超然主義

「超然主義」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

超然主義」(2009/01/29 (木) 23:16:31) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

'''超然主義'''(ちょうぜんしゅぎ)とは、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義をいう。一般的には、[[大日本帝国憲法]]発布後、[[帝国議会]]開設から[[大正時代]]初期頃までにおいて、[[藩閥]]・[[官僚]]から成る政府が採った立場を指し、政府は[[議会]]・[[政党]]の意思に制約されず行動すべきという主張であるとされる(異説<ref>[[坂野潤治]]や[[御厨貴]]らは、超然主義には本来の意味である議会や政党の存在・主張を無視するという意味の他に、どの政党に対しても親疎の差を付けずに公平に扱い党派争いに関与しないという意味でも用いられており、超然主義及び超然内閣が必ずしも政党そのものを無視・否定したものではないとする説を提示している。また、政府と議会を独立させるという意味では、アメリカ合衆国では大統領を始め、閣僚は非国会議員に限定している。実態として大統領は議会の有力党派で争われるが、議会選挙とは独立して選出されるのはこのためである。</ref>あり)。また、この主義を採る内閣を'''超然内閣'''という。 なお、[[旧制高等学校]]の中には[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]]をはじめとして「超然主義」を標榜した学校がある。これは議会政治とは全く関係なく、「栄華の巷低く見て」という[[第一高等学校 (旧制)|一高]]寮歌「[[嗚呼玉杯]]」の一節に代表されるように、超然主義の本来の意味に近いものである。 == 超然主義演説 == 超然主義は、第2代内閣総理大臣の[[黒田清隆]]が、大日本帝国憲法公布の翌日である[[1889年]](明治22年)2月12日、[[鹿鳴館]]で催された午餐会(昼食会)の席上、地方官らを前にして行った、以下の演説(いわゆる「'''超然主義演説'''」)において表明された。 {{quotation| ……憲法は敢て臣民の一辞を容るる所に非るは勿論なり。唯た施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相投して団結をなし、所謂政党なる者の社會に存立するは亦情勢の免れさる所なり。然れとも政府は常に一定の方向を取り、'''超然として政党の外に立ち'''、至公至正の道に居らさる可らす。各員宜く意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭(ぶぎょ)宜きを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり。……}} 翌日、大日本帝国憲法起草を主導した[[伊藤博文]]も同様の主張を表明する演説を行った。 これに対して、伊藤以外の憲法起草のメンバーである[[井上毅]]・[[伊東巳代治]]・[[金子堅太郎]]らは批判的であった。すなわち、黒田・伊藤らの主張は「[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマーク]]流の[[専制|專制政治]]を我邦に施さんとする」ものであり、国務大臣は議会に対して責任を負うものではないものの、 *「民の声は神の声なり」(=天声人語<!--朝日新聞のコラムもこれに由来するがリンクは張らないこと-->)という[[ホメロス]]の『[[オデュッセイア]]』にある言葉 *「朕民の心を追つて朕の心とする」という[[禹|禹王]]の故事 *[[明治天皇]]が[[五箇条の御誓文]]において誓った「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という言葉 を引いて、「天皇は國民の輿論を荷はない所の内閣を信任し玉ふ道理がない故に國務大臣の責任は法理上天皇に對して之を負ふと云ふも實は議會を通じて國民に對して負ふべき」ものであるとし、「輿論とは沒交渉で議會から不信任を受けても天皇の信任ある間は進退すべきではないと公言するは民の聲を以て神の聲とし、民の心を以て朕の心とすとの玉ふ名君を貶し、萬機公論に決すと宣へる聖旨を裏切る」ものであると主張した。 == 超然主義の脆さ == だが、実際に帝国議会が開かれると、「[[民党]]」と称された[[自由民権運動|民権派]]の流れを汲む野党勢力が激しく抵抗した。[[黒田内閣]]による民党分裂工作と[[条約改正]]交渉の失敗、[[第1次山縣内閣]]による民党買収による[[予算|予算案]]通過、[[第1次松方内閣]]による選挙干渉事件などが、却って議会の審議を停滞させたばかりでなく、一般国民の反発を買った。 実は帝国憲法そのものが超然主義を前提に制定されたものでなかった。例えば、帝国憲法第71条においては、本予算(当初予算)が年度開始前までに成立しなかった場合には前年度の予算がそのまま新年度予算として執行される規定があった。これは政府予算が議会側によって人質に取られて妥協を強いられる事の無いようにという趣旨で井上毅が提案したものであった。ところがそれは裏を返せば前年度予算がそのまま実行された場合には、当時の日本にとっての緊急の課題であった[[殖産興業]]や[[富国強兵]]政策のための新規事業が実施できなくなるという事も意味していた。このため、政府側は新規の政策のための予算を必要とする官庁や軍からの突き上げを受ける事になり、民党に対してポストや金で抱き込んででも予算案を通過させる必要性が出てきてしまったのである。また、親政府勢力と見られた[[温和派]]([[吏党]])も[[国粋主義]]色を強めるにつれて政府と対決姿勢を見せる事例も現れた。 こうした状況を見た伊藤博文は考えを改めて、超然主義を取って議会との対立を続けるよりも自らが目指す近代国家の方向性を実現させるための政党結成に乗り出す事を考え、[[1900年]]に[[立憲政友会]]を旗揚げして政府の内側から超然主義を否定する動きに出たのである。 その後も[[貴族院_(日本)|貴族院]]では、山県側近の[[清浦奎吾]]の[[研究会_(貴族院)|研究会]]と[[平田東助]]の[[茶話会]]という2大会派が超然主義を奉じて、[[政党政治]]の排除の動きを行った。やがて、[[1924年]]に成立した[[清浦内閣]]は研究会を中心とした総理大臣(前[[枢密院議長]])と外務大臣(外交官)・陸海軍大臣(共に[[現役武官]])以外を全て[[貴族院議員]]が占めるという文字通りの超然内閣を樹立させた(ただし、この内閣が間近に控えた総選挙の実施のための[[選挙管理内閣]]としての側面があった事に留意する必要がある)。だが、この内閣は立憲政友会などの政党側のみならず一般国民からも反感を買い、[[第2次護憲運動]]によって倒された。[[大正デモクラシー]]の時流の中で時代遅れとなった超然主義に存立の余地は無かったのである。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == *[[立憲主義]] *[[天皇機関説]] *[[山縣有朋]] *[[オール野党]] == 外部リンク == *[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/pm/18890212.SWJ.html 「地方長官に対する訓示」(1889年2月12日、黒田清隆内閣総理大臣)] - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%B6%85%E7%84%B6%E4%B8%BB%E7%BE%A9 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月18日 (木) 01:14 。]    
'''超然主義'''(ちょうぜんしゅぎ)とは、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義をいう。一般的には、[[大日本帝国憲法]]発布後、[[帝国議会]]開設から[[大正時代]]初期頃までにおいて、[[藩閥]]・[[官僚]]から成る政府が採った立場を指し、政府は[[議会]]・[[政党]]の意思に制約されず行動すべきという主張であるとされる(異説<ref>[[坂野潤治]]や[[御厨貴]]らは、超然主義には本来の意味である議会や政党の存在・主張を無視するという意味の他に、どの政党に対しても親疎の差を付けずに公平に扱い党派争いに関与しないという意味でも用いられており、超然主義及び超然内閣が必ずしも政党そのものを無視・否定したものではないとする説を提示している。また、政府と議会を独立させるという意味では、アメリカ合衆国では大統領を始め、閣僚は非国会議員に限定している。実態として大統領は議会の有力党派で争われるが、議会選挙とは独立して選出されるのはこのためである。</ref>あり)。また、この主義を採る内閣を'''超然内閣'''という。 なお、[[旧制高等学校]]の中には[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]]をはじめとして「超然主義」を標榜した学校がある。これは議会政治とは全く関係なく、「栄華の巷低く見て」という[[第一高等学校 (旧制)|一高]]寮歌「[[嗚呼玉杯]]」の一節に代表されるように、超然主義の本来の意味に近いものである。 == 超然主義演説 == 超然主義は、第2代内閣総理大臣の[[黒田清隆]]が、大日本帝国憲法公布の翌日である[[1889年]](明治22年)2月12日、[[鹿鳴館]]で催された午餐会(昼食会)の席上、地方官らを前にして行った、以下の演説(いわゆる「'''超然主義演説'''」)において表明された。 {{quotation| ……憲法は敢て臣民の一辞を容るる所に非るは勿論なり。唯た施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相投して団結をなし、所謂政党なる者の社會に存立するは亦情勢の免れさる所なり。然れとも政府は常に一定の方向を取り、'''超然として政党の外に立ち'''、至公至正の道に居らさる可らす。各員宜く意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭(ぶぎょ)宜きを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり。……}} 翌日、大日本帝国憲法起草を主導した[[伊藤博文]]も同様の主張を表明する演説を行った。 これに対して、伊藤以外の憲法起草のメンバーである[[井上毅]]・[[伊東巳代治]]・[[金子堅太郎]]らは批判的であった。すなわち、黒田・伊藤らの主張は「[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマーク]]流の[[専制|專制政治]]を我邦に施さんとする」ものであり、国務大臣は議会に対して責任を負うものではないものの、 *「民の声は神の声なり」(=天声人語<!--朝日新聞のコラムもこれに由来するがリンクは張らないこと-->)という[[ホメロス]]の『[[オデュッセイア]]』にある言葉 *「朕民の心を追つて朕の心とする」という[[禹|禹王]]の故事 *[[明治天皇]]が[[五箇条の御誓文]]において誓った「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という言葉 を引いて、「天皇は國民の輿論を荷はない所の内閣を信任し玉ふ道理がない故に國務大臣の責任は法理上天皇に對して之を負ふと云ふも實は議會を通じて國民に對して負ふべき」ものであるとし、「輿論とは沒交渉で議會から不信任を受けても天皇の信任ある間は進退すべきではないと公言するは民の聲を以て神の聲とし、民の心を以て朕の心とすとの玉ふ名君を貶し、萬機公論に決すと宣へる聖旨を裏切る」ものであると主張した。 == 超然主義の脆さ == だが、実際に帝国議会が開かれると、「[[民党]]」と称された[[自由民権運動|民権派]]の流れを汲む野党勢力が激しく抵抗した。[[黒田内閣]]による民党分裂工作と[[条約改正]]交渉の失敗、[[第1次山縣内閣]]による民党買収による[[予算|予算案]]通過、[[第1次松方内閣]]による選挙干渉事件などが、却って議会の審議を停滞させたばかりでなく、一般国民の反発を買った。 実は帝国憲法そのものが超然主義を前提に制定されたものでなかった。例えば、帝国憲法第71条においては、本予算(当初予算)が年度開始前までに成立しなかった場合には前年度の予算がそのまま新年度予算として執行される規定があった。これは政府予算が議会側によって人質に取られて妥協を強いられる事の無いようにという趣旨で井上毅が提案したものであった。ところがそれは裏を返せば前年度予算がそのまま実行された場合には、当時の日本にとっての緊急の課題であった[[殖産興業]]や[[富国強兵]]政策のための新規事業が実施できなくなるという事も意味していた。このため、政府側は新規の政策のための予算を必要とする官庁や軍からの突き上げを受ける事になり、民党に対してポストや金で抱き込んででも予算案を通過させる必要性が出てきてしまったのである。また、親政府勢力と見られた[[温和派]]([[吏党]])も[[国粋主義]]色を強めるにつれて政府と対決姿勢を見せる事例も現れた。 こうした状況を見た伊藤博文は考えを改めて、超然主義を取って議会との対立を続けるよりも自らが目指す近代国家の方向性を実現させるための政党結成に乗り出す事を考え、[[1900年]]に[[立憲政友会]]を旗揚げして政府の内側から超然主義を否定する動きに出たのである。 その後も[[貴族院_(日本)|貴族院]]では、山県側近の[[清浦奎吾]]の[[研究会_(貴族院)|研究会]]と[[平田東助]]の[[茶話会]]という2大会派が超然主義を奉じて、[[政党政治]]の排除の動きを行った。やがて、[[1924年]]に成立した[[清浦内閣]]は研究会を中心とした総理大臣(前[[枢密院議長]])と外務大臣(外交官)・陸海軍大臣(共に[[現役武官]])以外を全て[[貴族院議員]]が占めるという文字通りの超然内閣を樹立させた(ただし、この内閣が間近に控えた総選挙の実施のための[[選挙管理内閣]]としての側面があった事に留意する必要がある)。だが、この内閣は立憲政友会などの政党側のみならず一般国民からも反感を買い、[[第2次護憲運動]]によって倒された。[[大正デモクラシー]]の時流の中で時代遅れとなった超然主義に存立の余地は無かったのである。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == *[[立憲主義]] *[[天皇機関説]] *[[山縣有朋]] *[[オール野党]] == 外部リンク == *[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/pm/18890212.SWJ.html 「地方長官に対する訓示」(1889年2月12日、黒田清隆内閣総理大臣)] - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%B6%85%E7%84%B6%E4%B8%BB%E7%BE%A9 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月17日 (水) 02:53。]    

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。