。しかし[[1899年]]になると山東省の西北方面に勢力を拡大し、そのころ'''神拳'''という一派と融合していった。 [[Image:China-Shandong.png|left|250px|thumb|山東省]] また山東の別の箇所でも在地の武術組織とキリスト教が対立する事件が発生した。例によって教会建設に端を発する土地争いの裁判で不利な判決を言い渡された一般民衆が'''梅花拳'''という[[拳法]]の流派に助けを求めたのが、きっかけである。梅花拳はその流派を三千人ほど集め、[[1897年]]に教会を襲撃した。その後歴史ある梅花拳全体に累が及ぶのを避けるため「'''[[義和拳]]'''」と改名した。これは反キリスト教を核に梅花拳以外の人々も多く参加し始めた状況に対応する意味もあった。反キリスト教運動が広がりを見せる中で、各地のグループが次第に統合していき、義和拳となったのである。 以上に挙げた武術組織は、極めて強い宗教的性格を有し、内部ではシャーマニズム的な儀式も持っていた。神として祀られたのは、[[孫悟空]]や[[諸葛亮]]、[[趙雲]]といった『[[西遊記]]』、『[[三国志演義]]』の登場人物が多かった。彼らは庶民の娯楽であった劇中の人気のあった者たちである。義和団では、それらが乗り移った者は、刀はおろか銃弾すら跳ね返すような不死身になると喧伝した。 義和拳の勢力拡大は燎原の野火の如く急激であったが、それには地方大官が取り締まりに消極的だったことも一因である。[[山東巡撫]]'''[[毓賢]]'''(いくけん)<ref name="ikuken">'''毓賢'''、?-1901。漢軍正黄旗の人。字は佐臣。買官(金銭によって官位を買う事)によって山東曹州の知府となったのを皮切りに、1888年[[提刑按察使司按察使|按察使]]・[[布政使]]を歴任した。[[1899年]]には張汝梅の後を受け山東巡撫となり、義和団対策に臨んだ。この時義和団に対し融和的な施策を取ったことから義和団の勢いが増し、アメリカ公使コンガーの強い要請によって更迭され、袁世凱が後任の巡撫となった。ただ毓賢はそのまま官を辞したのではなく、山西巡撫へと横滑りしただけである。これは罷免を求める西欧列強に対する清朝の精一杯の抵抗であったといわれる。辛丑条約後、列強によって罪を問われ、この時点でようやく罷免となった。その後[[新疆]]へと流される途中、[[蘭州]]で処刑された。『[[清史稿]]』巻465・列伝252より。</ref>は、義和拳の攻撃対象がキリスト教関連施設に限定されていることをもって、彼らに同情的で、義和拳を取り締まろうとした[[平原県]]知県[[蒋楷]]を逆に罷免し、義和拳を団練として公認しようとすらした。「義和拳」が「義和団」と呼ばれるようになるのには、こうした背景があったのであり、以下の文章では「義和団」に統一する。 [[1899年]]末、毓賢は欧米列強の要求によって更迭され、かわって[[袁世凱]]が赴任し義和団を弾圧した。しかしそれは山東省外への義和団拡大をもたらす結果となった。 == 義和団、北京へ == [[Image:BoxerSoldiers.jpg|right|thumb|義和団の兵士]] [[Image:Boxer_tianjing.jpg|right|thumb|天津の義和団]] === 「扶清滅洋」と清朝の宣戦布告 === ==== 義和団の動き ==== 山東省から押し出された義和団は[[直隷省]](現在の[[河北省]]と[[北京市|北京]])へと展開し、北京と[[天津市|天津]]のあいだの地帯は義和団であふれかえる事態に至った。直隷省は山東省以上に、失業者や天災難民が多くおりそれらを吸収することによって義和団は急速に膨張した。そして外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、はては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていった。そのため北京と天津の間は寸断されたのも同然となる。 当時の義和団にはいくつかのグループがあり、有名な指導者には'''王成徳'''や'''宋福恒'''、'''張徳成'''といった人々がおり、各々が数千人の義和団をまとめていた。変り種としては、女性だけを成員とする義和団もあった。「'''[[紅灯照]]'''」である。その首領は「'''黄蓮聖母'''」といい、元は売春婦だったとも言われる。 首都北京近辺における義和団の横行を許したのは、義和団の強大化だけが原因ではない。西欧列強の強い干渉によって清朝は鎮圧を行おうとしたが、義和団の「'''扶清滅洋'''」(清を扶〔たす〕け洋を滅すべし)、あるいは「'''興清滅洋'''」(清を興〔おこ〕し洋を滅すべし)という清朝寄りのスローガンに対し、さきの毓賢同様同情を示す大官が複数おり、徹底した弾圧には至らなかった点も原因である。また列強を苦々しく思っていた点は西太后以下も同じであり、その点も義和団への対処に手心を加えることとなった。一説にはおよそ20万にのぼる義和団が北京にいたという。 こうして義和団が我が物顔で横行するようになり、しばらくすると、不測の事態が発生し清朝を慌てさせた。[[1900年]][[6月]]、[[甘粛]]から呼ばれて北京を警護していた'''董福祥'''(とうふくしょう)<ref name="touhukusyou">'''董福祥'''、1839(あるいは1840)-1908。甘粛省固原(現在の[[寧夏]])の人。字は星五。[[1862年]]に[[陝西省]]と甘粛省に起きた [[回民起義]]において反乱軍に参加した。しかし[[左宗棠]]の軍に投降して以後は、その配下として働き提督まで上り詰めた。[[1897年]]には北京防衛を任され、栄禄の配下となる。翌年に起きた[[戊戌政変]]の際には西太后を支持した。1900年の義和団の乱時には外国公使館を包囲し攻撃した。この時の攻撃は栄禄に比べると激しかったという。やがて北京が八ヶ国連合軍によって陥落すると、西太后が逃げるのを助けた。後に連合軍から戦犯の一人と名指しされて罷免され、失意の内に病死した。『清史稿』巻455・列伝242。</ref>配下の兵士に日本公使館書記が殺害され、数日後今度はドイツ公使ケットラー([[:en:Klemens von Ketteler|Klemens Freiherr von Ketteler]])が義和団に殺害されると、清朝は一層の窮地に立たされたのである。 ==== 「宣戦布告」への過程 ==== 義和団の源流は何かという問題と並んでよく論じられるのが、清朝の列強への「宣戦布告」である。この決定は義和団及び列強連合軍に対しどう対処するかについて、4度御前会議が開かれた末、決定された。この火を見るより明らかな無謀な決定は何故出されたのだろうか<ref name="sensenhukoku">'''列強への宣戦布告諸説'''。「宣戦布告」の真の理由については諸説あり、どの要素を最も重視するかという点で4つ説がある。一、「照会」説-偽造された列強からの「照会」に重きを置くもの。二、義和団の圧力があったとする説。三、天津において直隷総督裕禄が偽って列強に勝利したと上奏したことを信じ宣戦したという説。四、列強の度重なる帝国主義的圧力に堪忍袋の緒が切れたためとする説がある。</ref>。激昂に駆られた感情的な側面があるのは確かであるが、それのみを重視して「宣戦布告」=狂気の選択といったような不可知論的説明は歴史学では採らない。「宣戦布告」のいくつか理由について以下に列挙する。 #大沽砲台問題―最も決定的だったのは大沽砲台問題といわれる。[[大沽砲台]]とは[[海河]]河口に備えられており、北京や天津へと遡航する艦船への防御の要となる砲台であった。それが[[5月20日]]の時点で列強への引渡しを求められ、なおかつ清朝側が拒否後攻め落とされた。交戦状態でもないにもかかわらず、また義和団に占拠されていたのでもないにもかかわらず、列強がこの挙に出たことが、清廷内の排外主戦派を勢いづかせ、西太后の決心を促した。さらに言えば、これ以前からあった仇教事件のような列強の司法への介入、山東巡撫の更迭要求等のいくつもの列強の圧力、すなわち「累朝の積憤」(積もり積もった怒り。剛毅の言)が次第に清朝を「宣戦布告」へと追いやったと言える。 #「照会」問題―この「照会」とは列強が西太后に引退を求めたとされる文書であり、これを見て激昂した彼女が宣戦を決めたという。しかし実はこの「照会」は偽物であった。清朝主戦派の誰か、'''[[愛新覚羅載イ|端郡王載漪]]'''(さいい)<ref name="saii">'''端郡王載漪'''、1856-1922。[[愛新覚羅氏]]、つまり清朝の宗室出身。西太后の姪を妻として迎えたため、その覚えめでたかった。そのため光緒帝を廃位しようとする計画、すなわち'''己亥建儲'''のときには、彼の子[[保慶帝|溥儁]](フシュン)が大阿哥(=皇太子)に立てられることになった。しかし列強の反対などでこの計画は頓挫し、彼は列強を深く恨むに至り、それが義和団支持に結びついた。北京議定書締結後は、乱の責任を問われ流罪となり、子の溥儁も大阿哥の称号を奪われた。[[1917年]]頃北京に戻ったが、貧窮に苦しみつつ5年後に亡くなった。『清史稿』巻221・列伝8。</ref>一派と目されている、によって捏造されたと考えられているが、それは煮え切らない態度を示す西太后の背中を押すためだったと考えられている。 #清朝内の権力争い―清廷内には戊戌変法を支持した光緒帝を廃位しようとする計画が進められていた。その障害となったのが、列強と李鴻章や一部の親王であり、それらを排除するために義和団を利用したという。つまり列強に対しては義和団をあてる一方で、列強に妥協的だという理由で李鴻章らを媚外として批判したのである。 === 八ヶ国連合軍の派遣 === ==== 第一次連合軍の派遣 ==== [[Image:BoxerTroops.jpg|thumb|連合軍]] 北京駐在公使の要請を受けて五月末より、列強の連合軍は軍事介入を計画していた。六月初旬には[[イギリス海軍]]中将'''シーモア'''([[:en:Edward Hobart Seymour|E.H.Seymour]])率いる連合軍約2000名が北京を目指したが、義和団によって破壊された京津鉄道(北京-天津間)を修繕しながら進軍したため、その歩みは遅く、また廊坊という地では義和団及び清朝正規兵董福祥の甘軍によって阻まれ、天津への退却を余儀なくされた。つまり清朝の宣戦布告以前より、列強は中国に軍隊を派遣し義和団掃討作戦を実施していたことになる。[[6月17日]]、天津にある大沽砲台の攻撃について、清朝は「無礼横行」と非難し、宣戦布告をする重要な動機のひとつとなった。 ==== 第二次連合軍の編成と日本軍の参戦 ==== 義和団鎮圧のために軍を派遣した列強は八ヶ国あり、その内訳はイギリス・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ロシア帝国|ロシア]]・[[フランス]]・[[ドイツ]]・[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア]]・[[イタリア王国|イタリア]]と[[大日本帝国|日本]]である。総司令官にはドイツ人のガスリーが就任した。 総勢約二万人弱の混成軍であったが、最も多くの派兵をおこなったのは日本とロシアであった。これは日露以外の各国は、それぞれが抱える諸問題のため多くの兵力を中国に送る余裕が無かったことに起因する。特にイギリスは[[南アフリカ]]で[[オランダ]]と戦争状態にあったため([[ボーア戦争]])多くの兵力を送る余裕がなく、日本に派兵を要請したことも日本の大量派兵の一因である。 日本軍は[[陸軍大臣]][[桂太郎]]の命の下、[[第5師団 (日本軍)|第五師団]](およそ8000名)を派兵し、その指揮は[[福島安正]]に委ねられた。彼は[[英語]]・[[フランス語]]・[[ドイツ語]]・[[ロシア語]]・[[中国語]]に堪能で、当時ロシアや清朝を調査する旅行から帰国したばかりであったが、その経験を買われて指揮官に据えられたのである。 この日本軍派兵には様々な思惑が込められていた。公使館の保護は無論であるが、中国における日本の権益拡大や、清朝を叩くことで[[朝鮮]]半島における日本のアドバンテージを確立すること<ref name="yamagataaritomo"> [[山縣有朋]]『北清事変善後策』 「今回ノ北清事変ヲ機トシ、朝鮮全部ヲ挙ケテ我カ勢力区域ニ移サント欲シ、或ハ露ノ満洲経営ヲ妨ケルヲ約シ、以テ我レノ朝鮮経営ヲ諾セシメント欲スルアリ」(読点は加筆者)</ref>、日本についで大軍を送っていたロシアへの牽制、列強側に立って派兵することで「'''極東の憲兵'''」としての存在感誇示(=不平等条約改正)などが主要目的であった。[[Image:BoxerJapaneseMarines.jpg |left|thumb|日本の海軍陸戦隊]] ==== 戦争の推移 ==== 連合軍の最初の正念場は大沽砲台・天津攻略戦であった。[[租界]]を攻撃していた清朝の正規軍、'''[[聶士成]]'''(じょうしせい)<ref name="jousisei">'''聶士成'''、?-1900。[[安徽省]][[合肥]]の人で李鴻章とは同郷。字は功亭。[[1862年]]に[[淮軍]]に参加し、李鴻章のもとで太平天国や[[捻軍]]鎮圧に従事した。この後はフランス軍や日本軍と戦い戦果を挙げ、1897年に直隷提督に昇進した。翌年配下の軍隊は武衛前軍と改称したが、この軍は袁世凱の[[新建陸軍]]同様近代化を図った軍隊であった。[[1900年]]、この軍を率いて天津防衛に当たるも砲弾に当たり戦死。常に兵たちの先頭に立ち、「腹破れ腸出ずるもなお軍を指揮して前進させた」という。『[[清史稿]]』巻467・列伝254より。</ref>の武衛前軍や馬玉崑(ばぎょくこん)率いる武衛左軍と衝突したが、戦闘は連合軍が清朝側を圧倒した。結果聶士成を戦死せしめ、数日後の7月14日には天津を占領するに至る。 [[直隷総督]]'''[[裕禄]]'''(ゆうろく)<ref name="yuuroku">'''裕禄'''、1844-1900。満洲正白旗の人、喜塔臘氏。字は寿山、号は寿泉。栄禄から高い信頼を得る。30歳を少し過ぎたばかりで巡撫に抜擢され、以後[[湖広総督]]や[[軍機大臣]]、[[礼部]][[尚書]]を歴任、エリート街道を歩む。[[1898年]]栄禄の後任として直隷総督兼 [[北洋大臣]]となった。『[[清史稿]]』巻465・列伝252より。</ref>は敗戦の責を取って自殺した。天津城南門上にはおよそ4000名の義和団・清朝兵の遺体があったという。 そして[[8月4日]]には連合軍は北京に向けて進軍を開始したが、各国の足並みが揃わず歩みが遅かった。軍事作戦上の齟齬や各国軍の戦闘への積極性の違いも原因であったが、そもそも北京に早く到達すべきかどうかという根本的な点で意見の一致を見ていなかった為である。イギリスや日本が北京の公使館を少しでも早く解放すべきと主張する一方で、北京進攻はかえって公使館に対する清朝・義和団の風当たりを強くするという意見もあったのである。また義和団による清朝の混乱をさらに拡大させることで、一層大きな軍事介入を画策する国もあった。いずれにしても連合軍の歩みは緩慢であったため、それだけ北京で救援を待つ人々に苦渋を強いることになり、後々批判されることになる。 ==== 義和団・清朝軍の軍事能力について ==== 激戦はいくつかあったが、連合軍は全体的にみて苦戦したというわけではなかった。清朝軍と義和団は、連合軍と比べ圧倒的な兵数を有していたものの、装備という点で全く劣っていたためである。例外は大沽砲台や聶士成の武衛前軍、馬玉崑率いる武衛左軍といった近代化部隊であったが、これすら兵器の扱いに不慣れな兵士が多かったために効果的な運用ができなかったという。中には''「所々ニ於ケル自己ノ弾薬ノ破裂ハ、遂ニ抵抗シ得サルニ至ラシメタリ。敵(清朝兵:加筆者)ノ死屍七八百ハ砲台内ニ横タワレリト云フ」''(大沽砲台の攻防についての日本軍の批評)とあるように、訓練不足のため近代兵器を活用できず、暴発などで自滅した例も有った。義和団に至ってはその装備していた武器は刀槍がほとんどで、銃器を持った者などわずかしかいなかった。 また軍隊組織としてみた場合、義和団は言うに及ばず、清朝軍すら全体を統括指揮する能力に欠けており、その点も前近代的であると日本軍からは評されている。しかし日本軍も彼らを決して侮っていたわけではなく、''「彼等ノ携帯兵器多クハ清国在来ノ刀・槍・剣、若クハ前装銃ニシテ、皆取ルニ足ラサルモノナリシモ、能く頑強ノ抵抗ヲ為シ、我兵ヲ苦メタル勇気ハ称スルニ余リ有リ」''という声もあるように、士気はすこぶる高かったようである。ただ作戦・装備が劣る点を士気によって補おうとする姿勢は多くの犠牲を生むことになり、この戦乱の死傷者の多くは義和団あるいは清朝軍の兵士で占められた。 ==== 北京進攻 ==== [[Image:Foreign armies in Beijing during Boxer Rebellion.jpg|thumb|250px|紫禁城内の連合軍]] [[8月14日]]、連合軍は北京攻略を開始し、翌日陥落させた。北京には[[八旗]]や北洋軍ほかおよそ4万人強の兵力が集められたが、さきに天津から進攻する連合軍との戦いで敗れ、戦死あるいは戦意喪失による逃亡によって城攻防戦の際にはすでに多くの兵が失われていた。この北京占領以後、およそ1年間に及ぶ占領体制が布かれることになる。 占領直後から連合軍による略奪が開始され、[[紫禁城]]の秘宝などはこれがきっかけで中国外に多く流出するようになったと言われる。連合軍の暴挙によって王侯貴族の邸宅や[[頤和園]]などの文化遺産が掠奪・放火・破壊の対象となり、奪った宝物を換金するための泥棒市がたつほどであった。 日本軍は他国軍に先駆けて戦利品確保に動き出し、まず[[総理衙門]]と[[戸部_(官庁)|戸部]](財務担当官庁)を押さえて約291万4800両の馬蹄銀や32万石の玄米を鹵獲した。そのためか列国中戦利品が最も多かった。これは後述する情報将校[[柴五郎]]の指示に拠るものである。 ==== 西安蒙塵 ==== なお、西太后は北京陥落前に貧しい庶民に扮して脱出し、途中[[山西省]][[大同市|大同]]などに寄りつつ[[10月]][[西安]]に辿り着いた。彼女は[[アロー戦争]]の時にも、[[熱河]]に逃げているので生涯で二度も都落ちをしたことになる。 都落ちに際しては甥である[[光緒帝]]も同行させたが、その愛妃[[珍妃]]については[[宦官]]に命じて紫禁城寧寿宮裏にある井戸に落とし殺害させている。光緒帝を同行させたのは北京に残しておくことで列強を後ろ盾にした皇帝親政が復活する可能性を彼女が恐れたためであり、珍妃の殺害を命じたのは、彼女が光緒帝の寵愛を独占していたことや、若き日の西太后に似ており後々第2の西太后となることを危惧したことが原因であったと言われる。なお珍妃の遺体を井戸から引き上げ弔ったのは日本軍であった。 連合軍の北京占領はおよそ一年続いたが、それを嫌って西太后は帰ろうとしなかった。一年ほどの西安滞在後、[[1902年]][[1月]]鉄道を利用して帰京した。この時初めて彼女は鉄道に乗ったのだと言われている。下に掲げる「東南互保」の図に西太后・光緒帝の逃走と帰還の経路を載せる。 === 北京籠城 === ==== 籠城の開始 ==== 清朝の宣戦布告は、清朝内に在住する外国人及び中国人クリスチャンの孤立を意味するも同然であった。特に北京にいた外国公使たちと中国人クリスチャンにとっては切迫した事態を招来した。当時[[紫禁城]]東南にある'''東交民巷'''というエリアに設けられていた公使館区域には、およそ外国人925名、中国人クリスチャンが3000名ほどの老若男女が逃げ込んでいた。しかし各国公使館の護衛兵と義勇兵は合わせても481名に過ぎなかったという。 [[6月19日]]に24時間以内の国外退去命令が伝えられ、翌日から早速攻撃が開始された。以後八ヶ国連合軍が北京を占領する8月14日までのおよそ二ヶ月弱、籠城を余儀なくされるのである。ちなみに籠城した人の中には、中国研究者として名高い[[ペリオ]]や海関[[総税務司]]として長年中国に滞在していた[[ロバート・ハート]]、G.E.モリソン([[:en:George Ernest Morrison|G.E.Morrison]])、[[服部宇之吉]]、[[狩野直喜]]、[[古城貞吉]]といった有名人も含まれていた。 ==== 柴五郎 ==== この籠城にあって日本人[[柴五郎]]の存在は大きく、籠城成功に多大な寄与をしたと言われる。柴五郎は当時砲兵中佐の階級にあり、北京公使館付武官として清朝に赴任していた。籠城組は各国の寄り合い所帯であったため、まず意思疎通が大きな問題となったが、英語・フランス語・中国語と数ヶ国語に精通する柴中佐はよく間に立って相互理解に大きな役割を果たした。またこの籠城組の全体的な指導者はイギリス公使[[クロード・マクドナルド]]であったが、籠城戦に当たって実質総指揮を担ったのは柴五郎であり(各国中で最先任の士官だったから)、解放後日本人からだけでなく欧米人からも多くの賛辞が寄せられている。なお柴五郎は、明治期の政治小説『[[佳人之奇遇]]』で有名な[[東海散士]]こと柴四郎の弟にあたる。 ==== 中国人クリスチャンたち ==== またこの北京籠城を中国人対外国人という単純な図式で捉えることはできないであろう。上で触れているように公使館区域には中国人クリスチャンも多く逃げ込んできており、彼らが籠城の上で多くの重要な役割を果たしたことは否定できない。彼らは戦闘は無論、見張りや防衛工事、消火活動、負傷者の救護、外(連合軍)との秘密の連絡をこなし、柴五郎も''「耶蘇教民がいてわれわれを助けなかったならば、われわれ小数の兵にては、とうてい粛親王府は保てなかったかと思われます」、「無事にあの任務を果たせたのも信用し合っていた多くの中国人のお陰でした。そのことを明らかにすると、彼らは漢奸として、不幸な目にあうので、当時は報告しませんでした」''と回顧している。すなわち日本人や欧米人、中国人が団結し、大きな軋轢がなかったことこそが籠城を支えた、少なくとも内からの瓦解を防いだと言っても過言ではない。 ==== 清朝の交戦姿勢 ==== [[Image:北京公使館籠城防衛線変遷図.JPG|350px|thumb|義和団の乱時の東交民巷<BR>2ヶ月弱の防衛線の変化も示す]] しかし籠城を成功させた最も大きな理由は、清朝の不徹底な交戦姿勢にあった。西太后の命により「宣戦布告」したものの、当初から列強に勝利する確信は清朝側に無かった。少なくとも[[栄禄]]ら戦争消極派はそう考えていた。したがって敗戦後の連合軍の報復を考慮したとき、公使館に立てこもる人々を虐殺することに躊躇を覚えていたのである。柴五郎らもその辺の温度差を敏感に感じ取っており、柴は董福祥の甘軍は真剣に包囲殲滅を目指しているが、栄禄直轄の部隊は銃撃するものの突撃などは少なかったと解放後に述べている。 右略図にあるように、防衛線は粛親王府やフランス公使館方面が徐々に後退しているものの、各国公使の家族が避難していたイギリス公使館側の防衛戦にはほとんど変化がない。柴同様籠城していた[[西徳二郎]]公使が''「清国政府としてはそれまでの決心がない」''というように、清朝側も公使団の扱いに困惑し、非情な決断をしかねたという背景が二ヶ月の籠城戦にはあった。あるいは清朝内の徹底抗戦派と和平派の綱引きの間に公使館は置かれていたといえる。近年の研究には、公使館の人々を人質として生かし、列強との外交交渉を有利に運ぶ材料として清朝が考えていたという主張をするものもある。 ==== 籠城の終焉 ==== 清朝軍によって襲撃・夜襲を仕掛けられることはあったものの、時折休戦が差し挟まれ、その間公使団と清朝とは話し合いをもったため休息することが可能であった。特に[[7月17日]]以降から北京陥落の数日前までは比較的穏やかな休戦状態が維持継続され、尽きかけた食料・弾薬を調達することもできた。[[8月11日]]から14日までは再び清朝軍の攻勢が強まったが、[[8月14日]]の午後ついに援軍が来て2ヶ月弱の籠城戦は終わりをつげた。 この籠城戦において、どの国も犠牲者を出した。籠城を余儀なくされた外国人は925名に上るが、戦死者は20名ほどであった。日本人は攻撃の激しかった粛親王府防衛を受け持っていたため、各国の中で最も死者率が高かった。中国人クリスチャンは18名が亡くなっている。 == 「東南互保」と北京議定書 == === 「東南互保」宣言 === [[Image:東南互保.JPG|300px|left|thumb|東南互保形勢図と西太后蒙塵行]] 時計の針をやや戻す。西太后が「宣戦布告」の上諭を出して列強への態度を明確化した頃、[[両江総督]][[劉坤一]]や[[湖広総督]][[張之洞]]、[[両広総督]][[李鴻章]]ら地方の有力官僚らは、この上諭を偽詔とした上で従わない旨宣言し、そして義和団の鎮圧に動いた。また列強各国領事と「'''[[東南互保]]'''」という了解を結び、義和団の騒擾を中国北部に限定するようし向けた。具体的には、[[盛宣懐]]や[[張謇]]が地方大官と各国領事の間を奔走し、「'''保護南省商教章程'''」9ヶ条と「'''保護上海租界城廂章程'''」10ヶ条を結び、外国人の生命及び財産を列強が進攻しない限り保護することを確約した。 この「条款」は中国東南に位置する地方の総督や巡撫といった大官と列強との利害が一致したため成立した。 いわば、清朝の地方の大官僚たちが結託して地方の利害を優先させ、義和団の影響が及ばないよう先手をうったといえる。 これは明らかに西太后の命に背くものであったため、[[剛毅]]らは弾劾上奏を行ったが西太后は特段処分を下さなかった。それは西太后の保険であったためである。つまり列強との戦争の雲行きが怪しくなった場合に備え、「東南互保」を暗黙裡に認め、敗戦の総責任を負うことを求められないようにした政治的駆引きの一つであった。実際後述するように西太后は義和団の乱に関して何ら責任追及を受けていない。 === 北京陥落以後 === ==== 「扶清滅洋」から「掃清滅洋」へ ==== 北京の陥落後しばらくして、清朝の姿勢は180度転換した。すなわち[[8月20日]]に己を罪する詔を出し、義和団を「拳匪」あるいは「団匪」と呼び反乱軍と認定した。以後義和団は清朝をも敵にまわし戦闘せざるを得なくなる。それまで「扶清滅洋」を旗印にしていた義和団は、清朝に失望し「'''掃清滅洋'''」(清を掃〔はら〕い洋を滅すべし)と変えるに至った(他に「清を平らぐ」、「清に反〔そむ〕く」などのバージョンもある)。これは後述する [[北京議定書]](辛丑条約)によって過大な賠償金を強いられることになった清朝が、その負担を庶民に転嫁せざるを得なくなったことも大きな理由である。 ==== 義和団の鎮圧 ==== 北京占領後の[[1900年]][[9月]]に、連合軍にドイツから'''[[アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー|ワルテルゼー]]'''元帥率いる数万人の兵力が増強され、彼が連合国総司令官になると、北京周辺の度重なる懲罰的掃討作戦を展開した。各国を合わせると計78回に及ぶ義和団残党狩りが行われ、それは[[山海関]]や[[保定]]、[[山西省]]と直隷省との境界線付近まで含む広大な範囲にわたった。特に多くの掃討戦を行ったのはドイツであって、約半分を占めている。 またロシアはこの時[[満州]]占領を企図して進駐し、これが後々[[日露戦争]]の導火線の一つとなった。右表に明らかなように、実は北京陥落以後の方が投入された兵力は多く、'''最大71920名'''に上る。義和団の乱後の清朝における勢力扶植に努めるためであった。 [[Image:八ヶ国連合軍兵力推移表.JPG|250px|thumb|八ヶ国連合軍兵力推移表]] ==== 義和団の乱における死傷者数 ==== 連合軍は上記のように多くの兵力を投入したが、どの程度の死傷者を出したのであろうか。日本軍の計算に依れば、全期間にわたる死者数は'''757名'''、負傷者数は2654名とされている。ちなみに最も多くの死傷者を出したのは日本であった(死者349名・負傷者933名)。また清朝や義和団によって殺害された人々は宣教師や神父など教会関係者が'''241名'''(カトリック53人+[[プロテスタント]]188人)、中国人クリスチャン'''23000人'''といわれる。一方清朝や義和団側の死傷者は統計としては正確性を欠かざるをえないが、上で引用したように天津城攻防戦だけで4000名ほどの遺体があったと日本軍が書いていることから考えて、一年ほどの戦争期間に多大な死傷者を出したことは容易に想像できる。 === 北京議定書 === 詳しくは[[北京議定書]]参照。[[Image:Chinaboxerprotocolsignature.png|left|thumb|北京議定書]] 西太后は北京から逃走する途中で義和団を弾圧する上諭を出したが、同時に列強との和議を図るよう李鴻章に指示を出した。その時後々有名となる次のことばを用いている。「'''中華の物力を量りて、與国の歓心を結べ'''」(「清朝の〔そして西太后の〕地位さえ保証されるなら金に糸目はつけるな)。列強との交渉は[[愛新覚羅奕キョウ|慶親王奕劻]]<ref name="ekikyou">[[愛新覚羅奕キョウ|慶親王奕劻]](1838年 - 1917年)。[[咸豊帝]]の従兄弟に当たる。ただ幼少期は貧しかったという。才識は凡庸だといわれたが、人の心を捉えるのに長け、西太后に非常に気に入られたのをきっかけに出世した。[[1884年]]、[[愛新覚羅奕キン|恭親王奕訢]]に代わり一時[[総理衙門]]を取り仕切ったこともある。義和団の乱の際は穏健派に属し列強への宣戦布告などには反対していたため、その後講和代表として選ばれている。乱後の政治改革において設けられた外交部の大臣にも就任し、栄禄亡き後は非常な権勢を誇るに至った。それは[[辛亥革命]]まで、つまり清朝が滅亡するまで続いた。革命後天津に移り住み余生を送ったが、[[1917年]]病死した。『清史稿』巻221・列伝8。</ref>及び直隷総督兼北洋大臣に返り咲いた李鴻章が担ったが、敗戦国という立場上列強の言いなりとならざるを得ず、非常に厳しい条件が付せられた。またそれは西太后の地位を守るための代償という意味合いもあった。 義和団の乱の責任は端郡王載漪や剛毅ら数人の重臣と地方官僚50人ほどに帰せられ、処刑もしくは流刑を言い渡された。[[1901年]][[9月7日]]に締結された条約中、もっとも過酷だったのは賠償金の額であった。清朝の歳入が8800万両強であったにもかかわらず、課された賠償金の総額は'''4億5000万両'''、利息を含めると9億8000万両にも上った。このしわ寄せは庶民にいき、「掃清滅洋」という清朝を敵視するスローガンは、義和団以外にも広がりを見せるようになる。 後半は、[[義和団の乱-2]]参照   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月27日 (木) 12:32。]    

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