統制派

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'''統制派'''('''とうせいは''')は、合法的に政府に圧力を加え、操作しようとした[[大日本帝国]]の[[陸軍]]内のグループである。軍内の[[近代派]]であり、近代的な[[軍備]]や産業機構の整備に基づく、[[総力戦]]に対応した[[高度国防国家]]を構想した。旧桜会系統の[[参謀本部]]、[[陸軍省]]の佐官クラスの幕僚将校を中心に支持されていた。中心人物は[[永田鉄山]]、[[東條英機]]。 対立している[[皇道派]]が反ソ・反共を掲げ、右派色が強かったのに対して、統制派は中国への一撃を主張し、英米を敵とし、[[日ソ中立条約|ソ連との不可侵条約]]の締結を推進した。永田の愛弟子で統制派の理論的指導者である[[池田純久]]が『陸軍当面の非常時政策』で「近代国家に於ける最大最強のオルガナイザーにして且つアジテーターはレーニンが力説し全世界の共産党員が実践して効果を煽動したるジャーナリズムなり、軍部はこのジャーナリズムの宣伝煽動の機能を計画的に効果的に利用すべし」と主張しているように統制派は『太平洋五十年戦略方針』などの編集で[[細川嘉六]]や[[中西功]]、[[平野義太郎]]ら[[共産主義]]運動に詳しい人物を積極的に起用した[http://touarenmeilv.ld.infoseek.co.jp/from79to87ww2.htm]。また、池田純久が『[[国防の本義と其強化の提唱]]』にて「われわれ統制派の最初に作成した国家革新案は、やはり一種の[[暴力革命]]的色彩があった」と述べてるように最初から合法性に依っていたわけではなかった。 中心人物の永田鉄山が皇道派の[[陸軍中佐]][[相沢三郎]]に暗殺された([[相沢事件]])後、皇道派との対立を激化させる。この後、皇道派による[[二・二六事件]]が鎮圧されると皇道派の将校は予備役に追いやられた。さらに退役した皇道派の将校が[[陸軍大臣]]になることを阻むべく[[軍部大臣現役武官制]]を復活させ、これにより陸軍内での対立は統制派の勝利という形で一応の終息をみる。その後、陸軍内での勢力を急速に拡大し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍に非協力的な内閣を倒閣するなど政治色を増し、最終的に、永田鉄山の死後に統制派の首領となった東条英機の下で、[[全体主義]]色の強い[[東條内閣]]を成立させるに至る。 == 関連項目 == *[[皇道派]] *[[日中戦争]] *[[太平洋戦争]] [[Category:大日本帝国陸軍|とうせいは]] == 外部リンク == *[http://teikoku.xxxxxxxx.jp/1934_kokubo.htm 国防の本義と其強化の提唱] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%B5%B1%E5%88%B6%E6%B4%BE 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月26日 (火) 02:52。]    
'''統制派'''(とうせいは)は、[[大日本帝国]]の[[陸軍]]内の[[派閥]]。 天皇親政の強化や財閥規制など政治への深い不満・関与を旗印に結成されていた[[皇道派]]に対し、軍内の規律統制([[文民統制]]の尊重・堅持)の意味から統制派と呼ばれる。皇道派の中心人物である[[荒木貞夫]]が陸相に就任した犬養内閣時に断行された露骨な皇道派優遇人事に反発した陸軍中堅層が結集した派閥とされるが、皇道派のような明確なリーダーや指導者は居らず、初期の中心人物と目される[[永田鉄山]]も軍内での派閥行動には否定的な考えをもっており、「非皇道派=統制派」が実態だとする考え方も存在する。ただ永田亡き後、統制派の中心人物とされた[[東條英機]]や[[石原莞爾]]などの行動や主張が、そのまま統制派の主張とされることが多い。 [[2・26事件]]遂行に失敗・挫折した皇道派の著しい勢力弱体や世界の列強各国での[[集産主義]]台頭、他、世界恐慌に対し有効性を示したブロック経済への羨望が進むにつれ、当初の結成目的・本分から徐々に外れ、合法的に政府に圧力を加えたり、あるいは持論にそぐわない政府の外交政策に対し[[統帥権干犯]]を盾に公然と非協力な態度・行動をとったりサボタージュも厭わない[[軍閥]]へと変容していった。[[革新官僚]]とも繋がりを持つ軍内の[[近代派]]であり、近代的な[[軍備]]や産業機構の整備に基づく、[[総力戦]]に対応した[[高度国防国家]]を構想した。旧桜会系統の[[参謀本部]]、[[陸軍省]]の佐官クラスの幕僚将校を中心に支持されていた。中心人物は[[永田鉄山]]、[[東條英機]]。 対立している[[皇道派]]が反ソ・反共を掲げ、右派色が強かったのに対して、統制派は中国への一撃を主張し、英米を敵とし、[[日ソ中立条約|ソ連との不可侵条約]]の締結を推進した。永田の愛弟子で統制派の理論的指導者である[[池田純久]]が『陸軍当面の非常時政策』で「近代国家に於ける最大最強のオルガナイザーにして且つアジテーターは[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]が力説し全世界の共産党員が実践して効果を煽動したるジャーナリズムなり、軍部はこのジャーナリズムの宣伝煽動の機能を計画的に効果的に利用すべし」と主張しているように、統制派は『太平洋五十年戦略方針』などの編集で[[細川嘉六]]や[[中西功]]、[[平野義太郎]]ら[[共産主義]]運動に詳しい人物を積極的に起用した<sub><ref>[http://touarenmeilv.ld.infoseek.co.jp/from79to87ww2.htm 国民のための大東亜戦争正統抄史 1928-56戦争の天才と謀略の天才の戦い 79~87近衛上奏文解説]</ref></sub>。また、池田純久が『[[国防の本義と其強化の提唱]]』にて「われわれ統制派の最初に作成した国家革新案は、やはり一種の[[暴力革命]]的色彩があった」と述べているように、最初から合法性に依っていたわけではなかった。 中心人物の永田鉄山が皇道派の[[相沢三郎]][[陸軍中佐]]に暗殺された([[相沢事件]])後、皇道派との対立を激化させる。この後、皇道派による[[二・二六事件]]が鎮圧されると、皇道派将校は予備役に追いやられた。さらに退役した皇道派の将校が[[陸軍大臣]]になることを阻むべく[[軍部大臣現役武官制]]を復活させ、これにより陸軍内での対立は統制派の勝利という形で一応の終息をみる。その後、陸軍内での勢力を急速に拡大し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍に非協力的な内閣を倒閣するなど政治色を増し、最終的に、永田鉄山の死後に統制派の首領となった東条英機の下で、[[全体主義]]色の強い[[東條内閣]]を成立させるに至る。 == 関連項目 == * [[皇道派]] * [[満州派 (大日本帝国陸軍)]] * [[日中戦争]] * [[太平洋戦争]] == 外部リンク == *[http://teikoku.xxxxxxxx.jp/1934_kokubo.htm 国防の本義と其強化の提唱] == 脚注 == <references /> _ [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%B5%B1%E5%88%B6%E6%B4%BE 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月25日 (木) 04:01。]    

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