中国国民党

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[[Image:World 1898 empires colonies territory.png|thumb|350px|[[1898年]]当時の帝国主義列強勢力図]] '''帝国主義'''('''ていこくしゅぎ''',英語:'''imperialism''')とは、一つの[[国家]]が、自国の[[民族主義]]、[[文化]]、[[宗教]]、[[経済]]体系などを拡大するため、もしくは同時に、新たな領土や[[天然資源]]などを獲得するために、[[軍事]]力を背景に他の[[民族]]や国家を積極的に侵略し、さらにそれを押し進めようとする思想や[[政策]]。本来は[[19世紀]]中葉以降の移民を主目的としない[[植民地]]獲得を指して使われる用語であるが、歴史学以外の分野ではしばしば文学的・政治的修辞として単純に膨張主義を指して使われる場合もある。また、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]は植民地再分割を巡る列強の衝突から共産主義革命に繋げようとする立場から更に限定し、『[[帝国主義論]]』([[1916年]])の中で[[20世紀]]初頭以降を帝国主義として論じているが、[[ソビエト連邦]]も崩壊して久しい現在ではその様な問題設定がなされる事は少なくなっており、これは[[マルクス・レーニン主義]]における特殊な用法ともいえる。 ==概要== 帝国主義とは、資本主義の独占段階であり、世紀転換期から[[第一次世界大戦]]までを指す時代区分でもあり、[[列強]]諸国が植民地経営や権益争いを行い世界の再分割を行っていた時代を指す。この時期のみを帝国主義と呼ぶのか、その後も帝国主義の時代に含めるのかについては論争がある。レーニンが『帝国主義』において多くを引用している[[ジョン・アトキンソン・ホブソン|ホブスン]]の研究では帝国主義は19世紀中葉以降の植民地獲得、特に移民先として不適切な為、余剰人口の捌け口とは成り得ない熱帯地域での拡張を帝国主義として批判の対象としている。 レーニンによれば、高度に[[資本主義]]が発展することで成立する[[独占資本]]が、[[市場]]の確保や余剰資本の投下先として新領土の確保を要求するようになり、国家が彼らの提言を受けて行動するとされる。いくつもの国家が帝国主義に従って領土(植民地)を拡大するなら、[[世界]]は有限であるから、いつかは他の帝国主義国家から領土(植民地)を奪取せねばならず、[[世界大戦]]はその当然の帰結である、が導かれる。レーニンの『帝国主義論』は、世界大戦の結果としての破局が資本主義体制の破局につながると指摘した。この様な経済決定論的なレーニンの主張はしばしば「ホブスン=レーニン的」帝国主義と評されるが、ホブスンの本来の論では余剰資本の投下先という経済的側面の他に、植民地が社会的地位の高い職を提供するという社会的側面についても指摘されており、必ずしもホブスンとレーニンの主張は同一のものではない。またこのような経済決定論は、しばしば資本の投資先が自国植民地に限られなかった点を見過ごしている。 ギャラハー=ロビンソンによる自由貿易帝国主義(Imperialism of free trade)は、[[非公式帝国]]という概念を用い、自国の植民地以外への投資を説明している。彼らの論によれば、自由貿易の堅持や権益の保護、情勢の安定化といった条件さえ満たされるのならば、植民地の獲得は必ずしも必要ではなく、上記の条件が守られなくなった場合のみ植民地化が行われたとされる。ギャラハー=ロビンソンは現地の情勢と危機への対応に植民地化の理由を求めた為、それ以降「周辺理論」と呼ばれる、植民地側の条件を重視する傾向が強くなった。 それに対し、再び帝国主義論の焦点を「中心」に引き戻したのがウォーラステインによる[[世界システム論]]であり、ケイン=ホプキンズによる[[ジェントルマン資本主義]]である。ウォーラステインはしばしば余りに経済決定論的過ぎるとして批判されるが、ケイン=ホプキンズはホブスン以来の社会的側面に再び注目し、本国社会における政治的・社会的要因を取り上げた。これらの研究は第二次大戦後、脱植民地化が進むにつれ指摘される様になった[[新植民地主義]]{{enlink|Neocolonialism}}(間接的に政治・経済・文化を支配する)の影響を受けたものである。 ==思想== 帝国主義は他者を支配する事を積極的に肯定する思想によって正当化された。それは生物学上の概念であった適者生存をより複雑な人間社会にまで拡大した[[社会ダーウィニズム]]や[[科学的レイシズム]]{{enlink|Scientific racism}}などの[[疑似科学]]によって裏打ちされた帝国意識であり、[[キプリング]]の「[[白人の責務]]」{{enlink|The White Man's Burden}}という言葉に代表される。 帝国主義を批判したホブスンも究極的には人類全体の幸福に寄与する資本主義という理念を信奉しており、周辺地域を然るべき方法で経済圏に組み込む事自体は文明化の一環として肯定している。この[[オリエンタリズム]]の典型とも言える思想は非ヨーロッパ地域を支配する事はしばしば経済的原理を超えて、良心の名の下に進められており、安全と文明化の手段が提供されるのであれば、必ずしも自国による政治的支配は要求されなかった反面、[[ベルギー]]領[[コンゴ自由国]]における[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド二世]]の様に「白人の責務」を見失い、度の過ぎた搾取を行う様になれば国際社会から痛烈な批判を浴びる事となった。 == 主な帝国主義論 == === レーニン === レーニンによれば帝国主義は資本主義の特殊な歴史段階である。この特殊性は3通りである。すなわち、帝国主義とは、(1)独占資本主義、(2)寄生的な、または腐朽しつつある資本主義、(3)死滅しつつある資本主義である。レーニンは帝国主義列強間の衝突を予見し、社会主義革命の契機と捉えた。 === ホブスン === ホブスンは1902年に『帝国主義論』を著し、1860年代以降のイギリス帝国拡大を、「植民」から離れた資本投下と市場開拓のための帝国主義と批判した。この 経済的側面についての指摘はレーニンの著作に大きな影響を与えている。またレーニンに影響を与えることはなかったものの、政治的・社会的側面として、金融・軍事・物流といった分野の、帝国維持にかかるコスト自体が目的となりうる階層の利害も指摘した。ホブスンは帝国主義を「文明の堕落」と考えていた反面、資本主義と「文明」の本質的な善性を信じており、現在でいう国際連合のような国際機関の信託の下で「野蛮」を「文明化」することは究極的には良いことであると考えていた。 ==関連項目== {{Commonscat|Imperialism}} * [[イギリス連邦]] * [[アジアでの帝国主義]] [[w:Imperialism in Asia]] * [[アメリカ帝国主義の歴史]] [[w:History of United States Imperialism]] * [[パックス・アメリカーナ]] * [[パックス・ブリタニカ]] * [[パックス・ロマーナ]] * [[マルクス・レーニン主義]](パックス・ルッソ) * [[メディア帝国主義]] [[w:Media Imperialism]] * [[文化帝国主義]] [[w:Cultural imperialism]] * [[新帝国主義]] [[w:New Imperialism]] * [[植民地主義]] * [[産業革命]] * [[言語帝国主義]] * [[超大国]] [[w:Superpower]] * [[覇権主義]] * [[日本帝国主義]] * [[アメリカ帝国主義]] * [[アメリカ大陸諸国の独立年表]] * [[中華帝国]] * [[アジア・アフリカ諸国の独立年表]] * [[脱植民地化]] * [[ルール!ブリタニア]] * [[威風堂々 (行進曲)]] * [[自由連合盟約]] * [[マニフェスト・デスティニー]] ==関連書籍== * <b>Hobson, J.A.</b>(1965/1902), <i>Imperialism</i>, Michigan. ISBN 0472061038 * <b>Lenin, Vladimir Iliich; 聴濤 弘(訳)</b>(1999)、『帝国主義論』、新日本出版社。ISBN 4406026967 * <b>Said, Edward W.</b>(1994), <i>Culture and Imperialism</i>, repr ed., Vintage. ISBN 0679750541 * <b>山内 昌之</b>(2004)、『帝国と国民』、岩波書店。ISBN 4000240102 * <b>幸徳 秋水;山泉 進(校注)</b>(2004/1901)、『帝国主義』、岩波書店。ISBN 4003312511 * <b>後藤 道夫、伊藤 正直;渡辺 治(編)</b>(1997)、『現代帝国主義と世界秩序の再編』、大月書店。ISBN 4272200623 * <b>木谷 勤</b>(1997)、『帝国主義と世界の一体化』、山川出版社。ISBN 4634344009 * <b>歴史学研究会(編)</b>(1995)、『強者の論理―帝国主義の時代』、東京大学出版会。ISBN 413025085X [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月25日 (金) 16:47。]     
{{政党 |国名 = {{ROC-TW}} |党名 = 中国国民党 |公用語名 = 中國國民黨(Kuomintang of China) |党首職名 = [[主席|党首]] |党首氏名 = 呉伯雄 |議院代表職名 = 秘書長 |議院代表氏名 = 呉敦義 |成立年月日 = [[1919年]][[10月10日]] |本部所在地 = [[台北市]][[中山区 (台北市)|中山区]]八徳路2號232樓 |議院 = [[中華民国立法院|立法院]] |議員数 = 81 |議員定数 = 113 |議員集計年月日 = [[2008年]][[1月]]現在 |党員・党友数 = 1,089,000 |党員・党友数集計年月日 = [[2006年]] |政治的思想・立場 = [[保守]]、[[中道右派]]、[[泛藍連盟]] |ウェブサイト = http://www.kuomintangnews.org/client/jpn/ |サイトタイトル = 中国国民党公式サイト |シンボル = [[Image:Naval Jack of the Republic of China.svg|200px]]<br/>[[中華民国の国旗#歴史|青天白日旗]] |国際組織 = [[国際民主同盟]] |その他 = }} '''中国国民党'''(ちゅうごくこくみんとう、[[繁体字]]:'''"中國國民黨"'''、[[簡体字]]:'''"中国国民党"'''、[[英語|英]]:'''"Kuomintang of China'''" {{ピン音|'''"Zhōngguó Guómíndăng"'''}})は、[[中華民国]]([[台湾]])の[[政党]]。 [[1919年]]、[[孫文]]らにより[[中華革命党]]を改組して結成。 == 概要 == [[ウェード式]]ローマ字表記及びそれを元にした[[英語]]表記の'''Kuomintang''' から'''KMT'''と略す場合もある。[[中華民国]]の[[野党]]最大党で、[[泛藍連盟]]に分類される。政策的にはきわめて保守的。[[台北市|台北市長]]在任中の特別費の使用をめぐり汚職容疑(横領容疑)で起訴された[[馬英九]]の主席辞任を受け、2007年2月13日から[[:zh:吳伯雄|呉伯雄]]が代理主席を務め、同年4月7日の主席選挙で改めて呉伯雄が主席に選出された。 1949年以来現在に至るまで、中国国民党は[[台湾]]を活動の拠点とし、それ以前の活動の拠点であった[[中国大陸]]では実質的な政治活動を行っていない。そのため、[[日本]]ではメディアを中心に'''台湾国民党'''とも称されていた。 == 歴史 == [[孫文]]によって[[1894年]]11月に[[ハワイ]]で結成された[[興中会]]を母体として、[[1919年]][[10月10日]]に、[[ロシア革命]]の影響を受け、[[広東省|広東]]において孫文等により結成された([[国民革命党]]からの単なる「改組」「改称」である、との指摘もある)。同年の[[五四運動]]に民衆の政治意識の高揚を読み取った上での孫文の決断であり、結成された当初の主要メンバーは、孫文の他、[[汪兆銘]](汪精衛)など。なお、[[宋教仁]]により[[1912年]]に結成された「国民党」は、別の[[政党]]である。 [[1924年]][[1月20日]]には、[[中国共産党]]との[[第一次国共合作]]が成立し、[[軍閥]]に対抗するための素地が形成された。孫文の死後、[[1925年]][[5月30日]]に[[上海]]で発生した五・三〇運動を背景にして、汪兆銘を主席とする[[広東省|広東]][[国民政府]]を樹立、[[1926年]]には、[[北伐]]を開始した。[[1927年]]に、[[蒋介石]]の[[上海クーデター]]により[[国共合作]]は崩壊したものの、北伐は継続され、[[1928年]]には[[北京]]に入城し、[[北京政府]]を消滅させることに成功した。 北伐の完了を受けて、[[1928年]]、[[南京]]に蒋介石を主席とする国民政府が成立した。しかし、その内実は、北伐の過程で、各地の[[軍閥]]を取り込んだ、雑居政党となっており、それらを整理しようとする蒋介石の動きを1つの契機として、中原大戦([[1930年]][[5月1日]]‐[[10月10日]])を頂点とする、党内対立の激化が起こり、最大の危機を迎えることになる。 [[1932年]]には、強大な軍事力とブルジョアジーの支持を背景に、蒋介石はなんとかその危機を乗り越えるが、他方で、その間の中国共産党の勢力回復や[[満州事変]]以降の日本による侵略に脅かされることになる。 蒋介石は、[[抗日戦]]より[[反共]]を優先し、[[1930年]]から[[1934年]]にかけて、5次にわたる反共囲剿戦(掃共戦)を繰り広げるも、共産党は[[井崗山]]の革命根拠地を撤収・放棄して[[長征]]を行ったことから共産党を消滅させるには至らなかった。[[1936年]]には[[西安事件]]で、なおも抗日戦における中国共産党との共闘に徹底的に反対していた蒋介石が軟禁され、これが、国共両党の接近をもたらした。 [[1937年]]に[[日中戦争]]が開始され、同年[[9月22日]]、[[第二次国共合作]]が成立。同年末に南京が陥落すると、国民政府は[[重慶]]に移転し、日本軍による攻撃をしのいだ。 [[1945年]]に日本が戦争に敗れ中国本土から撤退すると、同年11月から[[国共内戦]]が再開されるが、[[ソビエト連邦|ソ連]]が支援する中国共産党軍に対する劣勢を挽回できず、[[1949年]]には、国民政府(中国国民党)は、内戦に敗れて[[台湾島]]に逃れた。このため中国国民党の実質統治範囲は、建国以来の福建省(馬祖・金門)と、1945年の日本敗戦後に連合国として統治していた[[台湾]]島一帯だけとなった。 台湾に本拠地を移して以降は長期的な視野で大陸との統一を主張しているが、共産党主導の統一には反発を示しており、短期的な視野では現状維持を志向している。[[2000年]]の総統選挙で[[民進党]]の[[陳水扁]]に敗れて以降は野党になっている。 [[2005年]]に国民党主席の[[連戦]]らが[[北京]]を訪問。[[中国共産党]]総書記・[[中華人民共和国主席]]の[[胡錦濤]]と会談した。両党トップの会談は1945年以来60年ぶりで、[[台湾独立]]反対という姿勢で一致した。 国共内戦においては大部分が台湾に逃れたが、四川・雲南方面の部隊は[[タイ王国|タイ]]、[[ミャンマー]]、[[ラオス]]等に逃れ、同地の政治的混乱に乗じる形で抵抗拠点を築いた。特に内戦の激しいミャンマーでは麻薬生産等にも関わって勢力を拡張した時期もあった。しかし、国際情勢の変化や高齢化などから現在はその大半が武装解除し、現地に帰順・定住しつつある。[[タイ王国|タイ]]北部には国民党の集落がある。[http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/kmtthai/KMTmenu.html] == 国民党独裁 == 台湾に逃れた国民党は、[[戒厳令]]を施行し、[[一党独裁]]体制を固めた。国民党以外の政党は、[[青年党|中国青年党]]、[[民主社会党|中国民主社会党]]などの[[衛星政党]]が存在するのみで、「便所の花瓶」と揶揄された。 蒋介石を批判する側は(台湾において使用例は少ないが民進党関係者が)[[党国体制]]・(日本おいて台湾独立運動家を中心に)[[擬似マルクス・レーニン主義体制]]と呼んでいる。 国民の間では、政治的な話題はタブーとなり、たとえば鉄道職員に[[台北市|台北]]~[[高雄市|高雄]]間を走る特急「[[自強号]]」の名前の由来を尋ねるだけでも口を噤まれる状況があった(「自強」は中華民国の[[国際連合|国連]]脱退時のスローガン「荘敬自強、處變不驚」に由来)。このような言論自粛を、台湾では「一人一人の心の中の小さな戒厳司令部」と呼んだ。 1987年7月に戒厳令が解除され、台湾における中国国民党の独裁は廃し、民主化された。 ただし、[[1986年]][[9月30日]]、[[民主進歩党]]が結成されたとき、国民党当局は、これを公認するのではなく、黙認する形をとった。 == 中国国民党革命委員会 == [[中華人民共和国]]の「民主諸党派」([[中国共産党]]の[[衛星政党]])の一つに「[[中国国民党革命委員会]]」がある。[[孫文]]夫人の[[宋慶齢]]を中心に、[[蒋介石]]を嫌って大陸に残存した国民党のメンバーを中心に結成された。現在の党員数は公称で6万ほど。略称は「民革」。 == 全国代表大会・中央委員会全体会議 == 結成から1949年までのものを以下に掲げる。日付は開始日、カッコ内は開催地。 * 全大会=全国代表大会 * 中全会=中央(執行)委員会全体会議 * 1924年 1月 20日: 国民党一全大会(広州)、第一次国共合作 * 1924年 1月 31日: 国民党一期一中全会(広州) * 1924年 8月 15日: 国民党一期二中全会(広州) * 1925年 5月 18日: 国民党一期三中全会(広州) * 1925年 11月 23日: 国民党一期四中全会(北京。いわゆる西山会議) * 1926年 1月 1日: 国民党二全大会(広州)、西山会議派弾劾 * 1926年 1月 22日: 国民党二期一中全会(広州) * 1926年 3月 29日: 国民党二全大会(上海、西山会議派) * 1926年 5月 15日: 国民党二期二中全会(広州)、「党務整理案」を可決 * 1926年 7月 4日: 国民党二期臨時全会(広州) * 1927年 3月 10日: 国民党二期三中全会(漢口) * 1927年 9月 16日: 国民党中央特別委員会(南京) * 1928年 2月 2日: 国民党二期四中全会(南京) * 1928年 8月 8日: 国民党二期五中全会(南京) * 1929年 3月 15日: 国民党三全大会(南京)、「訓政綱領」採択 * 1929年 3月 28日: 国民党三期一中全会(南京) * 1929年 6月 10日: 国民党三期二中全会(南京) * 1930年 3月 1日: 国民党三期三中全会(南京) * 1930年 11月 12日: 国民党三期四中全会(南京) * 1931年 5月 1日: 国民党三期第一臨時全会(南京) * 1931年 6月 13日: 国民党三期五中全会(南京) * 1931年 11月 9日: 国民党三期第二臨時全会(南京) * 1931年 11月 12日: 国民党四全大会(南京) * 1931年 11月 18日: 粤方国民党(広州反蒋派:主席・孫科)四全大会開催 * 1931年 12月 22日: 国民党四期一中全会(南京) * 1932年 3月 1日: 国民党四期二中全会(洛陽) * 1932年 12月 15日: 国民党四期三中全会(南京) * 1934年 1月 20日: 国民党四期四中全会(南京) * 1934年 12月 10日: 国民党四期五中全会(南京) * 1935年 11月 1日: 国民党四期六中全会(南京)、汪精衛暗殺未遂事件 * 1935年 11月 12日: 国民党五全大会(南京) * 1935年 12月 2日: 国民党五期一中全会(南京) * 1936年 7月 10日: 国民党五期二中全会(南京) * 1937年 2月 15日: 国民党五期三中全会(南京)、第二次国共合作 * 1938年 3月 29日: 国民党臨時全大会(武漢・武昌) * 1938年 4月 6日: 国民党五期四中全会(漢口) * 1939年 1月 21日: 国民党五期五中全会(重慶) * 1939年 8月 28日: 国民党「六全大会」(汪精衛、上海) * 1939年 11月 12日: 国民党五期六中全会(重慶) * 1940年 7月 1日: 国民党五期七中全会(重慶) * 1941年 3月 24日: 国民党五期八中全会(重慶) * 1941年 12月 15日: 国民党五期九中全会(重慶) * 1942年 11月 12日: 国民党五期十中全会(重慶) * 1943年 9月 6日: 国民党五期十一中全会(重慶) * 1944年 5月 20日: 国民党五期十二中全会(重慶) * 1944年 9月 : 国民党五期十三中全会([http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/7906/1-2.htm]に記載あり) * 1945年 5月 5日: 国民党六全大会(重慶) * 1945年 5月 28日: 国民党六期一中全会(重慶) * 1946年 3月 1日: 国民党六期二中全会(重慶) * 1947年 3月 15日: 国民党六期三中全会(南京) * 1947年 9月 9日: 国民党六期四中全会(南京) * 1948年 4月 4日: 国民党六期臨時全会(南京) * 1949年 7月 16日: 非常委員会(広州) == 関連項目 == * [[孫文]] * [[蒋介石]] * [[宋美齢]] * [[蒋経国]] * [[連戦]] * [[馬英九]] * [[日中戦争]] * [[国共合作]] * [[南京大虐殺]]-[[ハロルド・J・ティンパーリ]]-[[王小亭]]-[[ザ・バトル・オブ・チャイナ]] * [[南京大虐殺論争]]-[[便衣兵]]-[[督戦隊]] * [[クレア・リー・シェンノート]] * [[フライングタイガース]](アメリカ人義勇軍部隊) * [[フランクリン・D・ルーズベルト]] * [[ヨシフ・スターリン]] * [[ウィンストン・チャーチル]] * [[中国民主化運動]] * [[台湾]] * [[外省人]] * [[ファシズム]] * [[擬似マルクス・レーニン主義体制]] * [[ヘゲモニー政党制]] * [[白色テロ]] * [[権威主義]] * [[開発独裁]] * [[独裁]] == 外部リンク == * [http://www.kuomintangnews.org/client/jpn/ 中国国民党公式サイト]([[日本語]]) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年2月24日 (日) 03:34。]     

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